お約束の自己紹介から始めたいと思います。
1957年8月11日生まれ。現在42歳。職業は、いわゆる地方公務員です。妻と子供が一人います。障害は、脳性まひ(CP)です。障害手帳の上では、両下肢のみの障害ですが、軽いアテトーゼ型ですから、全身性障害だと思っています。外出には、車いすと自動車を使っています。
義務教育に関しては、中学の3年間しか受けていません。目の前に小学校がありながら、当時は、親が付き添うなどの条件があり、弟に手のかかる時期と重なったために、ぼくは、在宅のまま、就学免除になってしまいました。ところが、同じ市内で、引っ越しをしたことが、きっかけになったのでしょう。中学入学時に、学籍が復活したのです。とりあえず、義務教育の形だけでも、ということで、訪問教育を受けることになりました。小学校1年生の勉強からのお復習いを始めたのです。そのうち、当時、特殊学級と呼ばれていたクラスの先生が、訪ねて来られ、ぼくの状態を見て、中学に登校できるように、両親や学校関係者を説き伏せてくださったのです。その先生が責任をもって、学校と家との送り迎えをする。また、学校内での、万一の事故にも責任をもつ、ということでした。この先生との出会いがなければ、今のぼくは、なかったと思います。中2の2学期から復学して、特殊学級で勉強を始めました。そして、3年生への進級を機に、本来のクラスへと戻りました。最初は、何も分かりませんでしたが、みんなに追いつきたい一心で、とにかく、勉強しました。あっという間に1年が過ぎ、卒業の時期が来ました。ぼくは、このまま在宅生活に戻るのが嫌で、進学を希望しました。学力的には、進学に問題のないレベルにまで向上していたのです。はじめ難色を示していた両親も、ぼくのわがままを認めてくれ、府立の普通高校に進学をしました。
燃え尽き症候群、とでも言うんでしょうか。高校の3年間は、ダラダラと過ごしてしまいました。卒業の時期になり、また、当然の如く進学を希望しました。しかし、自分の学力と希望が折り合わず、2年間も浪人しましたが、結局、大学には行けませんでした。今、考えると、社会に出たくないだけの、モラトリアム状態でした。真剣に就職について考え始めたのは、20歳を過ぎてからでした。先天性の障害でしたから、自分の障害について、ほとんど考えてこなかったのです。しかし、就職の難しさは、自分が障害者である、という事実を、突きつけてきたのです。
1978年のことでした。父の知人の薦めもあり、身体障害者職業訓練校に入校しました。足が悪ければ、手に職をつけようと考えるものですが、そこはアテトーゼ型の脳性まひですから、手先を使う仕事は無理でした。結局、経理事務科で簿記の資格を取り、一般事務での就職を目指すことになりました。
しかし、自分以外の障害者に接するのは、これが初めてでした。大学に行けなかった挫折感もあり、当時のぼくは、人と話しもできないほど、暗い人間でした。クラスの仲間は、年齢も障害もバラバラでしたが、みんな前向きに生きていました。そんな仲間の、無言の励ましが、ぼくを変えてくれました。次第に明るくなり、やる気も戻ってきました。そして、そのやる気は、自動車の運転免許を取得することに向けられました。訓練校での1年間は、障害者として生きていく心構えと、移動手段を与えてくれたのです。ところが、就職は、そんなに甘くはなかったんです。
訓練校を修了しても、就職先は、なかなか見つかりませんでした。やっとのことで就職したのは、家庭用品を扱う小さなメーカーでした。ここでの仕事は、いわゆる電話番でした。卸問屋からの注文を受けて、伝票を倉庫に回す。時間があれば、倉庫の片隅で内職仕事もしました。今からちょうど20年前ですが、当時の給料は、月6万円でした。訓練校でもらっていた訓練手当の、約半分。そうです。障害者には、最低賃金は適応されないんです。手当も賞与もありませんでした。自動車のローンやガソリン代を差し引くと、小遣いすら残らなかったのです。
そんな仕事でしたが、就職したときの苦労を考えると、このまま我慢するしかないと思っていました。ところが、一人前に人を好きになってしまったんです。その人との将来を考えたとき、このままではいけない、そんな思いが沸き上がったんです。ぼくが、23歳。彼女、18歳。その若さが、退職を決意させました。(結局、数年後には別れてしまったんですが、今でも、彼女には、感謝しています。)
両親をはじめ、まわりの人間はみんな、そんなぼくの行動を非難しました。でも、なぜだか分かりませんが、ぼくには自信がありました。きっと次の仕事が見つかる。何の根拠もありませんが、そう思えたんです。
この日も、求人欄を見るために新聞をめくりました。するとそこに、身体障害者採用の文字がありました。大阪府が実施する、身体障害者の別枠採用のお知らせだったのです。さっそく願書を取り寄せ、応募しました。公務員になりたいとは思っていませんでした。また、受かるとも思っていませんでした。でも、結果は合格。1981年でしたから、国際障害者年のどさくさにまぎれて、運良く採用されました。公務員試験の勉強は、一夜漬けでしたが、曲がりなりにも受験勉強をしていたことが、かなりプラスに作用したようです。
最初に配属されたのは、当時、天王寺区にあった(府立)社会事業短期大学の附属図書館でした。後に、大阪府立大学社会福祉学部図書室になるわけですが、ここで、あの定藤先生に出会ったのです。この出会いも、ぼくの人生を変えました。福祉について勉強し、実践していくきっかけを与えていただいたのです。
大阪府に採用されたとき、ぼくは、24歳でした。学生達との年齢も近く、ボランティアサークルの行事にも、よく参加しました。叶わなかった大学への夢。学生気分を、少し味わうことができました。もちろん、仕事もしていましたが、それ以上に、プライベートでの活動が、どんどん広がっていきました。
本や雑誌に囲まれた仕事も、気に入っていました。それも、社会福祉に関するものですから、一挙両得。本当に、恵まれた環境だったと思います。
別枠採用ということで、ぼくは、一般行政職ではありませんでした。障害者を採用するために設けられた、事務職という身分だったのです。給料その他、ほとんど差はありませんが、昇進試験の受験ができなかったのです。しかし、後輩達の取り組みもあり、その壁をクリアする制度ができあがりました。事務職として採用後、13年を経過し、本人が希望すれば、行政職に転換できるようになったのです。
別に上昇指向があったわけではありませんが、大阪府に採用された事務職の第1号として、この新しい制度を避けて通れなかったのです。1995年5月。行政職への転換を機に、本庁に異動しました。
出先機関と本庁の違い。13年間、いったい何をしてきたのか。本当に基本的な仕事の進め方が、分からなかったのです。自分より年齢の若い上司。37歳のぼくは、係員の中で最年長でした。本庁の中にも、いろいろな職場があります。比較的楽な職場もあると思います。でも、ここは、ぼくにとって最悪の職場でした。
2年目に入り、体調がどんどん悪くなっていきました。朝、起きられない。体がだるい。昼間、仕事中も眠くてしかたないのです。酒の量も増えました。そしてついには、職場に行けなくなったんです。出勤拒否です。心療内科での治療も試みましたが効果なし。心理カウンセラーの元にも通いましたが、ダメでした。結局、自分自身の内面にひそむ問題はそのままにして、新しい職場への異動を直訴したのです。
そして配属されたのが、現在の職場です。3年目ですが、出先の気楽さもあり、かなり元気になりました。まるでリハビリをしているかのような3年間でした。
しかし、この職場にも別れを告げる日がくるのです。来年か。再来年か。それは分かりませんが、必ず、異動はあります。そして、それがどこなのか。また、出勤拒否になってしまうかもしれない可能性は、今も、消えていないのです。
負け犬根性なんでしょうか。20年間働いてきた意味が、見えないんです。
働くことで、それなりの収入を得ました。でも、それ以上に、何かを失ったような気がします。がんばる障害者を演じることにも、疲れました。このまま、定年まで勤める自信もありません。
ただ、自分にできること。自分だからできること。それは、仕事に限りません。何かは分かりませんが、これから、探していこうと思っています。