大阪頸髄損傷者連絡会
【大阪頸髄損傷者連絡会と会報誌「頸損だより」の歩み 1973年〜2012年】
(2013.5.12 改訂版)
[年表]※ ◎マーク:障害者運動一般の動き
1973
・頸髄損傷者連絡会設立(本部・東京)。
◎第1回車いす市民全国集会が仙台で開かれる。
1976
・谷川信之受傷、1978より堺市の大阪府立身体障害者福祉センター附属病院にリハビリ入院、センターのMSWより頸髄損傷者の団体が東京にあることを知り、MSW代筆で三沢氏・今西氏と手紙を交わし、頸髄損傷についての情報を得、同時に入会。
1981
◎国際障害者年。
・藤井寺市在住の糀谷終一(C7不全麻痺)が、リハビリテーションのため、上記センターに転院し、入院中の谷川と知り合う。糀谷は、谷川より頸髄損傷者連絡会のことを知り入会。頸髄損傷者についての障害状況、就労、会の構成、大阪はじめ近畿地区在住の会員情報を収集。
・糀谷は、谷川を含め大阪府在住の約5名ほどで「頸髄損傷者友の会」を結成。初代会長に糀谷就任。和文タイプによる会報、会員相互の自宅訪問活動等を行う。
・谷川は退院し在宅生活。
1982
・三戸呂克美は、上記センターにリハビリ入院、MSWより糀谷および谷川のことを知り、在宅生活見学、頸髄損傷者の情報収集、入会。
1983
◎国連・障害者の10年が始まる。
・「頸損だより」創刊。第5号(1984.8.15)で、以下の編集スタッフが紹介されている。編集・発送=浜崎、イラスト・コピー=一戸・高橋、情報収集・タイプ=谷川、企画・タイプ=磯崎。
・会員の交流と拡大、会の広報、他団体との交流、ボランティア確保のために「外出イベント」を企画、大坂城博覧会見物。後の「街に出よう」につながる。新聞数紙の地方面、大阪ボランティア協会報などに掲載。会員およびボランティアの大幅拡大につながった。
・JC(大阪青年会議所)後援による「福祉マップ」作りを会員の堂之元(現在は退会)が、他団体と共に行う企画を持ち込み、「頸髄損傷者友の会」有志が参加、マスコミ報道も多々あり福祉マップ作りは成功した。本タイトル:「大阪車イス街図(ガイドマップ)」。鉄道各社は、乗車2時間以上前に連絡をしろとレストラン等の一部は、車イスは“お断り”と門前払い。取材は前半困苦があったが、マスコミ報道、JC後押しにより後半はスムーズに行われた。
1984
・「街に出よう」スタート。5月に難波・心斎橋付近の散策。
・会員に対してアンケート調査を実施。
1985
・電話連絡網の設定。
1985〜6
・大阪で行われた車イス市民全国集会、日米障害者セミナー、国際障害者年記念集会などのイベントに参加。
1986
・事務局体制を敷き「全国頸髄損傷者連絡会」(当時は「頸髄損傷者連絡会」と称す)の大阪支部活動もはじめる。初代事務局長に坂上正司就任。
・星ヶ丘厚生年金病院との交流。
◎大阪市、全身性障害者介護人派遣事業開始。
・創刊以来、「頸損だより」編集を担当していた谷川の体調悪化で、事務局による発行になり、4頁季刊にペースダウン(第14号〜)。坂上が編集に携わり始める。
◎八王子ヒューマンケア協会設立。(日本で初めての自立生活センター)
1987
・2代会長に三戸呂就任。事務局長に劔持雄二、編集部長に坂上、会計に糀谷、会計監査に河野進。
・大阪支部活動として初総会、会則制定。当時の会員数20数名。
・近畿地区の頸損者に、頸髄損傷者生活実態調査を実施(大阪、兵庫、奈良、京都の頸損者220人を対象、回収率57.7%)。
・頸損だよりの題字デザインを、川畑勲が第22号(1987.11.25)から担当。
・この頃から大阪で頸損者のツインバスケットボールが始まる。
1988
・会名称「大阪頸髄損傷者連絡会」になる。役員会にボラ局(局長に松永賢司)、企画部(部長に河野)、レディースクラブ(部長に石川綾子)を新設。レディースクラブは、「マイノリティーの頸損者の中でもよりマイノリティーである女性頸損者の問題、女性にしか分からない問題を明確にし、女性頸損者同士の交流を図るものとして設置」。会計に磯崎、会計監査に江田快児就任。
・関西身体障害者定期刊行物協会(KSK)に加盟。
・前年の生活実態調査をまとめた頸損だより別冊「頸髄損傷者生活実態調査報告書」発行。
1989
・副会長に磯崎、江田、会計に猿木唯資、会計監査に堂ノ元斎、宮森秀夫、レディースクラブ部長に播口朋子就任。
・宿泊訓練を初めて実施する。
・会の新しい行事「運動会」を始める。
・この頃から森雄一、鳥屋利治などがツインバスケの流れから頸損連に顔を見せるようになる。
1990
・事務局長に三木伸夫就任、前事務局長の劔持は副会長に。会計監査に西本雅治が加わる。
・大阪で初めての全国総会が長居身体障害者スポーツセンターで行われた(宿泊は体育館柔道場で雑魚寝。貸布団・毛布、宿泊介助ボランティアで対応する)。
・「みんなでバスケをやって、その後、一杯飲もう会」開催。
・「みんなで街に出よう!」(現在の「街に出よう」)開催。車いす使用者16名、家族・ボランティア35名が参加、長居障害者スポーツセンターに集合して「天王寺方面」「難波方面」「梅田方面」の3グループに分かれて行動。
・磯崎が中心になって、交通アクセス運動に積極的に関わる。交通局、私鉄、JR、リフトタクシー、リフト観光バスなど他団体と協調し交渉。
・JR環状線各駅より、車イス障害者の一斉乗車行動。JR本社を車イス障害者達で「人間の鎖」として包囲し強く訴える。
◎第2回自立生活問題研究全国集会が開かれる。
◎「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」成立。
1991
・パソコン講座を開催。ワープロの修得とパソコン通信の体験。
・大阪グッパーズAと中川晃、大阪スポーツ賞を受賞。
◎全国自立生活センター協議会(JIL)発足。
・DPI日本会議「誰もが使える交通機関を求める12月全国大行動」に参加。
・朝日新聞厚生文化事業団から朝日福祉助成金を受ける。
◎大阪市、神戸市でリフト付きバス運行開始。
1992
・編集部長に中川、企画部長に森、レディースクラブ部長に西田清美、会計監査に早苗達男、坂上就任。副会長職をなくし、行政折衝やボランティア折衝を行う専門グループ「コーディネーター」を設置(河野、江田、磯崎、桜井龍一郎)。
・頸損だより発送作業が磯崎から中川、鳥屋にバトンタッチ。
◎10月 大阪府、兵庫県で「福祉のまちづくり条例」制定。
・この頃から東谷太が頸損役員会に顔を見せるようになる。
・早苗、鳥屋が大阪スポーツ賞を受賞。
1993
・副会長職を復活、河野、宮脇淳が就任。事務局長に谷内政夫就任。
・「アクセス55連絡会」に加盟、宮脇を中心に大阪市交通局と積極的に交渉。
◎6/10 自立生活支援センター・ピア大阪設立。
◎アジア・太平洋障害者の十年が始まる。
◎12/3 「障害者基本法」公布。
1994
・3代会長に宮脇就任、三戸呂は副会長に。会計監査が早苗から河野に交代。
・「頸損解体新書」全国頸損連本部で作成。頸損についての基礎意識、生活実態調査結果、社会的条件整備の課題などで構成。
◎6/29 「ハートビル法」公布。
1995
○1/17 阪神淡路大震災、多くの犠牲者が出る。
・副会長が三戸呂から東谷に交代。
1996
・副会長職をなくす。事務局長が谷内から東谷へ交代。
・10/10 大阪頸損連内にボランティア部設置、森がボラ部長となる。行事における会員の送迎介助等を活発にする。
・この頃から太田康裕が頸損役員会に顔を見せるようになる。
1997
・会計が猿木から赤瀬陽久へ交代。
・大阪で2回目の全国総会が森之宮のKKRホテルで行われた。
・この頃から約1年間かけて毎月1回第2日曜に西区南堀江「家具のまち立花通り オレンジロード」でフリーマーケットを行う。全国総会後の大阪の赤字会計への大いなる助けとなる。
・この頃北河内ボラセンとの関わりをきっかけに、比嘉昌美、鈴木千春が頸損役員会に顔を見せるようになる。
1998
・太田が会計監査に加わる。
・会員勉強会「自立生活あれこれ」で5名の会員が自身の自立生活を報告発表する。
・1/18大阪頸損ホームページ、9/28会員メーリングリスト立ち上げ(坂上正司・桜井龍一郎)。
・横須賀俊司氏を招いて「障害者の性」について講演会開催。
1999
・4月、事務局通信(月刊)の発行開始。
・鈴木が編集部長になる。会計が赤瀬から福山和寿へ交代。比嘉が会計監査になる。
・春に会員相互の勉強会「就労あれこれ」、秋に「ユニバーサルデザイン」の講演会を開く。
2000
・事務局長が東谷から鳥屋へ交代。
・この頃から他団体との交流や共同活動深める。アクセス21(アクセス問題への他団体共同取組)、UFアパレルCAD研究会、神戸新長田商店街ショップモビィリティ、神戸Vサークル、東大阪高校との交流、雑誌「wawawa」の屋台マップ協力、京都頸損連との年1回共同レク(初回はピクニックdeピクピク)など。
・会員相互のフォーラム〜ビューティフル・ライフ〜趣味あれこれ〜を開く。
◎5月 「交通バリアフリー法」公布(11/1施行)
・メインストリーム協会 廉田俊二氏を招いて「障害者版おもろい生き方教えます!」講演会。
・異性介助問題についての勉強会を開く。横須賀俊司氏。
・地域交流会(大阪頸損連が地域に出かけていって会員と交流)を始める(奈良編)。
2001
・兵庫頸損連設立準備室を三戸呂が呼び掛け人で始める。
・大阪会員吉田憲司を中心に人工呼吸器使用者のフォーラム「マイライフ・マイブレス」を開く。これをきっかけに吉田が役員会事務局メンバーとなり会員MLの管理者となる。
・大阪のCILマップを作り機関紙「頸損だより」の特集とする(7/1 CILあるる設立)。
・大阪バリバリマップ(中部障害者解放センター)作成に協力。
・せきずい基金、脊損連、頸損連の3団体共同で初めて厚生省交渉。人工呼吸器使用者の問題が交渉内容。
・無年金障害者問題の関西の会に大阪頸損連加盟。谷川の取り組み。
・介助犬アカデミー運営団体委員加盟。会員木村佳友シンシアの取り組み。
・星ヶ丘厚生年金病院との交流再開。
・泌尿器関係、褥瘡関係の会員勉強会開く。
2002
・合田享史が機関紙発送作業にボランティアとして初参加。以降、機関紙編集にも大いに活躍する。
・松崎が編集部長になる。会計が福山から比嘉へ交代。
・障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議「障大連」に大阪頸損連加盟。
・10月 宮脇が会長職を辞す。
・脊髄空洞症関係、介助者の入った生活、支援費制度開始に関して等の会員勉強会開く。
◎アジア・太平洋障害者の10年の延長。
2003
・1〜2月 支援費ヘルパー上限撤廃運動。近来まれに見る大規模抗議行動で厚労相周辺が当事者で埋めつくされる。会員田村辰男も姫路から上京。
・2月 川畑が「文化イベント」企画の中心として役員会に関わりはじめる。
◎4/ 1 「支援費支給制度」始まる。
・ 〃 兵庫頸損連絡会発足。初代会長に三戸呂。
・4/27 大阪頸損連4代会長に赤尾広明就任。
・6/7,8 大阪で3回目の全国総会が堺ビッグアイで行われる。講演のインターネット配信。全国頸損連の30周年大会。
・7月 赤尾の初企画「恋愛について本気で考えよう」のフォーラムを開く。
・9月 「頸損者の医療的ケアを考える」講演会を行う。吉田が自身の生活を報告発表する。
・12月 地域交流会で多数の和歌山の頸損脊損当事者と交流する。
2004
・2月 「膀胱ろう・人工肛門」に関する勉強会を開く。
・4月 会計が比嘉から渕上賢治へ交代。
・5月 大阪頸損連事務所をCILあるる内に設置(都島区都島北通)。
・6月 ベンチレーター国際シンポジウム(ベンチレーター使用者ネットワーク主催)に地元団体として協力。
・ 〃 北嶋司が「街に出よう」の報告集編集をきっかけに役員会に関わりはじめる。
・9月 「頸損者の医療的ケアを考えるPart2」講演で吉田とALS熊谷寿美さんのコラボレーション。
・「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動」でこの後、何度となく東京での集会、デモ行進など行われる。頸損連メンバーも多数参加することになる。
・11月 11.3御堂筋デモで支援費の介護保険との統合反対、障害者施策のグランドデザイン案反対を訴えかける。頸損連からも多数参加。吉田が呼吸器でデモ参加。
2005
・2月 盲腸ポートの学習会を開く。
・3月 鳥屋、宮野秀樹、三戸呂が韓国ソウルCIL訪問。全国総会兵庫大会への参加を呼びかける。
◎4/1 無年金障害者を対象にした特別障害給付金制度はじまる。
・4月 「障害者自立支援法を考える大阪のつどい」の構成団体として、障大連を中心に大阪の11の障害者団体と共働して活動に取り組み始める。「大阪のつどい」の集会はこの後何れも数千名を超える集まりとなった。
・5月 兵庫支部初めての全国総会開催。韓国ソウルCILから8名の訪日、全国総会参加。
・6月 愛知博で愛知頸損、京都頸損と合同交流。
◎10/31「障害者自立支援法」成立。
・10月 兵庫頸損連例会。事務局長に宮野、編集部長に桜井、会計に布上真奈美、会計監査に坂上就任。
・12月 「車椅子シーティングについて」の学習会を開き、機関紙「頸損だより」への特集にする。
・12月 あるる移転に伴い大阪頸損連事務所も移転(都島区中野町)。
2006
・ 2月 カナダ対マヒ者協会ケビン・ロジャース氏らと学習会、観光交流(DPI今福氏も同行)。
・ 3/11,12 交通バリアフリー全国集会in大阪が開かれる。
◎ 4/ 1 自立支援法 サービス利用料の1割負担(応益負担)開始。
・ 4/30 会計が渕上から北嶋へ交代。
・ 6/ 4 三戸呂が全国頸損連会長に就任。宮野が全国頸損連事務局長補佐に就任。
・ 6/10,11 DPI総会in大阪大会開催される。
・ 8月 頸損連会員のIT活用術を機関紙「頸損だより」の特集とし、何人かの会員宅を取材訪問する。
・田上彰洋が頸損役員会に関わりはじめる。
・ 9/24 障害者自立支援法学習会「本格施行でどう変わる!?〜障害者自立支援法の全貌〜」を開催。
・11/3 「もっと語り合おう!シーティングについて」の会員勉強会を開催。
◎10/ 1 自立支援法 障害程度区分によるサービス新体系、本格施行開始。
・10月 鳥屋、宮野、三戸呂がカナダ・バンクーバー訪問。ウォルト・ローレンス氏との再会。GFストロングリハセンター、ノーブルハウスGH、TIL呼吸器管理センターなど視察。
・10/28 星ヶ丘交流行事再開(5年間続いた星ヶ丘厚生年金病院での患者との交流行事が病院側都合により 2月から停止となっていたが鶴田先生、平木技師長の働きかけにより再開した)
・10.31大フォーラムにこれまで最高の1万5000人が全国行動(東京)参加。頸損連当事者も多数参加。
◎新バリアフリー法施行。
◎12/13 障害者権利条約が国連総会で採択。
2007
・ 1/27「頸損だより100号記念特集号」発行。大阪頸損連約25年の取り組みを「頸損だより」の過去の記事から合田、鳥屋で編集した。
・ 2/18「頸損者の排尿管理」〜膀胱ろう体験者からのリポート〜をテーマに会員勉強会を開催。
・ 6/9 兵庫頸損連を中心に、市民公開講座「人工呼吸器使用者の自立生活を実現するために」を開催。呼吸器使用者が多数シンポジウムで発表する。
・ 9/5〜8 DPI世界会議・韓国大会に大阪・兵庫頸損合同で参加。韓国障害当事者とのこれまでのつながりから韓国訪問し、会の中から海外旅行初体験者も参加できた。
・広島頸損ネットワーク「きりんの会」や四国頸損の集い、また大分など支部のない地域へも積極的に訪問し、その地域の頸損者と交流しネットワークを拡げていく活動に取り組んだ。
・これまで毎月開催の年間行事を減らし、個々への訪問や共に外出するなどセルフヘルプ対応に重点をおいて取り組み始めた年でもあった。
2008
・5/10,11 大阪で4回目の全国総会を大阪国際交流センター、ホテルアウィーナ大阪で開催。
大会テーマを「高位頸髄損傷による人工呼吸器使用者の可能性」としてカナダの呼吸器使用者ダン・ルブラン氏を招いて頸損連の呼吸器使用者とシンポジウム開催した。
また、特別報告として「地域で自立して暮らしたい」というテーマで新潟県魚沼市の山内俊博氏、福島県西白河郡西郷村の相山敏子氏から地方都市の頸損者の暮らしを報告発表。
全国大会は過去最大のシンポジウム240名、レセプション200名、総会150名、宿泊130名となった。
大会ボラは2日間延べ90名参加、学生ボラは府立大生13名とその後の新年会企画準備会に繋がった。通訳ボラは大阪SGGクラブとの初の連携であった。
この大阪大会の企画準備から島本義信、岩本泰嘉が関わるようになる。
・7/19,20 福島交流会開催「福島頸損友の会」発足。7/26鳥取交流会。11/2四国頸損連絡会の集いなど、他支部他地域の応援、連携が活発化された。
・7/27 「頸損者に有効な福祉機器展」を赤尾の企画で開催。
・9/23 「頸損ピアサロン」第1回目として会員猿木唯資氏に受傷後からの体験や大阪頸損連発足当時の取り組みを語ってもらう。
・10月〜ワーキンググループ活動「頸損者に有効な情報の収集、整理、提供を考える小集団活動」が鳥屋、桜井、島本で開始された。その後岩本も加わり、岩本が名簿管理も行う。
この頃から「頸損だより」の特集組みは小集団活動グループが手がけるようになる。
・全国頸損連とリハ工協会との合同シンポ。第1回目の東京開催に続き第2回目の関西開催。米田、赤尾、桜井がシンポジストとして関わる。
・「頸損解体新書」再作成に向け全国頸損本部と連携し、アンケート作り、配布、回収まで実施
2009
・ 4月 事務局通信は発行して10年目に入る。10年間毎月、ボラと発送作業を継続してきたことになる。
・ 4/26 ボランティア部長が森から中塔昌宏へ交代。
・新たなワーキンググループ活動「頸損連呼吸器使用メンバー情報交換&交流会」がスタート。米田、吉田、池田、井上で年4回を目標にした定期的な集まり。
頸損連絡会のなかで呼吸器使用メンバー間の直接的な集まりはこれまでなかったが、ここ数年取り組んでいる呼吸器使用者自らが発信するシンポジウムなどを経て、呼吸器使用当事者間の集まりへと発展した。
・12/23 「頸損ピアサロン」第2回目として平野功氏から受傷後から教師復職までの体験、グライダー操縦の話など語ってもらう。
・全国頸損連の生活実態調査「頸損解体新書2010」を当事者の立場で研究者とともに協力し完成させる。
・この頃から石川真樹が星ヶ丘厚生年金病院でのピアサポート行事の流れから役員会に顔を覗かせるようになる。
また、東大阪地域交流会をきっかけに山田正人が、新年会準備会をきっかけに杉本真一が関わるようになる。
◎12月 民主党政権で障害者制度改革スタート。
2010
◎1月 内閣府に「障がい者制度改革推進会議」設置(東俊裕室長。委員の過半数が障害当事者)。
◎4月 第1回「総合福祉部会」開催。55人の委員でその後18回におよんで議論がなされる。
・8月9月 身体ケア連続講座として「排尿管理」と「排便管理」の2テーマを学習会で取り上げた。
・10月 宿泊体験会をアミティ舞洲で行い、受傷後の宿泊が初めての方やまだ不慣れな方を中心に、広島の呼吸器使用斎藤宏子氏や鳥取からも参加。
・10/18 大阪頸損連創設期のメンバーで、無年金障害者の取り組みに力を注いでいた谷川信之が逝去。
◎障害者自立支援法改正法成立。議員立法。利用者負担を原則応能に。
◎11月 内閣府に「差別禁止部会」設置。差別禁止法の内容について議論が始まる。
・ワーキンググループ活動「呼吸器使用メンバー情報交換&交流会」で他団体の呼吸器使用で自立生活されている方たちの生活の場である「ポムハウス」を3/10見学。「頸損情報データベースを考える集まり小集団活動」は、移乗や入浴の方法など会員各人がどのように工夫しているか情報収集した。また、自分の残存機能レベルを知ることができる特集なども組みこれらを機関紙「頸損だより」を通じて会員にフィードバックした。
・守口市事業所トップハートの介護職員基礎研修の研修生受け入れを2期に分けて、中塔・山田らを中心に計9回実施。
・香川支部の発足。他支部や他地域との連携の一つとして四国頸損の集いを数年継続して応援してきたことが香川支部の発足に結びついた。
2011
○3/11 東北関東大震災。大津波。多くの犠牲者がでる。頸損連全国総会・東京大会も中止となり、9月に兵庫県明石で臨時総会を行う。
・5/22 「呼吸器メンバー情報交換&交流会」の呼吸器メンバーだけで広島の頸損呼吸器使用者斎藤宏子氏を訪問したり、メンバー間でそれぞれのお宅訪問したり活発な取り組みを行う。
◎ 6月 議員立法で「障害者虐待防止法」成立。2012/10/1施行。
◎7/29 「改正障害者基本法」成立。8月5日一部を除き施行。社会モデルの導入。障害の範囲の拡大で、発達障害を位置づける。
◎ 8月「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言(骨格提言)」がまとまる。
・8/27 会計役員で事務局員でもあった北嶋司が逝去。また、赤尾会長も大きく体調を崩し会の運営に大きな影響を与える。
・8/28 身体ケア学習会として「知っておきたい慢性期の合併症」〜頸損者の肥満そして糖尿病〜について取り上げる。
・10月 外出まちあるきの企画として「街を撮ろう〜中崎町デジカメ撮影散策〜」、3月に「ならまちウォーク」を開催。
・ワーキンググループ活動として「ピアサポートグループ」の活動が開始された。
2012
◎ 3月 厚労省は「骨格提言」をほんの一部取り入れる修正案を出し、閣議決定および国会上程。
・ 4/29 支部総会で石川真樹が会計となる。
◎ 6月 「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)」成立。
・ 7/21「頸損ピアサロン」第3回目として白井真維氏が受傷から就労までの道のりや気持ちの変化、頸損特有の諸症状への職場での対処法など語った。
・ 7/29 福祉機器に関する学習会として「福祉工学カフェ」を技術開発者である企業、国リハ、大阪頸損連絡会で連携して開催。
◎ 6月 「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)」成立。
◎ 9/14 「差別禁止部会の意見」まとまる。
・11/25 大阪頸損連絡会として久しぶりの運動会を京都頸損連絡会と合同で開催。
・12/23 身体ケア学習会として「在宅生活における褥そうケア」について取り上げる。
・ワーキンググループ活動の頸損情報データベース制作委員会によって別冊頸損だより「日常生活の工夫」と「身体ケアについて」の2種類発行。
これまで機関誌「頸損だより」の中で特集組みしてきた様々なテーマを分類し再編集したものであり、大阪頸損連絡会員だけでなく全国各支部の会員にも配布。
2013
・3月 外出・まちあるきの企画として「ぶらりめぐり旅〜町人文化と近代建築 散策コース」を大阪観光ボランティア協会のガイド協力を得て開催 。
◎4月 「障害者総合支援法」施行。障害の範囲の拡大で「難病」が対象となる。
◎4/26 「差別解消法案」閣議決定し国会上程。
・4/28 支部総会で事務局長が鳥屋から島本義信へ交代。
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