頸損だより2000春(No.73)

試食について

川野真寿美

試食は難しい。

試食が板についてきたら、料理も一人前になったといえる。

スーパーやデパートの売り子のおばさんがさし出す試食の楊子にごく自然に手が出るようになれば、その人のゴキブリ指数は高いといわねばならない。

ごく自然に手が出、ごく自然に味わい「また今度にしよう」などと軽やかにいえる人は少ない。

たいていの人は、試食コーナーでぎこちなくなる。急に重厚になってしまう。

特におじさんは試食を男女問題と同じように考えてしまうようだ。

「一度手をつけたら、それなりの責任をとらねばなるまい」と考えてしまうようだ。

だから態度が重厚になる。

「どうぞ」と試食の小皿を突き出されると、本心は食べてみたいのに急にムッとした

態度をとり、「オレをなめるのか」とばかりに、険しい表情でおばさんを睨みつける

おじさんもいる。

試食は食べてみておいしかったら購入するという正常な商取引である。

しかし見た目には、なにかこう、食べ物をタダで恵んでもらっているように

見えないこともない。おばさんの態度の方にも、わずかではあるが恵んでやってる

という態度がほのみえる。

そこのところが客のプライドを痛く傷つける。

「オレはそこまで落ちぶれていない」という思いに駆られ、急に口惜しくなり、激しく手を降って居丈高になったりするのである。

楊子の先の食べ物屑のようなものに、いちいちと責任をとる必要などないのだが、おじさんというものは事を重大に考えてしまうようだ。

その点、女の人 特におばさんたちは、ミジンもそういうところがない。

南港のインテックス大阪というところで食博というものが開催された。

世界の食品が集まり試食、購入できる。

当然私は出かけていった。

会場の入り口で、来場者の業種を示す名札を胸つけるように指示される。

業種は、「ホテル・旅館」「商社・流通・小売り」「製造」「フードサービス」

「官公庁」「その他・一般」などとなっている。

私は当然「その他・一般」なのだが、「その他・一般」は見劣りがする。

そこで「ホテル・旅館」を選んでつけてもらった。

これを胸につけていれば有名ホテルの従業員かなにかと間違ってくれるかも知れない。

そうなれば試食のときに何かと有利である。

しかしこれは、いってみれば身分詐称ということもできる。

身分詐称は立派な犯罪である。立派な犯罪を犯して私は会場に入っていった。

ワイン、食肉、ハム、紅茶、コーヒー、菓子、うどん、アイスクリーム、レトルト食品。

世界中のあらゆる食品関連メーカーが製品を展示して軒を並べている。

この会場は、業者相手の見本市だから、製品を試食してOKとなったら直ちに商談、

期日設定、納入という段取りになる。

私はまずハムのところへ歩み寄った。ハムの周辺にチーズを貼り付けた新製品である。

スーパーなどでハムを試食してもその購入はせいぜい1本である。

だがここでの試食はその後の購入単位が違う。

だから係りの人は、試食する人の胸の名札に注目する。「その他・一般」に対する時は

目に光りがないが、「ホテル・旅館」に対しては目が光り輝く。

私はチーズ付のハムの小片をつまんで口に入れた。ウエイトレス風の難しい顔をして

小首をかしげてみせる。

「いかがでしょうか」係の人は私の口元をじっと見つめる。

「ウム、まあ、しかし、ナニのあれが、少しそういうアレでナニだな」と

私はわけのわからないことを言いつつ、少しずつ後じさりしていって、それから

急に足早になって、その場を去った。商談不成立。

食い逃げである。

またしても犯罪を犯してしまったのである。

会場に着いてものの2分もしないうちに、身分詐称と食逃げという二つの犯罪を

犯して目下逃走中という身の上になってしまったのである。

逃走をはかりながらも次の目標を探す。

一度犯行を犯した犯人は強い。ふだん、ハムの小片にいちいち責任をとっていた人

とは思えない凶暴性を発揮しだしたのである。ワインのところへ行って赤ワインを飲み、

パンのところへ行ってパンを食べ焼き肉のところへ行って焼き肉にあずかり

食後のコーヒーを飲み、アイスクリ−ムさえ食べてしまったのである。

ここでもおばさんたちは試食のプロぶりを発揮していた。

マーマレードのサンプルをわしづかみにしてかっさらって行ったおばさんがいた。


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