頸損だより2003秋(No.87)

シリーズ「車輪の一歩」

奥 英訓

私は、1975年4月に大阪でオートバイによる交通事故で受傷して救急病院に入院し、頸椎第5・6脱臼骨折による頸髄損傷と診断されました。3年間の入院生活を過ごした後、実家のある奈良に戻り、両親による介護を受けながら暮らしていました。

入院中、車椅子に乗るのにはそれほど抵抗もなく病院の近くの扇町公園や商店街へよく散歩に連れて行ってもらったりして、積極的に外出を楽しんでいました。周りの人は障害を持ってから知り合った人達ばかりで、車椅子の私でも快く受け入れてくれたのだと思います。

ところが、実家に戻った途端、部屋に閉じこもって一切、外出することが無くなってしまったのです。というのは、近所の人は生まれた時から元気な姿の私を知っている人ばかりで、障害者になって戻ってきた自分の姿を見られるのが嫌だったからです。「元気やったのに、あんな姿になって」と近所の人達の目がそんな風に見ていると勝手に思い込んでいたのです。

自分の体を醜いものと感じ、恥ずかしいと思っていたのです。しかし、障害者になりたくてなったわけではありません。何か悪いことをしたわけでもありません。本当は何一つ恥じることなどないのに卑屈になって、いじけていたのです。とはいうものの、それを乗り越えるには勇気がいりました。

私が電動車椅子に興味を持ったのは、退院から9年経った1984年になってからです。

「電動車椅子のリクライニングタイプがある」

と知人がスズキのパンフレットを持ってきてくれたのです。パンフレットには試乗の申し込み用紙が付いていて、乗ってみたいと思ったのです。早速、申し込みをしました。

数日して、浜松からメーカーの人と地元の販売会社の2人が試乗用の電動車椅子を持ってきてくれました。左手の手首が動かせたのでジョイスティックは左側に取り付けてもらって試乗してみました。最初はどれくらいの力でレバーを操作したらよいのか加減が分からず、押しては離し、押しては離し、を繰り返すと車がノッキングして、酔ったような気分になりました。それでも1時間も経たない内にコツを飲み込んで操作できるようになりました。試乗が済んで、直ぐに購入手続きをしました。

手押しの車椅子では「あっち行って、こっち行って」と押してもらう人に気を遣わなければなりませんでしたが、電動車椅子なら自分で行きたいところに行けるのです。自分で動かせるのがおもしろくて、それは小さい頃に初めて自転車に乗れた時のような気持ちでした。それでもまだ、家の近所や町内を一回りするくらいでした。

外出に新しい変化が現れたのは、それから10年後の1994年になってのことでした。電動車椅子の情報をくれた先の知人を通じて、市内でボランティアさんなどの協力を得て自立している重度障害者のことを知ったのです。その人に連絡すると数日後には家に来てくれて、その時に初めてリフトカーのことを知りました。リフトカーがあれば田舎に住んでいても外出できるのです。その人に出会ってからは、誘われるままに講演会や会合にリフトカーを利用して再三、出かけるようになりました。その人の行動力に刺激されて、話を聞いている内に自分も自立できるのではないかと思うようになりました。

その翌年の1995年末、父親が病気で入院しました。それがきっかけで自立への思いは強く、より本格的に考えるようになりました。しかし、自立といっても実家は奈良市でも東部の山間で周りは田んぼと山に囲まれたところです。交通の手段といえば、唯一の公共交通のバスと自家用車で市内へ出るには30分ほど掛かるようなところではボランティアさんどころか、ヘルパーさんに来てもらうのも大変で、条件が悪すぎて実家での自立は無理と判断し、思い切って市内に出る決心をしました。そう思い込んだら物事は不思議なくらいに好転して急速に進んでいきました。

年が明けた1996年には、市営住宅で身障者用の部屋の募集があるという情報が入り、入居には審査が必要で入居できるか分かりませんでしたが、申し込みを済ませておきました。いずれにしろ、実家を出る覚悟をしていたので、その4月には西大寺の民間アパートに引っ越していました。

市内に出る時、生活が安定するまでという約束で両親を説き伏せて一緒に出てもらいました。市内に出てからは生活も一変しました。ボランティアさんの募集、ヘルパー派遣、訪問看護、送迎入浴と毎日目まぐるしく人が出入りして、両親には気ぜわしかったと思います。その内、ボランティアさんが徐々に増え始めると両親は、日中は実家に戻り、田んぼや畑仕事をして、夜にはまた戻って来ていました。私は今までより動きやすくなったこともあって、より外出機会が増えました。週末には西大寺から電車に乗って奈良に出るのが楽しみで、まるで子供のようにはしゃいでいました。

大阪頸損連絡会に入会したのも、この頃だったと思います。受傷してからずっと、自分と同じ障害を持った人達はどんな生活をしているのだろうと気になっていました。ふとしたきっかけで「街へ出よう」という企画の行事に参加することになりました。車椅子の会員やボランティアさんが何人かのグループに分かれて、交通機関のバリアフリー度チェックなどをしながら目的地に向かうというものです。私が参加したのは長居から南港のサントリーミュージアムだったと思います。電車や車椅子ごと乗れるバス(当時はリフト付きか、ノンステップだったかは不明)を乗り継ぐだけで市内を縦横無尽に動き回れる大阪の障害者の方が羨ましく、自分も大阪に住みたいと思ったものでした。

同じ境遇にあるもの同士から学ぶことは多いはずです。思い悩んでいたことが自分だけではないのだと分かった時は気持ちが楽になりました。自分をさらけ出せば連帯感も生まれてきます。何よりも生の声ほど説得力のあるものはないのです。

7月になって、応募していた市営住宅の入居が認められて、再び引っ越しとなりました。場所も東部山間から市内への入り口という好条件で両親には願ったり叶ったりというところで喜んでいました。その後、奈良市で全身性障害者派遣事業が始まった1998年4月には介護体制も整い、それを機に両親もお役ご免とばかりに実家に戻りました。

自分の生活が安定してくると余裕が出てくるもので、以前にも増して社会活動に積極的になって、外出機会はどんどん増えました。

外へ出るにはリスクも伴います。こんなことがありました。自宅から2時間以上も掛かって行った箕面の講演会で、講演が始まった途端にお腹がゴロゴロ鳴り出して、冷や汗も出て、やばいと思ったら失禁してしまったのです。直ぐに退席したいと思う気持ちと、せっかく来たのだから最後まで聞いて帰りたいと思う気持ちが交錯して、周りにニオイがしないかと気になって講演も上の空で、講演が異様に長く感じていました。それでもなんとか最後まで聞いて、終わると直ぐに会場を後にして自宅目指して一目散に帰ったことがありました。その他にも、リクライニングのスイッチが壊れたり、エアークッションがパンクしたりというアクシデントもありました。

アクシデントにもめげず外出するのは、何が起きるか分からないというおもしろさと、もう一つは人と出会えることがあるからです。おもしろいというのは、勿論、その時に感じられれば一番良いのですが、その時は泣きたいくらいに恥ずかしかったことでも、後から思うと笑い話になってしまうこともあるからです。

人との出会いは自分を大きくしてくれます。相手が障害者であろうが、健常者であろうが、そんなことは関係なく新しい発見があるものです。

「もし、外出先で何かあったら」と外出をためらっている人がいたら、そんなことを心配するより、何かがあったらあったで、次からどうしたらいいか対策を考えればよいわけで、周りの人に迷惑を掛けるかも知れないけれど、多少、図太くならないと私たちは生きていけないと思います。もし、迷惑を掛けたと思ったら、その分どこかで自分に出来る何かをして、お返しをしておけばよいのではないでしょうか。

注 写真は省略しました。

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