頸損だより2000秋(No.75)

松様の御前

川野真寿美

松たけを身近にすると、人はそわそわと落着かなくなる。冷静ではいられなくなる。そして幾分品性を失う。松たけへの遭遇の仕方は、人それぞれにちがう。


「八百屋の店頭で見かけた」という人もいれば、「八百屋の店頭で見入った」という人もいる。両者は微妙に思い入れがちがう。「八百屋の店頭で、手にとってみた」という人もいるし、「八百屋の店頭で手にとって香りをかいだ後、元のところにもどした」という人もいる。接近の密度が、少しずつ濃くなっていっている点に注目していただきたい。そうしてついに、「八百屋の店頭で手にとって香りをかいだのち、元のところへもどさずに、買って帰った人をみた」という貴重な体験をする人が出てくることになるのである。むろんこの目撃者は心中おだやかではいられない。心の中にさまざまな波風が立つし、品性もいくぶん損なわれる。


しかし八百屋の店頭ならまだいいほうだ。居酒屋の店内ということになると、波風の立ち方は一層大きくなる。カウンターで飲んでいたら、隣の人が「焼き松たけ」を注文して食べ出した、という事態に遭遇する事もありうる。接近度という点からいっても、これ以上の接近はない。隣から松たけの香りがただよってくるし、シャキシャキ噛む音さえ聞こえてくる。これははっきり言って実害である。これで冷静でいられる人はきわめて少ないはずだ。隣の奴が心の底から憎らしい。殴ってやりたい、と思う人もいるかもしれない。と、ことほどさように、松たけを身近にすると、人は品性を失う。


松たけで話題になるのは、その味覚ではなく、常に大きさである。土びん蒸しの中の松たけが、厚くて大きかった、と言って喜び、薄くて小さかったといって嘆く。松たけを目の前にすると、料理人は本能的に薄く切ろうとし、客は本能的に厚からんことを乞いねがう。


松たけは、もはや本能の問題になってきているのである。松たけが大きいの小さいの、厚いの薄いのといったって、たかだか消しゴムの切り屑みたいな大きさのものの大小を問題にしているだけなのだ。ああ、いやだ、いやだ。松たけがそこにあるばかりに、松たけをめぐって人はたちまち卑しくなる。


松たけというものは、ふつう、一本、二本と数えるものだが、世間一般の概念としては一枚、二枚と考えざるをえない。一本まるごとの松たけに対処した、という人はきわめてまれで、たいていの人は薄く切ったものに遭遇するだけだからだ。「今年の秋は、松たけは、結局トータルで二枚食べました」というふうに話す。


梅田の阪急デパートの食品売り場の入り口のところに、「松たけコーナー」というのがある。入り口のせいもあって、いつも人々が松たけを取り囲んでいる。ヒナ壇ふうの棚がしつらえてあって、そこに松たけのカゴが飾られている。そう、飾られているのだ。一番下の段には5千円から1万円のカゴ。二段目には2万円から3万円のカゴ。三段目が4万円。カゴの中は、安いものほど数が多く、上にいくほど太く大きくなっていって本数は少なくなる。四万円のカゴで五、六本というところである。四万円のカゴの上には六万円のカゴ。そして、最上段には、ああ、目もくらむような、十万円のカゴが並んでいるのだ。


カゴの中には、きわめて大きな松たけが六本。取り囲んだ人々は最上段に視線がいったとたん、一様にハッと息をのむ。現に私なんかその威光に目がくらんで、後じさりして後ろの人にぶつかってしまった。その後急に元気がなくなって、トボトボと立ち去ったのだった。


それにしても、「十万円の松たけ」の威力はすごい。相手はたかがキノコなのに、十万円という値段がついただけで、人間から生きる勇気と希望まで失わせる力をもっているのだ。


人間なんてララーラ、ララララーラ、じゃなかった。たわいないものですね。このあたりの松たけは、これはもはや「松たけ!」などと呼び捨てにするのもためらわれる。「松様!」もしくは「松殿!」と敬いたてまつらなければならない。さすがにここでは、八百屋の店頭のように、「手にとって香りをかいだのち、元のところにもどす」人はいない。デパートの人に、「松様の御前であるぞ。頭が高い、鼻が低い、足が短い」と言われないように、みんな身を低くしているようにさえ見える。


あなたは今年松たけとどんな遭遇の仕方をするのだろう…。


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