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編集部長に就任した坂上正司さんの尽力で、第20号(1987.5.16)から、総20頁を超える充実した誌面で発行。第42号(1992.6.15)の「退任のご挨拶」によると、「最初は、殆ど一人で記事を集めました。もちろん、他の役員も「協力する」とは口で言うものの、あてになる状況ではありませんでした。集めた記事は、8ビットのパソコン・FM−8で写植し、8ビットプリンターでプリントアウトし、それを家族にコピーしてもらって発行していました」。発送作業も坂上さんの家族が2日がかりで行っていた。
1988年4月、関西障害者定期刊行物協会(KSK)に加盟し、身障低料第三種郵便物の認可を受ける。KSKを初めて冠した第25号(1988.5.25)から、印刷をセルフ社に委託。坂上さんの編集後記によると「遂に印刷の時代が訪れた。今まではコピーだった。私にはコピー機は操作できない。父母、特に父親の仕事である。私が編集にかける時間が延10日以上。この仕事量は減らない。会報が印刷になって私自身の仕事量が減ると思っている人がいるようだが、それは間違いである。実際に仕事が減るのは私の父親である」。
第25号(1988.4.5)から連載。文字どおり電車に乗って外出した体験をつづるもので、第1回は磯崎章一さんの、一人で初めて京都まで電車で出かけた記録。「色々な条件により、私たちの外出は制限されますが、一度果敢に、電車・鉄道利用にチャレンジしてみてはいかがでしょうか」という一文に、当時の頸損がおかれていた厳しい現実がうかがわれる。
このころから、会では、移動の自由の確保をめざして、交通アクセス運動に精力的に取り組み始めた。それに合わせて頸損だよりは「移動問題を考える」特集を組み、第30号(1989.5.25)「リフト付きタクシー」、第31号(1989.8.25)「地下鉄」、第32号(1989.12.25)「電車」と、3回にわたって会の取り組みを紹介すると同時に解決策を探っている。
1989年3月、大阪市交通局に対して、地下鉄全駅におけるエレベーター、車いす用トイレなどの身体障害者用施設の設置状況についてアンケート調査を実施。神戸、京都の調査も加えて、調査結果を頸損だより誌上で報告した。それによると、「京阪神の地下鉄を比較すると、改札口のある階からホームまでのエレベーター化について、大阪はニュートラムも含めて10%(101駅中10駅)、京都は67%(12駅中8駅)、神戸は100%(15駅中15駅)となっており、大阪市の地下鉄のエレベーター化の低さが際立っています」。この調査結果をもとに、会は大阪市交通局に「地下鉄全駅のエレベーター化を求める要望書」を提出。その折衝は、当時の新聞報道によると、こんな様子だった。
話し合いでは、連絡会側が体験を基に、「年間二、三駅ずつでも設置するような計画案をつくってほしい」「けっして、少数の障害者のためだけのものとはいえない」と訴えた。
これに対し、市交通局側は「用地買収も大変なので、近くのビルのエレベーターを使えるところは使えるようにしたい」「できるだけエスカレーターを利用してほしい」。消極的な回答が目立った。
1989年7月には、JR西日本と私鉄5社(阪急、阪神、京阪、近鉄、南海)に対して、「車いす利用者への基本的な考え方」「駅における介助」「乗車料金の割引制度」「障害者が利用できる施設の設置状況」についてアンケートを実施。頸損だよりに掲載された回答結果をみると、当時、エレベーターやスロープでアクセス可能な駅は、JR西日本16.5%、阪急39.8%、阪神11.1%、京阪28.6%、近鉄29.8%、南海20.4%とわずか。「私たち車いす利用者が最も望むこと、つまり最も必要なことは、地上からホームまでエレベーターやスロープが設置されることですが、各鉄道会社がつかう障害者対策という言葉とは裏腹に、大部分の駅は階段構造そのままとなっており、やはり電車利用をめぐる状況は厳しいと言わざるをえないようです」と述べられている。
私が大阪頸損連絡会の編集部長をしていたのは1987年4月から1992年3月までです。「頸損だより」の編集者としては20号から40号まで20回とアンケート報告集、そしていくつかの事務局通信に名前が載っていると思います。実際に頸損だよりの編集に関わったのはもう少し早く、事務局長をやっていた前年の7月頃からです。その頃は会の名称も「頸損友の会」となっていて、会員数20名ちょっとのサークル活動のようなグループでした。
原稿に関しては、当時ワープロ専用機もパソコンもあまり普及はしていなかったので、ほとんど手書きの原稿をワープロなどに入力しなければなりませんでした。そういう戦力になってくれたのが桜井龍一郎さん、河野進さん、三戸呂克美さん、増井信博さんたちで、助けてもらいました。
当時編集に使っていたのは、8ビットパソコンの富士通マイクロ8で、プリンタも8ドットだったため使える漢字や記号にも制約があって苦労しました。もちろん、イラストを画像データとして貼り付けるなんて夢みたいなことはできなかったので、版下に手書きのイラストやイラスト集をコピーして貼り付けていました。
当初は、発行日が近づくと、我が家にボラスタッフに集まってもらって、ワープロで作成した原稿を切り貼りしたり、イラストを貼り付けたり、直接イラストを描いてもらったりして、版下をつくり、両面コピーをしてホッチキスどめ、宛名貼り、封入、投函まで一気にやりました。20数ページで40部ほどでしたのでそれもできましたが、2年目からは会員数も増え、80ページで100部以上になったので、版下作りのみを我が家でおこない、印刷を外注するようになりました。でも、版下作成だけで丸二日必要になりましたけど、みんなでわいわいがやがややるのが結構楽しかったです。版下作成中に寄付をいただいた方の訃報が入って、急遽記事を追加したり、一年後に亡くなることになる祖母が急に遊びに来て、スタッフとみんなで一緒に夕食を食べたりしました。当時よく手伝ってもらったのは、両親(最初の2年くらい)、寺田啓子さん、原正信さん、松永賢治さん、谷澤(現:竹内)知子さん、播口朋子さん等が中心で、その知り合いや私の大学の後輩などにも手伝ってもらっていました。
1988年末になって、修士論文作成のために16ビットパソコン・エプソンのPC-286X/STDを購入。プリンタもインクジェット第1号機のマイナーチェンジモデル・エプソンのHG-2550になり、編集能率も飛躍的に上がりました。イラストも播口さんに加え、川畑勲さんからもコンスタントに提供されるようになり、多くの会員が関わっていることが実感できる紙面になってきました。
翌1989年にはいると、紙面の充実を図る意味で、企画をいくつか打ち出しました。前年からはじめていた「電車に乗ってみよう!」シリーズに加え、行事的要素を多分に盛り込んだ「街へ出よう!」を隔刊の特集として定着させることもできました。個人的には修士論文、不動産業への着手、車いす市民全国集会・まちづくり分科会(宝塚)、また全国頸損連大阪大会の準備に忙殺され、1990年には大阪大会の開催、自立生活問題研究全国集会(大阪)運営委員、パソコン通信のコーディネータ(西宮)、ウォークラリー開催(宝塚)、CIL(宝塚)の立ち上げと多忙の中でも充実した紙面作成ができたと思っています。特にパソコン通信をはじめたことは、インターネットのないこの時代においては情報収集力とネットワーク形成に大きなプラスになりました。
この時期に、編集部長をやっていることで私の人生に影響を及ぼす人物にたくさん出会うことになります。その中で、頸損だよりに関わる重要人物はと言えば、当時中部障害者解放センター事務局長だった尾上浩二さん(現:DPI事務局長)です。尾上さんとは自立生活問題研究全国集会(大阪)の運営委員として懇意にさせていただきました。当時私が目標としていたのが同センターの機関誌「中部障害者解放センター通信」でしたが、充実した情報・活動報告・啓発内容で毎号20数ページのものを毎月発行されていました。その尾上さんが当時の頸損だよりを「年4回定期的に4年近く発行をし続けることは凄い」と賞賛してくれました。しかし、一方で尾上さんと議論を深めていく中で、紙媒体での情報発信の限界を感じ始めていたのは事実として認めなくてはならないでしょう。
1991年にはいると私は編集部長を辞する意志を固めましたが、強く留意を求められ、後進の指導という名目で一年留任することになりました。後継には、若くて荒削りではあるが、緻密さがかいま見られる中川晃さんを指名して、手順を実地で何度か指導しました。年の後半には、編集作業は中川さん中心で進められ、私はほとんど監修している程度でした。個人的にはパソコン通信を利用したネットワークの構築と情報収集に没頭していました。その経験の中から障害者の就労支援組織を立ち上げ、宝塚市から障害者向けガイドマップ作成委託されるなど新しい取り組みに関わっていきました。
思い返してみると、私の編集部長在任期間を強く支えてくれたのは三戸呂克美会長と共に本部として実質的に事務局の仕事を黙々とこなされた河野進さんでした。私を含めた3人が5年間役職を固定しえたことは、なによりも心強いことでした。