頸損だより2002春(No.81)

自立生活あれこれ

松崎 有己

私は1993年8月に京都での交通事故により障害を負い、枚方の星ヶ丘厚生年金病院において10ヶ月間リハビリを行った後、福井の自宅に戻り家族と共に在宅での生活を始めました。介護は主に母親に任せていたのですが、4年前に突然重い病気だと分かり入院することになってしまいました。そこで父と祖母の他に社協のホームヘルパーさん、かかりつけの病院からの訪問看護、ボランティアの皆さん達の協力を得ることで、なんとかそれまで通り在宅での生活を続けられる体制をつくることができました。


しかしそれから1年後に母が亡くなり、その後約2年間はかなり無理な介護体制の下で過ごしていました。社協の方々もとてもよくしてくださいましたが、なにしろ重度の身体障害者が在宅で生活するのは我が市(福井県勝山市)では初めてのケースだということで、かなり無理をしてヘルパーさんの派遣をしてくださっていたようなのですが、それでもやはり夜間や早朝、土日祭日についてのサービスは行っておらず家族で対応してほしいとのことでした。またお年寄りの割合が非常に多く、このころ始まった介護保険制度によって忙しくなり、人手が足りずこれ以上派遣時間数を増やすどころか減らせるものなら減らして欲しいというような雰囲気でした。さらに最初の頃は協力してくださっていたボランティアの方達も時が経つにつれだんだん少なくなっていき、仕事の忙しい父と高齢の祖母の負担は増えるばかりでした。二人ともあまり口には出さなかったのですが、共に腰痛など体の不調をおしてかなり無理をしている様子で、やはりこのままの体制をこの先もずっと続けていくことは明らかに無理でした。


自立生活については母が病気になった頃から考えてはいたのですが、勝山市には満足な福祉制度もなくそのままの状態では不可能でした。そこで各団体や知り合いの方などに相談し「全身性障害者介護人派遣事業」などの新しい制度の設置に向け、市と交渉していくことにしました。しかし色々調べていくうちに、人口2万数千人の小さな田舎町では過疎化が深刻で、たとえ制度が整ったとしても肝心の介護人を確保することが非常に困難だと分かりました。また冬には雪が降るため雪の多い日には、介護者が通うこと自体が難しくなってしまうのです。そこでいろいろと悩んだ結果、既に制度が整い比較的人材も確保し易いだろうと思われる大阪に移り自立できないものだろうかと考えるようになりました。


そこで、以前にお世話になっていた星ヶ丘厚生年金病院のOTの岡先生に相談させていただいたところ、入院当時に一度お会いしたこともあるピア大阪の東谷さんにお手伝いをお願いしてみてはどうだろうかとのことでした。そこでお電話でそれまでの経過と状況、そして家族の下を離れて生活したいという強い気持ちを聞いていただいたところ、快く自立のお手伝いを引き受けてくださいました。東谷さんの協力を得られたことで、自立生活には悲観的だった父の説得も比較的スムーズにできたように思います。


自立にあたっての最初の課題は住宅の確保でした。大阪に住んでいるのであれば実際に物件を見て回ればよいのでしょうが、なにしろ車で4時間近くかかる田舎に住んでいながらの部屋探しですから多少工夫が必要でした。まず住む場所を東住吉区の駒川周辺に決め、予算にあった部屋の間取り図を不動産屋さんからFAXで送っていただきました。予算と部屋の広さのバランスを把握し、とりあえず父と弟に実際に部屋を見に行って貰う事にし、デジカメでの撮影を頼みました。そしてその中から一件を選び大家さんとの交渉に望みました。しかし大家さんからの返事は「申し訳ないけれども車椅子の方はちょっと・・・」とのことでした。食い下がってはみたものの貸したくないという物を、無理矢理借りる訳にもいかずあきらめました。よさそうな部屋でしたのでちょっとがっかりしました。この先もまた断られ続けるのではないかと不安になりましたが、気を取り直し引き続き不動産屋さんに部屋探しを依頼したところ、前回よりも立地条件も間取りもよく、お風呂も比較的広ことからリフトやシャワーチェアーなどの必要もない部屋を見つけていただくことができました。逆に前回断られてよかったような感じです。満足に物件を見て回ることもできずこんな綱渡り的な状況で、満足できる部屋を見つけられたことは幸運でした。


今回は大家さんから断られることもなく、むしろ協力的な様子だとの不動産屋さんからの連絡を受け、最終確認のため実際に自分の目で部屋の様子を確かめることにしました。4時間近くも車に乗って外出するというのは受傷以来初めての経験でしたので、体力的にもつだろうかととても心配でした。7月の終わりの非常に暑い日の日帰りでの旅、しかも膀胱にできた結石の手術を間近に控えていたのです。今思うとあの時よくあんな思い切った行動ができたものだと思います。何か不思議な力に導かれていたような感じでした。


住むところが決まり次は介護体制づくりです。部屋探しと平行して話を進めていた介護者の方に取りあえず数ヶ月の間来ていただきその間に徐々に安定した介護体制を確立していくという方法を採ることにしました。色々調べた結果、当面の介護費用は全身性障害者介護人派遣事業と交通事故により自賠責保険の支給を受け常時介護の必要な障害者に対して支払われる介護料などを利用することにし(ただそれでもまだ多少の自己負担はありますが)また市のホームヘルプ制度も利用することもできるということで、大まかな介護体制が見えてきました。


そしていよいよ引っ越しの準備です。家族のもとを遠く離れて一人で生活するということでまず体の悪いところは直しておこうと考え、検査で見つかった膀胱結石を取ってもらい歯医者にも十回ほど通いました。また家財道具の梱包や新たに購入しなければならない物の買い出しなどは、なるべく家族の協力が得られるうちにと思いほとんどの物は実家で用意し引っ越しの時に一緒に持ってきました。


引っ越しは物が多いせいもありましたが、やはり一度にすべて物をを運び出しその日のうちにそれらをすべて新居に設置してもらわなければならないためにかなり大変でした。しかしその後の生活に関する様々な手続きはさらに面倒でした。父は仕事が忙しいく2、3日しかこちらに来ていることはできず、介護者の方に協力して貰いながら一つずつこなしていかなければなりませんでした。転入届の提出、保険証の受け取り、全身性障害者介護人派遣事業やその他の介護料を受け取るための書類の提出、電気、電話、ガス、水道等の契約、郵便局や金融機関などの確認、病院探し、電動車椅子購入のための判定など、その他にも細かいことは色々とありしばらくの間は落ち着く暇がありませんでした。ただその間かなり生活環境が変わったにも関わらず幸い体調を崩すことなく大きなトラブルにも見舞われずに比較的順調に生活は軌道に乗りました。その後ヘルプセンターすてっぷさんや自立生活センターナビさんユーダさんなどに協力していただき、一緒に住んでいただいていた介護者の方の手を放れ、当初予定していた自分のイメージする自立生活に入ることができました。


自分にとって現在の生活はこれまでの実家での暮らしとは全く違い、多くの人達と出合う機会が増え、それまで考えられなかったほど活動的で有意義なものなってきていることを毎日実感しています。それは親元を離れ一人暮らしを始めたということ以上に、田舎を離れ大阪に引っ越したことに大きな意味があったように思います。実家は市街地からは離れた場所にあり、車椅子で乗ることのできる電車やバスはないため外出には常に車が必要となり思うように外出すること自体が困難で、また外出しても車椅子で入ることのできる場所もほとんどありません。冬には雪が積もり約4ヶ月間は全く外出できず家の中に閉じこもらざるを得なくなってしまいます。仲間の数も少なく、少し離れた大きな施設を訪ねることでやっと3人の年輩の頸損の方にお会いすることができるというような状況でした。そのような生活はこちらに引っ越してからは一変し、電動車椅子で近くの自立生活センターや作業所などにも簡単に出掛けられ、電車やバスを利用すればもっと行動範囲が広がりショッピングや様々なイベントや会に参加することができます。そしてそこでは多くの方達と出会いがあり非常に意味深く、毎日が刺激的でとても楽しい生活を送れるようになりました。


もちろん親元を離れたことの意味は大きく、特に精神面に大きな影響がありました。家族に負担をかけていることの負い目がなくなった開放感と共に、自分の力で様々な意志決定と介護者に対する指示などを行わなければなず適度な緊張感をもって生活することができることから、これまでとは全く違い前向きで積極的に物事を考え行動することのできる自分に驚いています。これからも更に自分の可能性を信じ様々なこと挑戦していきたいと考えています。


自立のお手伝いをしていただいた皆さんと家族、そしてまた現在も温かく見守りながら私の生活を支えてくださっている多くの方達にはとても感謝しております。いつもありがとうございます。これからもどうぞヨロシク。

注 写真は省略しました。

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