頸損だより2001夏(No.78)

特集

「ウォルト・ローレンス氏来日記念!!その素顔に迫る!」

〜頸損連絡会全国総会京都大会フォーラムから
人工呼吸器使用者のカナダBC州事情〜


全国総会が5/26,27と京都で開かれた。今年のテーマは「人工呼吸器使用者の自立生活」。カナダでこれを10年も前から実現させている自らも人工呼吸器を使用しているウォルトさんを京都に招き、日本との違いや、これから何が必要でどうしていかなければいけないのか体感できた気がする。ウォルトさんの講演の中で「制度的に一番必要なのは介助の問題か、医療サービスか、リハビリテーション的なものなのか?」の会場からの質問に対し、「何よりも重要なのは当事者の意識…」この言葉が印象的だった。自分たちの存在と自分たちの働きかけで社会を自分たちのものに変えていったウォルトさんから出るにふさわしい言葉であったと思う…。フォーラムの全てではないが講演内容などを紹介します。

鳥屋利治

ウォルト・ローレンス氏
演題「私の人生」

ウオルトです。はじめまして。このステージの高いところから、みんなを見おろすのは、とてもいい気分です(笑)。ここの会場に招かれて、たいへん光栄だと思います。

ここにたくさんの方が、障害を持ったいろいろな方がここに見えて、それぞれがみんな、いろいろなお話を持っていると思うんですが、そこで自分が自分の話、ストーリーをみなさんの前で披露できることがとても光栄です。

まず最初に、うかがいたいんですが、政府関係者の方はこのなかで、どれくらいいらっしゃるでしょうか。手を挙げていただけますでしょうか。ようこそ。病院に勤めていらっしゃる方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか。すばらしい。ここに京都に着いてから、小森さんに大変よくしていただいています。彼の仲間の方にもたいへんよくしていただいております。まず最初にちょっと自分のことをいろいろとお話したいと思います。昨晩小森さんがパーティを開いてくれて、そこでいろいろな人と会って、いろいろな質問を受けて、その中にすごく面白いものだと思う質問もありましたので、そういう質疑応答っていうのを交えながら、この講演ができたらなあと思います。

私は1969年、今から32年前に、飛び込みの事故で受傷しました。湖の浅瀬に飛び込んでしまったそうなんですけれでも、C3の損傷で首の骨を折って呼吸を自力ですることが全くできませんでした。17歳のときに受傷したのですけれども、その当時私はホッケーの選手をしていて、飛行機のパイロットのライセンスをとる最中でした。その時、私の人生のなかで、スポーツをする、体を動かすことは最も重要なことで、そのことによって、自分の人生が回っていたような気がします。それがある日突然、ダイビングの飛び込みの事故で人生が一変しました。自分では呼吸が一切自力で出来ず、何もすることができませんでした。私の人生は180度変わりました。そのとき私が思ったことはマヒをして全身ベッドに固定されて息もできなくて、そういう状況のなかで、自分には人生があるんだろうか、自分の人生はこれでおしまいなんじゃないか、自分には生きていて価値があるのだろうか。そういうようなことを自問自答していました。自分の人生、取り替えられるものなら、誰のでも交換して欲しいと思いました。希望も望みも失ってしまいました。事故の前にできていたことが全てできなくなってしまいました。

集中治療室に一年ほどいました。そのあと長期療養を目的とした病院に入りました。そこには人工呼吸器をつけた人が特別に入れるような病室がありました。そこにずっといました。その病室には、35人の人が人工呼吸器をつけて寝ていました。ひとつの大きな部屋に全員収容されていました。そういう病院のなかではプライバシーが全くありませんでした。自分の意志で何かするということも、全くできませんでした。そこの人たちはすごく親切で、医療的なことは何でもやってくれようとしました。ところが生活自体、そうこの中だけが人生のような感じでした。そのとき私が病院から得られたことは、家に帰ることももちろん、まず君はここを出られることはないだろう、自分の生まれた家ももちろん、遊びにいくことも無理だろうといわれました。なぜなら君は人工呼吸器が必要で、それと常に誰かがあなた世話をしなければいけない。だから病院以外で生活できないと言われました。怪我をする前、自分の将来に抱いていた夢は、飛行機を操縦して世界中を見ていろんなところに行っていろんな人と会いたい、そういう夢、希望を持っていたが全てなくなってしまいました。ましてや、家にも帰れなくなった状態です。もう人生が全部終わったような気がしました。


病院に入って一年半後に自分の父がドウスンドリーフという1,000キロメートルくらい離れたところから迎えに来ました。で、2週間家に帰ろうと言って連れに来ました。ところが病院の先生とか看護婦さんたちは自分の父親に対して今彼を家に連れて帰ったら彼は死んでしまうよ、と言いました。父はそれに対して、病院の先生に、病院では医療的な治療処置ができることはよくわかっているけれども、彼は私の息子であって、息子は気持ちも、精神も本当に家に帰りたいという、そういう感情があるんだ、フィーリングがあるんだ、としきりに言いました。でも医者はもしそういうことをしたら、彼は死んでしまうよと、くどく言いました。それだったら息子を殺してでも連れて行くと言いました。結局、病院と交渉がついて、命の保証はないということで、家に帰って友だちに会ったりしてすごく楽しい2週間を過ごすことができました。飛行機に乗って帰ったんですけども二度と飛行機に乗れると思ってなかったので、ものすごい感激でした。問題は全然ありませんでした。2週間何事も起こりませんでした。そのとき私ははじめて自分には夢と希望がまだ残っているという気がしました。自分の家に帰って自分の地域社会にまた戻れてとっても嬉しかったです。


カナダにも小森さんの知っているような脊損の方とか頚損の方の組織がありまして、そういう組織が協力しあって、人工呼吸器をつけている人がコミュニティで生活しているなかで、どれくらいお金がかかるかというそういう調査をすることになりました。その調査の結果ですね。病院にいるよりは、コミュニティで生活をしたほうが4割ほど安くつくという結果がでました。

5000スクウエアーフィートというちょっとわからないと思うんですけど、坪では言えないんですが、かなり広い敷地でそこにアパートとか、それから5パーセントは障害者のアクセスがなきゃいけないというような、そういう案を出しました。1985年にそういうアクセスのあるアパートが完成して、それはすばらしいもので、どうしてこうゆうものが今までなかったんだろうか、障害があると病院、という決まり切った考えで、人や世の中が動かなかったんだろうかと思ったそうです。そういうコミュニティのなかで生活するということは、生活しながらそのコミュニティに自分たちがしてもらうばかりではなくて、自分たちも何か貢献できることがあるとわかりました。実際それは可能なことなんです。人間スピリットそれはヒューマンスピリットと訳していいのでしょうか。ヒューマンスピリットというのはやはり自分の障害があっても世の中のために何かを貢献するというそういうことだと思います。そして社会が自分にしてくれたこと、それはまた自分でお返しをする、そういう相互作用が活かせるのがコミュニティで生活するという一番の強みではないでしょうか。ヒューマンスピリットというのは人間の営みのひとつで、してもらう、して挙げる、お互いに助け合う、そういう人間のひとつの欲望だと思うんですけれども、人に何かをしてあげる、社会に貢献するということが、ひとたび障害者になると、自分にはそういうことはできないのではないかと思いがちです。病院にいると看護婦さんとかお医者さんがいろいろ手を尽くして面倒みて、世話を焼いてくれます。でもそれが全部受け手ばっかりになってしまうので、自分の価値観ですか、人間が自分なりに生きている価値観は、してもらうばかりというのもあんまりいいことではありませんね。


ですから、障害を持った人でも、世界に融合できるような環境をつくるために、どうやったらバンクーバーのバスとか道とか建物が人に優しくできるか、市役所の会議とかそういうところに行きます。障害を持った人たちにはどのようなニーズがあるか、市役所の人たちに教えてあげて、彼らも教育してあげなければいけない。そうすると、彼らは「ああ、そうなんだ。」といって、はじめて障害者の求めるものがわかってきます。私は貢献のひとつとして、病院とかリハビリセンターに行って、受傷して間もない人たちのカウンセリングをします。ですから病院から電話がかかってきて、そこの病院に行って、怪我したばかりの人たちに、怪我をしても受傷しても車椅子になっても人生は楽しいよっていうことを教えてあげてください、ということを言われて、そのカウンセリングにいきます。そういうカウンセリングを自分でし始めてから、自分には何か人にやってあげることがあるんだっていうことを感じて、ものすごく自分に対して自身がでてきました。私がそういう活動を始める前はもう、人工呼吸器をした人が病院から一歩出ると、死んでしまうっていうのがおおよその考え方でした。その病院のアドバイスは危惧に終わったんですが、そのためにはいろいろと、そういう死亡とか事故とか防ぐための策を勿論練りました。それはとても成功したので、今ではカナダのバンクーバーの障害を持った、人工呼吸器をつけた人たちの生活を見に、16ヵ国のいろんな国から訪れています。今や、人工呼吸器を使用していても病院ではなくて普通にコミュニティに生活する、そしてコミュニティに、自分ができることを貢献して一緒に共存していく。共存というのはおかしな言い方で、一緒に普通の生活をしていく、これは、やればできるんだっていうことです。私自身もその病院にずっといなければならないんだって思ってたくらいです。

1984年に私はひとりの看護婦さんに会いました。彼女が論文を書いていまして、そのタイトルが障害を持っているということが社会的に、精神的に、どのような影響を与えるか、そういう論文を書いてました。私は、協力に駆けつけてあげたかったんですけれども、その時はすごく忙しかったので、他の人に聞いたほうがいいんじゃないかって言いました。ところが彼女は、他に適当な人が見つからなくて、私のうちに来ていろいろ話を聞くようになりました。私は彼女に「2時間だけなら、時間的な調整が何とかなるので、うちに来て話をしましょう。」と言いました。2時間ほど話をしたんですが、それだけでは足りないなと思い、5年後彼女と結婚しました(笑)…。彼女には私の助けがとっても必要だったのです。そのとき私は他の五人の男の人と一緒に共同生活をしてたんですけど、結婚となると彼女はその六人の男の人と一緒に生活したくないと言いました(笑)。


それで、初めて二人でアパートを見つけて生活を始めたんですが、そのとき初めて政府が個人に補助を出すようになりました。私ひとりでヘルパーさんを雇ってケアーをしてもらえる、そういうシステムを作ってくれました。政府が私の口座にお金を入れてくれて、私はそのお金で自分の一番適したヘルパーさんを雇うわけです。そのお金でヘルパーさんをトレーニングもするし、いろいろ自分でマネージメントします。私が政府に対してしなきゃいけないことは、どのような目的でそのお金を使ったかということを報告すればいいだけで、吸引だとか、そういうことも全部自分でマネージをしてやっています。ですから、自分で、すべて自分のヘルパーさんをコントロールできるのです。自分にとってはすごく自由を勝ち得たという気分です。最初はアパートに住んでいたんですけど、4年後家を買って引っ越しました。そのあと、あのリハビリセンターに私の、私独自のプログラムをオープンしたんですね。それが頚損の1、2、3Cの人を対象にしたリハビリセンターです。過去十年間そこで、私はカウンセラーとして働いています。今から思えば、受傷直後の夢も希望も失っていた自分、世の中に何もしてあげられることができないんじゃないかと思っていた自分と比べると、今の自分はとても幸せだと思います。二ヶ月後に私はもうひとり、養女を迎えます。


これらのこと、結婚生活をして、子供がいる生活っていうのは受傷したときにはとても想像がつきませんでした。身体的に障害があるときにどうやって奥さんを愛せて、子供を愛せてそういう普通の生活ができるんだろうか、その具体的な何かができるということはすごく大事なんじゃないかと思いました。でも、思えばそろそろ何かを人にしてあげるとか、人を愛してあげる、そういうことっていうのは、人間の物理的な肉体的な強さとか、なにが肉体をもってできるかとか、そういう問題じゃないんだ、ということに気がつきました。私たちはみな人それぞれがひとつのパズルみたいなものですよね。立派な一人一人、みんな唯一の、パズルのひとつのようなもので、それがみんな混ざりあってひとつの絵になる。ですから、そのパズルに例えたならば、どのひとつ、ひとかけらがなくてもそのパズルが完成しないわけですよね。だから、私たちはみんなそのパズルのひとつなんだから、みんなが相互に頼りあって生きている社会なんです。みんなそれぞれ、自分の埋めるパズルの場所があるんです。誰でもが何かの貢献ができるんです。受傷した直後、自分はパズルのなかに入っていないと、思いました。自分は居場所がないと思いました。またくり返しますけど、そのとき自分は、僕の人生を誰のでもいいから他の人のと取り替えたいと本当に思いました。でも今は自分の人生は、誰の人生とも取り替えたくありません。人生ってそんなちっちゃなもんじゃなくて、もっと大きくして夢がいくらでも広がるものなんですよね。パリにも行ったし、イギリスにも行ったし、今自分は日本にいます。自分は今生きていてすごく幸せで、すごくハッピーです。私には友だちがいて、その友だちのことを、自分はすごく好きだし、自分には奥さんもいて、子供もいて、愛情もたくさんある家庭もあって、自分は今まで社会にしてもらってきたばかりだと思ってたけどそうじゃなくて、自分は今自立した生活をして、社会に貢献できる立場にあります。それっていうのはものすごく充実感があるものです。夢は絶対に失わないでください。常に自分たち、あなた方は人に、世の中のためにしてあげることがたくさんあります。自分もそうでしたけど、目的を持って、目的に向かっていかなきゃいけないんです。常に自分は大きなパズルのひとつのピースだということを思い出して下さい。常に自分の居場所っていうのはそのパズルのなかにあって、そのパズルがないと、その1ピースがないと、完成はしないんです。

そろそろ皆さんの質問を受けたいんですが、きのうのパーティで、いろんな方がいろんなことを聞いて下さって、それをみんなとここでシェアーしたい、できたら、それがすごくいいと思うんですが。何か質問はないでしょうか。


−−会場から質問

病院から地域に戻られたときに、その地域で生活するためのコストを調査されたということでしたけれども、そのときに、地域で生活する方が病院で生活するより、四割ほどコストが低くてすんだという調査結果が出たということですが、そのときの地域の生活のスタイルというのはどういう状況を想定されてより四割ほど安くすむのでしょうか。


−−ウオルト

六人が一室に住むんですね。ヘルパーさんは六人でシェアーをするというスタイルで、一人に対して一人じゃなくて六人まとめてケアするという形の住み方です。二人のスタッフが二十四時間勤務です。


−−会場から

もうひとつこれと関連するんですけど、今度は地域で、結婚されて六人同室という生活から、お二人の生活をされてますね。政府がこの独立した生活を支援する、ケアー、介助に関する経費を直接自分のところに支払う、いわゆるダイレクトペイの方式でやられてるということですが、日本ではなかなかダイレクトペイメントというのは実現しそうもない状況で…。


−−ウオルト

カナダでも最初はそういう動きはなかったです。テストケースとして最初にそれが行われて、そのテストケースの結果が良かったからシステムとして導入されたのです。そのテストのときに、そのお金を直接払って障害をもった人がそれをマネージするという、それによって、その障害をもった人が自立できるかという、そういうところも見られたみたいですね。ですから今カナダには二つのやり方があって、本人が決められます。病院を出てから自分のコミュニティで生活する場合に私のように直接政府からお金が口座に振り込まれて、それを自分でマネージするという方法と、政府が自分のヘルパーさんを全部アレンジしてくれるという方法と。だいたい病院から退院して、一年目くらいは自分でやるよりも政府にやってもらったほうがいいという患者さんが多いのですが、一年経つとみんな自分でやりたいといって、自分でダイレクトペイメントを選ぶようです。最初は誰もがそんなこと無理だって言ってたようです。


−−会場から

日本でもぜひこのダイレクトペイメントが実現するように今、運動していこうというふうに考えています。


−−ウオルト

政府は良かれと思っていろいろ政策を行っているんですけれども、このダイレクトペイメントというのは本当に自立性を高めるのに採用してもらいたいシステムだと思います。最初はちょっと大変かもしれませんが、自分で全部とりしきってヘルパーさん選んでインタビューまでして、自分に適したヘルパーさんを選ぶ。だから雇用主になるわけですよね。雇用主になって、ある予算のなかでやりくりしてっていうのは大変なんですけれども。予算のなかでも、場合によっては人を教育しなきゃいけないときもある。大変ですけどもいろいろ出来ないことはない。やればとても楽しい充実感があります。カナダでは、その病院から出てその自分の家に帰って自分の気に入ったスタッフを雇う方法をすすめるようになっています。最初は難しいですけど、それをひとたびマスターすれば全く違う人生が待っていますから、学習能力を高めましょう。失敗を恐れては駄目です。かなり間違った方向にいっちゃったとしても、またそれを修正して正しい方向へ行けば、それはそれでいいんじゃないですか。はじめから全部正しいとは限らないでしょう。その間違いには目をつむりましょう。


−−会場から

日本ではまだ、人工呼吸器つけたひとたちが自分の地域で生活するってなかなか困難なんです。そういう社会的な条件というのが、まだまだできていない状況にあると思うんです。そこで制度的に一番必要な条件整備というのは、何だと思いますか。介助の問題なのか、あるいは医療的なサービスというのが身近にあることなのか、リハビリテーション的なものが必要なのか、一番必要な社会的条件というのは何なのでしょうか。


−−ウオルト

私の中ではお金とかよりはまず自分の精神状態、病院でずっと面倒を見てもらっていた自分が、病院の外へ出て果たしてやっていけるかっていう、その自信の無さがありました。だから、何よりも本人じゃないですか。まわりではなくて、本人の意識で働きかけたらいいじゃないですか、ですね。あまりにも病院がよくしてくれたんで、自分で自分のことを本当にケアできるのかしらとすごく不安だったし、できないんじゃないかって思ってましたね。頼ることばっかり病院で習ってきました。


−−会場から

ウオルトさんが病院から出られて、最初はグループで生活したということですね。そのあとに、結婚を機会にふたりで生活をされた。で、そういう仕組みっていうのは、今も同じように段階を踏んだ形で、グループでの生活の後、個人での生活、もしくはもういきなりふたりで生活をできるような選択肢と、今はどちらのほうが多いんでしょうか。それから、もうひとつ、医療ケアーとの連携はどのようにされているのでしょうか。人工呼吸器をつけているということは、グループとしてやるにしてもヘルパーさんが医療ケアーの部分まで、なかなか携わる気はないと思うんですよ。そのとき病院もしくはどういう機関との連携をしながら生活をしているのですか。


−−ウオルト

現在ではグループで生活してからってことでなく、病院を出てから直接コミュニティで生活をすること選ぶ人が多いです。最初はみんな呼吸器をつけているので、ちょっと一緒にいたほうが安心というところがあったらしいんですけれども、今はそういうことがないようです。

それと医療的な必要性っていうような観点からは見てないですね。ですから病院関係者がいなきゃいけないですとか、ヘルパーさんのほかに医療専門家がいなきゃいけないっていうような捉え方をしていないです。吸引を例に取れば、吸引の仕方は十五分もあれば、誰にでも教えてあげることができるので、誰にでもできることです。私は、自分自身の呼吸器について一時間もあれば、すみからすみまで、どんな人であっても教えてあげられちゃってそれはそれでオーケーだと。医療関係の人が来てくれれば、心強いかもしれないけれど、本当は自分と人との対人関係にあって、つまり、その人がたとえば医療関係者じゃなかったら、自分のやって欲しいようにその人をトレーニングできると。そういうことを私はすごく大事に思っているんで、その技術っていうのは覚えられるけれど、人間関係っていうのは作っていくもの。それを作っていくほうが私は面白いし、楽しいです。(ウオルト氏の介助者の女性が壇上に)彼女が私のアシスタントなんですけれども、彼女のそのスキル、技術とかより彼女の人間味豊かなところが、私はとっても好きで、私の友達も彼女のことがすごく好きで、そういう人間関係がもてるっていうことがヘルパーさんに求められる一番大事なことなんです。私の奥さんも娘さんも全員が彼女の大ファンなんだそうで、すごくいいお友達なんだそうです。誰にでも好かれる彼女を彼はとっても今自慢にしています。本当に彼女は誰とでもとてもいい人間関係を作ってくれる人です。彼女と一緒にいる時間がとても長いので、彼女のこと好きじゃなかったらとてもじゃないけど、やっていけません。彼女は幸運なことにすごくいい人なんで、僕たちはすごくいい友達です。


−−会場から

日本ではですね。ピアカウンセラーっていうと、自立生活センターで働くピアカウンセラーを指す場合が多いんです。ウオルトさんは頚損病棟つまり病院で、ピアカウンセラーをされておられますよねえ。そのふたつの違いというのはどこにあるのか。それと、頚損病棟ですと、医者とか医療ソーシャルワーカーとか専門家がいますね。そうした人たちと意見が違って、苦労されていることがあるのかどうか、ということをお聞きしたいと思います。


−−ウオルト

すごくいい質問です。私はOTとかPTとかお医者さん達と一緒に働いています。病院ではチームワークで、お医者さんとかPTとかと一緒に働くんですけれど、そのとき常に一番大事なことは、ユーザープロスペクティブで、その経験のある人の立場で、ものを見るのが一番強い意見として通るそうです。経験です。お医者さんたちが、実際にその経験者としての私に、痙攣ってどんな感じなの、とか聞いてきます。職業訓練室の人とも、フィジオセラピストとも一緒にチームを組みます。いろんな方面から、そのひとりのクライアント、患者さんを見ます。それで、ちょっと、あのリハビリのやり方とは違うかもしれない、とか私は常にいろんな人ともめます(笑)…。お互いにみんな、立場が違うんで、最初は見方も違って、いろいろもめるんですけれども、いろいろと話を進めるうちにそれぞれが互いに立場を理解するようにしてます。私もお医者さんの目から見た治療法とか話しの仕方とかをよく理解しようとするし、やはり相互の理解を深めることで、一番いい方法というのが生まれてきます。チームワークでたくさんディスカッションをして、それで、一人一人の患者さんに対応します。たとえば私はこうしてきたからこれがいいよって言ったところで、もうそれは単なる自分、個人の経験であって、それが全ての人にあてはまるわけがないですから。


シンポジスト 後藤 礼治氏
演題「C1−2呼吸器からの離脱と社会生活」

最初に日常の様子と、呼吸器から離脱するまでの約3年間の入院中の状況、最後に活動の様子をスライドでながして終わりたいと思います。

今回、自宅に保管されていた事故当時の診断書のコピーと両親が付けていた日記に目を通してきました。私の損傷部位は第2頚椎歯状突起骨折、頚髄1番と2番の損傷とあります。偶然にもアメリカのクリストファーリーブと全く同じです。しかし私より損傷レベルが下でも重度な方は沢山いらっしゃいますのでその点とても幸運だったといえます。

ただ呼吸器からは離脱出来ましたが、呼吸器を全く利用しない事が必ずしも最善とはいえないと感じています。今でも風邪をひいた時など呼吸器を付けたい衝動にかられますし、普段でも体力の消耗が激しいからです。先々で睡眠時のみ呼吸器を利用することもあるかもしれません。

また、呼吸器を離脱出来るかどうかの判断について時折聞かれますが、興味深い記事が「はがき通信」の松井先生の文章にありました。頚椎2番損傷のワンさんの離脱例についてで、ワンさんは尿意や下半身にも僅かに感覚がある事や手足の指先が微かに動かせるようで、これらは私にも当てはまります。

自宅での介助者は両親と週3回のホームヘルパー、週2回の訪問看護婦、また週2回のボランティアです。日々、ボランティアネットワークを主宰している事などで忙しく過ごしています。

さて、入院中の状況ですが今から約15年前の事になります。交通事故で病院へ運ばれた時は意識はなく、既に呼吸は停止していたそうです。顔は青ざめていて直ちに人工呼吸、3日後に気管切開されベンチレータに繋がれました。意識は2日後に戻りましたが医師の診断は余命3ヶ月ということでした。また頚椎1番と2番のため固定手術はかえって危険だということと生涯ベッドから動かすことは出来ないといわれました。今でも固定手術はしていませんのでその点不安はあります。

又運ばれた病院は個人病院でしたが私のような高位頚損は初めてのケースだったようです。後に考えると主治医は大学病院へ指示を仰ぎながら処置、看護婦はベンチレータを扱うのにとても不慣れでした。ベンチレータを繋ぐホースの交換やカニューレ交換が頻繁にされなかったのが原因だと考えますが、気管カニューレに痰が詰まり声にならない声で訴えた処看護婦は原因が分からずその後慌てて当直の医師がカニューレごと抜き取りました。そのあまり余りの苦しさに人間不信になった程です。それでも当初、「三ヶ月の命」ということから、病院側はそれなりに懸命に取り組んでいたように思います。

また、両親は一刻も早く脊損患者専門の病院へ転院させたいと考え手を尽くしましたが、結局呼吸器がついた状態では難しいと受け入れては貰えませんでした。皆さんも同じだと思いますが当時19才で、その時初めて社会に対する怒りや矛盾を感じていました。

呼吸器の離脱についてですが、訓練を始めたのは事故から約2ヵ月後です。きっかけはたまたま看護婦さんが吸引後、気管切開部に手を当てた処微かに空気にふれ呼吸していることが分かったのです。ただ当時、自力呼吸をさせるという考え方は勿論、生涯ベッドから動かすことは難しいとされていましたので積極的ではありませんし、その後横隔膜ペーサの手術を研究の目的もあって勧められました。

しかし私の両親は違いました。呼吸器を付けていてはベッドへ拘束され生涯自宅へ帰ることが出来ないと考え、必ず離脱して自宅へ連れて帰ると考えていたようです。勿論今では呼吸器はもっと身近なものになりました。また私自身も呼吸器トラブルの経験から頼っていては危険だという事や自分の将来はこのままで終わる筈がないと考えていましたので離脱訓練を始めました。

理学療法士の先生も訓練方法は全く知りませんでしたが、相談にのってくれて協力してくれました。訓練は単純に喉の下辺りに意識を集中して深呼吸を続けるとといった作業の繰り返しです。最初3分程から始まった離脱は徐々に時間を延ばしていき事故から約3年後に24時間へとつなげることが出来ました。ただ毎日続けていた訳ではなく体調を崩したりやる気がなかったりと結果3年かかったといえます。今でも横隔膜は動いてないとされ、睡眠時の状態はよく分かりません。時々大きく深呼吸をしているみたいです。

訓練により離脱に成功した後、顎で操作する電動車椅子へ乗れるようになり事故から約5年後に現在の自宅へと退院しました。その間病院は3度転院し計4つの病院へお世話になりました。

最後にですね、今の活動の様子をスライドでながしますが活動のきっかけについてお話します。

退院後暫くはですね体に無理をして顎コントロール電動車椅子を使用し、外出していました。幸い自宅が街の中にあるため歩いて行けますが、顎コントロール式はとても気楽に行けるような車椅子ではありませんでした。段差があると上体がずれますし体を縛ると呼吸が出来ません。カナダの人が使用しているような吸引式を試したいと考えた事もあります。そこで何とか気楽にショッピングしたり映画を楽しみたいと考え、介助ボランティアの事を松井先生に話した処、大学福祉科の先生を通じてボランティアサークルを紹介されました。

その後は人生が一変しました。在宅中心だった生活から様々な市の行事や活動へ参加し、ひまわり電車や風船バレー大会といった大きなイベントを主宰する立場となり、そして、4年程前ですが仲間と共に「ボランティアネットワーク」という個々の在宅支援を目的としたボランティア団体を発足する事が出来ました。


シンポジスト 佐藤 きみよ氏
演題「ベンチレータを付けての自立生活」

私は1962年に生まれ、12才の時からベンチレータを付けています。10代の頃はベンチレータに繋がれたまま、一生自分は病院で生きていくしかないのだと人生を諦め、ドクターからも将来に夢を持ってはいけない、ベンチレータを付けているという事は、病院の中でしか生きられないのだと言われてきました。あの頃の私は自分の障害を呪い、人生に絶望しか持てずにいました。

しかし20才の時に転機が訪れました。私が付けていたベンチレータは冷蔵庫くらいの大きさがあり、そのベンチレータを持ち運ぶなどはとても出来ない大きさのものでした。でもその時、私がアメリカの医療関係の雑誌で偶然見たのは、小型のベンチレータを電動車椅子の後ろに積んでいきいきと社会の中で生きている、アメリカのベンチレータ使用者の姿でした。これがあれば、私も外の世界で生きられるかも知れないと、その小型のアメリカ製のベンチレータが私の生きる望み、希望の全てとなりました。そしてその頃、障害者運動というものを知り、障害は個性であるというメッセージがある事を知りました。障害が個性であるというメッセージが私の人生を変えてくれました。

それまでの私は施設でベンチレータを外す事が、自立であると教えられてきたからです。施設にいる時は、私も毎日毎日ベンチレータを外す訓練をしてきました。ベンチレータを外す事がどんなに苦しくても外す訓練は続きました肩で息をして苦しくて、一日中マラソンをしているような気分でした。それでも自分のためと、廻りに言われてやってきました。しかし障害者運動と出会い、お金を数える事や、身辺の事を自分でやることが自立ではないという事を知りました。自立とは自分で選択し、選んだ事、決定した事に責任を持つ事だと学びました。このように運動の思想の中で私はベンチレータは自分の身体の一部個性であっていいのだ、ベンチレータは生命維持装置ではなく、メガネや車椅子と同じく自分のための道具なんだ、ということを考えるようになりました。ベンチレータは自分らしく元気に生きるための道具です。

自立生活をしたいと言った時に、廻りの人達は大反対しました。何かあったら誰が責任をとるとか、外にベンチレータを持ち出すなんて非常識だと言われました。それでも私は自由な生活をしてみたい、死んでもいいから自分らしく生きたいと伝える、生きたいと言える日を作りたいと言って、病院と「何があっても病院に責任は問いません。」と念書を交わし5年がかりで廻りを説得し、90年より自立生活を始めました。

これまでベンチレータの問題は医療の分野であると言われてきました。しかし私達はベンチレータを付けているだけで、患者でも医療モデルでもありません。一人の人間として尊厳をもって、社会の中で暮らす、ベンチレータを自立の道具として使いこなしながら生きていきたいと思っています。これからのベンチレータ使用者と医療とは、当事者と自己管理、決定権を主体にしなければなりません。沢山の情報の中から自分にはどんなベンチレータがあっているのかを自分で選び、気管切開をするべきかを自分で決めます。そのためにも、これからは全国の自立生活センターがますます重要になってきます。センターが情報提供を行い、カウンセリングやサポートを行っていく必要があります。そして24時間の介助制度を保障、ベンチレータに詳しい介助者を育てていく事なども必要です。

ベンチレータを付けるという事は人生を不幸にする事ではありません。ベンチレータを付けたままで、生きたくないという人達がまだまだ居ると聞きます。私達は貧しい福祉・医療の犠牲者をこれ以上増やさないためにも、もっと議論を深めベンチレータに対する差別や偏見をなくしていかなければなりません。私はベンチレータを付けてても生きていて良かったと思う瞬間が沢山あります。散歩して美しい風景を見る瞬間、友達と素敵なレストランで美味しいものを食べる瞬間、映画を見て涙が流れるくらい感動した瞬間、そんな喜びの瞬間瞬間をこれからの深く味わいながら生きていきたいと思います。ベンチレ−タ使用者が生きてて良かった、生まれてきて良かったと言える社会、そんな社会を実現するにはどうしたらいいのかを今日は皆さんと話し合いたいです。


松井 和子氏

みなさん、こんにちは、今日は人工呼吸器使用者の自立という会にお招きいただきましてありがとうございます。みなさん今日、ウオルトさんの話を聞かれていかがだったでしょうか。ウオルトさんの状態をご覧になって、人工呼吸器を使っている人にはちょっと見えませんよね。ウオルトさんの喉元を見てください。喉元、気管切開されているんですよね。そして気管切開ですけれども、ウオルトさんの気管切開の穴ですね、とても小さいのにお気づきになりませんか。後藤さんの御両親が何がなんでも人工呼吸器をはずしたいという強い希望を持たれたのは、ひとつは人工呼吸器をつけるとベッドに縛り付けになってしまう、寝たきりになってしまう、移動ができなくなってしまうという、そういう恐れが強くあったことが、非常に大きな要因だったのではないかと推測します。ウオルトさんの気管切開の穴ですが、あれは非常に小さいです。日本ですと8サイズ、10サイズで、びっくりされるんですが、ウオルトさんのは4サイズです。それとウオルトさんの使ってらっしゃるカニューレは、バンクーバーの在宅の人は比較的多く使っております。これは耐久性があって、非常にコストが安くすむ。自宅で簡単に消毒ができる、さっき会場から、メディカルケアーと医療的なケアーについても質問されて、あまり充分なコミュニケーションになりませんでしたね。だいぶん違うんですよね。気管切開されていてもそのケアースキルが非常に違います。日本の呼吸ケアーの状態は、まだ残念ながら生命維持型のケアーと呼ばざるを得ない状況なんですね。生命を維持するために人工呼吸器を使っていると、長期の人もその状況で、病院のケアーがそのまま在宅で使われている。ところがウオルトさんたちはもう人工呼吸器を使っていても地域に暮らす。あるいはさっき施設のことをお話しなさっていましたけど、施設というのも日本の施設とは大分違います。昼間は普通の生活されていますし、私はウオルトさんに最初にお会いしたときにGパン姿で出てこられたのに大変びっくりいたしました。もう十年前からあの格好をされています。

もうひとつの違いはウオルトさんの姿勢ですよね。非常にいい姿勢をされていますね。垂直の姿勢されています。あれも自然にはできないですよね。やはり急性期に垂直姿勢、座位を保てる訓練をされていますし、それから何よりも一時間強にわたってウオルトさん自身の声で講演されましたねえ。私がずっと日本パラプレジア医学会で、報告させていただいてますけれど、会場で私の発表が終わると、「気管切開しているのに、どうして声が出るんですか。」、「気管切開してます。だから声が出ません。」と質問されるドクターがいます。そういうことを当たり前のように報告される状況が残念ながらまだあります。気管切開していれば、声は出せないのは当たり前だ、とこういう状況で治療を進められているのが残念ながらまだ実態です。気管切開による発声と気管切開していもウオルトさんの使っているカニューレがカフなしのカニューレ、要するに気管を閉鎖しないんです。風船で閉鎖しない。日本では誤飲を恐れて風船のついたカフつきのカニューレを使うのが一般的です。在宅で暮らしている人でもカフつきのカニューレを使う、しかも太いカニューレを使います。それで、カフというかその風船のようなものを空気を抜いたとしてもですね、なかなか全体に空気が十分に出せないと、声も十分に出せない。ウオルトさんは4サイズなのでカニューレは本当に細いです。そしてあれほど十分発声ができると、コミュニケーションがとれる、そういう点もウオルトさんを見ていると、今日ご参加されている日本の頸随損傷の4番、5番のレベルの人と、本当変わらない状態で、その違いがみなさんおわかりになりますか。せっかくいらしたので、注目していただきたいんですが、ウオルトさんがここの舞台に上がるときも一人で上がられましたねえ。自力移動ができる、これも日本のベンチレーターを使っている方の場合ですねえ、私が調べたデータではまだ基本的に手動車椅子で、外出するときにですねえ、車椅子操作の介助なしで外出できないのですよね。ウオルトさんはですね、実際にピアカウンセリング、あのJストロングで、クライアントに対面しているときには、ウオルトさんの介助者は室内に入れません。二時間でも三時間でも介助なしで過ごします。それと気管切開しているのに吸引されてませんね、今日皆さん、長い時間ウオルトさんと対面されていますけれども、吸引されないですよね。日本のベンチレーター、気管切開されている方は頻繁に吸引しますね。そうすると、家族や介助者が付き添わないと、常時側にいないと外出できないという状況ができてきます。電動車椅子に乗れる垂直の座位姿勢がとれること、それから自力発声ができること、自力移動ができることこれが重要だと考えます。


この辺が、まずICUの段階で急性期のリハビリテーションがまだまだ日本では受けられない。そういう点で、ウオルトさんの住む地域のように、脊損で呼吸器を使っていれば、まずバンクーバージェネラルホスピタルというところに入る。ところが日本では、みんな全国ばらばらなんですね。後藤さんがさっき四カ所くらい病院を替わったと言ってましたよね。最初に入った病院、後藤さんが恐らくはじめての頚損だったと思うんです。お医者さんも、看護婦さんもどう対応していいかわからない状況、これはいまでも残念ながら続いているんですね。たくさんの同じような患者さんを見ることによっていろいろな医療経験を積むんですけど、そういう場が残念ながらないんですね。日本では、そのために、気管切開していれば声が出ないと、もうそういうふうに思い込んでしまう状況にあります。そして地域で暮らすことなど、とんでもないと。人工呼吸器を使っていたら一生ベッドで寝たきりの状況。ところが最近は病院での在日数が短くなって病院には置いといてくれない。この問題に関わって十数年になりますけれども当初は私のところに相談があるのは、もうたいてい病院で退院を勧められているけど、どうしたらよいか、どこか病院がないだろうかという、そういう相談がほとんどでした。患者さんの御家族と一緒に病院探しをしますけれども、普通お医者さんのコネを使って、あるいは医長さんのコネを使ってなんとか入れてもらうことができるのですけど、ベンチレーターを使っていると、まず受け入れてくれない。そして結局こういう人たちが行けるところ、在宅しかないんですね。社会復帰というよりも在宅しかないというそういう状況がまだまだ実態です。家族が、家族の一人の犠牲になっているようなかたちで、ひどい人になりますと、十五分に一回吸引があります、ですから専従の介助者は十五分間しか自由時間がないんですよね。十五分しか自由時間がないと、お風呂に入っていてもおちおちできないと、そういう状況の中でまだ生活している。ところがウオルトさんは、さっきから見ていますけれどもまったく、吸引してないですよね。そしてたとえ痰が溜まっても彼は気管切開からの吸引しません。

自力排痰の方法はみなさんと同じように口から排痰します。それとウオルトさんはお水の入ったコップを、電動車椅子に置いてますよねえ。彼の水分摂取量、どれくらいだと思います?だいたい脊損、頚損の方は2000cc。最低でも1500から2000。でも彼は6000cc。一日6000cc水分摂取を、私も聞き違いじゃないかと思って何度も何度も聞き返すんですが、いつも一日6000は飲むと、やはり水をたくさん飲むというのは痰を希釈する。排痰もしやすくなると、いうことで、そしていったん地域に出たらですね、自分の体は自己管理すると。だからメディカルケアーという言葉は通じないんですよね。吸引もあちらではアテンダントが実際やれますし、ただし安全性に関しては、非常に充実、その介助者の研修システムは、定期的に行うところがあります。そこで呼吸器のケアーについては研修を受けて、そしてケアーに携わっていますから、不安というのはないんですよね。アテンダントの人に何度聞いても心配ない、不安でないと言いますし、御本人も不安でないから、一人で外出もできると。独りで過ごす訓練というのも、急性期のリハビリテーション。一人で過ごせるような電動車椅子で訓練をICUの段階からする、そういう訓練ができているということです。

そして、このカナダBC州の呼吸ケアーですね。このなかで多様な選択肢、自立を支えるプログラムということで、ついに完成した人工呼吸器使用者の公的賃貸住宅、ミレニアムパレスというふうに写真にも出ています。バンクーバーでもなかなか住宅難で自宅に即入れる状態でもなかなか難しいと。そして公営公的の賃貸住宅、ここにベンチレータの人が7人くらいですが入れます。一般の市民の住宅の中にですね、ベンチレータのひとが入れる部屋。ここは結婚しても既婚者でも入れる住宅になっております。ここが五年くらい掛けて、建築されたんですね。最初はウオルトさんのクリークビューのグループホームです。ペアソンセンターが養護施設ですよね。そこに大半のベンチレータ使用者が入っていてそこから85年ですか、世界初のベンチレータを使用した人のグループホームができて、そしてウオルトさんたちがそこで生活をする。さっきその地域との比較はクリークビューとの生活との比較ですよね。コストが安いだけでなくて、ケアーの質、それから健康の状態もよいと、その3つを二年かけてプロの研究者に実証させてそして五年後にベンチレータを使う場合、頚損が一番管理がしやすいと。肺のガス交換をするのは障害されてませんので、要するに筋肉が麻痺してるだけなんですよね。肺のガス交換する部分は平常ですから、呼吸管理のうえでは、非常にやりやすい障害の部類に入るんですよね。呼吸器使用者としてはそれでまず頚損の人たちのグループホームができて、で、大丈夫だと、成果があるということで、今度は進行性の呼吸器を使う人たちのノーブルハウスというグループホームができたんです。ノーブルハウスは進行性筋ジスの人たちが入っていますし、呼吸管理の非常に難しい人たちですよね。そういう人たちでも地域で暮らせるということなって今度は結婚しても生活できる自宅、あの一戸建てじゃなくてですね、一戸建てはなかなか難しい、そういうことで最初はカラートーチという名前で計画されていたんです。この計画、BCPAです。あのカナダBC州の脊髄損傷者協会です。皆さんと同じ当事者団体です。そこが計画して私はその計画の段階から説明を受けてて、なかなかBC州も財政難で、なかなか計画が実行しないんだという話を聞いてましたけれども、去年伺ったときにはもう完成してました。そして、数人のベンチレータユーザーが生活している、そして完成式にはウオルトさんが真ん中に入って記念写真、その建物の玄関のエレベーターの前にですね、掲げられて。こうゆうものがこの当事者の団体がイニシアティブをとってですね、作れるというそのパワーですね、それをぜひ今日ウオルトさんから直接聞き出していただきたいなと思います。ケアーの面だけやなくて。

ウオルトさんは、夜間ベンチレータを使います。ウオルトさんがあのピアカウンセラーをしたワンさんというC2の頚髄損傷の方なんですけれども、この人はウオルトさんの指導で30分呼吸器がはずせるようになりました。10年近くその状態でいたんですが、去年ある東洋医学の中国人のドクターの指導、セラピーを一ヶ月近く受けてそして24時間呼吸器をはずせるようになってですよね。これはなかなかメカニズムはわからないんですけれども、はずせるようになった。それでウオルトさんは、それに挑戦しないんですか、と聞いたら、やっぱり何度か挑戦されてるようですね。でもどうしても、やはりはずせないということで、夜中、睡眠中は人工呼吸器をつけていると、そしてそれだったら、気管切開は閉じることができるんじゃないかと。バイトといって今、夜間はバイブアップの呼吸器を使えば、睡眠中だけ呼吸筋を休めることができますよね。そうすると、さっき後藤さんがおっしゃったように、老化にも対応できるんですよね。で、「どうしてウオルトさんは気管切開、閉じないんですか。と、夜だけだったら閉じてバイブにすれば、いいじゃないですか。」と伺ったら、やはり長いこと気管切開をしていたら、ウオルトさんみたいなパワーのある人でも、やはり恐いんだそうです。それで、今でも夜は呼吸器をつけられて、それで呼吸器をもって日本に来てくださったということで、実際にウオルトさんを見ていると、もうみなさんとかわらない、そんなに大変な人が来てくれたふうに思えないと感じてしまうかもしれないんですけれども、日本でもまだまだですね。今日当事者が来れないという事情をぜひ汲み取って、そしてウオルトさんたちも自然にできちゃったわけじゃないですよね。やはり運動によってシステムを作り上げたということで、それをぜひ、日本でも作り上げていただきたいなと思います。もちろん私たちも一緒に取り組んで行きたいと考えておりますので、ぜひそっくりそのままじゃなくても、やはり一番呼吸器で管理をしやすい頚髄損傷者が地域で自立できればですね、そのあと進行性の人工呼吸器を使う人たちがついてこれるんです。そういう意味で一番やりやすい対象ですので、ぜひ頚損のひとたちが外に、人工呼吸器を使っている人が外に出れるようなそういう取り組みをしていただきたいと、お願いしたいなと思っております。よろしくお願いいたします。以上です。

注 写真は省略しました。

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