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車椅子でも工夫すればできること、楽しめることが沢山ある。普通に考えれば難しいであろう運動会にチャレンジ。車椅子パン食い競争や、玉入れ、ムカデ競争に、スプーンリレー etc、どの競技も大阪頸損連オリジナルの工夫が凝らされていて、会員もボランティアも手動車椅子や電動車椅子に皆乗って、どんな身体の状態であっても同じ土俵で競い楽しめるようになっている。たまには車椅子を使ってエキサイティングに動いてみると気分も爽快。10年は続いた大阪頸損連の定番行事でもあった。
第52号、1994.12.27
シリーズ「仕事」は現在の「必殺仕事人」の前身で、第1回は三木伸夫さん(第45号、1993.3.20)。「頸損者の一人暮らし」は現在の「自立生活あれこれ」の前身で、第1回は奥野豊信さん(第50号、1994.6.20)。どちらの連載も会員にとっては非常に関心の高いテーマで、どのように仕事をしているのか、自立生活しているのか参考になり、今でも連載されている。
会員が自らの体験を相互に報告発表する勉強会がスタート。1998年は「自立生活あれこれ」。5名の会員が自分の自立生活を住まいや利用している制度等について報告している。介助派遣制度が充分でないなかにもしっかりと自立生活している様子が伝わる(第66号、1998.7.8)。1999年には「障害者の就労あれこれ」(第70号、1999.6.28)。2000年は「ビューティフルライフ〜趣味のあれこれ」。2001年には呼吸器使用会員らによる呼吸器を使った生活「マイ・ライフ、マイ・ブレス」。旅の体験者らが語る「車椅子で旅に出よう」。そして2002年にはCILで自立支援に取り組む会員らによる「私が自立生活センターを選んだ理由(わけ)」へと続く。当事者自らが体験を伝えあっていくエンパワメント企画と言える。
大阪市西区南堀江の家具のまち「立花通り」は、通称「オレンジロード」と呼ばれており、1997年当時、月に一度第2日曜はこのオレンジロードがフリーマーケットの通りとなって賑わっていた。大阪頸損連は清水家具社長の協力を得て出店。第64号(1998.1.2)から掲載。1年通して稼いだ売上げはフリーマーケットながら20数万。会の運営資金も潤った。大阪の古くからあるこの街では、売り手も買い手も「なにわの商人」さながら。活気があって笑いもあればお客さんの人だかり。こうした場でいろんな人とのやりとりを鍛えられたのかもしれない。もちろん販売物品の提供には会員やボラの皆さんからの協力がとても大きかった。
今ではガイドヘルパーという存在があたりまえだが、かつてわれわれが外出するためには、家族や兄弟、友人、そしてボランティアの存在しかあり得なかった。大阪頸損の行事に関しても、その家族や友人の手助けを中心にそしてボランティアの協力を得て、やっと行うことができた。われわれが主体的に活動し行事を企画するつれ、ボランティアの人数が行事開催できるかできないかを左右した。会のなかで安定したボランティア数の確保と、会員の行事参加への外出支援を目的に、1996年ボランティア部を発足した。第60号(1996.12.24)掲載。ボランティアの皆さんにサポートしていただくために、まずはボランティア勉強会として「頸損とは」や、「車椅子介助方法」などを知ってもらう企画を打ち出した。これが後の、年に一度の行事「ボランティア・イベント」へと繋がることになる。ボランティアどうしの横のつながりと交流、そして頸損当事者のおかれた状況を伝えたり、ボランティア体験などができるイベントである。
頸損連が過去 20数年の間に出会い関わったボランティアは数百人を超え、今も多くのことで力強いサポートを受けて活動できていることに間違いはない。
障害者とボランティアのコーディネートを主な事業としている北河内ボランティアセンターが、学生を対象に夏休みのボランティア体験講座を例年開催していた。北河内ボラセンの当時コーディネーターをしていた岡村紀子さん(旧姓)から大阪頸損連に共同開催の誘いがあり、当講座に当事者団体として企画から実施まで協力する形で数年間行われた。第63号(1997.10.28)から掲載。夏休みの期間に2日間開かれ、多くの学生ボラと交流するきっかけとなった。今では頸損連で有名な手作りボウリング投球台の作り方も、実はこの企画のなかで岡村さんらから伝授されたものである。
頸損だより通巻100号、おめでとうございます。 平成10年頃まで編集部長を担当していた中川です。現在は東京にて暮らしていますが、購読会員となって同誌を愛読していますし、ホームページも閲覧しているので、連絡会の活動内容については遠くからでも拝見させていただいていています。
50号の時は、企画が無くてそのまま通常スタイルで出してしまったので結構後悔していたんです。でも今回100号達成するにあたり、鳥屋くんの助言もあり、微力ですが寄稿させていただくことになりました。
さて、私は坂上さん(私の前任の編集部長)のアシスタント(的なもの)だった平成元年から同誌の編集に関わった訳ですが、翌年にはすぐに編集部長に就任し、当初は版下作りには毎回違う場所で行っていた記憶があります。第一、ワープロ・パソコンも持っていなかったため、それらを持っている会員の皆さんに借りたりしていましたし、レイアウトも図画工作のように、原稿やイラストを切ったり貼ったりの作業をしていました。今から考えると結構アナログテイスト満載の頸損だよりだったんだなと、懐かしくなります。現在はPCで簡単に出来る時代になりましたから、編集そのものは幾分楽にはなったでしょうが、ネタを集め、それを厳選するといった作業は今も結構大変だと思います。それに、私が担当していた頃は現在のようにメールやインターネットも普及していませんでしたから、連絡ひとつとっても苦労したこともあります。挙げればキリがありませんが…。
私が在任中にしたかったことのひとつに「誌面のカラー化」がありました。せっかくの写真ですから是非鮮やかにしたいと思っていていました。過去に表紙を一度だけカラーにしたことがありますが、印刷代がナント通常の倍になってしまい、以降は泣く泣く諦めました。現在はどうなんでしょうね。技術は向上したけれど印刷代が安くなっているのなら、またチャレンジしてもらいたいなと思います。予算が苦しいかなぁ。
帰阪した際には行事に参加して皆さんと会いたいなと願っているのですが、仕事が忙しくなかなかそうもいきませんで、申し訳ない思いです。でも、いつか必ず参加しようと考えています。ある日突然現れるかも知れませんが、その時は是非仲良くして下さい。 今後も、頸損だよりの充実した内容に注目しています! 200号目指して!!
大阪スポーツ賞受賞の表彰式で、梶本佳史さんと
(第40号、1991.12.15)