「韓国の頸髄損傷者を大会に招待しよう!」そんな企画が出たのは、全国総会・兵庫大会の大会実行委員会議・第1回目のこと。大会の目玉企画を検討する中で、この大会を一味違ったものにしたいと知恵を絞る実行委員メンバー。かねてから、港町神戸を有するこの兵庫で国際交流的な大会を!と考えられていた三戸呂克美代表。正直、良い企画に心躍る反面、どうやって招待するの?という不安が本音の実行委員一同。そんな不安を拭い去り、最後のピースをはめたのは大阪頸損連事務局長・鳥屋利治さんの一言。「韓国へのルートは作ってきています。」
昨年 9月に大阪のCILあるるとソウルCILとで「日韓障害者合同研修会」を行い、ちゃっかり日本での頸損連絡会の活動アピールをしてきたとのこと。見事にあっさりと道が開けたことで話は急速に進むことになり、兵庫頸損連から三戸呂さんと私・宮野、ソウルCILへの橋渡しに鳥屋さんとの“イケないメンズ”トリオが韓国へ渡り、韓国頸損者の大会招待の交渉に臨むこととなった。
旅行会社に航空機チケットを手配して「準備OK!」と安心したのもつかの間、A航空会社からの事前調査といって、障害の程度、車いすの寸法・重量の詳細などを書類にまとめて送るという、海外旅行が初めての私には「こういうものなのかな。」というような調査があった。しかし、その内「病院で診断書を取ってきてほしい。」「障害の程度によっては手伝うことができない。」「電動車いすは規程の重量をオーバーするため、別途運搬料として\120,000が必要です。」といった話の展開になってきたため、やむなく旅行会社に航空会社の変更を求め、出発予定日ギリギリで手配することに。結局、A航空会社は対応も悪いので、三戸呂・鳥屋班は手動車いすが手荷物扱いでいけるD航空会社、私は介助者と電動車いすでも運搬料を請求しないJ航空会社にそれぞれ分かれて渡韓することになった。
しかし、悪いことは重なるもの。出発一週間前にして不覚にも私がインフルエンザで緊急入院してしまう大ピンチに!あわや“コテコテたこ焼きボーイズ”に改名せざるを得ない危機に陥りかけたが、根性で病院を3日間で退院し、体調面に不安を抱えつつギリギリで参戦を表明したことでなんとか回避することができた。
関空10:25発で1時間弱のフライトを終え、仁川空港へ最初に降り立ったのは宮野班。飛行機から降りて対面した電動車いすのパーツが所々外れていたのにはショックを受けた。職員に囲まれて「こんな車いすは初めて見ました。」と言われたので、どんな運び方をしたのかはおおよその見当がついた。
さて、三戸呂・鳥屋班が到着するのは2時間半後。二人が到着するまで介助者と待つしかない。しかし、日本を発つ前に「空港では十分日本語が通用するよ。」と聞いていた私は、まず空港内を知るためにインフォメーションカウンターへ。自信満々に日本男児ぶりを披露しようと「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」と発音に注意して話す。「ソーリー・ノー・アイ・キャント」とにこやかな笑顔で返すお姉さん。「昼食をとりたいのですが、空港で日本語や日本のお金は使えますか?」と問うと、「無理です。換金してください。」とにこやかな笑顔。若きサムライは軽い敗北感に包まれたまま、言われた通りに換金所へ。結局、私の行くところ全て日本語は惨敗。「誰だよ、通じるって言ったのは!」と遠くを見つめる。
それにしても仁川国際空港は新しいだけあって綺麗で広い。誰かが「韓国は電動車いすでは簡単に動き回れない。」と言っていたが、空港内はバリアフリーでストレス無く動くことができた。ただ、国際空港にしては人が少ないという印象も。行き交う人は皆日本人のように見えるが、話す言葉が韓国語なのを聞いてやっと韓国を実感する。そうこうしている内に、ゲートから出てくる人波の中に見慣れた顔を発見。三戸呂・鳥屋班と無事合流できたが、私にとっては長い3時間だった。そして、後発隊の到着を待っていたかのようにソウルCILのパク・チャノ氏と奥さんのマリさん、カン・テチョン氏が出迎えに来られ、これでやっと全員が集合した。空港からはソウルCILメンバーが用意してくれたリフトカーとチャノさんの自家用車に分乗して、いざソウル市内へ。
空港内と違って外はまだ未開発で、海の上を高速道路が真っ直ぐ延びているだけののどかな風景がつづく。ソウル市内に近づくと、雄大に流れる川・漢江(ハンガン)と高層ビル群というミスマッチな景色が目に映る。高層ビルが建ち並び、開発が止まることを知らず、まるで競うように空に向かって立ち上っていく様子からは、確かにソウルの経済的発展が見て取れた。マリさんが「ソウルは超車社会なんです。」と教えてくれたが、スピードを出した車が4,5車線を所狭しと埋め尽くしているのを見ると、なるほどうなずける話。しかし、みんな運転が荒い!ウインカーを出さずに車線変更をするし、クラクションが鳴り響いている。道路も舗装はしてあるがやたらと揺れるし、道路標識もわかりにくい。なによりも、排ガスが酷すぎて、鼻の穴が真っ黒になってしまうのには参った。
宿泊先のホテル「HOTEL LAKE」に到着したのは16:30。外で夕食をとるため、韓国メンバーがオススメの参鶏湯(サムゲタン)のお店へ。店へ向かう道中、これでもか!というくらいのガタガタ道を通らされて、初めて韓国の手痛い洗礼を受けた。段差だらけの斜めに傾いた歩道は、経済的発展の裏側にある“福祉対策への遅れ”を見て取るには十分であった。ただ、サムゲタンは「ノム・マシッソヨ!(とても美味しいです)」で、食べても次から次へと足される“つき出し”のはずのキムチやその他の品に韓国の食文化の恐ろしさも見ることができた。ちなみにキムチが絶品であったことは言うまでもない。
夜遅くまで三戸呂・鳥屋コンビの“打ち合わせ”と称する酒宴につき合わされたが、前夜に食べた薬膳料理のサムゲタンが効いたのか、目覚めは非常に良かった。韓国第2日目は、夕方にソウルCILで兵庫大会のプレゼンを行うまでの間、通訳・イムさんの案内で明洞(ソウルの繁華街・日本で言う原宿?)への観光がてら“地下鉄調査”を行うことに。この時点では誰もがこれからの過酷な行程を知るよしもなかった。
地下鉄に乗るためにホテルから一番近い駅へ向かうも、エレベーターを探すのにひと苦労。やっと見つけたエレベーターも広い道路の反対側にある。ここにきて初めて気づいたのが「横断歩道が無い」ということ。地下道を通って道路の反対側に出る、というのが韓国での常識らしいが、車いすでは不可能である。普通歩いて1kmの行程も、横断歩道を探して迂回路をたどれば3kmほどになる。おまけに行く道のほとんどの歩道が工事中という罰ゲームのような状態。地下鉄も酷いもので、階段にはエスカルのようなものが設置されていたが、私の電動車いすでは使用できないと説明されて担がれるハメに。
三戸呂・鳥屋両者の車いすはなんとかクリアできたが、電車に乗るときに駅員は手伝ってはくれない。「20年くらい前の日本みたいやなぁ。」と三戸呂さんが言われていたが、この言葉からみなさんにもどんな状態かわかっていただけるであろう。やっとのことで明洞に近い駅で降りるも、また横断歩道探しの旅が始まる。そして道の反対側から明洞の入り口を目の前にして、我々に最大の試練が立ちはだかった。「横断歩道が全く無い」のである。「もう、ソウルCILへ向かうか…」と誰もが思う状況であったが、ダメ元でパトカーに乗った警察官を止め、反対側に渡りたいと交渉した結果、なんと全面的に車を停車させて渡らせてくれた。「カムサハムニダ!(ありがとう)」みんな君を忘れないよ。
明洞では、イムさん行きつけの冷麺専門店でかなり遅い昼食をとったところでタイムオーバー。ちなみに冷麺が絶品であったことは言うまでもない。プレゼン会場へ行きと同じような行程をたどるも、会場へ着いた頃にはもう日が暮れかけていた。これからが本番なのだが、日本代表はこの時点でかなり疲れ気味。しかし、チャノさんに部屋へ案内してもらったところで、ジャパンの闘志に再び火がついた。十数名の韓国の障害者が我々のプレゼンを聴くために集まってくれていたのである。予想以上の集まりに驚いたのと同時に、本当に感激して目頭が熱くなった。関心を持ってくれているということがなによりも嬉しかった。
三戸呂さんがスライドを見せながら「兵庫頸損連絡会を設立した経緯」、鳥屋さんが「当事者組織の歴史について」、私が「セルフヘルプの重要性」について話し、兵庫大会の大会要綱の説明や我々の渡韓目的をイムさんに通訳してもらいながら熱く語った。真剣に聞いてくれている韓国メンバーにかなりの手応えを感じたし、こちらの熱い思いも伝わったはずである。
チャノさんが「続きはパーティーをしながらにしましょう!」と日本からやってきた我々のために食事の席を設けてくれた。豚カルビ(テジカルビ)を食べながら、韓国焼酎の真露(ジンロ)を酌み交わし、日韓の障害者状況を熱く語り合う。不思議と言葉の壁は感じることがなく、片言の韓国語と片言の日本語同士で気持ちは通じ合ったような気がした。障害こそが一つのコミュニケーションなのだろう。伝えようとする気持ちがお互いを歩み寄らせ、そこには笑顔が生まれる。日本と韓国の文化は違えども、障害者という立場に日韓の違いはない、と強く感じることができた。みんな「親旧(チング=友達)」なんだということ。韓国の現状を知ることで、我々も学ぶべきことがたくさんあるはず。厳しい現状の中で、命を懸けて自立生活運動に励む仲間をぜひ日本に招待して、日本の仲間達に紹介するぞ!そう強く誓った2日目の夜であった。ちなみにテジカルビがこの旅で一番絶品であったことは言うまでもない。
昨夜の日韓カラオケ大会で熱唱したのと、朝方まで三戸呂・鳥屋コンビの“最終打ち合わせ”と称する酒宴につき合わされ、少々疲れた私。朝早くからチャノさんとキム・チュヌさんがホテルに来られ、大会に向けた韓国での最終打ち合わせを行う。具体的な内容を提示し、ソウルCILで前向きな検討をすることの確約を取ったことで、今回の旅の目的は果たされた。仁川空港まではチャノさんとテチョンさんが再び送ってくれることに。ソウル市を離れるときにはソウルCILのメンバーが多数見送ってくれた。チャノさん・マリさん夫妻には空港内の最後までよくしてもらった。韓国では本当にたくさんの方のお世話になった。みんな優しく、人情に厚い人達ばかりで、日本からやってきた我々を心から温かくもてなしてくれた。鳥屋さんから「宮野さん、今回これだけ手厚くもてなしてもらったからには、日本ではこれ以上に頑張らないといかんね。緊張するね。」と言われたことに深くうなずくだけだった。本当にその通りである。今度はこちらがもてなす番である。日本へ帰ったら実行委員メンバーにこの素晴らしい旅のことを真っ先に報告しなくてはならない。
緊張で身震いするような、それでいて心地良い達成感と、この旅の成果を大会へつなげるハッキリとした覚悟を胸に仁川空港を後にした。ちなみに昼に食べたチヂミとカルビタン(牛肉の煮込みスープ)がこれまた絶品であったことは言うまでもない。
今回、原稿を書くにあたり大変な苦労があった。それは書きたいことがあり過ぎるということ。本当に中身の濃い旅であったと思う。このような貴重な機会を与えてくださった、三戸呂さん、鳥屋さん、実行委員メンバーのみなさん、そして我々の渡韓をサポートしてくれた3名の介助者には、言葉では表せないほど感謝しています。また、韓国で出会った仲間、お世話になった方々にも感謝するとともに、今回の大会だけで関係を終わらせるのではなく、これからの日韓障害者交流につなげることを約束します。
全国総会・兵庫大会も大勢の方々のご協力のもと、無事に終えることができました。私自身も実行委員として、シンポジストとして、韓国メンバーのホストとして大会に関われたことは大きな自信につながりました。実は、シンポジストも韓国行きもできれば遠慮したいことでした。しかし、終わってみるとそれらは必然であったかのように、新たなる目標へと私を駆り立ててくれています。みなさんのお力がなければ成し得なかったことですが、勇気を持って踏み出し、インフルエンザも風邪も克服し、大会に全力投球できた自分を褒めてあげたいと思います。韓国の旅と兵庫大会で私が学んだことは、「自分の目で確かめることの重要性」です。やってみなければわからない、自らが動かなければ出会えない、踏み出してみるとそこには自分が知らなかった自身の可能性がある、ということです。この経験を今すぐにでも活かすべく、今後の兵庫頸損連、大阪頸損連の活動に参加することを誓います。兵庫頸損連絡会も発足して2年余りですが、この大会成功を足掛かりにますます活動の場を広げていきますので、よろしくお願いします。この原稿を読んでいる兵庫のみなさん、私達と是非おもしろいことをやりましょう!