頸損だより2003秋(No.87)

必殺仕事人

宮野 秀樹

皆さんこんにちは・・・というより、はじめまして、のほうが良いのでしょうね。兵庫県は中南東部に位置する加東郡社町に住んでいる宮野秀樹です。

今回は、大阪頸髄損傷者連絡会の行事に滅多に顔を出さない私に「必殺仕事人というテーマで原稿を書け!」という指令が下ったので、現在、当会会員の姫路の田村辰男氏と共に運営している居宅介護サービス事業所について、宣伝を兼ねて書かせていただこうと思います。といっても「おまえ、誰やねん!」と思われる方も多いと思うので、まずは私についてのことから。

警察官として社会に奉仕(?)していた私が、自らの不注意による交通事故で、四肢完全麻痺の第4番頸髄損傷となったのが、約11年前の平成4年12月のことでした。搬送された病院で1年8ヶ月を過ごし、その後、兵庫県立総合リハビリテーションセンター中央病院に転院しましたが、阪神大震災に見舞われたため、訓練らしきものや生活するためのノウハウをほとんど習得しないまま、たった3ヶ月で退院させられました。でも、今から思えばこの早期の退院のおかげで、「自分で何とかする」というタフさを身につけることができたと思うので、他力本願の私にとっては非常に良かったのかもしれません。とはいっても、電動車いすを手に入れただけで、利用できる公共の交通機関の何もないド田舎の、設備も何も整っていない実家に舞い戻ったわけですから、何もしなければベッドの上に縛りつけられた生活になってしまいます。その苦しみは十分に入院生活で経験していましたし、そんな生活に甘んじる気は毛頭なかったので、この環境から抜け出すためには「外部からの情報」と「頸損に関する知識」が必要だと考えた私は、とにかく外へ出て人に会うことを心懸けました。

「情報を得る」「知識を得る」「人に会う」一見すると簡単なように思えますが、これらは待っていてもやっては来ません。しかし、自らが行動を起こしそれを求めるようになると、自ずと道は開けます。私の場合、どこにでも顔を出し、行く先々で適当なことをしゃべりまくったおかげで様々な方面へのネットワークができ、幅広い職種の方から声を掛けてもらうようになったのです。こうなればこっちのもので、貪欲に腹黒く(?)築いた人脈は、私を大変おもしろい方向へと導いてくれることとなりました。

最初にやり始めたのが、神戸の中央区限定のコミュニティFM放送局でのパーソナリティー。カッコイイ言い方をするとDJですね。"いい加減なことをしゃべることが仕事"というのは、まさに私にとって天職でした。そこで知り合った仲間と自主制作映画の制作やイベント運営、そこから派生してブライダルや企業PV等のビデオ編集、WEBデザイン&制作、また、このような活動を聞きつけた小・中学校からの講演依頼、地元教育大学でのゲスト講師、障害児教育ゼミの教授との共同研究等々・・・この間たったの6年。「一貫性がない」「そんなのは仕事じゃない」と思われるかもしれませんが、収入を得てはいましたし、何ものにも代え難い貴重な経験をさせてもらったと思っています。

しかし、30歳になった頃から、自分の日常生活に対する不安が急激に増しました。両親や友人に頼りきった日常生活。ヘルパーを利用するわけでもなく、ただ自分のやりたいようにやってきた生活は、その基盤の無さからここに来てうまく回らないようになりかけていました。「おもしろいことをしたい。でも、自分の生活も見直さなければならない。」頸損歴10年目にして「自分が重度障害者である」ということに初めて向き合ったように思います。でも、実際どうすればよいのか?そんな迷いの日々を送っていた時に田村氏から「一緒に介護ビジネスをやりませんか?」という誘いを受けたのです。

支援費へと制度が移行するにともない「自分達のサービスは自分達で用意しよう」という田村氏の誘いは、私の迷いを瞬時に吹き飛ばすものでした。「自分の生活は自分で変える」そう心に誓い、事業所設立に参加することにしました。書類申請等の手続きは厄介でしたが、重度障害の役員が3名の障害当事者主体の事業所として、昨年7月にNPO法人格を取得し、今年の4月から支援費制度が開始されるに併せて事業所『ライフサポートはりま』をスタートさせることができました。

事業所での私の仕事は事務関係。その中でも主に請求事務を担当しています。Macintosh中心だったコンピューター環境をWindows環境に替え、使うことが滅多になかったEXCELやWORDを駆使していますが、感覚が身につくまでは大変でした。中でも頭を悩ませたのが、膨大な数の数字。元より数字に弱い私にとって時間計算や金額計算の前に"数字を見ると気分が悪くなる"というアンビリバボーな問題をクリアすることから始めなければなりませんでした。電卓とパソコンキーボードをマウススティックで一心不乱に叩く姿はまさにウッドペッカー。32年間生きてきて初めて、電卓との間に友情が芽生えました。少しのミスでも事業所にお金が振り込まれなくなるので、毎月末はプレッシャーで胃が痛くなります。寝ていても数字がグルグル回っていますし、田村氏が「宮野さん!返戻や!(請求内容の不備等により審査の前段階で請求内容が差し戻されること)」と電話をかけてくる夢を何度見たことか・・・。支払決定通知が来ても、実際に入金されるまで生きた心地がしません。

事業所の業務はこれだけに止まらず、業務を分担してはいるものの、それぞれの業務に対するチェックやサポートに追われる忙しい毎日で、良くも悪くも毎回いろんなことが起きてくれるので、時々意味もなく叫びそうになります。しかも現在、初めての決算を迎えており、出来れば遠慮したい税金関連の専門用語とか、難解な記入形式の書類等、私の今までの人生には登場しなかったものにばかり触れていますので、「どこか遠くに行ってしまいたい・・・」と遠くを見つめながら思う毎日です。この原稿が皆さんの目に触れる頃には、確定申告を終えているか、私がどこか遠くへ旅に出ているかのどちらかだと思います。と冗談はさておき、唯一救われるのは、これらの業務が在宅でできるということです。コンピューターでデータのやり取りをし、電話やFAX、最近では音声チャットを利用して会議・報告をしているので、姫路市と社町間の遠距離移動の回数が減るということは正直助かります。もちろん、月に一度は事務局会議のため姫路へ出向きますし、緊急事態にも対応できるようにしています。

しかし、支援費制度がスタートし、『ライフサポートはりま』を始めてから4ヶ月程度しか経っていませんが、働いていると疑問や不満にに思うことも少なくありません。「利用者主体」「地域における自立生活の推進」と始まる前は"夢のような制度"であると色めき立ったのはいつのことだったでしょうか?実際の中身は「行政主体」の「弱い者いじめ」としか思えない、手かせ・足かせで縛りつけた、私達のような当事者事業所にとって働きにくい制度となっているのは確かです。当事者主体の事業所を優遇しろとは言いませんが、「利用者主体」「自立生活推進」「地域密着型」と重度障害者に積極的に対応し、既存のサービスにはなかったサービスを提供しようとしていることをなぜ評価できないのか?利用者の希望するサービスを何とか意向に添えるよう工夫しようものなら、「そんなことをしてもらっては困る」と締めつけが厳しくなります。本当に欲しいサービスを提供しようとすればするほど、行政からは目の敵にされる。全くおかしな制度です。

最後に。実のところ『ライフサポートはりま』で働く障害当事者は給料をもらっていません。それは事業者でもあり、利用者でもあるからです。事業にも力を入れますが、私達は自分らしく地域で生活していくために、行政交渉をして制度をより良いものにしていかなくてはいけません。収入を得ることも大切ですが、それだけでは片づけることのできない現状も障害者にはあります。事業所が軌道に乗り、この現状が少しでも良くなれば、また金儲けでも考えてみるか!と思う今日この頃です。

注 写真は省略しました。

戻る