頸損だより2003冬(No.88)

秋の講演会

「頸損者の医療的ケアを考える」

〜人工呼吸器使用者が地域で生きていくためには〜 報告


9/21門真市なみはやドームにて秋の講演会が開かれました。講師にバクバクの会事務局長折田みどり氏と、大阪頸損連の事務局員で会のメーリングリスト管理担当でもあり人工呼吸器使用当事者でもある吉田憲司氏をお迎えしました。両講師に「医療的ケア」をテーマに呼吸器使用者の吸引に伴うケア・介助の現状を中心に報告してもらい、また行政側の吸引行為(医療的ケア)に対する規制緩和の動向や、介助派遣事業者の医療的ケアに対する実情なども報告してもらいました。

呼吸器使用者にとってはまだまだ地域で、家族以外の介助を受けながら生活していくことの困難さ、過酷な現状がリアルに伝わってくる講演会となりました。この「医療的ケア」、特に人工呼吸器使用者が地域で生きていくための様々な壁、問題点をクリアしていく、会としての活動の必要性を再認識させられるものでした。

では、以下に吉田憲司氏の講演録や質疑応答を一部ですが紹介します。

■以上(事務局:鳥屋)

【吉田憲司氏:講演録】

こんにちは、今回のテーマは〜人工呼吸器〜ということで白羽の矢が立った吉田憲司といいます。人工呼吸器をつけた状態での生活をかいつまんで話してほしいと依頼されて気安く引き受けたわけですがやってみるとこれがまた結構難しい。どこから話をすればいいのかこちらとしては頭の痛いところです。とりあえず今の在宅の大まかなイメージが伝わればいいかと話をまとめてみました。もうひとつの問題はどのような方法を使って皆さんに説明するのか?というものです。呼吸器をつけているので小さな声くらいは出るのですが、人前で30分も話をするのは体力的にも無理です。そこで事前に書いておいた原稿とパソコンを使ってキーワードごとにまとめたスライドを使って説明したいと思います。

また今回の内容は人工呼吸器をつけて在宅をしているひとりの人間の見解と偏見に基づいたものですからあくまでこういう視点もあるという程度に聞いていただければ幸いです。それでは少しの間おつきあいいただきます。

○「今の介護体制」

在宅での療養も初めてからずっと家族が中心の介護体制で特に母親がメインになっています。ショートステイを引き受けてくれる病院もなく家族の負担を軽くするための支援は全くない状態です。家に帰ったころは今のような支援費制度もなくヘルパーも派遣はしてもらえなかったので家政婦の派遣所から人を送ってもらっていました。派遣とはいっても実際は家政婦との仲介をするだけでうちと家政婦との個人契約という形になっていました。この"個人"というものがやっかいなもので、ときとして融通のきく場合もありますが逆に突然休まれると家族がその穴を埋めなければならず用事があって外出しなければならない時などは徹底して事前のスケジュール調整が必要になりました。そのため基本的にはいざという時のバックアップのフォローができない個人との契約は倦厭しています。同様の理由で家に来てもらっているボランティアの方も入浴の手伝いなどに限定して介護シフトには組込まないようにしています。事業所との契約の際もうち担当の介護人の人たち何人かで組んでもらったうえでお互いにフォローをしてもらうようにお願いしています。

現在のシフトは家族と市のヘルパー、自立支援センターを含む3カ所の事業所から人を送ってもらって組んでいます。

市のヘルパーは週3回午前中2時間の間に清拭の手伝いと家事手伝いをしてもらってます。それでも痰の吸引やガーゼの交換など、医療行為と名のつくものには手伝ってはもらえず、清拭にしても家族同伴でなければ手伝えないなど使いにくいものになっています。

介護人の人には朝の9時から昼の2時まで入ってもらっています。その間に起床時の清拭とマッサージ、朝食と昼からの排せつの手伝いをしてもらいます。またその時間は見守りも兼ねていてその間だけが家族が外出できる時間になります。したがって介護人は呼吸器の対応ができる人、体の持ち方がわかっている人、我が家の状態を熟知していて配慮してくれる人という条件を兼ね備えている人にしか頼むことはできず今うちに1番不足している人材です。そのため新しくできたばかりの事業所でまだ介護の経験の浅い人たちを介護人になれるように他の介護人と組んでもらって実地訓練を試してみたところ、市のヘルパー同様にサポーターとしてなら満足のいくものになりましたが、家族が家を任せて安心して外出できるほどには、まだまだ足りないものがあります。

今の制度は介護人を雇うための時間枠は行政が用意してくれますが、介護人そのものは自分で見つけないといけません。障害福祉課の担当も介護人探しに協力をしてくれはしますが行政独自のデータベースがあるわけでもありません。結果として口コミが1番頼りになりますが手間暇がかかる分だけ交渉を行う家族にとっては重い負担となります。家族の方にも介護の長期化によりたまり続けた疲労が腱鞘炎などの形で現れるようになってきています。当人の故障で介護シフトからはずさざるを得ない場合はもちろんのこと、介護人の方の中にも年齢的に身内の人の介護をしなければならなくなるようなことも想定して今のうちに補充要員の確保をしておかなければなりません。

このあたりのマネージメントは行政なり民間のサービスに任せてしまいたいの本音ですが、今のような状況で任せてしまうと人も情報も入らなくなってしまいます。うちの介護体制をトータルにコーディネートしてくれるサービスの制度が始まることを期待していますが当分その可能性はなさそうです。

今後も我が家の介護状況が良くなるか?悪くなるか?はいい介護人を手配できるかどうか?ただそれひとつにかかっています。

○「在宅療養の限界」

10年前クラブ活動で受傷しました。手術をしてから3カ月が経ちようやく口から食事がとれるようになったのがちょうど今ごろの季節のことでした。その頃からそれとなく在宅療養を勧められるようになります。病院にいるよりもゆっくりと落ち着いた自宅のほうで療養された方が本人にとってもいいですよ。本当にそうですね、と世間話程度に軽い気持ちで返事をしていたのですが、いつの間にか退院の具体的な日付まで出てくるようになりようやく事態の深刻さに気付かされます。そのころはまだ機能回復の可能性を信じて疑わず、呼吸器をつけたまま家族だけで在宅の介護をするなど到底無理、呼吸器を付けている以上安心していられる場所は病院しかないと思っていました。しかし病院の言い分も理解できるので病院の言われるままに在宅に入る準備を始めることになります。

うちとしては在宅を勧めるのだから在宅に入った後のどのような生活を送ればいいのか、ビジョンを示してくれたうえで指導してくれるものとばかり思っていたところが、病院のケースワーカーに話を振った後は介護の仕方を教えてくれるわけでもなく時間だけが過ぎていきます。迫り来る退院の日までの日数を逆算しながらまた病院は何もしてくれないことを理解したときから家族だけでの一からの在宅の準備が始まりました。まずはとりあえずの転院先を見つけるため北摂一帯の病院という病院に片っ端から電話を入れてみてアポイントをとりながらお願いに上りました。滑り込みで次の病院が見つかり転院したところで次に何をすればいいのか全くわからない。在宅向けの改修工事は?必要なものは?介護の仕方は?介護人の集め方は?・・・

現状が全く把握できないままに障害福祉課に駆け込みました。そこでいろいろと相談に乗ってもらいましたが人工呼吸器を使った在宅療養のイメージが見えてこない。湯水のごとく消えていくお金と時間に追い立てられながらノイローゼ寸前の状態で家族は在宅の準備を進めていきました。

結局ツテのツテで紹介してもらったやはり同じ頚椎損傷のお宅をいくつか拝見させていただき、家の方の在宅のためのリフォームの参考にさせていただきました。そして最後まで頭の中から完全に抜け落ちていた家族での介護の仕方と介護人については奇跡的にも病院でついてもらっていた介護人の方が見かねて家族に介護のやり方を教えてくれて、その時の縁もあって家に帰っても引き続き助けてもらうことになりした。そして家に帰ってからこちらの大阪頸損連絡会とのお付き合いが始まり外出の機会を得るまでの4年間ベッドの上から動くことはありませんでした。

今ここにこうしていられることは自分が扶養家族であり介護をしてくれる両親がいたからです。一言でいえば自分を取り囲む環境がよかった。運がよかったのです。どれだけ頑張ってもどこかで幸運に頼らざるをえない運だのみの在宅の姿があります。もしも怪我をしたのが稼ぎ頭の世帯主なら家族も含めて月々の年金だけでどうやって生きていけばいいのでしょうか?介護人がいなければ買い物にも行けずその介護人の人件費だけでも年金で埋めることはできません。むろん仕事中の事故であるなら労災が下りることもあります。おりないこともあります。仕事以外でプライベートの時間にスポーツで怪我をした人もいれば交通事故にあったが相手には支払能力がなかったり犯罪に巻き込まれたがいまだ犯人が見つからないなど想像できないようなケースもあるのです。それぞれのケースでうまく状況に対応しながら在宅にこぎつけなければ本当に行き場を失ってしまいます。個々を取り巻く環境は人それぞれ年齢、性別、職業、家族構成や人間関係、経済力等々あげればきりもないほどの要素を頚椎損傷の一言でくくってしまいすべての問題を在宅の名の下に家族に押し付けてしまう。それが今の在宅療養であり福祉行政であるように思います。

せめて駆け込み寺となるようなショートステイ施設、在宅のための家族への指導などを含めた社会復帰や総合的なリハビリ支援制度、在宅の次のいくつかの具体的な選択肢の提示など本来あるべきいくつかの機能が欠けたまま、将来の展望のないままの在宅療養はどこかで行き詰まるのはあきらかです。10年たっても変わらない在宅療養制度、しかし介護人の高齢化などわが家を取り巻く状況は少しずつ悪化しています。

○「グループホーム」

頚損連絡会の中にもすでに社会的自立を果たして独り暮らしをされている方や仕事をして経済的自立を果たしている人もいますが人工呼吸器をつけての独り暮らしはリスクが大きすぎます。また呼吸器をつけていない重度の身体障害者にしてもすべての人が療養施設に入れるほどの枠はなく将来に不安を感じているのが現実です。次の生活の場を求めて各地で模索が始まっているのがグループホームです。

ではなぜ、グループホームなのか?主に介護人とその介護人を雇うための人件費をどうするか?という経済的な問題があります。一晩中見守りを必要とする人工呼吸器利用者が常時、介護人を雇えるほどの経済力があるとするのなら話は簡単なのですが、我が家の場合もそうですがそれだけの費用を捻出できる人は少ないと思います。またあくまで呼吸器が取れた時や吸引のためだけの見守りなので昼間の介護と比べると実働時間も少なくあまりに効率が悪いのです。ならば生活の場をともにして介護人を共同でマネージメントすればいいという発想から生まれたのがグループホームというわけです。

共同生活でなら他の経費も独り暮らしよりも安く済み、最近はぶっそうな話が多いですから夜などは1人でないというだけでも安心です。

そして日本の福祉構造を根本から変えてしまう可能性があるのが障害者自身によるヘルパーの選定。さまざまな雇用形態が出てくるでしょうがいずれにせよ障害者の視点からの評価を避けることはできなくなります。そこではヘルパーの淘汰が起きるかもしれないし優秀なヘルパーへの待遇改善も起こると思われます。家庭を持った男性が民間のヘルパーを職業に選べるような時代もくるかもしれません。そこに集まる障害者同士のコミュニケーションは言うに及ばずそこに出入りするヘルパーやボランティアの人達の情報網が形成されやがてそのグループホームが地域福祉のネットワークの拠点なってきます。

このあたりのことまでは北米などの例を見てわかっていますが、それをそのまま日本に持ってくることはできません。法律や制度、障害者に対する考え方や文化も違います。日本版のグループホームを作らなければなりません。グループホーム設立までのアプローチはいくつかあるでしょうが公的支援も前提となっている以上、行政にそのような制度の設立を働きかけなければならないし、あるいは最大の難問になるかもしれない障害者自身の意識の変化、と相応の責任を求められることです。なんといっても自分で運営していかなければならないのですから…。他にもグループホーム内での人間関係や運営が立ちゆかなくなるなどさまざま問題も起きてくるでしょうがまずはやってみてその問題に直面してから考えても遅くないと思います。

国内での重度の身体障害者による自主運営でのグループホームの成功例が待たれるところですが、もし自分にもその機会が回ってきたのなら、可能性があるのならその可能性を試してみたいです。

○「いま自分にできることは何か?」

病院に入院していた1年間、何よりもつらかったのは自分でできることがなかったことです。ずっと天井を見ながらラジオを聴いているだけでした。家に帰ってしばらくは同じような状態が続きます。自分では何ひとつできないのだから自然と機能回復の可能性の方に目がいってしまい、人から聞いた望みがもてそうなものには健康食品からリハビリまで色々と手を出した時期がありました。結果としてそれらが効いたのか、効かなかったのかそれすら今でも分かりませんが家族も自分も冷静に今の状況を考えられるくらいに落ち着くことができました。やはり奇跡というのはどこにでも落ちているようなものではないようです。

無論、今でも再生医療など期待はしています。ただ以前ほどそれだけに執着するようなことはなくなりました。退院するときに医師が言ったように医学の進歩はめざましいものでいずれは脊髄の神経は治療ができるようになる日もくるでしょうが、このまま何もしないまま無為に時間が流れていくのは正直耐えられません。ですからこの様な手も使えない状態ですが、この状態なりにできることを増やしていきたい、というふうに考え始めたのが6年くらい前のことです。

幸いどうにか自分でパソコンを操作することができたので最初はパソコンのスキルを磨くことで手詰まりの現状を打破できないと考えました。もちろん手が使えないので普通のキーボードやマウスを使うことはできませんが、スイッチを使えばパソコンの操作は可能です。もともと怪我をする前も進路は情報処理の関係に進むつもりをしていたのもあって体力的につらくなければ、何時間でもパソコンに向かっているのは苦ではありません。それでしばらくの間いろいろとパソコンの勉強などもしてみましたがそれじゃ、そのパソコンを活かしてどのように自立していくのか?という話になると1人部屋の中であれこれ試してみても完全にお手上げでどうすることもできません。

このような体になってしまってはどのように生きていけばいいのかが分からなくなってしまいました。せめて具体的な目標か、あるいは方向性でも見えたなら、と思い似たような障害、環境の人で参考になるケースはないかいろいろ話を聞いて回ったこともありました。

ちょうどそんな時に機会があって大阪頸損連絡会のような障害者団体のイベントなんかに寄せてもらうようになりました。

用事もないのにシンドイ思いまでして外に出るのはバカらしいとばかり思っていましたが、そちらでは障害レベルは多少違うものの頚椎損傷でもひとり暮らしをしたり、復職している人たちがいること知りとても驚きました。そしてそういう話聞きに行くだけのことでも自分にとっては外出をするのに十分な動機で、ことあるごとに外出をするようになりました。

それまではインターネットなんかで情報を探していましたが情報量の割には思うような情報はありませんでした。実際には外に出て人に会って自分で見たり聞いたりしなければ知りたい情報は耳に入ってきません。逆に自分のような障害を持っている人間がいることを誰かに知ってもらうことで新しい展開も開けることがあります。いろいろな話を聞いてるうちに少しばかり方向性が見えてきたような気もしました。

当面の目標はグループホーム設立のためのNPOを立ち上げたいと考えています。そのためにはスキルを身につけたりしなければいけないし、やることも増えてきたのでいまかなり忙しいです。怪我してから十年を経てようやくスタートラインに立ったかな?という気がします。

○「まとめ」

結論から言えば人工呼吸器を使っている障害者が地域社会で生きていくための答えはまだ出ていません。というよりは行政の方が対応すらできてないのが実情です。怪我をしたのが93年のことで医者の話によると更に10年前なら外傷により呼吸器を使わなければならない患者はほとんど助からなかったそうです。ですから人工呼吸器をつけて地域社会で生きていくという課題に答を求めることは、まだ時期尚早なのかもしれませんが、我が家にとってこの10年という歳月は決して短いものではありませんでした。そろそろ在宅の次のことを考えて行動に移らなければならない時が来ているように思います。そのための最優先事項が自立して生活をするための場所の確保です。具体的にはグループホームの設立などになるわけですが、さてどこから取りかかればいいものやら・・・とりあえずグループホームを作るためには何をすればよいのか?情報集めから始めています。

自分の気持ちとしては10年経つというのになかなか思うように進まない。自立について考え始めてはいるけれど具体的なイメージがみえてこなくて焦りを感じています。グループホームなどの生活の場の確保と就労を合わせて独立は無理としても自立と呼べるくらいには形になるのではと、そのあたりになんとか活路を見いだしたいところです。もともと他力本願なクチなのでグループホームや在宅での就労制度などの行政との交渉はNPOや連絡会の活動に期待しています。

まぁあんまり考えだすという憂うつになるのでこの辺までにしときます。普段はこういうことは考えないようにしています。

また、ざっくばらんに言わせてもらえばベッドの上で一人、考えてもどうしようもならないし、ジタバタと暴れてみた方が良い結果が出ることも多いです。まだまだ再生医療や、日本のお家芸の介護ロボットなんかにも期待しているし、いまだ姿形も見ませんが在宅での就労支援なんて話も持ち上がってきています。それらには素直に期待するとしてあとは面白い話が回ってきたその時に、速やかに行動がとれるよう心身の状態を整えておくようにするだけです。

ただ先の国会でも吸引の問題が取り上げられたようにさらにその先の問題の本質であるはずの人工呼吸器の在宅問題には触れず、障害者の問題がなかなか社会問題として表面化しないのはとても不満です。障害者の政治的な結束が求められているのかもしれません。

…とまとめの言葉が見つからないので適当なことを言いながらこのあたりで終了とさせていただきます。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

【吉田憲司氏へのQ&A】

頸損者の医療的ケアを考える「吉田氏質疑応答」をご覧ください。

注 写真は省略しました。

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