頸損だより1999秋(No.71)

♪♪♪♪♪♪♪桃の食べ方♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

川野真寿美

スーパーのレジに並んでいたら私のすぐ前のご婦人のカゴに桃が二個入っているのが見えた。いかにも上品そうなご婦人である。

このご婦人は桃をどうやって食べるのだろうか。

桃を上品に食べるのは至難の業だ。どのように食べ始めても最終的には下品そのものになってしまう。汁の問題が人間を下品にしてしまう。

例のご婦人はどうやって食べるか知らないが、私の食べ方は決まっている。

桃を食べるにはテーブルの上で食べようと思わないことだ。

流しの前での立ち食いこれに限る。これ以上の方法はない。

流しの前に立っての吸い付き食い、これ以上のおいしい食べ方はないのだ。

それにしても、桃というやつは性格のはっきりしない奴ですね。

了見がよくわからない。

まず皮。

桃はあの皮をどうやって剥いてほしいのか。ナイフで剥いてほしいのか、爪で引っぱって剥いてほしいのか。

ナイフで剥くにしたって、梨やリンゴのようにテキパキ剥けるわけでなく、グジグジと崩れつつ、途切れつつ、めり込みつつ剥けていく。爪で剥ける奴にしても、ヒョロヒョロと細く剥けていってついには千切れてしまう。本当にイライラする。

ツメで引っ張ってペロッと大きく剥けるととても嬉しい。

次の部分もペロッと大きく剥け、都合四回で全域まる裸ということになると嬉しくて踊り出したくなる。

それに皮にはえているケバケバ。いったい何をたくらんでいるのかよくわからない。

皮もわからないが、実の意図もよくわからない。

あのグジャグジャ、どういうつもりなんですかね。

何かあったらすぐつぶれてやるからね、すぐグジャグジャになっちゃうからね、という素直でない態度。

事実、何かしようとするとすぐつぶれる。種から実をはずそうとするとすぐつぶれる。

客に出そうと思ってきれいにカットしようとするとすぐつぶれる。

種にへばりついている、ヒゲみたいな繊維あれもわからない。

梨と比べてみると、桃のグズぶりがよくわかる。

皮は皮らしく、実は実らしく、ショリショリ剥いていってサクサク食べて、ハイッおしまい、実に明快だ。

そこへいくと桃はもう、始めから終わりまで、グジャグジャ、ボタボタ、グズグズ、食べ終えてもすっきりしない。だけどとってもおいしいから許してやる。

流しの前に立っての吸い付き食い、これに話をもどしましょう。

桃を食べようと思ったら、台所の流しに直行すること。これが大切だ。

そうしておいて、とりあえず皮を剥く。

剥き終わったら桃を左手に持って、とりあえずアゴをうんと前方に突き出す。

これが基本のポーズその1である。

それから桃の横っ腹にかぶりつく。かぶりつくというより、吸いつく。

桃を食べるというのは、汁滴下との戦いである。

このときからすでに、桃側の激しい汁滴下活動が始まる。

この活動に対しては、絶え間のないバキューム活動で応じなければならない。

しかしこの戦いは、常に桃側の圧勝で、汁はボタボタと流しの中に落下する。

敵側の水分の備蓄は大変なものだ。

いくらでも水分を繰り出してくる。

梨も水分は多い方だが、とても桃にはかなわない。

1個の桃に果汁は100%以上はないはずだが、120%ぐらい含まれているような気さえする。噛み締めると「こんなにも」と思うくらいの果汁がにじみでてくる。

これをゴックンと飲み込む。

甘い果汁、甘い果肉、桃独特の甘い香りが鼻腔にぬける。おいしい!

一口目ですでに、左のゆび、手のひら、手首のあたりまで果汁でベトベトだ。

たれてくる果汁に対抗すべく、アゴは流しの前方に激しく突き出され、小腰の角度はさらに深まり、早くもヒジのあたりに達した汁のさらなる侵入を防止すべく、ヒジの角度があがり、それにつれてアゴは左上方にねじられ、目線はなぜかおでこを目指し、この時汁の第二波がノド伝わりはじめ、それを右手で払うも第三波は首すじを伝わってシャツの中に消えていく。

まことに狂おしいようなひとときであるが、この様子をそばにヒトがいてじっとみつめていたとしたら。あの上品婦人が流しの前でこれをやっていたとしたら。

中国の諺に「桃を食べている人に人格はない」というのがあったような気がするが(なかったかもしれない)。

桃を食べる時間はおそろしく速く過ぎる。

絶え間なく発生する汁滴下問題を処理しているうちにアッという間に過ぎるのだ。

一個食べ終えるとホッとする。

手は「ベタベタになるだろうな」と予想した以上にベタベタだ。

このベタベタの手は、すぐに洗ってしまうにはなんだか惜しく、側にいる人の腕になすりつけて、迷惑をかけたい、そういう気持になる。


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