頸損だより2006冬(No.100) 2007年1月27日発送

「頸損だより」誌面と頸損連の歩み
3.1990−91(第33号−第40号)
【坂上正司さん編集部長時代 Part2】

[年表]※太字:頸損連と頸損だよりの動き 細字:障害者運動一般の動き

1990
事務局長に三木伸夫就任、前事務局長の劔持は副会長に。会計監査に西本雅治が加わる。
大阪で初めての全国総会が長居身体障害者スポーツセンターで行われた(宿泊は体育館柔道場で雑魚寝。貸布団・毛布、宿泊介助ボランティアで対応する)。
「みんなでバスケをやって、その後、一杯飲もう会」開催。
「みんなで街に出よう!」(現在の「街に出よう」)開催。車いす使用者16名、家族・ボランティア35名が参加、長居障害者スポーツセンターに集合して「天王寺方面」「難波方面」「梅田方面」の3グループに分かれて行動。
磯崎が中心になって、交通アクセス運動に積極的に関わる。交通局、私鉄、JR、リフトタクシー、リフト観光バスなど他団体と協調し交渉。
JR環状線各駅より、車イス障害者の一斉乗車行動。JR本社を車イス障害者達で「人間の鎖」として包囲し強く訴える。
第2回自立生活問題研究全国集会が開かれる。
ADA法(障害を持つアメリカ人法)成立。
1991
パソコン講座を開催。ワープロの修得とパソコン通信の体験。
大阪グッパーズAと中川晃、大阪スポーツ賞を受賞。
全国自立生活センター協議会(JIL)発足。
DPI日本会議「誰もが使える交通機関を求める12月全国大行動」に参加。
朝日新聞厚生文化事業団から朝日福祉助成金を受ける。
大阪市、神戸市でリフト付きバス運行開始。

当時の発送作業の様子(第38号、1991.7.20)89.5.25)


●レディースクラブのページ「ルージュの伝言」

かつて会には、女性会員同士の交流の場として「レディースクラブ」があった。その専用コーナーが第35号(1990.9.25)から始まる。当時部長だった播口朋子さんが得意のイラストを生かして、手描きのかわいらしい誌面を展開。第1回はファッションの話題。「車イスが格好気にしてどーすんねんなんてぇことはありません。車イスが一歩外に出れば、なんとすっぴんの松田聖子が歩いてるより、街行く人々が見て下さるではありませんか! ご丁寧な方になるとすれちがった後、振り返って、後姿をじっと見つめて下さるのです。やはりここでご期待にお応えしておしゃれして街に出ようじゃありませんか!」という力強いメッセージが印象的だ。この「ルージュの伝言」は、後のレディース部長・西田清美さんによって第42号(1992.6.15)から「Strawberry Time」となって長く継続された。


●梅田地下街調査

第39号(1991.9.20)に掲載。会員とボランティアで、“迷路のようにややこしい”といわれる梅田の地下街へ出かけ、鉄道・地下鉄へのアクセス、地上と地下街を結ぶエレベーターの状況を調べあげて報告した。その調査結果をもとに、大阪市市民局安全対策課に改善策を提言し、新設されるダイヤモンド地下街のパーフェクト整備も要望した。


●クリスマス&忘年会

今では新年会に姿を変えているが、以前は年の瀬の恒例行事として「クリスマス&忘年会」を行っていた。そのなごやかな雰囲気が誌面で紹介されている。当時は「大阪頸損連絡会の忘年会は長い」というのが常識で、1990年は長居障害者スポーツセンターで午後2時から始まり、生バンド演奏による“生オケ”2時間、バラエティークイズ1時間、お笑いトーク大判振る舞い宝くじ抽選コーナー1時間、各人の自己PR2時間と、何と計6時間! 夜の8時まで“飲んで食べて愚痴まき散らして”楽しんだ。


第37号、1991.2.25


1990-91(第33号−第40号) 活動トピックス

■大阪で初の全国大会

大阪で全国大会が最初に開催されたのは1990年の5月でした。それまでは全国大会と言えば東京・神奈川と言った関東圏でやっていたので、地方支部単独で行ったほぼ最初の全国大会になります。1989年2月に実行委員会を立ち上げ、翌年7月まで独立採算で運営しました。本部からの至上命令は「宿泊費込みで参加費を1万円以内に」ということでしたので、長居障害者スポーツセンター柔道場に布団を持ち込んで雑魚寝をすることになりました。本部の連中は納得せずに自腹でビジネスホテルに泊まったのですが、その手配や送迎まで押しつけられて踏んだり蹴ったりでした。そういう裏方に徹してくださった河野進さんの亡くなられたお父さん・雄二さんやうちの父親には頭が下がります。委員長・会計は三戸呂克美さん、事務局は河野進さんと坂上、会場関係は河合伸二さん、ボランティアは松永賢司さんに統括していただきました。当時は苦しかったけど、今にして思えばいい経験ですね。(坂上正司)


第34号、1990.6.30


私と頸損だより
「編集作業の思い出」 谷澤知子

このたびは、「頸損だより」創刊から100号、おめでとうございます。

この原稿の依頼をいただいてから、15年位前のことを、あれこれと思い出しております。

事実とは違うことも多々あるかと思いますが、私にとっては、なつかしく楽しい日々だったということで、ご容赦くだされば幸いです。

ところで当時の会報は、B4版でした。・・・念のため。


T)坂上正司編集長の頃

当時はツインバスケットがご縁で大阪頸損連絡会の協力会員になって、そんなに年月が経っていない頃ではないかと思います。

どんな成り行きかは全く覚えておりませんが、“編集”なるもののお手伝い、ということで、坂上さんのご自宅に度々お伺いいたしました。

当時は手作業に頼る部分が多く、器用ではない私ですが、坂上さんのおっしゃるままに、切ったり貼ったりを楽しんでおりました。

イラストレーターは、当時の会員の「ともちゃん」。漢字は違えど同じ「ともこ」で、年齢差をモノともせずに(私がずっと年齢をくっているのですが)、仲良くしてもらっておりました。ともちゃんは、枚方のご自宅から自家用車を運転し、私は、天王寺の自宅から電車で、宝塚の坂上さんのご自宅の書斎(「こんにちは」と、直接入れます)に集合し、丸1日かけて作業をしました。

あらかじめ、坂上さんが原稿や広告や写真や‘細かいもの’を準備し、ページ割りも終わっている状態だったと思います。で、私は、坂上さんの隣で、ページの順に原稿を揃え、挿入する写真や広告などを、寸法どおりに切り、糊で貼るといった作業をしました。私は“適当に”とか“好きなように”と言われると、かえって悩むタイプですが、坂上さんは、数ミリの大小や位置の上下や斜めになっているといった微妙な指示も適確に出してくださるので、とても作業がしやすかったです。ともちゃんは、坂上さんの「じゃあここに、ともちゃんのイラストを」のひと声で、私によって机の向かい側に運ばれる原稿の、あいている(ときには、あけてある)スペースに、内容に沿ったイラストを、その場で丁寧に描きいれていました。大小様々ですが、気が利いて、ほのぼのとしたイラストは、鮮やかでお見事でした。

ただ、作業机は、当然ですが電動車いす使用の坂上さんのサイズで作られているので、机の面が高く、背が低い私は、坂上さんの隣で立って作業をするのにちょうどよく、ともちゃんは膝の上で、机の下に隠れるようなかんじで描いていました。

いつも、坂上さんのお母様お手製のお昼ご飯をいただいておりました。特に、こんもりとお皿に盛られた具だくさんのチャーハンを思い出します。やはり、ともちゃんは膝の上にお皿を置いていたように思います。私は椅子に腰掛け、顔だけ机の上に出ているような状態で、溺れるような感じで食べても食べても一杯ある、おいしいお食事を頂戴しました。

ページは手書きでいれていったように思います。何か小さい数字を切って貼ったような記憶もあります。日が暮れるころには作業を終えて、失礼していました。ときには作業の途中だったこともあるかと思います。どなたが、最後のつめをされていたのでしょうか。たいていは、イラストが仕上がらないと帰れない、ともちゃんを残したままでした。

坂上さん宅と駅までの道沿いには、いつも季節のお花が楽しめて、都会人間の私には、ちょっとしたピクニック気分でした。今はどんな景色なのでしょうか。


U)つなぎ(!?)の頃

あんまり記憶がなく、期間が短かったように思うのですが、三木伸夫さんが編集長か事務局長か何かの頃、当時の本部だった、池田の河野進さんのご自宅(その頃は会長と本部が別々でした)で、三木さんと、たぶんともちゃんも一緒に、何回か編集作業をしました。

河野さんのお父様を含めて、ツインバスケットでも顔を合わせているようなメンバーです。

作業内容はほぼ同じですが、初めのうちは坂上さんのやり方をお伝えしながら、つくっていった気がします。居間の机を丸1日、私たちが占領していたような感じでご迷惑をおかけしましたが、とても居心地よく作業をしました。

こちらでも、河野さんのお母様お手製のお昼ご飯をいただき、夜にはすべての作業を終えていたと思います。


V)中川晃編集長の頃

中川さんとは自宅が近く、ツインバスケットなどで、週に2回以上は顔を合わせていたように思います。で、作業は、たいていツインの練習前(火曜か土曜の午前かな?)に、練習場所である長居障害者スポーツセンターの2階の会議室を借りていたような、2階のラウンジでもしたような。練習までに仕上げて、急いで昼食をとっていたような、、、忘れました。

イラストレーターともちゃんの力を借りられなくなっており、イラストは事前に数人の方から郵送してもらったものを切り貼りしました。

ときには、集まっている原稿などを前にして、ページ割りも一緒にしたように思います。

原稿のタイトルと枚数を書き出し、並べ替え、広告をはめこんだり、写真のスペースやイラストの加減をして、4の倍数のページ数になるように調整するなど、なんやかんやと言いながら(失礼)、パズル感覚で楽しかったです。

相変わらず、ページは手書きだったでしょうか。写真の注釈もたしか、手書きでした。間に合わない原稿は、ページだけ書き入れた白紙を挟みこみました。目次と編集後記は手書きをたよりに、中川さんが、ご自宅のパソコンであとから作成され、仕上げていらっしゃったようです。練習の前に、中川さんの車で印刷所に持ち込んだ(ササッと車からおりて手渡したか、ポストのようなところに入れたか)こともありましたっけ。

この原稿は、自宅のパソコンに入力後、しかるべきところに添付ファイルで送信し、編集作業を担当される方や編集長さんによって、所定の文字数や行数等に合わせて仕上げられていくことと思います。当時は、ワープロによる原稿が封書などで届けられることも多かったのではないかと思い起こします。

今は、パソコンなどの機能や性能がとてもよくなり、会員の方々の手による寄稿(封書にあまり頼らない、メ−ルでの送信)や編集がずいぶん多くなったと思います。それでも、予算に合わせて紙質や表紙や写真の分量などの制約の中で編集をし、締め切りに間に合わせないといけないという部分では、変わらないのではないかと思います。

会員の方々の欲しい情報や必要とする情報は、どんどん変わっていっているように感じます。これからも、いい会報であり続けますようにと願っております。そして、私のような使い勝手の悪い者を使いこなした(?)上記の編集長さんたちには、貴重な経験をさせてもらい、感謝を申しあげます。なお、編集作業のホットな私の感想は、その時々の編集後記に載せてもらっておりますので、どうぞそちらのほうを、、、。何を感じていたのでしょうね。


無年金裁判の控訴審で、谷川さん、猿木さんと


戻る