頸損だより1999冬(No.72)

蕎麦屋で地獄

川野真寿美

ヒトはいつどこでどういう災難に遭うかわからないという事件に遭遇した。

事件は大阪のある駅ビルで起こった。時刻は12時15分ごろだった。

「きつね蕎麦でも食ってみっか」と私は、その駅ビルの7階だか8階だかの蕎麦屋に入っていった。

わりに、るんるん、といった気分で入っていった。

入り口のところで、着物姿の女の人に「お一人ですか」と聞かれ、うなずくと、

「では、そこへ」と店の奥の真ん中のテーブルに案内された。

災難はそこで発生した。老若男女。

老若男女が、十重二十重に私を取り囲んでいるのである。

私はすっかりあがってしまった。

あがって全身が硬直してしまった。

死後硬直ならぬ生前硬直である。

私が案内されたテーブルは四人掛けの小さなテーブルだった。

四人掛けではあるが、新聞の見開きほど小さい。

その小さなテーブルに、いずれも相席らしい3人(おじさん2とおばさん1)が

黙したまま座っている。

たった一つ空いていた手前左側の椅子に私は案内されたのである。

何より閉口したのは正面ご婦人である。

ごく普通のメガネをかけたオバサンなのだが、その距離は、あまりに近い。

こぶし二つぐらいの近さだ。

このテーブルには、まだ食べ物が一つも来ていないが、いざ食べる段になって

二人とも首を前へ傾けたら二人の頭がぶつかりそうだ。

その近さにメガネのオバサンが座ってこっちを向いている。

こっちは、そのオバサンの方を向いている。

見知らぬ四人の男女が、一人の着物の女性の命ずるままに一ヶ所に呼び集められ、

こうして「新聞紙大」をひしと取り囲んで黙ってすわっている。

いったいどこへ視線を這わせればいいのか。

どこを見つめても不自然だが、しかしどこかを見つめなければいけない。

しかしこの場合、どこを見つめても不自然だ。

しかしどこかを見つめなければいけない。

しかしどこも見つめてはいけない。

しかし見つめなければならぬ。身動き一つさえできない息づまるような緊張。

今はもはや、身動き一つさえも不自然となった。

窮地。地獄。絶体絶命。進退ここにきわまった。

身体が硬直したまま、次第に右の方へ倒れていきそうな錯覚にとらわれる。 ワッと泣いて突っ伏してみようか。

「ヌォォォォ」と、うなり声をあげて立ち上がってみようか。とさえ考える。

いやあ、もう、ほとんど冗談でなく、ああいう時って困りますね。まさに災難。

わりにるんるん、という気分で入っていった分だけ、よけい身にこたえた。

まさかこんな事態がまちうけていようとは。

私の正面のメガネのオバサンも、それなりに「視線問題」で苦しんでいるはずだ。

私たちの右側の、テーブルをはさんだ二人も、やはりそれなりに「視線問題」を

かかえているはずだ。

こういうとき、ヒトは大抵頬杖をついてアゴをしきりになでたりするものだ。

しかしここでは、頬杖をつく面積さえない。

そのうち、無意識にしきりにツメを見ている自分に気がついた。

そうだ。見つめるものがあったのだ。

こんな手近なところにあったのだ。

ここは、いくら見つめても不自然ではない。むしろ自然だ。

急に自分の健康問題が気になって、ツメによるその診断を急に始めたのだ。

わがグループ三人は、そう理解してくれるに違いない。

「あの人はいままで苦しんでいたようだが、今はああしてツメによる健康診断に

専念しているようだ。よかった」と思ってくれるに違いない。

私はツメの一つ一つを熱心に検討しはじめた。

この作業だけでかなりの時間をかせぐことができる。

私は人間の指にツメが十個もあることを、神に感謝した。

手のツメをじっと見つめる。

自分でもこのあたりから演技の世界に入っているのを感じる。

「オヤ」という演技を少し取り入れた。

「ツメにタテジワが入っているぞ。ウーム、これはたしか、肝臓だか腎臓だかが

よくない兆候ではなかったろうか」

「なかったろうか」のところで、視線をツメから離して宙に這わせる。

かなり重厚な演技のはずであった。

だが、このせっかくの演技も、三人の観客に無視されたようすであった。

「まてよ」と、またツメをみる。

「ツメの根元の白い部分、何ていうんだっけ」と少し考え込み、

「そうそう」と思い出した演技をし、

「そうそう、これは半月というんだっけ」と、手を打たんばかりの演技をし、

「うん、この半月がある限りは健康だと思っていいんだ。そう何かの本に書いてあった。

よかった。」と、演技は佳境に入っていくのだが、やはり観客には完全に無視されるのであった。

ツメの検討が終了し、裏返して手相の検討に入ろうとした時、天ぷら蕎麦とかき玉うどんが到着し、 もうひとりの鴨なんばんも少し遅れて到着した。

やがて私のきつね蕎麦も到着した。地獄にきつねであった。


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