頸損だより2004冬(No.92)

特集2 講演録

人工呼吸器使用者が地域で生きるためには

秋の講演会「頸損者の医療的ケアを考える パートU」より


今年の秋の講演会は、頸損者にとって日常切り離すことのできない医療的ケアをテーマに、頸損者が地域で生きるためには何が必要なのかを考えようと催しました。

大阪頸損連絡会の吉田憲司さん、日本ALS協会の熊谷寿美さんを講師に迎え、地域で生きるために抱えているさまざまな課題や、日本ALS協会が行政に働きかけてヘルパーによる医療的ケア実施を認めさせてきた経過についてお話しいただきました。

(2004年9月23日、大阪市長居障害者スポーツセンター講習室)

講演 吉田憲司さん(大阪頸損連絡会)

<簡単に自己紹介>
■吉田憲司、27歳、男
■93年にクラブの練習中に頚椎の4番5番を圧迫骨折して頚椎を損傷してしまい手術後麻痺のレベルがC1まで上がったため呼吸器をつけることになる。
■趣味はパソコン……最近はパーツのカタログを見ている方が楽しいかも

こんにちは、吉田です。皆さん、お忙しいところをお集まりいただきありがとうございます。はじめまして、の方もおられると思いますがとりあえずこんにちわ。

大阪在住の吉田憲司といいます。今年で在宅療養を始めてから12年目を迎えましたからこちらの頸損連絡会ではまだまだ新参の部類です。人工呼吸器を使ってどの様に在宅療養をしているか、皆さんに知ってもらおうというのが今回の主旨です。3度目ですけどね。

人工呼吸器を使っているのはALSの患者がよく知られていますが交通事故やスポーツなどで重度の頚椎損傷患者や他の病気などの患者にも自力での自発呼吸ができない人がいるのはあまり知られていないようです。マスコミや行政はALS患者の対応だけしていれば自己満足するらしくそれ以外の呼吸器利用者は対象にされないことがあります。

ALSや頸損といった医療上の区切りではなく地域社会で生きている人工呼吸器利用者としてとらえてもらいたくこの場を借りましていろいろと言わせてもらおうと呼吸器を引っ提げて馳せ参じた次第です。しばらくの間おつきあいいただけますようお願いします。


93年に怪我をして1年以上の入院生活を経て在宅療養に入りました。10年以上前のことですので支援費制度などはもちろんなくて今とはかなり事情が違いますが重度の障害者が在宅療養に移行する苦労は変わらないようです。むしろいろいろと聞いている分の話では悪くなっているのではないかと思うときがあります。医療技術の向上が生死の間から生還した命の数を増やしたことを喜びつつも、ずさんな福祉行政と向かい合いながら人工呼吸器をつけて在宅療養をせざるを得ない人は劇的に増えています。


■これまでの経過

自分が怪我をしたころは行政からの支援は皆無で見かねた主治医や婦長さん、ケースワーカーや保健婦さんなど自分の職権の範囲でできる限りの支援をしてくださいました。公的な支援のないままに在宅に移るということは放り出されるも同じことで、とても辛いことでしたが人のツテに恵まれていたのもあって在宅医療の足掛かりをつかむことができました。

自分の置かれた状況を、頚椎損傷とはどのようなことを意味するのか医者から告知されたのは事故から半年ほどしてのことでした。それまでにたびたび行われた検査の結果はいやでも自分の状態を把握するのに十分でしたから淡々と聞き流していましたがむしろ驚いたのは医者からの回復のメドが立つまで自宅で療養をした方がよいという説明でした。何ら身体機能が回復しないまま家に帰ることは心情的に許せなかった、ことも大きかったですがこれからどのように生きていくのか、それについての助言は全くありませんでした。怪我をしてからもしばらくは治るものと思い込んでいたのでそれまで気力を支えてくれていたわずかな希望もこの時点で完全に断たれてしまいました。それは家族も同じでその上人工呼吸器をつけたまま在宅療養など聞いたことも考えたことすらなかった選択肢を家族だけで進めなければならならなくなったことに不安ととまどいを感じながらも最悪のケースも覚悟しなければならないと思ったそうです。

それからしばらくして病院との間の壁になってくれていた主治医が転勤することになり、そうなるといよいよ病院もいづらくなりそうなのでそれに合わせて家族は在宅に移るための準備を始めることになります。しかし時間的な猶予がなかったことからつなぎの病院を探すことになりましたが家の界隈、隣の市まで足を運びましたが見つからず各病院の院長に時間をとってもらい再三の御願いでどうにか2つの病院の承諾を得ることができました。結局、自宅の改装、人の手配などの準備は次の病院に移ってからになりました。市役所の障害福祉課に通い詰めたりして話を聞いたりと手探りでどうにかこうにか準備を進めましたが介護人の確保は思うようにいかず病院で付き添ってくれていた家政婦さんが家までついてきてくれることでどうにか帰宅することができました。

在宅に移ってからは家族は介護人探しに明け暮れ、僕はというとラジオを聞きテレビを見て1日を過ごす日々が続きます。

介護保険が始まる4、5年前の話で主に家政婦紹介所から派遣してもらい介護経験とやる気のある人に当たるまで次の人を派遣してもらっていました。しかしなかなかそういう人に巡り合えない。

次から次に送られてきますが呼吸器を見るや否や「私にはできません」と帰ってしまったり、「少し様子を見させてください。」と2日3日来て続きそうかな?と思った矢先に断りの電話を入れてきたり、他のところで次の依頼があるまでのつなぎとしてうちにきたりする人もいました。

その上、見て帰っただけでも依頼通り家まできたいうことで料金は請求されます。当然実費で行政から補助などはありません。家族は自分の介護をしながら介助の仕方を説明していかなければなりません。労力とお金と時間を費やしながら本気で介護に取り組んでくれるのか?相手の真意がつかめないだけにこちらとしてはできる限りの誠心誠意を込めるのですが数日してから断られた日にはえにも言えない徒労感と悔しさがこみ上げてきます。そのような状態を3カ月、半年続けながら30人に1人の割合で介護人を見つけるという有り様でした。

そのため介護されている自分よりも介護をしている家族の方がノイローゼ寸前まで精神的に追い込まれた時期もありました。結局、1年半ほど続けてくれた介護人が2人くらいであとは顔と名前を覚える暇もなく立ち替わり入れ替わりいろんな人が来たことだけを覚えています。

その後で知り合いのご近所さんが介護を手伝ってくれるようになってどうにか落ち着くようになりました。


呼吸器を引っ提げて外出をするようになったのは6年ほど前からのことです。

大阪頸損連絡会のイベントがあるから来ないかと声をかけてもらったのがきっかけでしたが最初は全然乗り気でなくお世話になった方の講演ということで取り合えず出かけましたが会場に到着してみると障害の程度は重いが元気な障害者が大勢いました。外出といえば病院での健康診断くらいでしたから集団検診でもやるのかと思いきや、みんなまじめに勉強会に来ている、これには本当に驚きました。まさにカルチャーショックです。

この久々の外出で初めて障害者とはこういうものなんだなぁ、と貴重な体験をさせてもらったことには今でも感謝しています。

それをきっかけにしてそれまでは新しい治療法や機能回復のためのリハビリなどにばかり目がいっていましたが、今残された機能でどこまでできるのか、そちらの方に興味が移っていくようになりました。

本当に何でもない外出のはずでしたが家の中でどれほどくすぶっていたのか、ようやく気付かされました。

それに味をしめてちょくちょく頸損連絡会のイベントに寄せてもらったりしています。


■介護保険

始まる前からいろいろと話は聞いていましたがやはり影響がありました。それも悪い方向にです。福祉全体が介護保険をベースにし始めたからです。中でも危惧していたのは民間業者の参入を促すためと高めに設定された時間単価です。案の定、ほとんどの事業所で時間単価の設定が変わり、介護のメインになっていった事業所にもその動きがありました。ここを打ち切られてしまえば本当にどうしようもなくなるので必死の何度かの交渉の末、新規に人は派遣しないとの条件でそれまでと同じ時間単価で据え置きということでどうにかその場を乗り切ることはできました。ですが、そこ以外のわが家の経済力で新規派遣してくれるような事業所はなくなったことを意味していました。家族への介護の負担は当然を重くなり母親が腰を痛めて介護人のメンバーから外れるという事態が起きてしまいます。

以前からの介護人と市のヘルパーだけでは時間の埋めようがなく父親が会社を休んで付き添うなどかなり深刻な時期が続きました。

2003年4月から支援費制度が始まるという話を聞いたのはそんなころですから当然印象はいいわけがありません。うちの支援費制度はそんな疑心暗鬼の中で始まります。


■支援費制度が始まってから……

2003年4月からの支援費制度が始まるのに合わせて2002年の終わりごろから支援費制度に対応してくれる近辺の事業所を探し始めました。障害福祉課から渡された登録済みの事業所のリストの上から電話をかけていきました。よい返事は0。渡されたリストはプリント1枚とはいえ書かれている事業所はひとつやふたつではありません。ですがすべてから断られました。これにはさすがに驚きました。中には「うちは障害者に対応していません。高齢者専門です。」というところもありました。このとき初めて事業所を選択できるが事業者はサービスを拒否することができる、ということを知りました。

これには障害福祉課の担当者も驚いてうちと事業所の間に立って何度か話し合いをしたりもしました。けれどもどの事業所も規模が小さく電話がかかってきてもとてもサービス申し込みに対応できるような状態でないのは端から見ても分かりました。

まして人工呼吸器が絡んでくるとなおさらです。このころALS患者のヘルパーによる吸引も話題になっていて新聞やテレビでは好意的な報道がよく見られました。それで少しは世間の見方も変わると期待していた吸引についても“医療行為だから”と結局やってくれるところは見つかりませんでした。そうこうしているうちに年も明け焦りも募ってきたところに障害福祉課の方から提案がありました。

新しく立ち上げた事業所があるけれどまだ介護のスキルがないのでこちらの言い分についていろいろと融通を利かすからそちらで研修をして介護スキルを身につけさせてほしい、といったような話になりました。むろんそれだけでは教える側の家族の負担ばかりが大きくとても1人前の介護人に養成するまで続けられそうにもありません。そこでそれまで市から来てもらっているヘルパーを支援費制度上での継続と自費で来てもらっている知り合いの介護人をうち専従で事業所に登録して経済的負担を軽くしてくれるということでその事業所と二人三脚の支援費での介護体制が始まりました。


それからおよそ1年半見てきましたが状況はよくありません。

うちと組んでやっている事業所は業務の拡大が思うようにうまくいっていないようでメインの介護人を増やして欲しいところですが家族の介助のアシスタント以上のサービスはのぞめません。

そのほかの事業所に目を向けてみてもうちのような重度の障害者に人を送れるような余裕のある事業所はありません。

というよりはわが家で求めている介護の水準までヘルパーを研修して介護の質を上げてやろう、というような気概の感じられる事業所が見つかりません。

それどころか介護スキルのあるベテランの介護人は次から次に立ち上がる介護保険の参入組に現場主任や管理職として引き抜かれています。

また助成金を受けてやっているNPO法人などもあり競争が起きにくく淘汰されることもあまりないうえに新規参入の期待も薄く支援費制度開始からあまり状況は変わっていないようです。

その一方で財政上の理由からこれまで措置とされていた行政サービスの締め付けが厳しくなってきています。うちでも市から派遣しているヘルパーを順次うち切りたい、との旨を伝えてきたりしました。

今後、小泉首相の地方助成金の3兆円削減や介護保険との統合、2007年の大阪府の赤字再建団体への降格など不透明な不安要因が多すぎて今はどのように動いていいのか分かりません。

やがて具体的な話も出てくるでしょうがそれから行動しても間に合うのか?不安はつきまといます。


■障害者のセルフマネジドケア

支援費制度が始まってしばらく経ちますが行政が言うほどには在宅のためのサービスが充実しているとは言いがたい状況です。24時間の介護を必要としたうえで地域社会の中で生きていくにはまだまだ家族への負担が強いられる状況は続きそうです。

それで海外の状況に目を向けてみると障害者に直接給付することにより自分自身の責任による選択の自由によって自立した生活を得る、セルフマネジドケアという考え方が広まりつつあるようです。この考え方は意思決定能力のない高齢者のために第三者がケア計画作成するケアマネジメントに対立する概念として障害当事者から出されたものです。

その考えをもとに制度化されたものにはスウェーデンのパーソナル・アシスタンス法やカナダのダイレクトファウンディングプログラムなどがあげられます。それらの概要や設立までの過程を読んで見ても支援費制度と単純に比較することは難しく今すぐ日本でも立ち上げられるものではないようです。日本の福祉施策が、個人の自立を支援する利用者本位の仕組みへと大きく転換しつつある中で英国のケアマネジャー制度を日本の介護保険がモデルとしているようにその海外の流れを支援費制度の中にも組み込まれているものだと期待したいところです。


日本にもセルフマネジドケア・システムに近いものはすでにありました。介護保険の前に話題になったことがある自薦・登録ヘルパー制度といわれるもので、自分の指名した介助者を行政や介助派遣団体に登録しておき、決定された時間内で、介助者との合意があれば実質的に自由に介助計画を変更したり作成できるというものです。

支援費制度ではサービスを提供してくれる事業所は受給者本人が選べることができるようになりましたが登録ヘルパー制度のように介助者の指名まではできません。しかし事業所と交渉次第では登録ヘルパー制度を真似て自分で見つけてきた介護人をその事業所のヘルパーとして登録してもらう方法もあります。もちろん専属という約束を取り付けたうえでです。これをうまく利用することができれば今後の支援費制度に急激な変化が起きないのであれば最も形態の近いスウェーデンのパーソナル・アシスタンス制度に近い利用の仕方もできるのですが……


ひとつにはヘルパーの身分保障の問題です。身体介護の時間当たりの単価は4,000円を超えていますがヘルパー自身が受け取る時給は事業所によって異なってきますが半分に満たない場合が多いようです。事業所は規模の小さいところも多く歳出に占める必要経費が人件費に少なからず影響を与えているようです。そのため生活がかかっている場合にはヘルパーは職業としての選択肢に入ることはないでしょう。


2つ目は人工呼吸器ということで敬遠されるケースです。特に痰の吸引についてはまた後で書きますが人工呼吸器を利用している人間にとっては呼吸と同じぐらいの意味を持ち、それでいて家族でも教えられるくらい簡単なものであることを再三、説明しても断られる。このことについて理解の得られない一点においても依然としてサービスに対して受動的な立場にあることの良い例だと思います。


そしてやはり避けて通ることができないのが高齢者を対象とした介護保険と障害者を対象とした支援費制度の統合の話です。他の国においても同じことが起きています。

かつてドイツでは低所得の障害者は従来の租税による24時間介助サービスを継続して受けていましたが障害者団体や自立生活センターにおける障害者が介護保険の適用されたことにより就労していて、ある程度収入のある人の場合、低所得者向けのケアマネジメントのサービスは使えなくなり、介護保険の厳しいアセスメントに曝されて外出もできずに、仕事も続けられなくなった例もありました。

また、ダイレクトペイメントという新たなシステムを制度化させることに成功した英国ではこのシステムでは当事者の銀行口座に介助料が入金してから後は、介助者の選定、介助計画等は本人の自由裁量です。しかし、入口のアセスメントが高齢のコミュニティケアの介護基準で同一のケアマネジメントが行われるため、従来の外出・社会参加・見守り・待機等障害者の介助サービスで認められていた部分が財政的状況で削られ、その状況に苦しみ、悩んだ多くの良質なケアマネジャーが、辞職するという問題が起きています。

日本でも同様のことが起きればれば障害福祉そのものが大きく後退してしまうことは避けられません。資源量の不足、予算上の制約の問題を解決しサービス利用者の「自己選択と自己決定」の原則を不動のものしていくにしても他の国と似たような過程をたどるのだとしたらこれからしばらくは障害者には厳しい時代を迎えようとしているのかもしれません。


■障害となる法律の規制

介護の問題は人材の確保、養成と経済的な問題がもちろん大きいですがそのほかにも規制が障害になっているケースもあります。

例えば吸引もその1つです。吸引は法律上、医療行為に当たるため医師や看護士、ヘルパー1級などの有資格者でなければ法律違反にあたります。なお家族または無償のボランティアはこれを行っても違反にはあたりません。有償での業務上行為を無資格の人間が行ってはならないということなのですが制約は多岐にわたり座薬や浣腸、目薬の投与やガーゼ交換までもが医療行為に含まれます。

そのため違反行為を行っていると行政から取り消し処分をされる可能性があるかもしれない、と断られます。吸引は家族しか行えないというのなら介護人を派遣してもらっても家族の手伝い以上の介護はできないということになってしまいます。

それでは家族は休息を取ることも外出することもできません。もしも過労で倒れたらどうすればいいでしょう。ショートステイを引き受けてくれる病院や施設はなく、地元の市民病院ですら門前払いされます。

吸引に関してはこの10年間市役所とも話し合いの場を設けたりして何度となく今の現状を繰り返し説明し“吸引の許可を出してほしい”と訴えてきましたが答えはいずれも“ノー”でした。

行政の末端ではそう答えるしかないのかもしれませんがそれでは問題をどこに訴え出たら取り上げてもらえるのでしょう?今後行政が自発的にこの問題を取り上げてくれる様子はありません。


機会が訪れたのはALS協会を中心に無資格者でも吸引ができるように他の障害者団体と連名で署名活動をすることになった時です。その後世論の後押しもあり厚生労働省の検討会がALS(筋萎縮性側索硬化症)患者に対してたんの吸引を医師や家族以外にも認め、坂口力厚労相は2003年6月に記者会見で考えを示しました。しかし喜びもつかの間その内容はALSの在宅のみに限られている点や他の疾病や事故の後遺症で人工呼吸器を利用し吸引が必要とされている人たちに関しては報告書に記載は見当たらず説明もあいまいなままでとうてい納得できないものでした。

その後も引き続き審議が続けられるとのことでしたがそれ以来検討会が開かれた様子はなく今に至っています。

最近は介護保険と支援費の統合の話もあって優先順位から考えるとあまり吸引の話もできません。

そこで構造改革特区の申請を考えています。福祉や教育での申請はかなりあり個人でも申請できるそうです。ここで特定の医療行為をヘルパーに許可する吸引特区を申請してみようかと考えているところです。


■障害者の生き方とは?

今回で講演は3回目ですが障害者の生き方と聞かれてもそんな難しい問題分かりっこない。講演の前の2カ月くらいはインターネットでおもしろそうな、ネタになりそうな話を探しながら一方でいったい自分のどこが悪いのか?ずっと考えてます。しかしそれでもわからない。だいたい障害者って何なんでしょう?頚椎を損傷して体は動かなくなってしまいましたが中身は多少は物事の見方がシビアになったくらいであとはそれほど変わったとは思いません。

誰かに障害者と言われたときが一番、おれって障害者なんだと自覚させられる瞬間ですし、自分の認識と回りからの自分に対する認識はまるで違うものでそのギャップに戸惑うばかりで、障害者とはどのような存在なのか?そんな疑問を抱えて長い間生きてきました。

それが少し変わったのが頸損連絡会の様な障害者の集まりに顔を出すようになってからです。

障害者の定義とは自分と同じようにベットの上で寝ているものだと考えていましたが集まりでの障害者はことさら元気でした。見たところ自分とそれほど障害の程度は違わないのにイヤイヤ連れ出された自分としては不愉快だと本気で腹を立てたほどです。

それまで丸6年ほど障害者は家の中、と信じてそれに殉じた生き方をしてきた自分にとっては前向きに生きる障害者という生き方はそう簡単に受け入れられるものではありませんでした。しかし、こういう障害者もいるんだ。というインパクトは大きい。しばらくは混乱してそのうち深く考えるのはやめることにしました。ともかくそれがきっかけとなり外出をするようになるといろいろな人と接する機会が増え自分に対して話しかけてくれる人の中に見た目通りの重度障害者として接してくる人、ある程度障害者を知っていて接してくる人、少しずつ差があること気づきました。人がそれぞれ抱いている障害者のイメージが皆違うことに気づくのはもっと後のことですが障害者というものを言葉通り一括りの人種だととらえようとすることは大きな間違いだと気づきました。


おかげで障害者という生き方が前より分からないものになってしまった。障害者らしい障害者とはどのような生き方なのでしょう?

あちこちで集めた資料の中にカナダ・トロント自立生活センター所長のヴィク・ウィリー(Victor R. Willi)氏の1999年の日本講演会の和訳された内容がありました。その最後は次のような言葉で締めくくられていました。


障害者であれば、常に自分を証明しなければなりません。他人と同じでは十分ではないのです。障害を持つ人は、無力とか無価値というステレオタイプに反証しなければならないように思います。我々は、自己管理型プログラムの信用性について、また我々を助けてくれた多くの人々に対して、責任があると感じました。


なるほどそれも1つの障害者のイメージなのかと……

まだまだ外に出る機会が少ないせいか、幸いにして障害者ということで攻撃の対象にされたことはありませんが自分に対してまるで価値を見い出せず、多くの人に迷惑をかけてまで生きている必要があるのかと悩んだ時期もあります。それは言い換えると自分と同じような障害を持った人のことも否定してしまうことにも等しい。今ではそこそこ前向きに生きているつもりなのであえてステレオタイプを助長させるようなまねはしないと思いますが反証できるほどの自信もないこともまた確かなことです。

しかし、最後のくだりの今まで自分を助けてくれた人々に対して、その期待に応える責任があるという点は強く共感を覚えます。自分としては当面は回りを失望させない程度に頑張るつもりです。いまさらダメダメ、なんて言ったら殺されかねませんから……

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。



講演 熊谷寿美さん・博臣さん(日本ALS協会)

熊谷寿美さんは1950年生まれ。日本ALS協会副会長。


ALSは、英語名(Amyotrophic Lateral Sclerosis)の頭文字をとった略称で、日本語名は「筋萎縮性側索硬化症」といい、運動神経が障害されて筋肉が萎縮していく進行性の神経難病です。アメリカでは、メジャーリーグのニューヨークヤンキースで鉄人と言われた名選手のルー・ゲーリックが罹患したことからルー・ゲーリック病とも呼ばれています。また、イギリスの有名な宇宙物理学者ホーキング博士も30年来の患者です。

国により難病認定されているこの疾病は病気が進むにしたがって、手や足をはじめ体の自由がきかなくなり、話すことも食べることも、呼吸することさえも困難になってきますが、感覚、自律神経と頭脳はほとんど障害されることがありません。進行には個人差がありますが、発病して3〜5年で寝たきりになり、呼吸不全に至る場合には人工呼吸器を装着しなければ生き抜くことができなくなります。

10万人に3〜5人の発症割合の稀少難病で、残念ながら現在のところ原因も治療法もわかっていません。一般に40〜60歳で発病し、患者は全国で6,646人(平成14年厚生労働省調べ)程と言われています。

(日本ALS協会ホームページより)


■人工呼吸器をつけての在宅生活
●発病してから現在まで

私たちはALSという病気です。すべての病気は大変ですが、ALSも大変な病気です。でも、病気が家内の個性ではないだろうと、あるいはそういう生活は送ってもらいたくないということで、普通の生活をしていきたいと願って、やろうとしています。

発病して27年です。足から発病して足がだんだん使えなくなり、そのうちにだんだん手が使えなくなり、そのうちに呼吸するのが苦しくなり、だいたい5年間隔でそういうのが進行してきて、ほぼ15年で呼吸器をつけました。発病した時には余命2〜3年と言われたので、子どもたちの幼稚園卒園まで生きていられるんだろうか、小学校の入学式を見られるんだろうか、という思いで過ごしてきましたが、末娘の小学校どころか中学校・高校も卒業して、結婚式にも行って、今では2歳半の孫と生活しています。

気管切開をしたのが1991年、13年前です。ほぼ3カ月半病院にいましたが、すぐに在宅に移りました。2002年に栄養状態が悪くなったので胃ろうをしました。今は首から下は全く動かない。家内の言葉で言えば、目以外は動かないという状況です(あ、目の下は動いていますね)。在宅に移った理由はいろいろありますが、家族がバラバラになってしまう生活だったことと、病院ではひっそりと生活しなければならず、思春期の娘や息子と声を出して笑うことができないし、私も好きな酒をちょこちょこ隠れて飲むしかなく、家で鍋でもつまみながら酒を飲む生活に戻りたいと思って家に戻りました。


●介護体制

介護体制ですが、昨年1月までは家内が1人でいる時間がけっこうありました。1人でいられたのはなぜかというと、私の会社が歩いて数分のところにあって、舌でスイッチを押すとパソコンからポケベルにメッセージが送られ、それで私が家に走って帰るという体制がとれたからです。ところが昨年2月に私の勤め先が尼崎から篠山に移転することになり、私は会社を辞めるということで辞表を出しましたが、会社からは大阪に関連会社があるから、そこで仕事をするかと言っていただいて大阪に来ました。

ただ、それでもポケベルで走って帰っては来られませんから、昨年2月からは朝の8時から夜の8時まで、訪問看護師さんとヘルパーさん(支援費と介護保険)をめいっぱい使ってやってます。支援費で1カ月360時間です。今は支援費を申請しても通らないことが多いと聞いています。聞くところによると、私たちは支援費制度の前に全身性障害者介護人派遣事業を利用していたので、その流れでいけたそうです。ALS患者は全国的にもその流れがあるようで、新規の申請はほとんど通らないと事務局から聞いています。

去年の申請の時、外出支援も申請して認めてもらいました。今日もうちのヘルパーさんは外出支援という形でついてきていただいていますし、東京の理事会などにもいっしょに行っていただいています。


■積極的に表へ出て行きたい ●飛行機に乗った体験

病気のことで自分の行動に制約を受けたり、考えをせばめたり、そういうことはしてはいけない、嫌だと思っています。

ちょっと冒険心があったかもしれません。呼吸器をつけて飛行機で北海道に行ってみようということで、気管切開をした1年後に北海道に行きました。この時は呼吸器をつけて飛行機に乗るという前例がなかったので、航空会社と交渉して、呼吸器をどうするかということで、座席の下に入れてほしいと話をしました。でも航空会社は「ちょっとそれはできないので、シートひとつ使ってください」と。親切だなあと思っていたら、呼吸器は子ども料金で半額とられた、ということがありました。

最近は少し慣れたので、お金のかからない方法でやっています。参考までに言うと、カウンターに行って「今日、飛行機、満席で混んでますか」って聞くんですね。空いていれば、「すいませんけど、無理はいえませんけど、可能ならば隣の席をブロックしてください」と。そうすると隣の席をブロックしてくれて呼吸器を置いてくれて、お金は請求しません。そうした交渉術も覚えて、最近は呼吸器に料金を払ったことはありません。


●外出する時の工夫

外出しようと思ったら、いろんなことを工夫しないといけません。レッツチャット(携帯用会話補助装置)のスイッチでも、家ではもっと簡単なんですが、表にでた時にいかにコミュニケーションをとれるようにするかということで、いろんな部品をあちこちで買ってきて作って、5回目の外出ぐらいでやっと落ち着いたんです。ズボンひとつにしても、トイレに行った時に非常に楽にする工夫をしています。ほんのちょっとしたことですが、ズボンの下の方にファスナーをつけるだけで、不可能が可能になることがあります。

外出するというのは、健康な人なら無意識にちょっと靴はいて表に行きます。でも、車いすの人は、呼吸器をつけていなかったとしてもアクセスが大変ですよね。呼吸器をつけていると、持っていくものがまた非常に増えて大変なんですが、一生懸命表に行くように努めて、普通の生活に近づけたい、普通の生活をしたいと願っています。

車の時も、うちは普通のセダンですから、助手席に家内を乗っけてドライブします。ただ、スイッチでもいろんなものが要るので、忘れ物が出ちゃうんですよね。けっこう失敗するんですよ。大事になっていないだけで、後で笑い話になってるけど、実際、行ってから「あっ、忘れた!」ということがあります。ある時は、この車いすは背中から上の部分が外せるようになっていて、車に乗る時に入れるんですけど、大阪の堺の会場まで行って降ろそうと思ったら、家の前で車に積み込む時に忘れてたんですね。あわてて引き返したことがあります。そういうことがあるので、持っていくもののチェックシートを作って忘れないようにしています。


■日本ALS協会の取り組み
●日本ALS協会とは

日本ALS協会は1986年に設立しています。もうそろそろ20周年ということになります。本部事務局のほかに全国に32支部があり、会員は約8000名です。主に次のような活動をしています。

  1. 医療・福祉の向上を目指して、国や自治体に働きかけています。
  2. ALS基金を創設(1994年)し、毎年公募した研究者に研究奨励金を交付して、ALSの原因究明、治療法等の研究開発を支援しています。
  3. 患者・家族に対する医療・福祉ケアの相談、コミュニケーション機器の支援活動等を実施して、患者・家族の療養支援を行っています。
  4. 介護手引書の発行や各地で研修会・交流会を開催して、介護技術の向上・普及および会員相互の交流を図っています。
  5. 機関誌「JALSA」(ジャルサ)を年に4回程度発行して、会員への情報連絡、社会への啓蒙に努力しています。
  6. 国際組織に加盟し、世界的な啓発運動等に取り組んでいます 。
●ヘルパー等吸引実施問題

ヘルパーの吸引問題ですが、日本ALS協会では、ヘルパーの吸引というのは当然のことだからと、かなり以前から問題になっていました。それでいろいろな動きをしていたんですが、ひとつの流れとしては、2002年7月に厚生省に陳情して、医療法と直接対決しても法律の壁なので、生活必須行為としての位置づけで何とか暗黙にならないかという陳情をしました。しかし、翌年の秋に政府の閣議で吸引行為は医行為であるとされました。

そこで2002年3月、協会内に吸引問題解決促進委員会を立ち上げました。その中で言ったのは、患者さんの生存権がまずひとつあります。吸引をしなかったら痰がつまって死んでしまう、生命を奪うということ。もうひとつは家族の生活権です。家族が文化的な生活をしていくためにも吸引が必要であるということです。その年の7月に署名活動に取り組み、他の患者団体にも協力していただいて、約18万人の署名を集めました。坂口厚生労働大臣(当時)に11月に署名を提出して、「桜の花の咲くころまでに結論を出したい」という前向きな発言を引き出すことができました。

その後、厚生労働省での検討会「看護師等によるALS患者の在宅療養支援に関する分科会」が始まり、計8回行われましたが、その内容には非常に不満です。まず分科会のネーミングのALSという言葉や看護師という言葉です。それからその結果が、ALSという病気に限定し、在宅に限定し、ヘルパーに限定していることです。ALS協会の吸引問題解決促進委員会では、「吸引を必要とする患者に(だから病気を限定していません)、ヘルパー等介護者が(ヘルパーに限らず、介護する人)、吸引を、日常生活の中で(家に限定していません。施設でもいいじゃないかと)行う」という要求をしたんですが、非常に限定されたことになってしまいました。この結果については協会内でも意見が分かれていますが、小さいながらひとつの穴は開けただろうと考えています。

もうひとつ問題になったのは、「業とする」という言葉が数文字入っているために、言葉のとらえ方なんですが、「ヘルパーの業じゃないからしない」という判断をする事業所が多くて、この通達が出ても、実際にヘルパーが吸引をしてくれる事業所は非常に少ないんです。通達が出ても実行されていないということで、改善してほしいと厚生労働省に陳情に行きました。

9月、養護学校でヘルパーが吸引をできるようになりました。そういう意味ではひとつの道を開いたのかと思いますが、これからの継続した運動が大事です。3年後に見直しということですから、その時にどういう方向になるか、しっかりと見つめていかないといけないと思っています。


●その他の活動

他に協会でやっている活動としては、呼吸器事故の防止です。病院でけっこう事故が多いんですね(在宅では、ないとは言えませんが、あまり聞きません)。そうした事故を防止しようということで、呼吸器事故防止委員会を今年から立ち上げました。実態調査をして、厚生労働省およびメーカーに対して改善要求をしていこうとしています。

あと在宅選挙権行使の実現ということで、郵便代理記載投票制度を認めてくださいという動きをしました。発端は2000年にALSの患者さんが3名、原告となって国を相手取って国家賠償請求訴訟を起こしたことです。残念ながら国の賠償責任は認められませんでしたが、現行の選挙制度は「憲法に違反する状態にあった」という判断が下りました。その動きの中でマスコミなどで取り上げられたので、7月に公職選挙法が改正され、今年の3月から適用ですから、参議院選挙で初めて在宅の郵便投票が実現しました。


■ALSであることがすべてではない

ALSという病気であるけど、ALSが家内のすべてではないと考えています。うちの奥さんは熊谷寿美さんという私の奥さんで、子どもたちのお母さんで、熊谷という家の主婦で、最近は孫のおばあちゃんでもある。それとともに女性であるということで。きれいにしたい、きれいな服も着たい、おいしいものも食べたい(これはできなくなっちゃったけど)。髪もきれいにしたい、顔もきれいにしたいと美容室に行ってパーマかけたりもしています。パーマかけて白髪染めをして。

私たちは特別大したことをやっているとは思っていません。協会の副会長と言われたって名前だけで、実際に活動しているのはボランティアの方だし。ただ一つだけ言えるのは、家内が非常に強くがんばっているということです。私たちはそれを、普通という言葉がどういうふうにとらえれるかわかりませんが、なるべく普通の、病気でなければしたであろう生活を家内が送れるために、私も含めてがんばっていきたいと思います。そのために私たち家族もがんばっているし、今日ヘルパーさんもいっしょに来ていただけるし、子どもたちは教育してくれるし、いろんな方に支えられて、助けてもらいながらやっていきたいと思っています。これからもまた何かとよろしくお願いします。



質疑応答

※吉田憲司さんの回答は、後日、文章で書いてもらったものです。


Q1 気管切開をしても言葉を発することができるのか。

【熊谷】家内の場合、13年前に気管切開をして、おしゃべりと食事ができなくなると言われました。でも、家内はおしゃべりしていました。レッツ・チャットを使い始めたのは今年の春からですから、約12年間は家で声でコミュニケーションをとっていました。それからデンマークでお会いした方の中でも、1人の方は気管切開をしても明確にお話していました。ALS協会近畿ブロックでもかなり明確におしゃべりしている方もいます。個人差がけっこうあるようです。一般的にはできないと考えた方がいいんでしょうけれど、やってみたらおしゃべりできた、という方はけっこういます。
【吉田】個々のケースによりますが可能の場合もあります。自分の場合にはカニューレ(気道に差し込んでいるチューブ)についているカフ(肺の中に飲み込んだものが流れ込まないように気道をふさぐ小さな風船)の空気を抜いて口や鼻へ空気が逃げるようにしています。そして人工呼吸器が送ってくれた空気で声を出しています。ただし、このやり方だと声を出すタイミングは人工呼吸器に合わせてやらないといけないし明瞭に発音をできるのは5〜10文字程度です。また、麻痺レベルが高く嚥下障害(飲み込み障害)がある場合にはカフを常時抜いておくのは危険です。
 病院にいたときに教えてもらった方法はスピーキングチューブ(カフの上部についている緑色のチューブ)に圧縮空気を送り込んで話すというものでした。しかしこれはずっと空気を流しっぱなしでしゃべりにくくやたらとのどが渇くのですぐに辞めてしまいました。それから家に帰って試したこともありますが熱帯魚の水槽なんかで使われるエアポンプなんかでは流量がとても足りませんでした。このやり方の場合はある程度の設備も必要なようです。
 テレビでこのスピーキングチューブに人工呼吸器と排気のタイミングに合わせ少し動く指を逃し弁の代わりに使ってうまく会話をしていた人を見たことがありますし、以前京都で見かけた人は人工呼吸器をつけながらも普通に会話をしていました。人それぞれ何かしらの工夫があるようです。

Q2 事業所で吸引をしないところが多いのは、したことで指定が取り消しになるんじゃないかという不安や、医療トラブルが起きた時の損害賠償の不安があるからだ。吉田さんが契約している事業所では、そうした点をどうやってクリアしているのか。

【吉田】現在、契約している事業所は3カ所ありますが吸引の問題に関しては正式にはクリアできていません。その他の医療行為には従事できないことを踏まえた上で契約していてここからは家族の代わりとなるようなメインの介護人の確保は不可能です。結局、知り合いやツテを頼りに見つけてきた介護人を事業所にヘルパーとして登録はしてもらいますが、吸引やガーゼ交換、浣腸などは個人の責任ということになるようです。ヘルパーが持ち場を投げ出して逃げたりでもしない限り損害賠償などはしない、なんなら一筆書いてもいい、といましたが聞きいれてはもらえませんでした。
 こちらとしましても介護スキルが不十分な方にすべてを任せて家族の者が家を空けるような冒険はしませんし、こちらの納得がいくまで介護の実習を実地で受けてもらいます。肺の機能も正常で人工呼吸器にしても3カ月に1度は業者が持って帰ってオーバーホールをしていてこれまでトラブルはありませんし、呼吸器に異常が見られた場合は真夜中でも来てもらえるようになっています。そのうえで何か危急の事態が起きた場合は"介護"の範疇ではなく、"医療"の出番だと考えています。おそらく家族がいたとしても対処できないでしょうからその結果事故が起きたとしてもそれはもう仕方のないことだと思います。
 事業所には事業所なりの不安はあるでしょうし、サービスを提供してもらう家族にも家族なりの不安はあります。家族側と事業所側との間に相応の理解がなければそれらは吸引が法律上許可されたとしても解消するとは思えません。結局、どのように信頼関係をつくっていくか、にかかっているのではないでしょうか。

Q3 私は今まで医療的ケアは家族でもやれることだし、もっとヘルパーでもできるようにしたらいいんじゃないかと安易に考えていた。ところが、医療的ケアを行っている京都の事業所でこんな事例があった。呼吸器をつけた頸損の方が、退院する時に訪問看護師や病院と話し合い、何かあった時には訪問看護が来る、何かあれば病院に連絡するということで在宅生活に入った。が、現実には、夜遅くに吸引がうまくできなかった時に連絡しても看護師が来てくれないということがあって、じゃあ救急車で行ってくれと言われて救急車で行ったら、こんなことぐらいでは入院はできないということで帰された。ヘルパーができるんだったらと油断して、医療関係者が責任を回避してしまうようなことになっている。そういうことを考えると、ヘルパーがやったらいいと簡単に考えるとまずいと考えるようになった。医療的に何かあった時にちゃんとしたフォローができる体制ができていないと、現場で働く実際の介護にあたる人たちが傷つくことになる部分もあると実感した。だからこの問題は、看護師がやればいいとか誰がやるとかいうことでなく、医療的ケアも含めて在宅生活の介護をどういうふうに担っていくかを考えていかなくてはならないのではないかと思う。こうした点をどう考えられているか。

【熊谷】看護師さんがやってくれるんだったら、やってくれたらいいんですよ。でもそれは建前ですよね。私たちは看護師はしなくていい、と言っているわけではありません。ただ、今の制度では現実に24時間来てくれないんです。で、来てくれない時にどうするかというと、ヘルパーさんが来てくれるんですよ。看護師協会はヘルパーにさせるのは心配だと言っていますが、でも患者にとっては痰をつまらせて死ぬ方が心配です。痰がつまるんですから、誰かにやってほしい。看護師にはやっていただきたいと思っていますが、在宅ではそうなっていない現実があるから、ヘルパーにお願いしたいと言っているのです。
 医療行為とは何かということなんですよ。痰の吸引は医療行為だといって、何かすごく難しそうになっている。でも、それを定義したのは、その時代の背景なんです。厚生労働省の見解ではつめ切りも医療行為です。今、つめ切りを誰が医療行為だと思います?昭和20年代に、呼吸器をつけた人が在宅で暮らすことがなかった時代に作った法律の言葉を、なぜ今あてはめなければならないんでしょうか。それで患者のQOLを高めることを阻害される必要はないんじゃないかと思います。
【吉田】現在の障害福祉は裁量権を握っている行政の人間と最寄りの事業所側の都合でケアプランは決められます。今の介護の現場に当事者として障害者の立場はなく、要望はおろかどのようなプランが自分に合っているかなどその方向性について意見することもできません。おまけに地域の格差や担当者如何によっては最低必要なサービスすらも受けられないこともあります。サービスを受ける側として言わせてもらえば行政は獲得した予算の範囲て納めることのみを考え、事業所は事業所の利益の追及を最優先に考えている現状では予算を増額しようが、ここ新たな資格を新設しようが、おそらくこれ以上の障害福祉の質の向上はあり得ないと思っています。
 今日本の行き詰まった状態と同様の経験をした欧米のいくつかの国では障害者自身に直接給付とケアプランの作成を任せたところがあります。様々な団体からの反発があり、むしろ当事者である障害者の方に大きな戸惑いがあったもののそのうちのいくつかは制度として定着しています。障害者にお金を渡せば余計なものを買ったり無駄遣いをする、運用などできない、直接給付などとんでもない。という意見は根強いようですが実際には運用次第で自分の生活の質が左右されるため、堅実で無駄のないケアプランが増えたため全体の支出額は以前よりも減り数字の上でも効率化されたことが実証されています。障害のレベルや症状は人それぞれでそれにあったケアプランもまた人それぞれなわけでそれを他人に作成してもらうよりは自分で作った方がよりよいプランできるのも当然のことです。ケアプランを作るのに自信がない人や事情により自分では作れない人のためにケアプランの作成を代行して行ってくれるサービスもあり、それを利用するしないの判断は障害者自身にゆだねられます。選択できるサービスの幅の広さと種類の多さが障害者自身の選択の幅を広げ、結果として個々のケースにあったきめ細かいケアプランの作成が可能となったようです。
 今の日本でも事業所の努力と理解が得られるなら障害者本位のケアプランも可能だと考えています。事業所の取り分が7割程度のところが多いようですがある事業所ではヘルパーの取り分が7割のところがありました。この事業所ではあまり人が辞めない、良い人材をつなぎ留めておけるので人材の運用はかなり安定したものでした。時給1,000円台前半では知り合いや善意ある人しかヘルパーとして雇うことは出来ません。そのため人材はとても限られてしまっています。もしも、事業者側が自前で見つけてきたヘルパーを登録してもらい7割の取り分とわが家の専属で他の人のケアには組み込まないという条件を認めてくれるのなら人材の調達もやりやすく、訓練して介護人として自分のケアプランに組み込むこともできます。将来的には重度障害者のグループホームのようなものを障害者自身の運営でやっていきたいと考えています。
 とはいえ障害福祉は介護保険との統合に見られるように大きな岐路に立たされています。行政はただ予算の帳じり合わせに奔走されており、欧米に目を向ければいくつかの先進的な事例があるにもかかわらず将来の障害福祉像はどの切り口から見ても絶望的ですらあります。先ほどあげた直接給付でうまくいかなかったいくつかの国は制度が移行した後で予算が削られたためでした。いくつかの制度化を視野に入れた試みは実験的に事例と実績を繰り返し積み上げて有効性を検証しなければならず莫大な時間とお金と労力を必要としますが時間的な余裕はあまり期待できません。今後確実に減額される予算の中で工夫を凝らした実践的な介護に取り組むにあたりサービスを受ける側も提供する側も自覚する必要があると思われます。

Q4 みなさんが取り組まれている活動や暮らしのことを社会の人たちにもっと知ってもらい、共感を呼ぶために、キーワードとしてつねづね考えられていることがあったら教えていただきたい。

【熊谷】難しい質問ですが、あえて言えば、多くの方に見てもらうことでしょうか。たとえば、うちの娘が小学校の時、クラスに障害児の友だちがいました。娘は、そういう友だちとクラスをともにすることによって、障害のある人が特別な存在ではないと知っていたと思います。また孫は、うちの奥さんがずっと車いすにいて呼吸器をつけているわけだから、彼にとってそれは非常に日常的なことです。だから彼は車いすの人でも、呼吸器をつけた人でも普通に接していると思います。そういうふうに知るということがものすごく大事だと思うんです。外に出ることによって、いろんな方が、声をかける勇気はないにしても見るでしょう。見て、ああ、こういう方が電車に乗っている、飛行機に乗っている、歩いてる、買い物してる、スナックで飲んでる、カラオケしている…。その体験によって、その方たちは2回目に会った時に別のイメージをもっていただけるのではないでしょうか。キーワードは一生懸命表に行って、多くの方にふれることだと思います。
(熊谷寿美さん:レッツ・チャットを使っての発言)「積極的に行動すること」
【吉田】“情報発信”(あるいは自己主張)と“交流”だと思っています。まあちょっと堅苦しい書き方になるんですけど……事故に遭うまではごく普通に外に出て、人に会って、話をして無意識のうちに社会参加をしていたわけですがそれができなくなってしまいました。おまけに満足に声が出ないものだから思ったことを相手に伝えるだけの会話をすることが難しい。電話も使えません。メールだけでは伝わるものが限られてしまいます。というわけで外出先で、でんっ、と車いすの上でふんぞり返っているのが今の所それなりの自己主張です。
 情報発信と言いながらもホームページすらいまだなく、音声による入力がもっと使いこなせるようになればチャットなんかにも手を広げていきたいのも確かなんですが、新しいツールが出てきてもなかなか使いこなせていません。とりあえず、ホームページくらいは立ち上げようとは考えているんですけど。

Q5 大阪頸損連のホームページの掲示板で、呼吸器を使っている人から、今入院中で退院を迫られていて次の病院がなかなか見つからないという相談があった。そうした方はたくさんいると思う。そういう方たちに対して、どうすれば病院が見つかるか、アドバイスがあったら教えていただきたい。

【熊谷】家内がALSになって27年間のテーマでしたね。どこかいいところがないかと、いろいろ見て探したこともありますが、なかったです。病気が進行していく過程で、多くのALS患者さんが抱えている悩みのひとつです。私の場合も、仕事が出張の時にかかりつけの病院に3週間ぐらいお願いしたこともありますが、なかなか難しいです。先日、ある病院がALS患者を含め呼吸器をつけた患者さんを受け入れるということで開業パーティーをされて、普通は呼吸器は2〜3人のところが、何十床とお持ちの病院が開業したという話も入ってきます。ただ、それが呼吸器をつけた患者にとっていやすい病院であるかどうかはよくわからないところがあります。ある医療法人が全国的にそういう病院を一生懸命建てているというニュースもあります。それが本当に患者にとって安心して行ける病院であれば、非常にうれしい話だと思っています。
【吉田】この質問に対する適切な回答はわかりません。今でも機会があればショートステイや呼吸器のリハビリを受けてくれる病院や施設を探してはいますが全くない状態です。緊急の際にも引き受けてくれる病院は決まっていないので救急車を呼んでも運ばれた先で引き受けてもらえるかは微妙なところです。
 10年以上前の話ですが府立病院からの退院が決まり在宅に移ることになったのですが家の方での準備が整わず時間を稼ぐために近辺の病院を片っ端から当たってみたところ家の近くの2つの病院が期限付きを条件に入院を引き受けてくれました。しかし呼吸器をつけた患者に不慣れだったためこちら側で24時間の付き添いをつけないと危険な状態でした。在宅に移る過程ではここで家族に介護のやり方を教えてもらえると期待していましたがそれもなく在宅療養に移ることになります。
 頚椎損傷は事故から在宅に移るまで家族はそれぞれの局面での対応に追われ落ち着けるような期間がありません。そして在宅に移行した後は、それがいいことなのか悪いことなのかは別として現行の制度では家族以外に介護の中心を担う存在はいません。その家族に対しての支援がないのが解せません。特に在宅に移る際には家族が介助の仕方を学ぶための期間があってしかるべきです。また家族の休息のためのショートステイも併せて制度に盛り込んでいくよう国に訴えていくべきではないでしょうか。
注 写真は省略しました。

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