頸損だより2004春(No.89)

シリーズ

車輪の一歩

淵上賢治

私は1985年に、交通事故により頸椎4、5、6を骨折し救急病院に運ばれた後、枚方の星ヶ丘厚生年金病院に転院しました。2年近く入院生活をし、18歳で自宅へ帰ってきました。入院生活中は皆で電動車椅子を乗り回したり看護婦さんに内緒で近くのスーパーに買い物やラーメンを食べに行ったりしていました。自宅へ帰ってきた当時は、手動や電動車椅子で友達と外出していたのですが日に日に外出する機会も少なくなり、それからの16年間、ベッドの上で毎日を過ごすようになってしまいました。

在宅での介護は、主に母親がしてくれていました。母親とは一日中、一緒にいるのでストレスが溜まり言い争いもたまにありましたがよくいつもみてくれていて感謝していました。しかし、その母親も2002年の9月、急に他界したので不安な気持ちがいっぱいになりました。在宅での介護を兄姉に頼るしか手段がなかったのですが、兄姉への負担を考え、知人に相談し、住之江区の自立生活支援センターを紹介して貰いました。

自分自身の現在の状況や困っている事柄をセンターの代表やコーディネーターに相談し、一緒に話をしてたくさんのアドバイスを頂きました。また、兄姉の負担を軽くするためにヘルパーさんに来て貰うようにして、兄姉も少し楽になりました。

しかし、当初は寝たままの生活に変化はなかったのですが、あるヘルパーさんが、「近所に散歩してみないか?」の一声をかけられ、気は乗らなかったのですが手動車椅子で行ってみることにしました。外出してみて、色々知らなかったことを教えて貰い、中でも障害者が乗れるバスがあることを知り、今度、バスに乗って外出してみることにしました。その時から自分の中で外出に対する興味が湧いてきて、初めてバスに乗ったときは面白くて楽しい気分になれ、「もっと外出したい!」という、欲求が出てきました。それからというもの、毎日、手動車椅子に乗せて貰い近所のスーパーやバスに乗って繁華街へも出かけたりしました。最初は、食事介助をして貰うときや車椅子に乗っている自分に注がれる大勢の人の目を気にしてしまったりしていましたが、回数を重ねるうち慣れていき、今では自分から人に声をかけることも出来るようになりました。部屋の狭い空間から人の多い街に出て、解放感という喜びを感じ、外出することが生活の一部となってきました。

だんだん、手動車椅子では行動範囲も狭く、自分自身満足も出来なくなってきたので、電動車椅子を申請し16年ぶりに電動車椅子に乗り公園でヘルパーさん達と練習しましたが、なかなかうまくいかず一苦労しましたがそれもすぐに慣れ、繁華街の人混みの中でもうまく運転することが出来るまでになりました。手動車椅子では不自由さも感じましたが、電動車椅子は自分で運転して自分の好きな時好きなところへ行くことが出来る、障害を持っていても普通の人と変わりなく行動できる自信につながり電動車椅子に乗ることにより世界がより広がっていきました。最近では、頸損会の行事で大阪市内から遠く明石や和歌山まで行動範囲が広がり、1人で行動することもできるようになりました。今では、電動車椅子なしの生活は考えられなくなりました。

2004年、現在の私は頸損会の役員、自立生活センターの研修スタッフとして活動しながら、障害者にとって普通に使える電車、バス、駅などの交通機関を考え色々な場所に参加したり行動したりして頑張っています。本年度中に家を出て、自立生活をする目標を持ち、毎日充実した時間を過ごしています。今、在宅にて、外出することが不安や臆病になっている障害を持っている方々、これから暖かい季節になっていきます。ぜひ私たちと一緒に、頸損会の行事などに参加してみませんか?

注 写真は省略しました。

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