「スポーツ」って、体を動かすこと?
かつて受傷する前まではスポーツに打ち込んでいた人も、身体にハンディを背負ってしまうと、どうしても体を動かすことが中心となる「スポーツ」には、縁遠いイメージを持ってしまわれる方が多いであろう。しかしスポーツにも様々なものがあり、また重度の障害があっても様々な形でスポーツに関わっている人たちがいる。
重度の身体障害を持つ人にとっての「スポーツ」って何?
「スポーツ」は体を動かすこと以外に、どういう意味を持つの?
このあたりの事を探ってみるために、大阪頸損会の三人の方に話を聞いた。
最近、新聞やTVでも話題のお一人、元プロゴルファーで、頸損となり電動車椅子に乗っている今も、「自分にとって大切なゴルフ」と関わっている山口誠さんに、山口さんにとってのゴルフとは何なのか、山口さんの人生とスポーツとの関係、この辺りのことを聞いてみた。
私の中学校時代の同級生仲間、今テレビで皆さんもよく見かけるプロゴルファーの中村通さん、山本善隆さんとともに私がプロの世界に入ったのが昭和45年、19歳の時でした。プロとしての5年間。世間に脚光を浴びる華やかな生活から一転して、昭和50年24歳での交通事故。C5番を損傷し、完全麻痺になりました。事故後2年間、病院を転々としましたね。落ち込みましたよ。もう終わりかなと。これまでのプロゴルファーとしての生活と180度違う病院での生活。そんな自分を受け入れることなんて到底出来ませんでしたよ。
退院して自宅に帰り、母親の介護のもと、ベッドの上でその後20年間、在宅こもりっきりの生活を過ごしましたね。
そんな20年間の生活がありましたけど、その後、ちょうど今から4年前、皆さんもよくご存じ山田クリニックの山田先生に診てもらい、介護のしやすさ、外出のしやすさも考えて膀胱ろうの手術をしに再入院することになったんです。その再入院のとき、いろんな人を見たり、話をしたりしました。重度の人たちが頑張ってる姿を見て、自分にとっても最後のチャンスじゃないかなあ…と、思うようになりましたね。
そのとき、もう一つ大事なことがありました。ひとりの看護婦さんを好きになったんです。それが大きかったんじゃないかと…(笑)。
それまでは人を好きになるなんて考えてもなかった。諦めてたんだと思います。好きな人にカッコ良いところを見てもらいたくって頑張るし、この辺りから、自分がガラッと変わってきたのを覚えてますよ。リハの先生にも相談しましたが、「大切なことです。良いことですよ。」って言ってもらって力づきました。
家に帰って、ヨーシ!と思って外に出ていこうとしましたけど、やっぱりどこにも行けませんでした(笑)。2、3ヶ月は、家の前や近所をウロウロするだけ。20年も家に居たんで、浦島太郎状態でしたね(笑)。人の目がコワイ、それで外へ出ない。その繰り返しでした。それでも一歩外へ出ると人に出会い、挨拶もする。そんな中で、意外や自分が思っていたほど、人は自分の事を見てないんだ、って事に気づき、なんか肩の力が抜けて「ホッ」としましたね。それからどんどん外へ出れるようになりました。
自分の出来る事は何か、と考えました。事故をする前の、日本プロゴルフ協会はまだ退会してなかったので、復帰届、再登録を試みたんです。そしたら理事会で承認されたんです。それから、「仕事がしたい」と考えるようになりましたね。
ここでプロになる前と、プロになった頃の話を少し。
父が茨木のゴルフ場に勤めていたこともあって、4〜5歳くらいの頃からよくゴルフ場には付いていってましたよ。10歳くらいから自分でもゴルフを始めるようになり、中学からキャディのバイトもしながら真剣に取り組むようになったんです。ちょうど偶然にも中学時代の同級生にさっきも言いました、通ちゃん(中村通氏)や善隆ちゃん(山本善隆氏)もいて、3人で卒業するときに、「自分たちは学力の世界で生きていくんじゃない、実力の世界で生きていくんだ!」ってことになったんです(笑)。
卒業後は、ゴルフ場で働きながら修行してました。そして、通ちゃんは17歳、当時最年少でプロテスト合格を果たし、善隆ちゃんと私も19歳で昭和45年にプロ入り。杉原さん(杉原輝雄氏)が自分たちの兄弟子格で、毎日毎日、賭けゴルフで杉原さんに小遣いを巻き上げられてましたよ…(笑)。いい思い出です。
1年間の研修期間後、20歳から月1回程度でしたがトーナメントに出場したりもして。当時、ツアーっていうのはまだ無かった時代なんです(笑)。こんな生活をその後4年送りました。そして24歳で車椅子の生活、大きな運命に出くわしたわけです。
話をその後に戻しますけど、20年間の在宅生活後、外に出るようになって「仕事がしたい」と思っていた頃、近くの障害者の作業所「あゆむ」から、「遊びにきませんか」って声掛けてもらって、また「ハートフル」福祉センターの入浴サービスも利用するようになり、電動車椅子に乗るようになったのもちょうどそんな頃でした。
「仕事がしたい」って想いの中、今から2年前でした。大阪市長居のスポーツセンターで「障害者ゴルフ」があることを知り、すぐに行きました。そこで、かつてプロだったこともあり、ゴルフを教えることになりました。でも、片腕の方や視力に障害のある方など障害を持つ方にゴルフを教えるのは初めてで、こちらも一からのスタートでした。そして続けていくうちに、練習だけでなく「みんなで目標を持ってやろう」と、神戸しあわせの村で大会をすることになったんです。その後は大阪市の舞洲スポーツセンターでも練習を開始するようになりましたね。昨年の9月にはハートフル福祉センターでも練習開始。母校である中学の体育授業で教えるようになったのは、今年の4月から。今はその他個人的に、アマチュアの方たちにもレッスンしたりしていますよ。
ゴルフ以外にも今、茨木にある自立生活センター「ステップ21」で活動してますね。毎日、1〜2時間でも顔を出してますよ。そこで、障害者スポーツを担当したり、移送サービスの事務処理なんかもやってます。とにかく今は、ほとんど毎日外出してますね。昔の、閉じこもった生活時代の反動かな。排便の日も、便出しの後、ゴルフを教える予定が入ってれば出かけていきますから…(笑)。
ゴルフに真剣に、そして夢中になってる人を教えてる、また向き合ってると、すごくエネルギーがもらえるんですよね。その世界に自分がグングン入っていく瞬間なんです。限りなく24歳の時の自分に近づいてる瞬間です。気持ちいい疲労感がありますね。私にとってのスポーツですか、何だろう、「エネルギー源」、「生きがい」、「原点」かな。障害者にとってスポーツは大事。スポーツを通じて輪が広がる。生活が広がる。つまり、スポーツは健常者だけでなく障害者にとっても大切なもの。きっかけはスポーツであっても、そこから広がる何かがある。身体の動くこと、動かないこととスポーツとはあまり関係ない。スポーツは肉体的なものだけでなく、精神的な部分の意味が大きい。プロであってもトップクラスなら実力の差はそれほど無い。最後に勝敗を分けるのは自分の精神面を自分がいかにコントロールするかですよね。
私がエラそうには言えませんが、とにかく自分自身を好きになって欲しい。自分自身を愛せるようになって欲しい。
私も外へ出るようになって、いろんな人に出逢って、自分の好きな事に向き合って、ガラガラガラッ…、っと坂道を石が転がるように自分の世界が変わっていった。私の在宅の20年間は自分を認められない、本気で自分を愛せなかった証拠。だから今、外へ出て人と出逢うことに積極的。自分を愛せるということは、自分自身を認め、受け入れてるということ。たとえ車椅子に乗っていても、それが自分なんだ、ということ。そんな自分を愛せるようになって、いろんな事にチャレンジして下さい。
頸損者でアーチェリーをされてる方はまだ少ないと聞く。弓を引くことがどうしても難しいと考えてしまうアーチェリー。頸損で指が動かなくなり、物をつまむことが出来なくなった藤田武さんは、一体どうやって弓を引くのか。最近アーチェリーに取り組むようになった藤田さんに、アーチェリーのやり方、その楽しみ方を聞いてみた。
今年の5月中ごろ、長居にある障害者スポーツセンターで、アーチェリー初心者向け8回のコースに初めて参加したんです。友人で、頸損会の三島裕則さんと一緒に。頸損ではここでアーチェリーをする人、初めてだったみたいです。ずっと、何かスポーツやりたいなあって思ってたんです。アーチェリーをやってみたかったけど、頸損になって指が利かないのでダメだと思ってた。でも去年のパラリンピックで、頸損の日本人選手が出場しているのをテレビで見たんです。あ、これだ、と思って大阪で出来るところはないか探しましたね。
昭和63年、定時制高校4年の時、事故で頸損になりました。アーチェリーは初めてです。頸損になる前、中学の頃は柔道、高校ではモータースポーツでしたから。モータースポーツ?原付バイクのレースです。もちろん、町中での暴走行為じゃないですよ(笑)…。
アーチェリーを始めて、今はこの形(腕や指が効かなくても自分に合ったスタイル)におさまってますけど、この形にたどり着くまでは結構、試行錯誤でしたよ。ヒジや手首を固定するための道具探しに、よく「コーナン」通いもしましたね(笑)。的を射るにあたっては、はじめは短い距離から。そして徐々に離していって。今自分の最高が15m。自慢じゃないですけど的から外したことはないですよ(笑)。いつか最長の18mで、的の真ん中に矢を射りたいですね。大会への出場も…。今はアーチェリーの道具も借り物ですけど、そのときは自分のものが要りますね。
スポーツは、障害を持って縁遠いイメージをもっていたけど、やってみて案外思っていたほど難しいものではなかったです。スポーツ。理屈抜きにやっぱり面白いですよね。
水中では、人の身体は自由になる。車椅子から離れ、水に身体をゆだねてると普段と違った身体の自由さを感じることもある。しかし、身体が動かないが故の恐怖感や、頸損となり体温調整が効かない場合のダイビングには、事前の準備が潜ることの楽しみを左右する。映画「ザ・ダイバー」の上映に関連して、TVドキュメンタリー放映で初のダイビングに挑戦することになった比嘉昌美さんに、そのダイビングの様子を聞いた。
まず、どうして私がダイビングにチャレンジしてみることになったのか、先に少しお話しますね。ある障害を持たれた方がダイビングをしてみたいということで、それをサポートするハンディキャップダイバーの育成をしている「JULIA(ジュリア)」という団体の方とともに、海に潜るまでをTV局がドキュメンタリーとして番組収録することになったそうです。ところがその障害を持たれた方が直前にドクターストップがかかり、行けなくなってしまったそうです。そんな時、私の知り合いの看護婦さんを通じて、「ダイビングしてみない?」って誘ってもらったんです。それでその方のピンチヒッターとして沖縄の海に初ダイビングをすることになったワケです…。
ドキュメンタリー番組の収録ということもあって、まずは映画「ザ・ダイバー」の試写会舞台挨拶から収録。5月に東京へ一泊で行くところから始まりました。舞台挨拶では「ザ・ダイバー」の実在のモデルであるカール・ブラシア氏にお会いしました。
それから1ヶ月、自宅でのダイビング学科講習などを受け、6月に和歌山のプールで練習後、いよいよ串本の海に潜ることになったんです。2日間のうち初日は肌寒く、車椅子になってから初めて海に潜るということもあって恐かったりしましたけど、2日目は何とかウマくいきましたね。
そしてさらに1ヶ月後の7/15〜5日間、いよいよ沖縄の読谷村へ潜りにいくことになりました。ここで計3回潜ったんです。沖へボートで約10分ぐらいのところかな。
初日は串本で潜ってから約1ヶ月ぶりのことだったんで、少し恐く、耳抜きもウマく出来なくて大変でした。
2日目はすごく楽しみにしていたジンベエザメに潜って会いにいくことに。(ここのジンベエザメは漁師さんの網に引っかかって、その後そこで飼われているそうです。)潜る前にジンベエザメの説明を受けて、もうワクワク。ちょっと恐いかなあとも思ったけど、潜って会ってみると、体長7mもあるジンベエがとってもかわいかったんですよ。シッポも触れたんです。あと、ちっちゃなキビナゴの群にも感動しました。
そして3日目、快晴。3日間のなかで一番よく潜れた気がします。3日間のうち、一番深いところで10mくらいは潜ってたよ、って聞いてます。
初めてのダイビング経験でしたが、大変だったのは、やっぱり潜ることが少し恐かったことや耳抜き。ウェットスーツを着せてもらったりするのもちょっと大変だったかな。あと海水で体温を奪われたりすることもあるので、注意したいところですね。
ダイビング以外で楽しかったところといえば、沖縄サミットの記念コンサートに行って、多くのアーチストを見れたことや、沖縄に住む、頸損会の北田恭子さんに偶然、久々に会えたこととか…。
今回のダイビングは新しいことにチャレンジ、ということでやってみました。ダイビング、今のところ続けていく予定はないですけど、いい「経験」が出来たと思っています。スポーツ、ですか。どんな形でも体を動かすことは良いことだと思うから、どんなスポーツかにこだわらず、何か出来れば良いんじゃないかと思いますね。体を動かした方が気持ちいいし、普段なかなか自由に動かせないから…。
チャンスが来たら、そこで人と逢って、そこからまたチャンスが生まれたりするから。だからあんまり恐れないで、出来る事があって、やってみたいという事なら、これからもぜひ、やっていきたいですね。