頸損だより2000夏(No.74)

アイスキャンデーに学ぶ

川野真寿美

氷菓が好きだ。

氷菓というのは、果汁、クリーム、ミルクなどに香料、甘みを加えて凍らせた食品

つまりアイスだ。

アイスの中でも、特に棒もの、すなわちアイスキャンデーが好きだ。

容器に入っているアイスクリームのたぐいはそれほど好きではない。

あれは、食べ方が単調にすぎる。おもちゃのおしゃもじみたいなもので、ほじっては食べ、

ほじっては食べ、少し休んでまたほじっては食べ、もうそればっかり。

何の変化もありはしない。

そこへいくと、棒ものは、食べ始めから食べ終わりまでに、さまざまなドラマが展開される。

喜びあり、悲しみあり、怒りあり。

一本のアイスキャンデーから人生の教訓さえ得ることができる。

アイスキャンデーの魅力は棒の魅力である。氷片に、棒をとりつけた、という発想がいい。

このことによって食品をじかに持つ事ができ、そのことでそのものと親密な仲になることができる。

アイスクリームはサジの仲介がなければそのものとおつきあいができない。

アイスキャンデーは左手で持つのが正しい。(そのわけは後述)

左手で持って右手で包装をはがす。はがす前に印刷されてある文字及びイラスト等に目を通そう。

そこには原色と漫画的イラストが氾濫していて、(ああ、このものは子供相手の商売であって、大人は相手にしていないのだなあ)ということがつくづく分かって少し悲しくなる。

そしてそこに、赤城乳業、エスキモー、オハヨー、井村屋、豊和食品などの、ふだん聞きなれぬ会社名を発見して、さらにその感を強くするにちがいない。

製造は赤城乳業だが、販売はカネボウという併記を発見して、この業界の流通機構に思いを馳せてみるのもまた一興である。

包装をとって丸裸にする。さて、どこからかじろうか。

左の肩からかじる、というのが世間一般(子供の世間ですね)で通用している最もポピュラーな食べ方だ。続いて右の肩をかじって全体の平均化をはかる。

かじりとって食べつつ、目はしっかりとキャンデーに注がれ、(次はどこをかじるか)ということを常に考えている。

かじりとらない派、という一派もいる。チューチュー派である。この一派はかじりとることを嫌う。かじりとって、急激に減る事を嫌う。

かじりとり派もチューチュー派も、中期に至って共に警戒しないといけないのが、崩落事故である。このころになると、温度が高まって地盤がゆるみ、崩落がおきやすい。

崩落は悲しい。特に大型の崩落は心底悲しい。

崩落事故に遭って、呆然としている子供を道端でよく見かける。

彼らはあまりのことに、しばらく声もなく足元のカケラをじっとみつめる。

(何とかならないか)とおもうらしい。

どうにもならないことがわかると、足でふんづける。

ふんぎりをつける、というか、思い切るというか、そういう訣別の儀式が必要なのだ。

(人生にはこういうこともある)

子供ながらに、アイスキャンデーからそういう教訓を学び取るのである。

そしてそのことから、用心ということに思いが至るようになる。

左手にアイスを持って食べつつも、右手は常に、

崩落に対処すべく出動の準備を怠らない。

その対応は俊敏な右手の方がいい。

このようにして、終焉が少しづつ近づいてくる。

あと、右下下部をかじりとれば、すべてが終わる。

そうして、手に一本の棒が残される。

思えば色んなことがあった。

食べ始めのときのあの胸の高鳴り。

チューチューのときのあの恍惚。

崩落の悲しい思い出。

そこから学んだ用心の心。もしや、と期待したあたりの文字。

しかし何も記述されていなかった棒の裏・表。そこから学んだ無常ということ。

この棒の周辺を彩ったさまざまなできごと。

一本の松だけが、城のあったことを指ししめす城跡を見るように、少年は一本のアイスキャンデーの棒をじっとみつめる。

一本のアイスキャンデーから一冊の偉人伝にも匹敵するさまざまな教訓と、生きる勇気と、処世と、希望と、諦観を学び取ったのだ。

ついこの間まで花見だ、年度替わりだなどと騒いでいたのにもう汗ばむ季節(汗かかないヒトもいるか・・それはそれとして)さっ、アイス買いにいってこよう。


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