頸損だより2003冬(No.88)

講演2

「障害者のセクシャリティ・当事者はどう感じている?」

〜頸損者の立場から見た「性」〜

県立広島女子大学教諭  横須賀俊司

こんにちは。横須賀でございます。簡単に私のことを説明させていただきますと、中学2年生の時にプールに飛び込みまして、頸髄損傷になりましてですね、以来、障害者として生活を送っております。

「当事者はどう感じている?」というサブタイトルなんですけれども、今日ここに来られている方の何人かに私はインタビューさせていただきまして、それに関していろいろ研究として取り組みをさせていただいてるんですが、ちょっと諸事情がありまして、そっちの分析がまだ進んでおりません。ご協力していただいた方には大変ご迷惑をおかけして申しわけないんですけれども、ここら辺の話はあまり触れられません。ここで触れるとプライバシーの問題もあるので、難しいかなと思っています。ですから当事者はどう感じているかというよりは、私がどう感じているか、横須賀がどう感じているかという、きわめて狭いお話になるかと思います。その点をご容赦願えればと思っております。

I 障害者のセクシャリティに関する動向

頸髄損傷に限りませんけれども、障害者一般のセクシャリティに関する動向がどうなっているかを簡単にお話しさせていただきたいと思います。

活字媒体では、実は1980年くらい、20年以上前からすでに触れられています。それは、皆さんご存じかどうかわかりませんが、『ラブ』っていう本があるんですね。「そよ風のように街に出よう」という、その筋では有名な障害者関係の雑誌の編集長を務められている牧口一二さんと河野秀忠さんの2人が編集された本です。それは何かというと、もともとその「そよ風のように街に出よう」という雑誌で障害者と性に関する特集を組んだんです。1980年の最初のころです。それを基本的にまとめた本なんです。その他の活字媒体では『私は女』という本ですね。牧口さんたちのは男性も女性も入ったインタビューの本なんですが、『私は女』は女性障害者のみを取り上げた、同じようなインタビューの本です。

その他、もろもろ細かいのを挙げるとあるんですが、一時、80年代後半までちょっと収まるんですね。で、90年ぐらいになると、『障害者が恋愛と性を語りはじめた』という本がかもがわ出版から出るんです。空白がちょっとあって、ポーンと出て、タイトルが『障害者が恋愛と性を語りはじめた』というから、あの本からそういうのが始まったと思われる向きがあるんですけれども、実はそうではなくて、お話ししたように以前からあった。そのかもがわのシリーズは、第二弾として『知的障害者の恋愛と性に光を』、第三弾として『ここまできた障害者の恋愛と性』というのが出るんです。

最近は、男性障害者の語りというのが出てきます。それは本としてではなく、雑誌の記事として出てきてるんですね。例えば熊篠慶彦さんという、脳性マヒの方ですけれども、その手記『たった5センチのハードル』が「週刊宝石」で3?4週間にわたって連載されたり。あるいはフリーライターの河合香織さんが、この人は健常者ですけれども、「女性自身」に書いたりとかですね。あと、皆さんご存じかもしれませんけど、障害者のお笑い芸人、ホーキング青山。その辺の人たちが手記のような形で著し始めた。

ちなみに、障害者関係のそういう手記がいろいろありますよね。乙武君は500万部売れまして、私なんかうらやましくてしょうがない。皆さんもたぶんひがんでおられると思いますけれども、あんなこと書いて500万部も売れて、印税5億も入るのかと。それならオレも書くぞといって、次々書きましたが、軒並み売れませんでしたね。まぁとにかく、そうやってたくさんの障害者が手記や半生記みたいなものを書いたりしてます。

で、頸髄損傷の人たちの本も、乙武君の前からもいくつか出てるんですが、なぜかわかりませんけれども、頸髄損傷の人は性のこと、セクシャリティのことに関してはあまり触れてないんですね。なぜ触れないのか、ちょっと疑問に思っていました。今でも疑問は持ってますけどね。そんなところもあって、冒頭で申し上げたように、ここにおられる方の何人かに聞き取りをさせていただきました。頸髄損傷の人たちはどういうことになってるのか、自分も含めて考えてみようと。語られていないから、オープンになっていないから。それが動機でした。

まぁ昔はだいたい、語りというのは女性障害者のものが多かったんですね。たとえば札幌いちご会の小山内美智子さんが『車椅子で夜明けのコーヒー』という名前の本を書いておられたりとか。最近、『素肌で語り合いましょう』というのを出されました。どういう本かというと、小山内さんのところに、大学生で医学部の学生で、かつソープランドで働いている女性からメールが来るんですね。それでやりとりが始まるんです。ところが小山内さんは、ソープランドというのは売春だと。売春はしたらあかんよ、という。片やその学生の方は、いやこれは意義があることなんだといって、話がかみ合わないんです。最終的に小山内さんは切ってしまうんですね。「これ以上話してもしゃあないわい」とまでいったかどうかわかりませんが、切れてしまう。ところが後にメールが来て、小山内さん自身も考え直して、だけど、どうすればいいのかわからないということで、もしもその後、さらにメールのやりとりを続ければ、どういう話になったんだろうということで、最初の20ページぐらいは実際にあったやりとりで、その後は小山内さんのイメージで話が進むんです。

小山内さんの論調としては、やはり売春なんだからあかんという論調が強くて。しかも、その学生さんは途中で障害者になってしまって、これが頸損なんですね。で、何か反省したみたいな話になってて、私はあれはどうかなと思ってるんですが。なぜかというと―売春の問題というと話がとめどなく続くんですが、売春は法律上は違法です。売春防止法という法律がありますから。法律上は違法なんですが、しかし売春を悪いことだといえないのではないか、と私は思っています。これ、微妙なところですね。こういうと、横須賀は売春を肯定していると思われるかもしれませんが、諸手を挙げて肯定しているわけけではない。しかし、悪いことだとはいえないのではないか。この辺が微妙なんですね。逃げてるのではないんですけれども。

人によっては売春を肯定する方もおられるんです。だいたいフェミニズム、女性運動をされている方はあかんという。性の商品化だからあかんというんです。あるいは性的な暴力が伴うからあかんと。しかし、理論的に考えるとフェミニストの人たちがいってることは必ずしも整合性がない、といわれてるんですね。私もそう思いますけれども。だから悪いとはいえない。じゃあいいかというと、いいともいえない。その辺ちょっと微妙なんですが、この話をしだしたらそれだけで2時間ぐらいかかるのでやめときますけれども。

まぁ、売春が悪いことだと。しかも反省して、やっぱりあんなことをすべきでなかったみたいな感じになっているのを、私はどうかなと思ってはいるんです。まぁそれはさておき、あと安積純子さん、ペンネームでは安積遊歩さんですね。けっこう安積さんはいろいろお書きになられていますけれども、女性のそういう語りが多かった。最近はホーキング青山とか、熊篠慶彦さんという男性が語り始めたりしている。しかし、障害はいずれも脳性マヒであったり、ホーキング青山は多発性関節拘縮症という難病のひとつですね。とにかく頸損、脊損の人はセクシャリティにあまり触れていないということだけを、ちょっといっておきたいと思います。

II 頸髄損傷者の性

ここにお集まりの方はおそらく、頸損でない方もおられるんですけれども、頸損の性的な状況がどういうものかを、まずお知りになりたいのではないだろうかと勝手に決めつけまして、その説明からさせていただこうと思っております。

頸髄損傷者といってますが、基本的に脊損も同じです。で、だいたい男性を中心に述べていきます。なぜかというと、男性の頸髄損傷者の方が、より多くの問題を抱え込まされるからです。女性の頸損の人も当然、問題があるわけですけれども、男性の方がどちらかというと量的に多いので、男性の方に重きを置いて述べるということです。

(1)性欲

まず性欲ですね。私は大学で障害者福祉論という授業を担当してまして、毎年、1回か2回、障害者のセクシャリティについて講義をするんですね。そこで訊くわけです。私の身体的状況はこうですよと。つまり私は首から下が麻痺しているわけです。握力がありません。で、「私に性欲があると思いますか」って訊くんですね。

そうすると、最近はちょっと傾向が変わってきたんですけれども、一昔前だと、約80人の受講生のうちの1割ぐらいは、横須賀には性欲がないと思うっていう。ないと思うという学生には「じゃあ、なんでないと思う?」と聞くわけです。すると、「だって首から下は感覚がないんでしょ」、みんなそういうんですね。感覚・知覚が麻痺してるんだから、性欲もないんじゃないのと。最初に聞いた時は、ほぉ、そう思うのかと納得しまして、、また何年間かにわたって同じことを聞くと、だいたいみんな同じこというんです。ただ、最近は性欲がないと思うという方が、80人のうち2?3人もいるかいないかという感じになってきましたけれどもね。

皆さん、どう思われますか。こんなアホな話あるかっていうんですね。私はひとつの仮説を持っておりまして、どういう仮説かというと、障害者の方が性欲が強いのではないかと考えているんです。これ、ちゃんと実証しないといけないのですが。

なぜかというと、われわれ障害者、頸髄損傷なんか特にそうですが、情報を取るに取れないという状況に置かれているわけです。一方で世間では、性に関する情報は氾濫しています。テレビをつければベッドシーンをやっている、本屋に行ったらエロ本が並んでる、「週刊実話」を広げたらヘアヌード写真とか載っている。飲み屋に行ってもあるわけです。たいていビール会社の宣伝ポスターが貼ってありますが、女性が水着で、おっぱいが大きくて腰がくびれててという、スタイルのいい女性がポスターになってます。そういうところでも性に関する情報が出回っているわけです。

ところが障害者の場合、その情報を取るのが難しかったりするわけです。例えば私事で恐縮ですが、親父がおるんですけれども、まぁもう亡くなりましたが、当時、親父とテレビを観てるわけですね。「土曜ワイド劇場」を観るわけですよ。皆さん、ご存じですね。土曜日のテレビ朝日系でやってるんですけれども、だいたい9時50分くらいになるとベッドシーンになるんです。いや、ほんまですよ、これ。これはちゃんと理由がありまして。10時になると別の局では番組が変わりますよね。で、チャンネルを変えさせないために、そういうベッドシーンをあえて持ってくるんだそうです。これはテレビ局のプロデューサーが新聞で書いてましたから、たぶん本当だと思いますけれども。

で、親父と観ていたら、9時50分になったら毎週毎週、だいたいベッドシーンになってくるわけです。そうすると親父はピッとチャンネル変えるんですね。ああ、10時前やし、違う番組見るんやなぁと思ってると、10時5分ぐらいになると、また「土曜ワイド劇場」に戻すんですね。あれ、何しとんのやろなぁと思って、最初はわからなかったんです。だけど毎週毎週、それをするわけですよ。で後に、親父が風呂に入っていたとか、先に寝ていたとかで、たまに9時50分ぐらいに観れる時があるわけですね。するとベッドシーンがあって、あぁ、こういうことかと。つまり親父は私にそういうものを見せないようにしようとしているのだということに気づいたんです。

多くの親、特に知的障害児の親御さんなんていうのは、性に関して子どもが目覚めてほしくないという思いを強く持っておられる方が多いんですね。そういうことになったらどうしようかと、障害があるんだからとか、そんなことをいろいろ考えるわけです。だから親御さんは情報をシャットアウトする傾向にあるんですね。

で、情報がシャットアウトされる。じゃあ自分から取りにいけばいいじゃないかと。例えば私がビデオ屋さんに行って、アダルトビデオがたくさんあります。最近は特にそうですけれども、アダルトビデオのコーナーというのは別の一画になってるんですね。のれんとかがかかってて、中にいてもわからないようになってます。で、これがまた狭いんですね。車いすで通れるか通れないかというところになってるわけですよ。そこに行くのは勇気が要るわけですね。そこに入ること自体、勇気が要りますけど、もしも電動車いすの手元がちょっと乱れて、バーンとぶつかってバラバラバラとAVが落ちたらどうしますか。すいませんといって、拾ってくださいとはいえないでしょ、やっぱり。

あるいは運良く入れたとしても、アダルトビデオの是非の問題は実はあるんだけれども、ちょっと置いときますが、このアダルトビデオを観たいと思っても、上の方にある場合、自分で当然、取れないわけです。手が届かないし、手が届いても握力がないから、落とす可能性があるわけですね。それなら店員さんを呼ぶか、そこにいるお客さんに取ってもらわないといけないでしょう。取ってもらう時に「すいません、その『四畳半襖貼り○○○○』とかいうの、ちょっと取ってもらえますか」といって。いえるようなタイトルだったらまだいいけど、ちょっといえないようなタイトルのを観ようと思ってたら、ますますいえない。観たいと思っても観れない、というか、躊躇してしまいますよね。

コンビニに行っても、いろんなレディースコミックとかありますね。過激な性的描写が問題になっておりますけれども。それも見ようと思っても、本ですからポトーンと落とす。レディースコミックは見た目、表紙がそれっぽくないから、まだいいかもしれないけれども。

そうやって情報を自分から取りに行こうとしても、取りに行きにくいわけです。一方で、性的な欲求を呼び起こさせるものは氾濫している。でも、そこにアクセスしようと思うとなかなか難しい。だからニンジンはぶら下げられているけれども、食えないという状況が、障害者は多くの場合あると思うんですね。だから、かえって性的な欲求が強いのではないかと。観たいのに観られないから、という仮説を私は持っております。当たってるかどうかわかりませんけれども。

その話はまぁ、皆さんそれぞれでまた議論いただいたらいいかと思うんですけれども、ここで何がいいたいかというと、性的な欲求というものは障害者であっても当然あるということですね。感覚が麻痺しているからないということはないんですね。

でも、なぜ学生は、性的な欲求が私にないと思うかというと、今日の人たちの多くは、セックスというのは足と足の間でやるものだと思っているんですね。つまり性器ですね。その性器でやるのに感覚が麻痺してるんだから、そんなものはないだろう、と単純に思ってしまうわけです。ところが、アメリカの性教育協会などでは「セックスとは足と足の間でやるものではない。耳と耳の間でやるものだ」といってるんですね。

それをいうわけです。「アメリカの性教育協会では、耳と耳の間でやるもんやというてるんや」と。そうすると学生は「えっ、鼻でやるんですか?」。まぁ、鼻でやる時もある。「鼻でやる時もあるけど、そういう意味じゃないの。つまり脳でやるんだ。耳と耳の間にあるのは脳だ、脳でやるんだ。だから感覚が麻痺してるとかいうのは関係ないんだ」という話をすると、あぁ、といって納得してるんです。

(2)勃起

男性の場合ですが、勃起ですね。チンチンが立つか立たないか。バイアグラが出てから、メーリングリストで話題が飛び交ってましたね。あまり飲みすぎたら心臓に負担がかかるから良くないとか、値段が高いから保険適用にしてほしいとか、その他、使ってみてこうでした、という体験談が載ったり、いろいろありますけれども。

勃起には心因性勃起と反射性勃起があって、通常は心因性勃起というものです。つまりエロ本を見たりしたら、それで勃起する。頸髄損傷の多くは心因性勃起はしません。しかし、反射性勃起を起こしたりします。反射性勃起とは何かというと、直接刺激をされることによって大きくなるんですね。たとえば尿器をつけたりすると、それが刺激になってオチンチンが大きくなる、というやつですね。ただ、みんながみんな心因性勃起を起こさないわけでは、もちろんありません。われわれは神経系の障害なので個人差が大きいし、一人ひとり全然違うことが多いんですね。でも傾向としては心因性勃起はしない。反射性勃起が圧倒的に多くて、中には心因性勃起も反射性勃起もしない方もおられます。

(3)射精

勃起しないとどうなるかというと、射精はしなくなる。あるいはしにくくなります。頸髄損傷になると、90%の人に射精障害が起こるといわれています。ただし、いろいろな医療技術があって、バイブレーター法、電気刺激法、くも膜下薬物注入法など、人工的に射精させる方法があります。それによって人工受精を試みている方もおられるんです。

ところが人工受精は費用が高い。沖縄に知り合いの頸損の人がいまして、人工受精で子どもをもうけようということでチャレンジしましたが、保険適用されないんです。だから全部、実費です。何ぼかかると思いますか?1回150万です。4回やったといってましたから600万。その金くれといいました、私。結局4回とも失敗したんです。人工受精というのは、100%成功するわけじゃないんですね。着床率が非常に低くて、失敗する確率の方が高いんです。それは障害者だからどうとかという問題ではなくて、人工受精自体がそうなんです。受精は成功しても、着床しない。で、最終的にその知り合いはどうしたかというと、養子縁組をしました。養子をもらって、今はだいぶ大きくなりましたけれども。

(4)性的快感

で、性的な快感です。われわれ頸髄損傷者は身体感覚が麻痺してたりしますから、当然、直接的な感覚はなかったり、あるいは非常に鈍かったりします。が、身体的には難しいけれども、精神的な部分で満足を得るという場合もあります。身体的な快感の代わりに精神的な快感を得るみたいな、代わりにする場合があるということです。

(5)女性の場合

頸髄損傷の男性の場合、大きくは以上のような、いわゆる障害が起こります。女性の場合はどうかというと、実は女性は頸髄を損傷しても、それほどダメージを受けないんですね。それはなぜかというと、男性の性機能は陰部神経といって、神経が支配してるんです。女性の性機能は神経ではなく、女性ホルモンが支配をしているのだそうです。

だから直接的な影響をあまり受けない。例えば頸髄損傷になっても、妊娠・出産は可能なんですね。現に、頸髄損傷の女性で出産されている方もおられます。ただ、感覚麻痺をしてますから、陣痛とかがないので、簡単に出産ができるというわけではもちろんありません。整形外科と産婦人科がチームを組んで、いろいろとやったりすることが必要です。だけど妊娠・出産は不可能でないというか、十分にできる状況です。

ただ生理不順を起こしたり、そういうことは当然あります。あるいは具体的な話になりますが、性交をしたりする場合に、ちょっと入りにくいという状況が出てきたりはします。そういうことも、例えば潤滑油とかゼリーとかを使うことによって成し遂げることが可能ということです。

III 障害者が抱える性的問題

(1)障害者の性に対する偏見

次に、障害者が抱える性的問題という話ですけれども、先ほどいったこととかぶる部分がありますが、障害者の性に対する偏見ということがあります。

先ほどいった親御さんは、目覚めてほしくないとか、こんなになってほしくないとか、どうしようもないからやめてほしいとか、偏見に基づいた対応をしてしまったりする。また、横須賀は性欲がないと思う学生は偏見を持っているわけですね。そういう偏見を持っている人は、自分の思いに基づいた行動を取りますから、われわれの実感、実態とはそぐわないような対応に出る可能性が当然ある、ということです。

(2)性的機会の不足

障害者は社会性がないとよくいわれます。ちなみに、これは障害があるから社会性がないのではなくて、社会性を身につける機会を奪われるから社会性がないんですね。障害がなくても、例えば猿といっしょにずっと住んでいたら、その健常者は社会性を獲得することができません。だから、手足が動かないとかいうことが原因じゃなくて、そういう環境に置かれるから社会性が身につかないんですけれども。

社会性がないからどうなるかというと、だいたい皆さんご経験があるかもしれませんが、ボランティアとトラブルを起こすんですね。ボランティアで来てくれている方というのは、親切にいろいろとして下さったりします。そうすると勘違いするわけです、「こんなに親切にしてくれるのは、オレに気があるからや」と。どんどん自分で盛り上がるわけです。で、告白するわけです。「おつきあいして下さい」とかいって。相手は何とも思ってないので「ええっ?」という感じになったりする。それで「ごめんなさい」とかいう話になって、関係が気まずくなって、ボランティアに行けないし、こちらは頼めない。そんなことになったりすると、よく耳にします。

人間関係の綾というか、言葉に表せない微妙なところがあるじゃないですか。そういうものは、経験を積むことで感触としてつかんでいくわけです。この人は恋愛感情を持って仕事してくれてるんじゃないかとか、あるいは、別にそういうものなしでやってくれてるんじゃないかとか、多少分かる部分はあるじゃないですか。それが障害者は社会性が身についてなかったりすると、勘違いをしてしまうというんですね。

具体的な話になると、施設でカップルができたりしても、大部屋だったりしてプライバシーが守られないということがある。あるいは、障害者同士の場合だったら、介護が必要になってくる場合があるわけです。例えば頸損と頸損が付き合った場合、セックスめいたものをしようと思ったら、どうやって移るかという話から始まるわけです。車いすのままで抱き合うだけでいい、というのだったらいいけれども、人間はだいたい、それだけでは収まらなくなってくるんですね。

ちなみに、オランダにはSARという、セックスボランティアを派遣する団体があります。お金をとるから、本当はボランティアじゃないんですけどね。どういうものかというと、そこに電話すると、相手の女性を自分の好みで派遣してくれるんです。例えば私が電話をかけて「ちょっと女性の方をお願いします」っていったら、女性の方が来てくれて、私のセックスの相手をしてくれる。性交までするんですね、してくれといった場合は。で、お金を払うんですが、安いんです。オランダは売春が合法化されている国で、"飾り窓"という有名な地域がありますが、そこの料金と比較すると圧倒的に安い。

で、そういうものが必要だといって、さっきいった熊篠さんなんかが、日本にもセックスボランティアをつくろうとがんばっておられるんですね。興味のある方は、インターネットを開いていただいたらサイトがありますけれども。彼は最近、何をやってるのかというと、デリヘルです。デリバリーヘルスといって、これは別に障害者に限りませんが、風俗のお姉さんが家に来てくれるんですね。お兄さんだって来てくれますけど。そういうのを制度化しようと。オランダでは、セックスボランティアを呼んだ場合の費用に、自治体から助成が出てるんです。介護料みたいなものです。支援費でどうか?と。

いやまじめな話、昨日、私は西宮にあるメインストリーム協会というところで、以前いっしょにやってましたので、そこでちょっと話してたんですが、たまたまそういう話になって、「身体介護で来た時にセックスの介護とか、そういうのはどうなるわけ?」「それはやっぱり、あかんやろ」「そやけど、これから先、そんなんやったらおもろいんちゃうん」とか、いろいろ話をしてたんですけれども。

まぁ性的な機会が不足している。だいたい外に出られなかったりするでしょう?最近はかなり外出するようになりましたが、外に出なければ、人と接することはないでしょう。人と接してなければ、そういう性的な機会もチャンスとしてはやっぱり少なくなる。

(3)相談先の不在

だから、相談先が不在だと。性的な問題を考えた場合、どこに話を持って行ったらいいのか。私などは自分が頸髄損傷になって、学生時代から性的なことにしか興味がなかったので、障害者のセクシャリティをライフワークとして考えていこうと、大学院に入った時に決めました。でも、じゃあどこに相談したらいいのかと。

皆さん、頸髄やって入院されますよね。それで泌尿器科の医者が説明してくれるかというと、まぁ最近では説明してくれるお医者さんもいるみたいだけれども、私の場合は何も説明してくれませんでした。14、5歳の子どもだったというのもあるかもしれませんが、やっぱりいろいろ悩みますよ。自分はどうなったんだろうとかね。で、私はどうしたかというと、本を集めて読みまくりました。いろいろ読んで、さっきいったような説明ができるようになったわけですね。医学書とか高い本を買って、かなり読みました。そこまで執念があればいいけど、普通はそこまでの執念はないわけです。面倒くさいしね。言葉も医学用語なんか難しいし、わからないし。

相談するというのはなかなか大変です。健常者に相談しても、これはわからないわけですね。「へぇ、大変やなぁ」というぐらいしかないわけです。恋愛のこととか相談しても、しっくりいかない。例えば、私は20歳の時、ある女の子に恋をしたんですね。健常者の女性だったんですが、悩んだわけです。何を悩んだかというと、思いが成就するかどうかで当然、悩むけれども、もうひとつ悩んだのは、障害者である自分が健常者の女性に恋をしていいのか、と悩んだんですね。おまえがそんなことを思うはずがない、とみんなにいわれるんですけれども、当時は本当に思ってたんですよ。だから、やっぱり障害者というのはワンランク下の人間なんだと。健常者はワンランク上の人間だと。その人に恋心なんて抱いていいのか。江戸時代の番頭さんが、こいさんに恋するようなもんですよね。

真剣に悩みまして、友だちに相談したんです。そうすると、「そんなん、障害者も健常者も平等やから、そんなん思う必要ないで」というわけですよ。そんなことは頭で自分でもわかってるんですね、当然。わかっているけれども、そう思ってしまう自分がいるわけです。その辺の微妙なズレというのが、やっぱり健常者の友人には伝わらないですね。果ては何回もいうから、うっとうしく思ってきて、「おまえ、そんなんとにかく当たって砕けろ!」とかいって、追い払うように扱われたりするんですね。

そうそう私、学生時代、他の大学で脊損の奴がいたんですけど、突然電話がかかってきて「おまえ、今暇か?今からそっち行ってええか?」というから、「ええけど、何や?」「行ってから話する」といって。そいつは京都だったんです。私は西宮市に住んでたんですが、京都からガーンと来たんですね。「何や」っていったら、何かモジモジしてるんです。で、とっくりと「おまえ、アレどないしてんねん?」っていうから、「えっ、アレ?アレって何や」「アレいうたら、おまえアレやねん」。要領を全然得ないわけです。話をしていると、とうとう「セックスはどないしとんや」と。「おまえ、何でそんなんオレに聞くん」「おまえ、大学院行って研究してるやろ。そんなこと公言しとるやないか、オレらの前で。そやから、おまえやったらちょっと何か知ってるかなと思って。どないしてるか、参考にさしてもらおうと思って」。それで来たそうなんです。そういうわけで、相談先がないんですね。私も悩んで、誰にも相談せずに、自分で本を探し出して読んでやってましたから。やっぱり、そういうことも必要だと思います。

(4)身体への侵害

それから女性の障害者の場合だと、身体的なことで侵害されたりするんですね。さっき尾上さんが話に出された、福島県の知的障害者の女性が雇い主からレイプされていたという話が明らかになったわけですよね。そういうことがある。安積純子さんも手記でそれに近いようなことを書いておられました。レイプまがいのことをされたと。子どもの時はそれは自分が悪いんだと、自分のせいにしていたけれども、それは当然、安積さんが悪いわけでも何でもないわけです。そういう性的虐待が行われたり、レイプが行われたりする。

III 障害者の性的抑圧

(1)抑圧の基盤

障害者は性に対して抑圧をされている。しんどい思いをさせられてるわけですよ。なぜかというと、まず障害者は自分で自分に自信がなかったりするんですね。さっき私がいったのがそうです。障害者である自分が健常者に恋していいのか、みたいな。

自分が低い人間だと。障害者になったら、人間終わった、人生終わった、って思った人はたぶんおられるでしょう。やっぱり自分で自分が劣った人間だと思ってしまうんですね。簡単にいえば、コンプレックスみたいなもんです。コンプレックスのもっともっとでかいもの。人間誰でもコンプレックスは大なり小なり持ってるんだけれども、それがあまりにも大きすぎると、何にもやろうとしないとか、いろんなところに支障が生じてくるんですね。障害者の場合、そういう可能性が高い。

頸髄損傷のような中途障害の場合は特にそうなんですね。「あのころオレは足動いとったのに、今は動かへん」といって悲観するわけですよ。あれができていたのに、できないとかね。悲観して、もう治らない、オレの人生は終わったといって、どんどん暗くなっていくんですよ。暗くなっていって、じゃあ何かやろうかとか、恋人を見つける旅に出ようぜ、とかいっても、オレなんかそんなの見つかるわけないだろう。こんな障害者になって、といって自暴自棄になったりしてしまう。

(2)性的抑圧

だから美醜の問題ですね。キレイかキレイでないかということです。男前か美人かということももちろんありますけれども、それだけではなくて、やっぱり、障害者になると体のバランスがどこか崩れているようなところがありますよね。

例えば頸髄損傷だと、腕とか細いじゃないですか。私も腕を鏡で見て「細いなぁ」といつも思うんですけれども、そうするとバランス的に健常者のボディイメージとはやっぱりズレたものになるじゃないですか。するとかっこ悪いとか。あるいは私はプールに飛び込んで水を大量に飲んで、気管切開しました。それで気管切開の後が残ってるわけです。ここ、私、何ら気にせずに襟元を開けていますが、やっぱりこういうのを見せたくないといって、隠したりしてしまうじゃないですか。足も尖足になって変形してきたとか、拘縮して何か置くのにいいかとか、いろいろある。そういうのを見られたくない、見せたくないというのがあります。そうすると、やっぱり行動にも影響してきます。

美醜とはちょっと関係ないけれども、トイレのこともそうでしょう。私は今はバルーンを留置してるんですが、当初は収尿器をつけていました。そうすると、出かけるとなると2日ぐらい前から水分の制限をするんですね。別に前日でいいのに、どういうわけか、たいていみんな2日前からやりますよね。不思議ですね。まぁ2日前から水分をとらないようにして、当日も水分をとらない。おまけにウンコとか出たらあかんから、それも気をつけて。もう神経過敏なぐらいにやってました。美醜の問題や、そんなことによって行動を制約されたりします。

(3)性的主体の剥奪

また、性的主体が剥奪されてしまう。性的な活動をしていこうとする、そういう主人公となって何かやろうということを思えなくなってしまう、思えなくさせられてしまう部分があるんですね。

例えば、障害者は子ども扱いされます。知的障害なんか典型ですね。いつまでたっても子どもでしょう?施設の職員なども、知的障害の人たちを「ちゃん」づけで呼んだりするでしょう。自分より本当はかなり年上の人に「○○ちゃん」とかいってね。障害者というのは子どもと思われてるんですね。で、子どもは性的なものとは無縁の存在です。小学校5年生の子どもが「僕、セックスしました?」とかいったら、エーッってみんな思うじゃないですか。それはやっぱり、子どもと性とは一定関係がないという常識みたいなものがあるからです。で、障害者を子ども扱いするということは、障害者と性とは関係ないものだと思うということなんですね。

あるいはモノのように扱われたりね。単なるモノだと。女性が男性の障害者を介護している時に、これは男じゃない、と。手術の時など、いい例ですね。盲腸の手術をする時に下の毛をそったりするじゃないですか。男の場合は、それこそ反射性勃起で、こう、なってしまう時があるわけですね。そうすると看護婦さんも目のやり場に困るし、その患者の方も困ってしまうわけです。で、看護婦さんはどうするかというと、これは人じゃないんだ、モノだと思って、感情的な問題を処理するわけでしょう。モノ扱いされることによって、性的な主人公になることが制約されたり、制限されたりすることがあります。

IV 男性が障害者になることの意味

で、男性が障害者になることの意味は、実は女性が障害者になるよりもちょっと大きな意味があると私は考えてるんです。それはなぜかというと、男性が中心となった社会だからです。男性が優位の社会でしょう?要は男性が特権を持っているわけですよ。いい目に合っているわけです。ところが中途障害になると、自分が持っていた特権などが失われるんですね。女性の場合はもともと、男性に比べれば差別されている点が多いから、失うものは数量化すれば、男性に比べれば少ない。だからといって、いいというわけではもちろんないですけどね。

(1)身体機能の喪失

障害者になるということはどういう意味があるかというと、まず機能は喪失します。皆さんだいたい、健常者から何かを失われた―例えば手が動かなくなったとか、そういう機能が失われた―存在として自分自身、あるいは障害者をとらえるんですね。もともとあった身体から何かを引いたものが自分だと。だから悪いイメージしかないんです。だって、もともとあったものから引くんでしょう?引くというのは数が減るということですよね。減ったものは前のよりは悪いと。障害者は何かやっぱり劣っていると、こう思ってしまうんですね。

ですから、中途障害の人は、失われたものを取り戻したいと思う気持ちが強くなるんですね。「歩きたい」と。「スーパーマン」のクリストファー・リーブがそうです。金にモノいわせて、脊髄再生の財団をつくって研究させてますね。日本でも、「日本せきずい基金」がやってますけれども。脊髄再生法とかやってますね。それもひとつの生き方なので悪くはないけれども、でもしんどいなと思うんですよね。だって、歩けることがいいという前提があるわけでしょう、脊髄再生とかいうのは。歩けることがいいことだと思い続けるというのは、まぁ最終的に歩けるようになればいいかもしれないけれども、最後まで歩けなかったら、いつまでたっても自分はダメな人間だと思い続けたままで人生を終えなければいけないということです。それはしんどいと思うんですよね。

この辺りのことは、時間がないので今日は伝わらないかもしれませんが、少なくとも私は、自分が障害者になって―まぁ歩けませんよね。おそらく一生歩けませんね。でも自分で人生終わったと思ったことはないんです、本当に。最近では「障害は個性だ」とかいって、「障害者に生まれて良かった。お母さん、ありがとう」なんて、書いてる障害者がいますが、私はそこまでは思えないですけど、障害者になって悪くはなかったと思ってます。

今ここで、明日から立って歩けるようになる薬がある、飲むか飲まないかといわれたら、考えてしまいます。即座には飲まないですね。なぜかというと、例えば明日すぐに歩けるようになるとしても、もう何年も歩いていないから、足の筋肉とかないじゃないですか。それなら大変なリハビリをしないといけないでしょう。そんなリハビリにアホみたいに時間かけるんだったら、今のままでいろんなところに行って、昨日もアホみたいに酒飲んで二日酔いになって、今日来るのやめようかと思ったり、そんな生活してる方が楽しいわけです。

手足が動かなくなって、やっかいなことが増えたのは事実です。だって、今まで自分で服を着れていたのが着られなくなったりするわけでしょう。だけど、じゃあ服を着られないからといって人生終わったかというと、全然終わってませんよ。私は自分で人生を楽しく生きられるように、いろんな試みをしてそれなりにやっている。100%満足はもちろんしてませんけれども、北は北海道から、南は沖縄まで旅行したり、アメリカも香港も旅行しましたし、自分で楽しめるように人生を送っています。だから、手足が動かないから人生が終わったとは、私はちょっと思えないんです。その辺の話はセクシャリティと関係ありませんが、まぁとにかく、差し引いた存在だと考えてしまうということです。

(2)帰属集団の変更

それから、帰属集団が変更しますね。健常者という特権を持ったところから、障害者というところに落とされる。

(3)象徴としての男性の喪失

それから、男性の場合は象徴ですね。性機能が失われるというのは、象徴としての男性を失うということです。男というのはなかなかアホな動物でありまして、修学旅行とか行っても、中学生の時なんか、皆さんご記憶あると思いますが、何をしていたか。風呂にいっしょに入るでしょう。すると、あいつのオチンチンは大きいとか、そういうことが気になるんですね。これアホみたいな話やけど、ほんまの話ですよ、女性の方。

それだけチンチンに思い入れがあるんですね。というか、思い入れがあるように本当は思い込まされてるんですけどね。それが自分でうまいことコントロールできなくなるから、象徴、男らしさとか、そういうものを失う。オレはもう男としてダメになったといって。映画監督の深作欣二がそうでしょう?。このあいだガンで亡くなりましたよね。あれ、抗ガン剤を飲んだら勃起しなくなるから、それなら死んだ方がましじゃ、ワシそんなもん飲むかい、といって飲まずに死んだんですね。彼は死とセックスすることをはかりにかけて、セックスすることを選んだ。それはそれで人生、立派だと思うけど、私はセックスできなくても長生きしたいなと思いますね、本当に。勃起しないからセックスできないわけでもないわけです。いくらでも方法は、いろんな形であるんですね。そのことを教えてあげたかったと思いますけれども、まぁ亡くなってしまいました。

V 宙づりにされる障害者

最後ですけれども、やっぱりしんどいんですね。手が動かないとか足が動かないとか、しんどく思わされるわけです。手が動くことがいいことだ、オチンチンが大きくなって勃起することがいいことだ、と思わされている。

でも、いろんな障害者の身体に合った考え方とかライフスタイルがあっていいわけじゃないですか。例えば、手を使えないのだったら、犬食いしてもいいわけでしょう?手を使わずに皿に顔突っ込んで。でも、それは今の世の中があかんというわけですよ。行儀悪いとかいって。それは健常者のルールなんですね。障害者は、別に犬食いしてもいいじゃないかといって胸を張って、その方が楽だと思うんです。

手が動かないのに、何か無理してやろうとして、二次障害になったりする人もいるわけですね。そうした障害者に独自の行動とか考え方、行動様式、そういうものをつくっていったらいいと思うんです。それを健常者に認めさせていけばいいと思う。

ところが、それは簡単ではないんですね。さっきのバイアグラとか、中途半端に勃起したりするから、性交しないセックスを考えましょうといっても、中途半端に勃起なんていうことができたりすると、また元の地点に引き戻されていく。なかなか世の中、簡単ではないなぁという話に至ります。

注 写真は省略しました。

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