頸損だより2000春(No.73)

障害をもつ人達と共に

華頂短期大学
武田康晴

わたしには、障害をもつ友達がたくさんいます。脳性マヒや脊髄損傷で車イスを使用している人、知的障害で作業所に通っている人、聴覚障害をもっている人など、障害の種別や程度は様々です。また、それにも増してそれぞれの人達がもつ個性はバラエティーに富み、みな楽しい人たちばかりです。昼間は一緒に遊び、夜に鍋を囲んで盛り上がっていると、ふと疑問に思うことがあります。それは、「何故この人達だけが、最低限と言われなければならないのか」という疑問です。

障害者福祉に限らず社会福祉の領域では、この「最低限」という言葉をよく耳にします。最低限の所得保障、最低限の介護保障、そして最低限の生活保障などです。ある意味で、これまでの社会福祉は、この「最低限の生活保障」に拘り過ぎてきたのではないでしょうか。もちろん、最低限の生活保障は非常に重要です。事実、未だにそれさえも満足に保障されずにいる人達がたくさんいます。しかし、本当にそれだけでよいのでしょうか。

わたし達の生活を考えれば分かるように、生活は、大きく二つの部分に分けることができます。一つは「生きるために最低限必要な部分」であり、今一つは「豊かさを求める部分」です。例えば「食事」には、「空腹を満たす」あるいは「栄養を補給する」という最低限の部分と、「美味しいものを食べる」あるいは「お喋りを楽しみながら食べる」という豊かさの部分があります。栄養補給のためだけに食べ、寒さを凌ぐために衣服を身に着け、雨風から身を隠すためだけの住居に住むだけでは、わたし達は満足することができません。豊かな自然を求めて旅をしたり、友達と有意義な時間を過ごすために趣味を共有してこそ、はじめて自分の生活に満足することができるし、「ただ生きているだけ」ではなくて「生活している」ということができるのではないでしょうか。そして、当たり前のことですが、それは障害をもつ人達でもお年寄りでも子ども達でも同様なのです。

また、それは「最低限の部分が整ってから」では間に合わない場合もあると考えられます。例えば、20年後に「最低限の生活保障」が完璧に整った社会が必ず訪れるとしても、今でなければ意味がないこともあると思うのです。20年後には、わたしと同年代の友達は50才を越えてしまうし、いつもわたしが親しくしていただいている88才のおばあちゃんは(失礼ですが)もういないかも知れません。今でなければ意味がないのです。 以前に、わたし達は障害をもつ人達と一緒にハワイ旅行へ行きました。そのメンバーの中に、脳性マヒで車イスを使用しているTちゃんという21歳の女の子がいました。出発前に彼女は「もし出来るならば一度でいいから空を飛んでみたい」と強く希望していました。旅行スタッフの大きな理解と非常に多くの人達の努力に支えられ、また信じがたい幸運な偶然によって、Tちゃんは二人乗りのパラセーリング(パラシュートに乗りモーターボートで引っ張る)でハワイの空を飛んだのです。飛んでいた時間はほんの数分でしたが、あのときの感動は今でも忘れられないとTちゃんは言います。

わたしは仕事柄、時に施設職員の方から『自立生活教育プログラム』についてアドバイスを求められることがあります。施設での取り組みについて一通りの説明をしていただいた後、わたしはいつもTちゃんの話をし、「そのプログラムを続けていって、いつになったら空を飛ぶことが出来ますか」と尋ねます。これは別に施設のプログラムを批判しているわけでも皮肉を言っているわけでもなく、ただ、障害をもつ人ももたない人も夢を持つことに何の制限も受けるべきではないし、「楽しいこと」を求める気持ちは同じであると気付いていただきたいのです。

また、はじめから「障害をもっていて出来ないこと」あるいは「障害の種別によって出来ないこと」を探すのではなく、障害の有無や種別重軽とは関係のない次元で「やりたいこと」を探して試してみることも大切であると考えられます。例えば、わたしがいつも一緒に遊びに行く人の中に頚椎損傷をもつ女の子がいます。一般に頚椎損傷に夏の太陽は天敵であると言われていますが、わたし達は夏の海辺へも平気で出かけていきます。確かに、障害がなければ不必要な準備や配慮が必要になることもあります。クーラーボックスに氷を用意し、パラソルで日陰を作り、エアコンの効いた車を待機させます。時には「ごめん」の一言と共に彼女の頭から水をかけることもあります。大切なことは、わたし達が「それでも一緒に海へ行きたい」と思うかどうかではないでしょうか。まずは「誰でも自分のやりたいことを求めることが出来る」という視点に立ち、もし必要であれば社会資源や他者の援助で補えればよいのです。

言うまでもなく、社会福祉が最も焦点を当てるべき特有のテーマは「生活の援助」です。そして、この「生活」とは「豊かさを求める部分」を含むものでなければなりません。したがって、社会福祉における援助の目標は「最低限の生活」ではなく、もっと高い位置になければなりません。以前、わたしは、空手をやっている友人に面白い話を聞いたことがあります。例えば、10枚の瓦を割るときに「10枚を割ろう」と思ったら、絶対に10枚全てを割ることはできない。10枚を割って、さらに地面の下50センチくらいまで突き抜くつもりで殴らなければ、10枚の瓦を割ることはできないのです。つまり、社会福祉の援助において「最低限の生活保障」などという低いレベルの目標をもっていては、いつまで経っても「最低限」すら達成することはできないのです。

生活の豊かさに対する援助を考えると、やはりボランティア活動の果たす役割が重要になってくると考えられます。もちろん公的サービスの枠でも豊かさの部分は対象にしていかなければならないのですが、現状ではなかなか難しいと考えざるを得ません。ところがボランティア活動では、豊かさの部分にこそ活動の意義を見出すことが出来るし、それこそがボランティア活動が最も大切にしなければならない目的の一つとなるのです。

福祉先進国の一つと考えられるアメリカでは、例えば車イスを押す介助の場合、行き先によって押している人が違います。行き先が病院のときは公的サービスで保障された有料介護人が、行き先が遊園地の場合はボランティアが車イスを押します。つまり、生命維持といった生活に最低限必要な部分は社会的サービスが、趣味や遊びといった生活の豊かさを求める部分はボランティアが役割を担っているのです。ボランティアに車イスを押してもらって楽しんでいる人に声をかけると、当たり前のように「仕事できている人と一緒に遊んでも楽しくないだろ」という答えが返ってきます。仕事や義務ではなく、一緒に楽しんでくれる人とでなければ心から楽しむことはできないということなのです。

ここまで取り止めなく書いてきましたが、わたし自身は「障害者になんかなりたくない」あるいは遠くから眺めるだけで「障害者は可哀想」などと思っている側の人間には絶対になりたくないと思っています。講演会などで中学生や高校生に話をする機会があると、いつもわたしは「例えば電車の中で座っている自分の前にお年寄りが立った時、寝たフリをする自分がカッコいいか、あるいは少し気恥ずかしいけれども席を譲る自分がカッコいいか考えて欲しい」と言います。わたしは、いつでも障害をもつ人達と共に遊び、語り合い、そして共に生きていく側の人間で在りたいと思っています。

ありがとうございました。

注 写真は省略しました。

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