頸損だより2000冬(No.76)

おいしい鍋にするのは難しい

川野真寿美

不思議なもので、夏のうちは、鍋物のなの字も思い出さなかったのに、冬が近づいてくると鍋物が懐かしく思い出されてくる。鍋から立ちのぼる湯気とか、くつくつ煮える音とか、顔をテラテラさせて「アフアフ」なんて言ってる人とかそういう様子がありありと思い出されてくる。鍋物はそれを囲む人たちの心を解きほぐしてくれる。


立ち上る湯気は、人の心をほのぼのとさせる。談論風発、和気あいあい、互いに心を許しあい、顔テラテラ「シラタキ煮えたよ」「おいきた」「肉そろそろいいよ」「ガス栓細くして」などの声も飛び交い、鍋物の周辺は温かい雰囲気に包まれる。


鍋物には“顔テラテラの人”が絶対に必要で、最低一人はいてもらわないと困る。いないと座は盛り上がらない。


だから鍋物をやるときは、幹事はテラテラ要員を1人は確保しておかなくてはならない。テラテラの人を中心に座は盛り上がる。明るくなる。一つの鍋を突つき合うことによって、親近感が生れ、上下のへだてを取り払い、体を芯から温め、酒のまわりを良\くし、栄養的にもバランスよく、値段安く、量多く、最後にウドンでも入れれば、もうおなかパンパン。とこのように鍋物はいいことづくめのように思えるが物事には表と裏がある。


鍋物の良さは、料理ともいえないようなその簡便な料理法にある。汁を煮立たせる。煮立ったら材料を入れる。火が通ったら食べる。これだけだ。


しかし一応のルールはある。牛肉は火が通ったらすぐ食べなきゃいけないし、シラタキ、しいたけはよく火を通さなければいけない。スキヤキでいえば、「シラタキは肉からなるべく離して入れる」というのもある。シラタキに含まれる石灰分が肉の味をどうとかこうとかするらしい。「春菊はなるべく後」というのもある。春菊の味が汁の味をなんたらかんたらするらしい。鍋物の最後にモチやウドンをいれるが、むろんこれも最後でないといけない。


これらのルールがある程度守られ、ある程度破られるところに和気あいあいが生れる余地があるが、このルールをあくまで厳格に押し通そうとする人が一人いると、和気あいあいは難しくなる。いわゆる鍋奉行というひとである。この奉行はどこの鍋にも自然発生的に生れ、鍋物の進行に従って次第に権力を持つようになる。最初のうちは、ささやかな提言のようなものを繰り返しているだけなのだが、人々がハッと気づいた時には、いつのまにか強大な権力を行使しているものである。


この人は、いつの間にか「待て」と「早く」を連発するようになる。早くもうどんを入れようとする人に「待て」と言い、椎茸を口に入れようとする人に「待て」という。うどんは汁がにごるからであり、椎茸は生だと毒だからと説明する。


肉に火が通ったから「早く食え」といい、豆腐がひと揺れしたから「早く食え」という。肉は火が通りすぎると硬くなるからであり、豆腐は煮えばながおいしいからだという。


言うことがいちいちもっともらしく、したり顔にアクをすくいとったり火をやたら、強めたり、弱めたりするからこういうことに無知な人たちは次第に言うことを聞くようになる。無知が権力をのさばらせる典型的な例と言える。鍋物を囲んでいる人たちは、すべてその鍋に重大な関心を持っているわけではない。


「なんか適当に煮えた物があったら、適当にすくって食べよう」という“適当の人”もいる。「俺うどんだけ関心がある」という“うどんの人”もいる。このうどんの人は一刻も早くうどんが食べたく材料が盛られた大皿をわざわざ遠くから引き寄せうどんを大箸ですくい投入しようとしたら、奉行に厳しく制止されるのである。


うどんの人が、面白ろかろうはずがない。何の考えもなく、シラタキを肉の横に投入しようとした人も、奉行の厳しいおとがめを受け、そのワケを聞かされて「ルセー」と不貞腐れる。座がだんだん白けてくる。


奉行の人も権力を行使したくてそうしているわけではなく、ただ、「おいしい鍋にしよう。おいしくしてみんなに食べてもらおう」という善意のひとだけに、ことは厄介である。


座を白けさせず、“うどんの人”や“適当の人”の沽券や対面を損ねることなく、しかし「いい鍋にしたい」という情熱を失わず、奉行職をまっとうするのは、至難のわざといえる。鍋物は大勢で囲まないとおいしくない。しかし大勢だと決しておいしい鍋にはならない。ここが鍋の難しいところだ。


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