全国頸損連絡会総会・第32回兵庫大会が神戸市舞子で5/7〜8の2日間に渡り開かれた。
大会参加者やボランティアを含む全体で2日間延べ250名の人が関わったその盛大さから、兵庫頸損連絡会発足3年目にしてその存在が充分に示された今大会。テーマは「在宅重度障害者と当事者組織のあり方」を検証する。
頸損連絡会や各地の当事者組織はこれまでどのような取り組みをしてきたのか。セルフヘルプ、つまり同じ境遇同じ体験を持つ者同士がいかにして仲間を支援し、あるいは支え合い、影響しあって前進してきたのか。今もう一度、在宅重度障害者と当事者組織の関係性を見つめれば、きっと今後の活動が見えてくる。
30年も前に頸損連絡会を立ち上げ、日本の障害者運動を牽引してきたベテラン当事者たちと、これからを担っていく若手当事者が、セルフヘルプ活動の必要性について語り合った。
また今大会は、国際交流としてアジアの隣国、韓国ソウルから当事者メンバーを招き、韓国頸損者の現状についても発言してもらった。
大会初日の講演会やシンポジウムの内容を紹介するとともに、大会実行委員メンバーが事前に韓国に渡って、兵庫大会への参加呼びかけをしてきた旅の様子なども報告します。
【鳥屋利治 /写真・講演要旨 合田享史 /韓国訪問記・宮野秀樹】
支援費が財源不足という理由で、人の人生に土足で権力が踏み込んできた。
これに立ち向かえるのは、全てを失った者こそできる。
これは頸損者として、人生極めて好機到来だ。このプラスを活かすのはあなただ。
【司会】みなさん、こんにちは。基調講演ならびにシンポジウムの司会をさせていただきます、兵庫頸損連絡会の坂上です。よろしくお願いします。
さっそくですが、今回のテーマとして「在宅重度障害者と当事者組織のあり方を検証する」というテーマでお話しいただくわけですけれども、今回の兵庫大会に際して、ちょっと隠れたテーマがありまして、それは、各支部活動をどういうふうにしたら活性化できるだろうか、という最初の話し合いのテーマがありまして。そういうところから、みんなでいろいろ話した結果、こういうテーマで講演とシンポジウムをやってみようということになりました。
今回は、頸損連絡会でそれぞれ活動をされていながら、頸損連絡会以外の活動をされている方々にお話しいただくことになりますが、シンポジウムも講演も含めて、みなさんがこれから支部活動を活性化していくうえで、何か参考になればと思っております。
それでは、AJU自立の家の山田さん、愛知頸損連絡会の会員でもありますが、山田さんから「当事者こそが専門家」というテーマでお話をいただきたいと思います。それでは、よろしくお願いします。
はじめまして。AJU自立の家の山田です。今日、みなさんとこうしてお話ができることをうれしく思います。
僕自身、昭和33年、1958年に頸損になりまして、47年もたちました。われわれの仲間で、脊損で60年ぐらい生きた仲間がおります。僕もそこまで生きるのが希望ですが、頸損になってもまちがいなく47年は生きられるという、ひとつの証であろうと思います。
意外に47年間という頸損歴は、そんなに多くないですよね。なぜだか知らないですけど、僕も頸損になったときに運ばれた町医者で、助かったのが初めてであるという。何年かに一人ずつは必ず海に飛び込んで、頸損になる者がいるんだということで、運が良ければ助かる。みなさんもそうした人たちだと思います。
今日は少し時間が押しておりますので省きますけれども、「福祉のまちづくり運動」というのが1973年に仙台で始まりまして、そこで出会った仲間と、同じように名古屋でまちづくり運動をしてきました。今日もいっしょに来ておる鬼頭義徳くん(愛知頸損連絡会)なんかも、いっしょに活動をしてきた仲間です。
そういう仲間が集まって、1990年に社会福祉法人を立ち上げました。僕自身も3年間、施設で措置されてきて施設でとっても嫌な思いをしてきました。二度と施設には入りたくないという思いをしてきただけに、当初は施設づくりの話は全くなくて、在宅でいかにがんばるかということをめざしてきたわけです。昭和59年に福祉ホームをつくってよろしいという法律ができたときに、それを「障害者の下宿屋」と位置づけて、下宿屋ならば一生施設に住むことはない。僕もそうですけど、頸損はひとつまちがうと一生施設の中にという現状があるわけです。下宿屋であれば、施設に一生いることはないだろう。そこでノウハウを覚えて、社会に出て行って生活できるシステムをつくりたいと、デイセンター(デイセンターサマリアハウス)と福祉ホーム(サマリアハウス)と授産所をつくりました。
授産所(わだちコンピュータハウス)も、障害者が働いて月1万、2万のお金で生きがいをもって働けるわけがないと、最初から月10万をめざして平成2年にスタートしました。平成8年から平均で月10万円の給与を払えるようになりました。今まだ悪戦苦闘しておりますけれども、要するにAJUは福祉のまちづくり運動の中から障害当事者が社会福祉法人を立ち上げた、ということがひとつの特色です。
そして、もうひとつ大きな特色は、スタートしたときの職員が17人で、その内の6人が障害を持った職員でした。6人のうち3人が頸損者。今AJUで施設長会議というのを開いていますが、8人のうち5人が障害者です。障害者が主体性をもって、施設を運営しているといえます。17人のうち6人が重度の障害者ですけれども、平成2年から平成8年になったとき、7年目にして月10万円という数字を達成したわけですから、障害をもっておるということは、けっしてマイナスではなかったんだ。逆に言うと障害当事者が施設を担ってきたから、あるいは仲間といっしょにつくってきたから、そういう数字が上げられたと自負できます。
いま4つの施設と11の事業をやっています。ヘルパーステーション、小規模の作業所、地域生活支援センターとか、そういうもろもろの事業をやっております。で、ヘルパー派遣をしてますので、ヘルパーさんがたくさんいますが、現在でも85人の職員のうち18人が、重度の障害者が職員として働いています。
わだちコンピュータハウスは、年間で平均で140万円ぐらいの所得があります。一昨年の暮れですけれども、その授産工賃に所得税を課すということで、国を相手にかなりやりあいました。異議申請を出して負けましたけれども、第二次の審査においては、これは所得ではないんだということで勝ちました。勝ったけれども、けっして喜ばしいことではなくて、ひとつまちがうと雑所得になるというと、所得税より低い60万〜80万で課税されるということにもなりかねないということで、いまだ予断は許されません。
また、知的障害の授産所(ピア名古屋)を1年半前からはじめました。これも知的障害だから1万円、2万円でいいということではなくて、「わだち」が7年後には月10万という数字を上げたように、知的障害も7年たったときには、月10万の給料が払えるようにしたいと決意して参入をしました。もちろんそれは、全くメドがなくってということではなくて、われわれなりにひとつの目安をつけて、知的障害の授産に入った。それは何かをするかというと、ワインをつくるということです。
愛知県境に多治見という、陶器で有名なまちがあります。そこに1930年からカトリックの修道院があり、そこで1933年からワインをつくってきた。そこが経費がかさみ、お荷物で持て余しているという話を聞きまして、無償で借り受けることができました。ぶどう畑とワイン。ぶどうは、日に数センチ伸びる。ぶどうはすべてお天道さまが育ててくれる。そして、その教会の地下に持って行ってつぶしていけば、神様がちゃんとワインにしてくれます。原材料費が要りませんから、うまくいけば、まちがいなく100万はいくぞというのがわれわれの願いです。知的障害者のために、ぜひみなさんにも飲んでいただきたいと思っています。
そういうことで、障害をもったわれわれこそが福祉の担い手であるんだ、ということを今日、みなさんにわかっていただきたい。今日は頸損連絡会ですが、脊損連合会という組織もあります。その脊損連合会の理事長も副理事長も頸損の人がやっています。どちらかというと、脊損連合会というのは労災の人たちが中心で始まってきたということですけれども、もう、その脊損連合会そのものも、徐々に頸損の人たちを中心にシフトされています。いま福祉として残された課題は、頸損の人たちを含めた四肢まひ者で、それを担っていく、リードしていけるのは、頸損の人たちこそがその集団のひとつだろうと思うんです。
僕自身としては、支援費をつくってきたのは、やっぱりILセンターが中心になってつくってきたと思う。昭和61年、頸損の中西正司くんがヒューマンケア協会を立ち上げて、当時まだ日本の社会では介護を買うという発想が全くなかった。われわれが聞いたときも、金を出して誰がヘルパーを頼むんだ? 制度のない時代にはそういう考え方だったわけです。でも、それから20年たったいまは、介護を買うという考えがあたりまえの社会になっている。
そしてJIL(全国自立生活センター協議会)が立ち上がったときもそうですけれども、最初はまだ20ちょっとの団体だったのが、いまや100を超すようになっている。施設から障害者がどんどん出てきて、ILセンターを当事者中心で担えるようになった。そういう時代が来たわけです。
ILセンターこそが、いま社会的に期待されている福祉の専門家であるんではないか。いままで私たちが専門家だと言ってきた人たちは、われわれ障害当事者の意向ではなくて、権力者の方を向いた、権力者の担い手、権力者の手先であると言わざるを得ないと思える時があります。手先なんて言うと怒られるかもしれないけど、現実にはそう思える時があります。今回、支援費の改正、グランドデザインの問題にしてもそうですけれども、当事者の意見よりも、国の意向を受け止めて、われわれにそういう制度を押しつけてこようというのは、いままでわれわれが専門家と称してきた人たちが、国の意見を補強してきておるだけの話で。だからこそ、障害当事者がいま期待している専門家は、当事者とともに、つまりわれわれ自身が事業を担っていける仕組みをつくることが、私たちに問われるわけです。ですから、障害をもつということは、大きなマイナスではないのではないか。
僕が47年前、1958年に頸損になったときには、僕の親父が働いて得る給料が月1万円の時代、毎月3万円ずつの医療費を払っておったわけです。本当に福祉は何もない時代です。僕自身は、250ベッドぐらいの中堅の病院に入院してましたけれども、当時まだ、その250ベッドの中堅の病院に、車いすという備品がなかったんです。僕は3年間、寝たきりの生活だった。やっと病院に備品として車いすが入って、車いすに乗ることができたという時代でした。親父が稼いできた月の給料の3倍の医療費を毎月毎月払っていたときには、もうすべてがなくなってしまう。もうこれ以上、下にはいくことがない、というところまでいくと、ある面では開き直りというか、そういう面ではとても強い。もうこれ以上、失うものはありませんからね。そういう時代でした。
障害をもつことによってプラスというのは僕自身、全く見えてこなかったけれども、時代が変わってきている。さっきも言いましたように、1973年に仙台で初めて「車いす市民集会」というのを開いて、当事者の声が出せるようになった。各地でそういう運動が起きて、愛知県でも「愛知県重度障害者の生活をよくする会」を立ち上げ、そして年を経るごとにその固まりが地域に散らばり、愛知県下に6つも7つもそういう同じような団体が立ち上がってきて、いまでもその人たちと連携をとりながら活動をしている。当事者こそがこの社会を変えていく原動力になれるんだと思っています。
障害当事者がいま期待しているものは何かといったら、私たちの立場をしっかり受け止めてくれる人である。それは、自分がそういう立場になったときに初めてわかる部分というのは、たくさんあるわけですから。そして、さっきも言いましたように、JILというのは全国で100を超すセンターができました。そのすべてが、代表と事務局長を障害当事者が担っている。全国の支援費の2割近くはJILがやっておるんではないかと豪語している。つまり障害者福祉、支援費の2割は障害当事者が直接担っているんだと言えます。これは数字的には、とっても大きな数字だろうと思う。500億の2割というと、100億が障害当事者自身のところで直接担っている。これをどう使うか、あるいはどうやって生かしていくかは、私たち自身に与えられた課題であると言えるまでになりました。
そう見てくると、障害はけっしてマイナスではないんだと。プラスがいま、いっぱい出てきたと、みなさんにも分かってもらえると思います。つまり頸損者は、障害をもった仲間のいちばん先頭を走っておると僕は認識しております。この特性をみなさんは活かすべきである。活用するべきである。あなたの障害を生かしてこそ、初めてあなたも専門家になれます。逆に言うと、いま、あなたが、あなたの障害を生かして社会のために使わなければ、まちがいなく近い将来、あなたは世間で言う社会的弱者という立場に置かれるだろう。あるいはひとつまちがうと、一生施設に閉じ込められるだろう。という思いがしませんか。
じゃあどうやって課題に、障害者に向き合うかというときに、今日も来ております、DPIの議長をしている三澤(了)くんを中心にして、この12日にも国と向かい合います。権力と向かい合うことで、あなた自身が見えてきませんかっていう。いわゆる権力と向かい合うことによって、社会的な弱者と言われるわれわれが見えてくる。そして、私たち自身がこれ以上、失うものがないということがわかると、きっとあなたの人生も変わると思う。当事者組織というのは、僕はそういうものだろうと思います。これ以上、失うものはないということを自覚できたときに、やっぱり変わってくるんだろうと信じます。
AJUは、アルコール依存症の、いわゆるアル中と言われる人たちのリハビリセンターもあります。これも典型的な当事者運動です。この人たちも、お酒を飲んでつぶれて身体を壊して、精神病院に入ってお酒を切って、という繰り返しを繰り返しながら、本当にすべてを失って生命というものが見えてきたときに、そこからはい上がってきて、リハビリされてきている。われわれは「名古屋マック」って言ってますけれども、名古屋マックの職員は、全員アルコール依存症者。いまカウンセラーは、もうアルコール依存症者でないとできない。彼らの不文律というのは、お酒を飲んだらクビということです。世間ではお酒を飲んでクビになる職場というのは、労働基準法でがっちりチェックされるだろうけれども、名古屋マックだけは、お酒を飲んだらクビ、そういう不文律になっています。つまり当事者組織の厳しさだろうと思います。
こういう仕組みで取り組んでいくということになれば、障害をもったわれわれは、こわいもの知らずです。つまり、なくすものはすべてなくした。後は、いかに社会的に弱い立場の人たちと手を組んで、はい上がってくるかということだけ。そうすると、いま社会がこれだけ高齢社会になってきて、福祉というものが非常に求められているときに、私たちの特性を生かす場は、いっぱいある。とにかく徹底的にプラス思考していくことが大事です。もちろん、私たちにもできないことは山ほどあるけれども、できないことよりも、できることの方が、積み上げていくとまちがいなく大きい存在になると思います。
だからこそAJUは、さっきも言いましたように、17人のうち6人が障害をもつ職員でスタートして、どこの施設にも負けない数字を上げてくることができた。たぶん、これ障害者でなく、健常者ばかりで始まったら、何となく障害者というものを見下して、こういう結果は得られなかっただろうと思います。そういう力をわれわれは与えられているんだ、という実感をもっています。
障害者だからできることがいまは山ほど出てきた。それを活かすか活かさないかということは、あなた自身です。AJUもそういう自覚のもとにやっています。支援費のヘルパー派遣でも、名古屋の総数の1割以上を担っている。215万都市の1割以上の数字を担っておるというのは、小さな数字ではないと言えます。
障害をもった仲間が所長として、あるいはコーディネーターとして福祉を担い、また、僕自身もそうですけれども、毎朝起こしてくれるのは、そして手伝ってくれるのは知的障害のヘルパーさんが、家事援助の部分は精神障害の人が2人来てくれて生活を支えてくれています。ですから、頸損がヘルパーになれるとは思いませんけれども、障害をもった仲間をそうやってヘルパーとして利用している。
もうひとつ、ホームレスをやっていた前歴のある人がヘルパーとして3人ぐらい働いています。AJUは障害をもっている当事者が担っているから、そういう発想ができるんだろうと思います。もちろんホームレスをやってきた人たちは、それなりの前歴はあるんだろうけど、前歴は関係ないと思っています。これからが問題です。そのかわり、これからうまくいかなければ、去って行ってもらえばいい。
その仕組みは、自薦式のヘルパーですし、セルフコーディネーターですし、とにかく、われわれがいっぱいヘルパーを派遣して、その中から好きな人を選んでもらって自分でコーディネートしていけばいい。今日、Aさんという人が来たら、「毎週月曜でいいですか」って、いいと言えば、これで毎週月曜日決まりですから。火曜日、水曜日、そうやって毎日決めていけばいい。僕自身もそうです。知的障害の人に毎日毎日毎日、朝7時に起きるところから手伝ってもらいます。もちろん今日もです。今日も、この服を着せてもらうまで手伝ってもらって、いっしょに仲間とこの会場に来ています。これは、障害をもったわれわれだけができる発想だろうと思いませんか。
ですから、障害は、けっしてマイナスではない。プラスの部分を活かしていくことを考えていくことが、これからの日本の社会の福祉の先行きのとっても大きなキーパーソンになると思う。
ひとつの例が介護保険です。介護保険で専門家と言われる人たち、特に、ケアマネージャーと言われる人たちは何をしてきたのか。要介護度4になったら、ほとんど施設に預けるだけです。ですから、施設が足りない足りない足りないということで、愛知県でも、今年度だけで10いくつの特養をつくります。障害者のわれわれや一部の行政が施設をつぶそうと言っています。反面で、専門家であると言われるケアマネージャーがやっていることは、施設をつくることをひたすらひたすら追い求めている。要介護度4になったら、もうまちがいなく老人ホームに行きましょうということになってしまう。これは当事者が行きたくて行っておるわけではないわけです。名古屋市の人に聞きました。老人ホームに行きたくて行っている人は、ほとんどいないんですよ、って言う。担当が言い切るわけです。
本人が行きたくないところに行かせる。そういう施設をつくっていく。これはおかしい。もし僕がケアマネージャーになったとしたら、そういうことはしない。支援費が大変だ、お金の面が大変なんだから施設に行けと言ったら、僕自身がいずれ施設に行きなさいと言われたとき、文句は言えなくなってしまうから、ひたすら在宅で支えていく仕組みをいかにつくるかを考える。これが、当事者である専門家のいいところです。
今日、この会場にも、事業所を立ち上げている人たちはたくさんおります。ノウハウはいっぱいあるわけです。そうして担っていけば、あなたが年をとって65歳になったときに、まちがいなく施設に行かない仕組みができる。これをつくらなければならないし、社会に生きる高齢者もそれを望んでおるわけです。ところが残念ながら、高齢者の人たちは当事者組織をつくることができない。その仕組みをつくる政治家にはけっこう高齢者がいっぱいいるけれども、元気な高齢者ばかりだから当事者とはいえない。だから私たちが、高齢者福祉も将来はつくっていく先兵だろうと思う。
そういう面で見てくると、あなたは障害者になってよかった。AJUも、やる気のある障害者を職員として求めております。鉦や太鼓で探しています。いっしょになって働いてくれる、汗を流すことをいとわない人は喜んで受け入れるという仕組みをとっています。しかし、当事者でいっしょになって働いてくれる人がなかなか見えてこない。ですから、みなさん、この兵庫大会を機に、あなたの障害を、あなたのプラスを生かさないで、この社会に生きていく道はございませんよ、ということを実感してください。
これは障害のあるなしにかかわらずだと思います。自分のもっているプラスを生かせる仕組みをつくっていくことが、その人が生きていくいちばんいい方法です。僕は障害があるけれども、それは僕にとって、とってもプラスである。このプラスを生かさないで、自分の人生というのはつくれない。ですから、頸損になってよかったという人生をみなさんもつくっていただけるといいなと思います。そうすると、日本の福祉はまちがいなく変わります。そして逆に言えば、いま変えなければならない時が来ているのです。
このまま国の方針に従えば、また、まちがいなく施設志向がはじまってきます。これをひっくり返すのは、われわれ自身の力でしかない。本物の福祉社会をつくっていくことが、われわれに課せられた使命です。ということで時間が来ましたので終わります。どうもありがとうございました。
【司会】今回は、当初の予定にプラスしまして、お隣の韓国の方からお客さんをお招きしております。大阪頸損連絡会と少し交流があった方をお招きしておるんですけれども、大阪頸損連絡会の事務局長の鳥屋さんの方から紹介をお願いします。
【鳥屋】ソウルのみなさん、アンニョンハセヨ。今日は、ソウル自立生活センターから総勢9名の方が来られています。当事者4名、介助者の方、スタッフの方です。これからソウルCILのピアカウンセラーであるKim Jun woo氏に、韓国の現状について、お話しいただきたいと思います。それではさっそく発表の方、よろしくお願いいたします。
@病院生活(1993年11月〜1995年4月)
障害を受け入れる過程は、一般的に、否認→怒り→諦め→受容の段階を通ると言われている。もちろん私の場合も例外ではなかった。
18歳の高校3年生。大学受験の後、交通事故による頸椎三番の損傷によって障害者になった。非障害者として生活していたある日、突然障害者になったので、どうやって障害者になるのか、障害者はどのように生きているのか全く知らなかった。最初は自分自身が障害者になったという事実すら分らなかったので、手術後、治療やリハビリをすれば治るものだと思っていた。6ヶ月が経っても好転する気配はなく、「こうやって障害者になるんだ」と思いながら、世間に対する怒りが込み上げてきた。この怒りの時期には「何故、よりによって私が・・・」、「指一本動かせない重度障害者の身でどうやって生きていけばいいのか」という解決策のない思いだけが駆け巡っていたので、このままでは生きていけないと思っていた。それで自殺を考えたが、死ぬ力さえ私にはなかった。高い所から飛び降りようとしたが、車いすを押してくれる親切な人もいなかったし、飢え死にしようとしたが、これもまた、病院の医療関係者の邪魔で失敗した。他にもたくさんの方法を試してみたが、死ぬほうが私にはもっと難しい事だと悟り、それからは、生きていくための方法を探し始めた。どうせ障害者として一生を生きていかねばならないのなら、障害を受け入れたほうが自分の為に良いと思うようになった。
A施設生活(1995年4月〜1995年5月)
私が非障害者だった時、家ではすでに父が中風で倒れていた。その上私が障害者になったので、我が家ではある意味、二人の障害者がいることになった。一家に障害者が二人いることで、家の雰囲気は全体的に重くなり、障害を抱えている当事者のみならず、家族にも大きな負担となった。交通事故に遭う前から、父と家族の闘病生活を見てきたので、私まで同じ生き方をしたくはなかった。それで、施設に入ったほうが、私だけではなく、家族みんなのためにも良いだろうと思った。しかし、施設に入ることも簡単ではなかったが、施設に入ってから生活していくのも簡単ではなかった。施設での生活は、衣食住だけで満足する動物的な生活に適応しなければならなかった。決められた時間に起きて、食べて、寝なければならなかったし、毎日、何も考えないで過ごすために努力するのが精一杯だった。それ以上の何かをするという事は出来なかった。20歳の私には、勉強もしたかったし、夢もあった。もともと人間という動物は食べるだけでは満足できないはずだが、そういう動物的な生き方に満足しなければ、やっていけない所だった。
1週間が経つと、いつの間にかこの生活に慣れていく自分自身が恐くなって、結局、施設を出ることにした。施設の生活に完全に慣れてしまったら、取り返しがつかなくなると思った。それは、人間としてのキム・ジュンウが無くなるということだからだ。
B在宅障害者の生活(1995年5月〜2003年5月)
家での苦しい生活が始まった。生活するためには、友人やボランテイアの手助けが必要だった。彼らの手助けを受けて、私が求めている事をしていきたかったが、ボランテイアを募集し、管理するためにほとんどの時間を費やしていたので、まるで主客転倒といった有様だった。ボランテイアの遅刻や約束不履行によって、スケジュールが狂ったり、不利益を被ることが頻繁に起こった。ボランテイアだけに頼って重度障害者が日常の生活を維持していくのはとても辛いことだった。
私に出来る事を探してみたが、指一本動かせない重度障害者に出来ることは皆無に等しかった。色々と悩んだ末に見つけたのが放送通信大学に進学して勉強をすることと、口で筆をくわえて絵を描く事だった。障害者になって以来、初めて満足感を味わったのは絵を描くことだった。多くの障害者が進出できる代表的な社会活動が、文学,芸術に極限されているのが嫌で、はじめは絵を描くことにそれほど気乗りがしなかった。障害者が多方面で活躍出来るようにならなければならないと思ったからだ。
ボランテイアの手助けで、絵と大学を続けられたが、私の中には自立したいという欲求がいつも潜んでいた。
C自立生活(2003年6月〜現在)
国立再活院の社会福祉士を通じて知った正立会館の同僚相談学校は、私の中に潜在している自立に対する欲求に確信を持たせてくれた。その後のチョン・インウク福祉財団の支援で修了した自立生活リーダー研修6ヶ月の過程は、自立生活に挑戦する決定的なものとなった。大邱(テグ)の実家から住まいをソウルに移し、自立生活を始めると言った時、母は「今、家を出て行ったらあなたは死ぬ」と言いながら猛反対した。しかし、私は「望まない生活で10年生きるより、望む生活で1年生きて死にたい」と、母を1年あまり説得し続けた末、ついに「危険にさらされる権利のある」自立生活を始められるようになった。
現在、韓国でも重度障害者の自立生活のための社会的な支援が示範的に行なわれている。共同募金会の支援を受けている障害者自立生活センターの数箇所で実施されているが、センターごとに基準が異なる。うちのセンターの場合は、月に100時間程度の支援を受けているが、実際、この活動補助サービスだけでは自立生活は不可能である。活動補助員、ボランテイア、ホームヘルパー、友人など活用可能な全ての人的支援を活用して、はじめて自立生活が可能になるのである。
私の場合は、ヘルパーを1回につき1〜2時間程度,週に3回受けているが、自立生活センターから提供される活動補助サービス以外の活動補助サービスについては、個人負担で賄っている。センターで仕事をして受け取る給料の半分以上を活動補助サービスの費用に使っているので、生活費はいつも足りないのが現状である。それでも自分自身が求めている自立生活をするのが優先であるため快く感受している。
@経済環境
韓国では障害年金はなく、基礎生活受給権者である障害者には、月に6万ウオン(日本円で約6千円)程度の障害手当が支給されるが、生活には全く役に立たない。受給権者でない障害者が政府から受ける実質的な支援はない。したがって、生計のためには個人的な所得活動を余儀なくされているが、重度障害者に出来る経済活動の幅は狭く、活動場所も非常に少ない。この環境は、重度障害者が家族の支援で生活を営んでいかざるを得ない最も大きな原因となっている。このような理由からも自立するには、経済的な問題が大きなウェイトを占めている。幸い私は経済活動をしているので、経済的な自立は成し遂げられたが、活動補助の費用として所得の半分以上を使っているので、生活は少し苦しい状況である。けれども現在、韓国では障害者年金法制定運動が始まっているので、経済活動が出来ない障害者にも、経済的に自立できる日は、そう遠い未来ではないだろうと確信している。
A住居環境
韓国では、四肢麻痺重度障害者のうち、一部は施設やグループホームで生活しており、それより重い重度障害者は病院で生活するか、家の中に放置され、家族に負担を与える厄介な存在として生きているのである。障害者が求めている住居は、個人によってその差はあると思うが、地域で自立生活をするための住居環境を整えるためには、多くの困難が待ち受けている。
韓国の住宅は、所有と賃貸の形態がある。所有は日本と同じであるが、賃貸には、敷金のみの専貰(チョンセ)と、敷金が少し安い代わりに、毎月家賃を支払う月貰(ウオルセ)がある。いずれの場合もとても高いので、住居の確保に当たっては困難であり、政府か支援している賃貸住宅もあるが、数が少ないために、もくろみに待たされる状況である。このような苦労の末に、住宅を手に入れたとしても、賃貸の場合は、設備を設置するためには大家と話し合う必要があるし、設置しても契約が完了して引っ越すたびに設置し直さなければならない煩わしさがある。しかし、所有住宅であっても、設備を設置するためにはたくさんの費用がかかる。この費用に対する政府の支援がないので住宅改造費を支払うのは大変な事である。
一方で、韓国の障害者の住居環境も次第によくなりつつある。新しく分譲されるアパートは、障害者の要求に合わせて段差を無くし、トイレのドアを広くするなどの住宅改造も施工され、新しく建てられるアパートの玄関入り口には、ほとんどスロープの設置が施されている。
私の場合は全貰(約6千万ウオン。日本円で約6百万円)で、1988年ソウルパラリンピックの時に、障害者選手村として建てられたアパートに住んでいる。このアパートには、スロープ、トイレなどの設備が整っており、特に改造しなくても生活が可能である。
B社会環境
韓国の障害者達の教育環境は軽症障害者の場合一般学校で、統合教育が行われているが、重症障害者の場合は、特殊学校で、非障害者と隔離され行われている。高校生の時障害を受けた私の場合も、キャンパスに通学しなければならない大学には進学できず、インターネットや、放送などで、講義が聴ける放送通信大学で教育学を専攻した。まだ大変足りないものの、障害児を持つ親達の運動や障害者担当者の運動が広まっているため、非障害者と、精神障害や、身体障害を統合する教育環境が出来上がるものと信じている。
障害者達の移動手段についての選択権も大変制限的である。代表的な交通手段である地下鉄は、ソウル、釜山、テグ、光州などの地域にはあるが、そのたの地域にはなく、地下鉄がある地域の地下鉄利用も便利施設の不足のため、多くの時間と努力が必要である。バスの利用は殆ど不可能であり、幾つかの都市では、障害者コールタクシーという、リフト付きのタクシーが運行されている。しかし、中央政府や、地方自治の団体が、色んな交通手段について悩んでおり、地下鉄駅ごとにエレベーターを設置しはじめており、ところには、ノンストップバスの運行を始めている。
持続した増加の様子を見せている、自立生活センター達も、移動バス制度を実施しているため、重症障害者達の社会活動は、だんだん増えるだろう。
C障害者の仲間の集い
頸髄損傷者の情報を入手できる所は再活病院か、親睦レベルで集まる頸髄損傷者の非定期的な集まり、再活情報誌、先輩の頸髄損傷者から話を聞く程度である。床擦れ、排泄、膀胱管理などに関する情報も非公式的な経路で入手するのがほとんどだ。脊髄損傷者協会はあるが、頸髄損傷者の公式的な集まりはまだない。現在、ソウル障害者自立センター内で、仲間同士の集まりがあるが、違う障害を持つ障害者もいるので、頸髄損傷者だけが抱えている問題を十分に話し合う事が出来ない。この状況を踏まえて、頸髄損傷者だけの集いを持つ必要性を痛感している。
社会的な支援が殆どない現実の中で、重度障害者が自立生活を行うのは容易い事ではない。しかし、自立生活を望んでいる障害者は誰でも自立生活できる社会にならなければならないと思っている。私一人が自立生活出来るからといって満足できるものではない。障害者は施設で生活すれば良いという偏見のある地域社会を、自立して生活するのが当たり前だという認識に改善していくために働きかけることと、政府レベルの支援がなされ自立生活を望む障害者は誰でも自立生活をできるようになってこそ、私も本当の満足感を覚えられると思う。私一人だけ自立生活を送るために、自立生活を始めた訳ではない。同じ障害を持っている多くの障害者が、自立生活をして人間らしい生き方をして欲しいと願っている。そのためには、活動補助サービスと関連する制度をつくらなければならない。障害者が望んでいる真の活動補助サービスを提供するために、一緒に悩み、解決していくのが活動補助コーディネーターである私の仕事だと考えている。
自分自身の自立生活に全てを賭けたように、他の障害者の自立生活にも全てを賭けるつもりでいる。けれども、一度に多くの事を望んではいない。一人一人の自立生活を準備し、支援する過程の中で、私は喜びを感じていこうと思っている。一人一人、自立生活をしていく障害者が増えていけば、いつかは自立を望む全ての障害者が自立できる日が必ず訪れると信じている。
現在、私がしている仕事は、ソウル障害者自立生活センターで、活動補助コーディネーターと仲間の集いのリーダーである。仕事に十分慣れているわけではないが、この仕事が私を含めた全体の障害者と直結する問題であるため、他人のことではなく私のこととして取り組んで行こうと思っている。
(日本語訳:呂順行)
【司会】それではシンポジウムを始めさせていただきたいと思います。「在宅重度障害者と当事者組織のあり方を検証する」というテーマで、ちょっと“わがまま”な方たちに話していただきます。それぞれの立場から、頸損連絡会以外の活動を通じての当事者の関わり方というところでご発表いただいて、みなさんの参考にしていただければと思います。
当事者こそが専門家であるということのひとつの証として、今年、名古屋が元気だと言われております。それは中部国際空港が開港したことと、愛知万博(愛・地球博)が始まったこと。実はこの2つにAJUが非常に深く関わっておりまして。というか、お金をもうけさせてもらったと言った方が正解だろう。
中部国際空港ができるときに、ユニバーサルデザインということを言い出した。これはもう、われわれの専門分野であるということで、AJUにコンサルタントをやらせてほしいと要請したわけです。2000年からコンサルタントをさせていただいておりますから、総額で6000万ぐらいのお金を延べでいただいてきた。
それはAJUだけでは決してできません。AJUはコンサルタントですから。空港には専門家の人たちがとっても興味を持っておられて、「お手伝いしましょう」と手弁当で手伝っていただいて、それをわれわれが事務局として働きかけたということです。それと、もちろん当事者ですから、いろんな障害者団体を回って、あらゆる障害をもった人たちの専門部会をつくってきました。延べで1500人近い人たちが会議を開いて、空港をどうする、ああするという議論を重ねてやってきました。それなりにお金もかかるんですけれども、そういう仕組みをAJUがつくった。そういう面では、空港も、われわれの声が、千何百人の声が入っているわけだから、他にはない仕組みができてきたと思っています。
愛・地球博も同じです。ただ空港とのちがいは、万博は185日という仮設ですから、最大限妥協をします。その妥協の部分はどうやってまかなうのかというと、ソフトの部分でまかなおうということで、そういう大きなイベントをするときにはボランティアセンターを立ち上げます。その中枢にわれわれが入っていく。たとえば福祉部会というと、ウチの鬼頭義徳が部会長になってとりしきってやるという仕掛けをつくったり。それからボランティアだけでなく、そこで職員として働いている人たちの福祉教育についても、われわれの方で担って、それを全部お金に換えていくという仕掛けをつくった。これも障害者でないとできない仕事だと僕は信じています。
2つの国家プロジェクトに、企画の段階から障害者団体が関わることができたということは、とても大きな仕組みだろうと思います。こういう仕組みがどこにでもできてくれば、まちづくりというのは、そんなに難しい問題ではないんじゃないか。いまは時代がそっちの方を向いておりますから、そういう仕掛けをつくっていく。ただ非常に細かい部分でいうと、やっぱりまだまだ、私たちが使いにくいものはいっぱいある。たとえば視覚障害や聴覚障害、特に弱視あるいは難聴の人たちの声をきちっと丹念に拾っていくということでは、非常に遅れている部分がある。頸損だからこそ、そうしたいろんな障害者の人たちの立場のことを考えて仕掛けをしていくことで、仕事につなげてきました。
万博会場には330台の車いすが置いてありますが、これがだいたい11時ごろには、なくなってしまうんだそうです。いまは、そういう時代が来たわけです。ということは、それだけ社会の中にニードをもった人がおるわけだから、ありとあらゆるところにニードがあるわけですよね。それがまだ表面化してないところが多くあります。その表面化していないところを私たちが表面化していく。さっき言った、障害というのはプラスですよというのは、そういうことではないかなと思う。
今回のテーマは、当事者組織によるサポートということで、障害者、四肢まひの人にとって、おとぎの国みたいなのが、アメリカ・カリフォルニア州のバークレーです。ここは当事者が当事者をサポートしているまちで、私は過去3回、訪ねました。
バークレーを障害者のおとぎの国に変えたのが、エド・ロバーツです。ポリオ後遺症障害者で、人工呼吸器利用の四肢まひ者でしたが、自立生活センターの創始者で、カリフォルニア州のリハビリテーション局の局長でした。きわめて重い障害のある人物が、2500人の部下をもつ州政府機関の管理職を務める姿は衝撃的でした。
20〜30年前から、アメリカでは呼吸器をつけた四肢まひの人たちが、世の中を大きく変えてきております。いま日本も20〜30年たって、ちょうど追いついてきたんじゃないかと思います。その象徴が介護保険であり、支援費であると思います。
障害者の関わりによるヘルパー組織の立ち上げという話ですが、4つの条件を満たしたら、給料を払えるヘルパー組織になります。(1)法人格を持つこと。(2)事務所を持つこと。(3)サービス提供責任者を持つこと。サービス提供責任者になれるのは、正看護師、准看護師、介護福祉士、1級ヘルパー、3年以上の経験のある2級ヘルパーです。(4)2.5人以上の登録ヘルパーさんが常勤でいること、です。条件がそろうと、都道府県知事あるいは政令指定都市の市長から指定を受けることができます。
2002年6月に有限会社ワーキング・クォーズを設立し、2003年4月に福岡市から指定居宅支援事業者の指定を受け、障害者ヘルパーステーションの事業を開始しました。2004年2月には、介護保険の指定業者にもなりました。現在、通算で利用者さんが34人になります。2年前に始めたときは3人でした。登録ヘルパーさんは120人で、毎月50人ぐらいのヘルパーさんに給料を払っています。山田さんが言ってますように、障害者がメリットがあるところもあるだろうと思います。こういう仕事に関しては新規参入しやすかった。新しいマーケットだということで、2年間、何とかやることができました。
現在の日本は競争社会です。厳しい競争社会です。特に仕事の面においては、いちばん競争の激しい場所です。そこに障害をもっている人が個人で競争に入っていくと、大変厳しいし、大変な状況になります。ただ、チームとして闘っていけば、いろんなプレーヤーが入っていけるすきまが出てくる。身体が動かなくても電話番はできるし、人の話を聞いてあげる役割もできるかもしれない。当事者組織というのは、そういうチームであるかもしれません。
障害者にとって、車いすに乗って生活するという、こういう不便な生活も非常に苦痛なんですが、やっぱり、人間にとっていちばん良くないのは孤独だろうと思います。町中に住んでいても、情報が来なければ孤独です。孤独になったら、人間ろくなこと考えて行動しません。孤独をどうにかするのが仲間でしょう。とにかく孤独にならないように、それぞれの好き嫌いはあっても、ネットワークをサポートし合っていけたらいいと思います。
怪我してから、私がいちばんありがたかったのが、そこにいる、広島から来られている大竹(保行)さんをはじめ、そういう頸損の友達の人たちからのサポート、磨き合うという環境です。みなさんも怪我した後の一生の友だちを探して、長い長い友だちをつくって、お互いに競い合い、磨き合っていただければと思います。
私は山田さんほどじゃないんですが、それでも頸損歴33年ということで、18歳のときに怪我しました。3年間のリハビリの末、自分の生まれ育った街に帰って来て、いまのようなインターネットもないし、まずは自分がこれからどうやって生きていくんだろうという中で、まず情報集めをしたんですね。そこで市の福祉課を訪ねようと思って市役所に行ったところ、入り口が階段で車いすで入れなくて、憤りを感じたのを覚えています。
いまから33年前、1970年ぐらいからが、全国的にも重度の障害者の社会参加の夜明けの時期だろうと思います。山田さんから話がありましたように、仙台で始まったまちづくり運動、モデル都市の指定の第1号が仙台だと記憶しています。静岡、愛知、東京の東海道ベルト地帯の障害者団体の連帯もそのころ、仙台の集会をきっかけに始まりました。
その中で静岡県は東西150キロという非常に細長い県で、愛知のように豊田や名古屋といった各まちごとに組織が入ってるんじゃなくて、全県を網羅した形でだいたい1400名ぐらいの「静岡県車椅子友の会」という、特に脊損を中心にする集まりだったんですけど、全県レベルの当事者の社会参加、まちづくり運動を始めました。
どんなことを社会に訴えたかというと、当座は生活圏の拡大ですね。それから介護保障、それから医療費の助成。いまのような医療費の助成の制度はなかったですから。そうした活動を通じて、少しでも自分たちが社会参加できる土壌をつくっていくということで、まず私が藤枝市で取り組んだのが、環境整備要綱です。これを1979年、国際障害者年の2年前にすでにつくっていただき、市の建物、公共性の高い建物についてはバリアフリーにしなさいという、そうしたまちづくり運動が中心でした。
それから国際障害者年を迎えるにあたって、就労の場づくりを考えました。資本主義の世の中で、自分たちが健常者と同じラインに立って肩を並べていくのは大変なことで、どういう方向で社会的、経済的な自立ができるんだろうと。最初に取り組んだのがパソコンです。いまでいうSOHO、在宅就労というか、家でパソコンを使っていかに仕事に結びつけられるかを模索しました。パソコン教室は20名ぐらい学んで、1〜2人がようやくプログラマーまで進んで、小さなホテルの就労に結びついたぐらいでした。パソコンというものも実際、それなりの専門的な知識をもって死ぬ気で勉強しないと、健常者に太刀打ちできるような就労は得られないとわかったんです。
そんな当事者の社会参加の機会を模索しながら今日まで来たわけですが、その中で、頸損連絡会を静岡で立ち上げたきっかけは、1987年に「車いす市民全国集会」を静岡で開いたときに、それまでの市民集会の参加者は、労災や厚生年金で所得が保障されている脊損レベルの人たちが多かったんですが、もっと頸損を中心とした重度の人たちの福祉も充実しなければいけない、それを社会に対して、行政に対して、マスコミに対して訴えなければいけないということで、集会を開催したんです。その後、在宅の頸損に対する情報提供や自立生活プログラムを実行して、社会参加のためのレスキューワークをしようと、頸損連絡会を立ち上げました。
そうして1997年にNPO、生活支援センターを地元で立ち上げるわけなんですが、それまでずっと、われわれが社会参加できる機会を模索してくる中で、どうしても健常者と肩を並べて同じベースに立って仕事するというのは、すべての障害者には難しいと感じていました。そんなとき、市町村障害者生活支援事業が、障害者プランの中のモデル事業としてスタートした。これを聞いたときに私は、われわれが求めていたのはこれかもしれないと。これは障害者でもできる仕事というよりも、障害者だからできる。自分たちが長い間、地域の中で自立しようと思って、いろんな勉強をしてきた、経験を積んできた。そういった経験ノウハウが、相談業務の中で、あるいは生活支援、自立生活プログラムを提供する中で生きていく仕事だと。
ということで、この生活支援事業を1997年から立ち上げて、現在に至っています。いま職員が6人体制で、そのうち4人が車いす使用者、1人が精神障害者、健常者は1人です。利用者240名、サービス提供エリアは広域事業としてやってますので、3市2町で事業を展開しています。生活支援事業では三障害総合支援ということで、知的障害の生活支援センター、精神障害の生活支援センター、それから身体はウチの生活支援事業と、三障害の生活支援センターのコーディネーターがいっしょになってケース会議を行って、その中に市町村の行政職員も参加して、一人の人に対する支援を、それぞれの立場からどういうふうにやっていくんだ、という形で支援活動、相談活動を行っています。あとサービス提供としてはアテンダントシステム、ハンディキャブによる移動サービス、それから地域交流事業という形で、総合的な事業を展開しております。
ただ今後の課題として、この相談業務を進めるうえでの事業費は、自分たちが納得のいくほどの事業委託費がなかなか受けられないということがあります。で、半分は自立生活センターとして、もともとお金のないところからはじまったので、もう少し納得のいく形で公的な補助が出たらいいなと思う反面、自分たちで会をつくりあげていく、地域の人たちやボランティアといろんな形で協力してやる、という部分のハングリーさも失いたくないなと思っています。これからも綱渡り状態が続くと思いますが、しかしながら、自分たちの障害当事者としての専門性、あるいは特殊性というものがずいぶん発揮できる時代になってきたと実感しております。
坂上さんの最初の紹介で“わがまま”な方たちとありましたが、“わがまま”じゃないと私はいけないと思う。やっぱり人間は本来、欲求の動物ですから、自分がやりたいと思うことは素直に具現化していく、行動に表していくというのが大切だろうと思う。私が自由な生活を求めて、もともと地域の中で暮らしていたんだから再び地域に戻りたい。元の生活に戻りたい、まず戻りたいという欲求です。その中で、いままでの生活にどれだけ近づけるか。そういう強い欲求は持つべきだろうと。
何がそういう欲求を生むかというと、やはり周りの刺激だと思います。ロールモデルとなる人間、私にも、ああなりたいという先輩がいた。いま自立生活をされているみなさん、後輩に対して、目標となれるようなロールモデルに自分をしていって、こんなにも自立生活は楽しいんだ、社会生活は楽しいんだという魅力を与える、刺激を与えるのが先輩としての責務だと思います。そういった刺激を受けて、自分の目的に対して貪欲に、あらゆる手段を使って、それを実現していくという“わがまま”さ、これが基本的になければいけないと思います。
私は、私自身が受けてきて感じたもの、「セルフヘルプの重要性」ということでお話しさせていただきます。
まず受傷直後ですけれども、当時、私、兵庫県の社町という非常にど田舎で生活してまして、そこで交通事故を起こしたんですが、入院した病院では、重度障害者の頸損者を受け入れた経験がなかったんですね。首から下が動かないという状態は、恐怖と不安でしかありませんでした。自分がどういう状態なのかわからない。「これからどうなるのか?」という言葉が、自分の中でぐるぐる回っていました。
そんな中で、私を変えた出会いがありまして。あなたと同じ障害の方がおられるよと紹介していただいたのが、田村(辰男)さん(兵庫頸損連絡会)でした。自分のこれからの将来を見るみたいで本当は会うのがこわかったんですが、実際会ってみると、電動車いすに乗られて、パソコンなんかもされている。アメリカに旅行に行かれた写真を見せてもらったり、口に棒をくわえてテレビのリモコンなんかを操作されている。衝撃的な出会いがここであったわけです。
彼から言われたのは、「とにかく外へ出なさい」ということと、「母親に負担をかけないように」。外へ出なさいというのは、とにかく外へ出て、いろんな情報を得なさいと。母親に負担をかけないようにというのは、やはり私たち重度の障害者は、在宅であれば、介助の中心は母親が主だと思いますが、そういうことが背景にあって言われたと思うんです。これが後々の、現在の私に影響力を与えています。
やはり出会うということが重要で、そこからたくさんのことを学ぶことができる。自分の障害を詳しく知るには、やはり同じ障害を持つ仲間の情報交換が必要だと。本当のところは知ってみなきゃわからないということですね。その中で田村さんから、在宅で生活をしている方もおられるということで、大阪頸損連絡会を紹介していただきました。行ってみて、びっくりしたんですね。それまでは同じ頸損では田村さんしか知らなかったんですけど、車いすの方がたくさんおられて、楽しそうにしてるんですね。で、普通に私を輪の中に入れてくれるんです。これは非常に印象的でした。
その後、兵庫県立総合リハビリテーションセンターに入院するわけですけれども、ここでも多くの仲間と出会えました。みんなががんばっている姿に勇気づけられるというか。しかし、残念なことに阪神淡路大震災で被災して、重度障害者は病院では面倒みれないということで、すぐに退院させられてしまうんです。本当は在宅生活に入る前に訓練する訓練課という場所があって、そこに入りたかったんですが、当時は重度の障害を持つ者は受け入れが難しいということで断られてしまいました。だから、やむなく実家に戻ることになったんです。
家族との生活の中で、しばらくの間、寝たきり生活が続いていたんですけど、いろんな情報交換を得て、とにかくやるべきことは車いすで生活することなのかな、ということで車いすで生活できるための住宅改装を行いました。また、やはり情報が重要だということで、インターネットを扱えるように、パソコンができる環境もつくりました。
その在宅生活の中でも、全国頸損連絡会やリハビリ工学カンファレンスに出向いたり、とにかく出ることを心がけて、当事者に会うことを心がけていました。また大阪頸損連絡会にも「街へ出よう」などのイベントに参加したり、私個人の活動としては、コミュニティFMのパーソナリティをしたり、インディーズムービーの制作をしたり、このころからひたすら外に出ることを心がけていましたね。
ただし、やはり問題点がありました。介助の中心は母親であること。外に出るためには、家族や友人に頼りきっていること。それを解消しようとしても、地域に福祉制度がない。ホームヘルプとかガイドヘルプとか、そういった制度が全くない。外に出ているから一見、生活ができているように見えますが、すべてを家族に依存している状態で、限られた形の自由という感じしかしませんでした。
その中でいちばんおそれていたのが、介助で母親が身体をこわしてしまったことです。ここで非常に思い悩んだんですね。それから事業所設立ということになるんですけど、きっかけは田村さんから誘われたということがあるんですが、実は事業所を設立なんてことは夢にも思ってなかったんです。この時期、支援費制度がスタートするということで、たくさんの方が当事者事業所を立ち上げられたと思うんですけど、田村さんなんかであれば、やはり施設が嫌である、そういうところには戻りたくないと。私のような家族に依存している者は、やはり重度障害者にサービスを提供してくれる事業所がないということがあって、いちばん強い思いは、自分の住みたい地域で自立生活をしたいということでした。
だからこそ、本当にほしいサービスは自分たちでつくるしかない、ということです。自分の置かれている現状の中で、私は闘える基盤がほしかった。自分が起こした事故がもとで障害者になったんだから、最後まで自分が責任をとりたい、親に責任を負わせるのはナンセンスだ、ということが強くあったので、それが事業所を立ち上げたきっかけです。で、小さいながらも、たくさんのスタッフに支えてもらいながら、事業を展開できています。
その事業所設立と同時に、私の自立生活もスタートしたわけなんですけれども、やはり事業所の存在は大きくて、ライフサポートはりまがあったからこそ、一人暮らしができたというのも事実です。当初不安なことがたくさんあって、支援費制度もあまりにも少ない。本当に小さい町なので、町行政は自立に対して非常に理解がない。また、アクセス環境が悪い地域ですね。車がなければ、電車やバスはほとんどないですから。そういう場所で自立生活ができるのかということが、いちばん不安でした。
家を探すときから壁にぶつかりました。障害者であると言えば、どこも貸してくれませんでした。制度が充実した地域に出ることも考えましたけど、やはり自分が生まれ育った町で住みたいということで、思い切って社町という小さな町で自立生活を始めることにしました。ラッキーなことに、長年空き家になっている場所を交渉しまして、自立生活を始めたわけですけど、何とか家の中、あまり改装しなくても暮らせるようになっています。
ただ現実はやはり厳しく、本当に少ない支援費で、ぎりぎりの自立生活を送っています。実態があれば、何とかもう少し交渉して、時間数を伸ばせるんじゃないかと考えたんですけど、やはり町行政は理解がなく、何よりも介助者の確保の難しさがあります。高齢者のホームヘルパーはわりとメジャーになっているんですけど、障害者に対しては、ほとんどの人が何をやったらいいのかわからないということで。同性介助者となると、とんでもない。募集しても全く来ないという状態で。私が面接をすると、ぎょっとされる方の方が多いですし。これは現在でもまだ解決していないことなんですけど、それでもやはり、非常に楽しいというか、言葉にできない充実感がありまして、やはり事業所を設立してよかったな、と活動の方にも力が入る、という感じですね。
ライフサポートはりまは、どんなに重度の障害者でも、適切なサポートさえあれば、自立生活が可能であると考えて、以前ならば不可能とされてきた24時間介助が必要な最重度の障害者の自立生活の実現に取り組んでいます。実際、私自身がそれを受けていますし、これを地域に広げていきたいということなんですけど、しかし、まだまだやはり、自立生活を支援するということでは問題が多いです。兵庫県では、交通機関のアクセスが非常に悪いことと、地域格差が激しいことがあります。設立してまだ3年ですから、これからいろんな事業展開をしていきたいと思っています。
最後にセルフヘルプの恩恵ということで、私自身が当事者からセルフヘルプを受けて、実際に事業所を設立するまでになったということです。何が言えるかというと、セルフヘルプは重要であると。私自身が経験して非常に思っているので、いまの出会いというのがなければ、いまの自分はないということです。
これから、やっていかなければいけないのは、セルフヘルプを次へつないでいくこと。情報交換を望む頸損者は多いと思いますし、たぶんみなさんもそうだと思うんですけど、自分自身が受けたことを返していきたいと。当事者のことがわかるのは当事者である、ということがいちばん重要であります。
2年前に発足した兵庫頸損連絡会ですけれども、自立支援はライフサポートはりまの方でやっていきたいと思いますし、セルフヘルプの方は兵庫頸損連というものを、これから兵庫県という広い土地の中で、もっと当事者に参加していただいて、何とか活動を盛り上げていきたい。私がいま言えることとしたら、田舎でもその気になれば暮らすことができるんですよ、ということ。これから頸損者の方に伝えていきたいことです。在宅障害者に対して当事者組織が関わっていけるのは本当に重要なことだと思いますし、みなさんが自分らしく生活ができるよう支援していきたいと考えています。
【司会】今日は、日本の4人の方、それからKimさんも合わせて5人の方にいろいろとお話しいただいんたですけれども、宮野さんとKimさんは、日本と韓国で同じような生活をたどって来られて、やっと自分でサービス提供をするところまで来られたというところです。Kimさんの進む道の先には、井出さんのような姿や、もっともっと先には、山田さんのような何千万もとってやるぞという道が開けているのかもしれません。
清家さんは、サービス提供でも有限会社にする、いってみれば大上段に構えて健常者社会で生きていくというシステムを選ばれたんですね。攻撃的なものとしての有限会社と、攻撃と守りの両方があるNPO法人とがありますれども、清家さんは、もうけたら全部自分のものにしちゃうという、ある意味で貪欲なシステムでやられていて、これは悪いことではないと思います。大事なことだと思います。
また、自分でやりたいことを実現していくために、介助のサービスをやっていく。本末転倒なのかもしれないけれど、やはりそこを通り抜けることで、自分の生活ができていくんだと、事業所をやっておられる方のお話から見て取れるんじゃないかと思います。
最初は頸損連絡会の支部活動の活性化という目的で、このシンポジウムを計画したんですけれども、支部活動をやりながら、それ以外の部分でやれることが、宮野さんの発表の中から見えてきたと思います。やはり頸損連絡会は必要だと。支部活動はどういうことをやっていけばいいのか。宮野さんはセルフヘルプという言葉を使って言われていましたが、みなさんはどうされるのか。これから新しい支部をつくられる方、なかなか活動がうまくいかないと悩んでおられる方は、そういうところを参考にしていただければと思います。