頸損だより2006冬(No.100) 2007年1月27日発送
「頸損だより」誌面と頸損連の歩み
1.1983−86(創刊号−第19号)
【磯崎章一さん・谷川信之さん編集担当時代】
[年表]※太字:頸損連と頸損だよりの動き 細字:障害者運動一般の動き
1973 |
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頸髄損傷者連絡会設立(本部・東京)。 |
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第1回車いす市民全国集会が仙台で開かれる。 |
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1976 |
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谷川信之受傷、1978より堺市の大阪府立身体障害者福祉センター附属病院にリハビリ入院、センターのMSWより頸髄損傷者の団体が東京にあることを知り、MSW代筆で三沢氏・今西氏と手紙を交わし、頸髄損傷についての情報を得、同時に入会。 |
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1981 |
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国際障害者年。 |
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藤井寺市在住の糀谷終一(C7不全麻痺)が、リハビリテーションのため、上記センターに転院し、入院中の谷川と知り合う。糀谷は、谷川より頸髄損傷者連絡会のことを知り入会。頸髄損傷者についての障害状況、就労、会の構成、大阪はじめ近畿地区在住の会員情報を収集。 |
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糀谷は、谷川を含め大阪府在住の約5名ほどで「頸髄損傷者友の会」を結成。初代会長に糀谷就任。和文タイプによる会報、会員相互の自宅訪問活動等を行う。 |
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谷川は退院し在宅生活。 |
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1982 |
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三戸呂克美は、上記センターにリハビリ入院、MSWより糀谷および谷川のことを知り、在宅生活見学、頸髄損傷者の情報収集、入会。 |
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1983 |
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国連・障害者の十年が始まる。 |
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「頸損だより」創刊。第5号(1984.8.15)で、以下の編集スタッフが紹介されている。編集・発送=浜崎、イラスト・コピー=一戸・高橋、情報収集・タイプ=谷川、企画・タイプ=磯崎。 |
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会員の交流と拡大、会の広報、他団体との交流、ボランティア確保のために「外出イベント」を企画、大坂城博覧会見物。後の「街に出よう」につながる。新聞数紙の地方面、大阪ボランティア協会報などに掲載。会員およびボランティアの大幅拡大につながった。 |
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JC(大阪青年会議所)後援による「福祉マップ」作りを会員の堂之元(現在は退会)が、他団体と共に行う企画を持ち込み、「頸髄損傷者友の会」有志が参加、マスコミ報道も多々あり福祉マップ作りは成功した。本タイトル:「大阪車イス街図(ガイドマップ)」。鉄道各社は、乗車2時間以上前に連絡をしろとレストラン等の一部は、車イスは“お断り”と門前払い。取材は前半困苦があったが、マスコミ報道、JC後押しにより後半はスムーズに行われた。 |
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1984 |
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「街に出よう」スタート。5月に難波・心斎橋付近の散策。 |
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会員に対してアンケート調査を実施。 |
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1985 |
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1985〜6 |
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大阪で行われた車イス市民全国集会、日米障害者セミナー、国際障害者年記念集会などのイベントに参加。 |
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1986 |
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事務局体制を敷き「全国頸髓損傷者連絡会」(当時は「頸髓損傷者連絡会」と称す)の大阪支部活動もはじめる。初代事務局長に坂上正司就任。 |
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星ヶ丘厚生年金病院との交流。 |
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大阪市、全身性障害者介護人派遣事業開始。 |
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創刊以来、「頸損だより」編集を担当していた谷川の体調悪化で、事務局による発行になり、4頁季刊にペースダウン(第14号〜)。坂上が編集に携わり始める。 |
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八王子ヒューマンケア協会設立。(日本で初めての自立生活センター) |
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●「体験シリーズ」連載
第5号(1984.8.15)から連載。日常生活の出来事から自立の試みまで、障害であるが故に出会う体験・冒険・挑戦をつづるコーナー。「体験談を交換することにより、お互いに勇気づけ、又閉ざされた障害者の社会環境を押し拡げましょう!」とある。第1回は『空飛ぶクマゴロウ』と題した、谷川信之さんの飛行機旅行体験。その他、運転免許取得(西尾靖子さん)、魚釣り(西本雅治さん)など。
●生活実態アンケート調査結果報告
会員を対象に生活実態調査を実施し、17名から回答を得て、第6号(1984.10.25)で集計結果を掲載。内容は「障害」「住居」「日常生活動作」「公的な介助制度」「外出・外泊」「自動車」「電動車イス」「尿管理」「頸損友の会」の9項目にわたる。介助の項目で「介助者の高齢化、より重度者の介助時間の長さなど介助の問題は、深刻で幅広い。そして、家族の者だけでは対処しきれない状況だ」という分析の一文は、今も重い。
●福祉情報の発信
まだ情報が少なかった時代に、住宅改造、褥瘡の予防、自助具などの情報を積極的に発信。たとえばトイレの改造(第9号、1985.4.25)では、「便所,便器までの移動について」「洋風便器を選ぶポイント」「ロールペーパー・紙巻器の取りつけの位置と注意する事柄について」「洗浄装置について」「便所内の暖房について」「便所の広さについて」「チェック・ポイント」と、実にこと細かに解説している。
1983-86(創刊号−第19号) 活動トピックス
■初期の頃の「街に出よう」
頸損連絡会のカンバン行事「街に出よう」の始まりは、会結成2年目の1983年10月9日に行われた外出イベント「大阪城博覧会見物」であった。障害者12名、ボランティア30名が参加したその模様は、次ページの谷川さんの原稿に詳しく述べられている。
「街に出よう」のタイトルがついたのは、翌1984年5月20日実施の時。難波の歌舞伎座前に集合して、難波・心斎橋付近を散策、食事やショッピングを楽しんだ。まだバリアフリーが進んでいなかった当時の様子を、第5号(1984.8.15)に掲載された参加者の感想文から拾ってみよう。
・身障者になって、初めて家族の者と離れボランティアの人たちの手を借りて、1日中行動しました。何ひとつできぬ私にとって、顔も見知らぬ人にお世話になるのは、それは、とても大きな冒険で、不安、期待、その他、いろいろなものが入りまじり、前日は数時間程しか、眠りにつくことができませんでした。電車、階段、エスカレーターと、健常者には何でもない物が、それこそ、障害となって目の前に立ちふさがってくるからです。(会員)
・ボランティアと駅員とで、車イスをホームまで持ち上げてもらう。ここ野田駅は高架になっているので、かなりの数の階段がある。Oさんは普通位の重さ(?)であるが、どっこい俺は巨漢だ。ボランティアや駅員は、フーフー肩の息であっただろうと思う。ご苦労さん。国鉄の職員は不親切だなどと言われていますが、結構親切丁寧にやってくれますよ。(会員)
・難波へ外出する当日は、朝から雨模様。天気も気になったが、それ以上に気になったのは、うら若き乙女二人にボランティアをお願いしたことだった。女性の介護を受けるのは初めてで、「今日はしっかりしなければ」と朝から少し緊張気味だった。しかし、そのお二人、古島・山本さんに車イスを押してもらううちに心配も消え、第一の関所である京阪千林駅の階段も軽く(お二人には重く?)クリアーし、その後は比較的スムーズに行けたと思う(お二人には力コブを作らせてしまったか)。(会員)
・昼食は虹のまちで「ハンバーグ定食」を食べました。この後なんばシティーへ行き、帰途へ。ここでこの日、三回目の難関が待ち受けていたのです。谷川さんは野田阪神、大崎さんは玉川で降りるため、地下鉄千日前線に乗ることになり、近鉄なんば駅の下りエスカレーターを利用。タイミングがうまく合わなかったせいか、車がしっかり固定できず、私とと小椋さんとで必死になっておさえていました。谷川さんいわく「寿命が縮まりそうだった」(谷川さんごめんなさい)。(ボランティア)
第4号、1984.6.15
私と頸損だより
谷川信之
頚損だよりが100号を迎えるにあたり感無量です。
初期の頃は東京からの会員同士の情報交換の記事を読ませてもらいつつ、地元発信の話題を大阪周辺の会員達と連絡を取り合い、長居障害者センターで会い話し合ったりして、福祉に関する情報や相互自宅訪問などの記事原稿を和文タイプで作成し、それを切り貼りして会報作成をしていました。
集まれる会員やボランティアが少数固定化していたので、打開策として行ったのが外出イベント、今の「街に出よう」という行事です。新聞の地方欄に投稿して、新規の会員やボランティアの募集に努めました。
特に、大阪築城400年まつり (1983.10.1-1983.11.30・1583年大阪城築城)の時には、新聞各紙に掲載され、多くの方から問合せがあり、会員及びボランティアの大幅拡大につながった。余りにも多くの方が集り過ぎて、当時のスタッフでは対応しきれず、大阪城公園まで来ていただいた方に謝ったこともいい思い出である。
併せて、JC後援の福祉マップ製作にも会として参加し、外出イベントのノウハウをも取り入れて、交通機関やホール・店舗等の調査を行ない、「大阪車イス街図」を発刊した。
これらのことを会報に掲載していったので、配布部数も伸び、セルフ社(南光氏及び岡本氏)と交流があったので会報制作を依頼し、和文タイプ打ち、記事の切り貼り、コピー等の手間が減り、一部の会員に片寄っていた作業が解消された。今は、PCとメールが、より重度な頚髄損傷者でも会の行事や作業、そして社会参加につながっていけるようになったことは率直に嬉しい。これも会員数の増加や購読者が増えたことで、会運営が安定してきたのが最も大きいと思う次第です。
その後、大阪で行われた車イス市民全国集会、日米障害者セミナー、国際障害者年記念集会などのイベントに参加、そして全国頸髄損傷者連絡会の総会を大阪で開催できるようになり、ただし宿泊は長居身体障害者スポーツセンター2F会議室でしたので、貸布団・宿泊介助ボランティア等の準備や運営などの大変な思いは良き思い出になっています。
その後、紆余曲折はあったが、100号を数えるまでになったのも、会員相互の連携とボランティアの協力があってこそ達成できたことを、一人の会員として誇りに思うし、皆様に感謝いたします。これからも、150号、200号と重ねていくことを期待しています。