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脊損病棟のあることで有名な、多くの頸損会員の出身病院でもある星ヶ丘厚生年金病院に大阪頸損連が出向き、頸髄を受傷入院中の患者や家族の方を対象にした交流行事を再開した。2001年11月にその第1回目が開かれた(第81号、2002.3.24)。テーマは赤尾、田村、宮野の3名の会員パネリストによる「受傷後の経験談」報告。完全四肢麻痺である3名がチンコントロール電動車椅子に乗っていても人生は楽しめる、ということを患者らに語りかけた。その後も年に2、3回のペースでこの病院入院患者向けの交流行事は今も継続されている。これまでにこの行事で出会いその後入会した会員も多い。セルフヘルプ活動の原点とも言うべき行動である。
2001年に「褥瘡予防」「泌尿器関係」、2002年に「脊髄空洞症」、2004年に「膀胱ろう・人工肛門」、2005年に「盲腸ポート」等、頸損特有の身体ケアに関する勉強会を医療関係者や実際にそれを体験した当事者が報告発表する形で開催。その他にも「頸損者の医療的ケアを考える」勉強会では呼吸器使用の会員自ら自分の状況を発信。その他「車椅子シーティング」についての学習会など。医療や福祉の専門家だけでなく、頸損当事者という立場の専門家として自らが講師になり報告するスタイルがよくみられる。
大阪頸損連の財源を圧迫していた印刷費の削減と、世の中のプリント用紙A4サイズ化に合わせて、頸損だよりのサイズ・製本・紙質なども見直されリニューアルした。第86号(2003.6.22)から。指先が動かない頸損会員にとってページがめくりやすくなったとの好評も得た。
新しい連載として、会員が受傷してから自分の障害を受けとめ、気持ちや行動が外に向かうまでの過程を本人が綴った「車輪の一歩」がスタート。第1回目は川畑勲さん。第86号(2003.6.22)。現在進行形の当連載に共感を受ける読者も多い。新たな頸損者へのメッセージとも言える。
2001年から2年の設立準備期間を経て、兵庫頸損連初代会長となった三戸呂さんの粘り強い思いと行動により、2003年4月大阪支部総会と日を合わせて発足式が行われた。手作りのくす玉が割られ新たな兵庫支部の船出が祝われた。(第86号2003.6.22)。以降、頸損だよりの中に「兵庫頸損連絡会だより」も兵庫独自の情報として連載される。
私たち重度障害者にとって2003年から現在までまさに激動の時代。施設ではなく地域で自立した生活を支援するはずの「支援費制度」が2003年開始後わずか一年で、国は財源不足を理由に介護保険との統合案や障害者施策の改革案「グランドデザイン」を打ち出し、そして「障害者自立支援法案」へと強引に押し進めた。これらに対し2004年から「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動」が数千名にも及ぶ大抗議行動として東京で何度も行われた。頸損連メンバーも猛暑、厳寒のなかその都度半ば命がけで参加する。大阪では2005年4月に11の障害者団体が結束し「自立支援法を考える大阪のつどい」を結成。大阪頸損連も構成団体として集会やシンポジウム、御堂筋デモなど実施。大阪・兵庫頸損連とも何度となく会員向け自立支援法学習会を開いた。2年に及ぶ闘いも虚しく法案は可決され2006年4月「自立支援法」の施行開始。まさに生きていくに介助が必要な障害当事者が「このままでは自立できない」と叫ぶとともに、闘いはこれからも決して諦めることなく続けられるであろう。(第95号、2005.9.25)。そしてこれらの闘いは、ある意味では障害種別(身体・知的・精神)を越える連帯、地域を越えるつながりをもたらし、私たちにとって障害当事者間で一致団結し問題解決していく気運を高めたとも言える。
2004年9月CILあるると韓国ソウルCILの日韓合同自立生活会議に鳥屋が参加したのをきっかけに、2005年全国頸損連総会初の兵庫大会にソウルCILの頸損者メンバーらを招くことを計画した。そのため2005年3月、鳥屋、三戸呂、宮野がソウルに渡り大会への当事者参加を呼びかけた。その成果あって5月の兵庫大会に8名のソウルCILメンバーを迎え、一週間を神戸で共に過ごし交流。(第94号、2005.6.24)。その後も継続した交流が続いている。また、2006年2月にはカナダ対マヒ者協会のケビン・ロジャースさんを東京での福祉機器開発シンポジウム後、大阪頸損に招き交流学習会を開催した。(第98号、2006.7.10)。またこれをきっかけに鳥屋、宮野、三戸呂が福祉先進国であるカナダ・バンクーバーの福祉状況の視察を計画。国立看護大松井先生や現地の方の協力を得て、バンクーバー訪問が実現し、2001年全国総会京都大会で出会ったウォルト・ローレンスさんとの再会も実現した。今年2007年はDPI世界大会で再度韓国ソウルへ行く計画がある。
ピア大阪の一番広い会議室の窓のカーテンを開ける。
少し寒いけれど、キリッとした空気と明るさが気持ちいい。
とある土曜日の慌しい一日が始まる。
1階でコーヒーを飲んでいると印刷準備組がやってくる。丸い眼鏡の合田さんだ。
飽きもせず毎回来てくれる。全ての発送グッズと原稿を持っているというのにヤツはまだ来ない。そう、あのピッカリ野郎・鳥屋くんだ。・・無理もない。
普段サラリーマンをしている彼は残業の毎日というのに、頸損連絡会のほぼ全てのイベントに参加、厚生労働省前で抗議行動をやっているかと思えば、名古屋で全国総会会議、東京でシンポジューム参加、帰宅すれば一息つく間もなくイベント・会議の報告書の原稿作り、次のイベント準備の連絡・・。最近は国内では飽き足らず韓国、カナダまで行ってしまう。本当にいつ寝てるんや?(さては職場で休憩してるのか)という状態なのだから。
あ、来た、来た。
そういう彼らを放っておけない人々が次々にやってくる。いつも何も言わなくてもテキパキ作業してくれる木本さん、藤井さん、アロマセラピスト・木村さん、少し眠そうに尾崎さん、森君、あんな風に年齢を重ねることが出来たら・・いつも優しい佐々木さん、山川さん、神谷さんの後ろからウィーン・・電動に乗ったピカチュウのトレーナーの窪田夫妻、あれ、見かけない若い女性二人・・COMBOを見て来てくれた新人さんかな?
発送作業は驚くほど素早く進む。常連さんが新人さんに指示を出し、探し出すようにして次々片付けていくからだ。ちょっと冬のバーゲンの話をしていると「はいはい、口動かしながら、手ぇ〜も動かす!」藤井さんのゲキが飛ぶ。
数え切れないほど沢山の人が原稿を書き、編集し、発送に携わってくれている。
私が毎月発送作業に来るのはこんなあったかい雰囲気に包まれながら、自分も何か役に立てるかもしれないと思えるからだ。
え?100号記念?ここで各界から100の数字を持つ代表から祝電をもらうことにする。
チョモランマ峰斜面の全長百キロメートルのドンロンブ氷河から祝電が届いた 「継続は力なり」。
虫も含めた全動物の中で一番足が多いのがムカデ・ヤスデだ。「イワイ一〇〇ヨカッタデスネ・ヤスデ」という電文だった。体重百キロのシロナガスクジラからは「南極の氷は白かった−南極観測隊一同」送り先が違うような気がするがまあ、いいだろう。
作業が終わればお腹ペコペコ!郵便車もブツを収集に来てくれたことだし、近くのパスタ屋にランチに行こうか・・明日には会員のもとに届くだろう。さっきこの暖かな雰囲気も封筒に詰めたから来月の発送にはボランティアが増えるかもしれない。(え?第三種郵便で穴が開いてる?ま、いいか)頸損だより、事務局通信を手にしたあなた、次の発送日に少し早起きしてぴあ大阪に来てみませんか?楽しい時間を過ごせること請合いだ。
より楽しい生活につながる情報、時に行政に対する怒りを会員へ届けたい熱い気持ちと、機関紙作り・発送作業を手伝ってくれるボランティアがいる限り、まだまだ頸損だより、事務局通信は続くことだろう。目指せ!200号
多くのボランティアがそうであるように、私も、頸損会との出会いによって人生を変えられた一人である。その始まりが、「頸損だより」の発送作業だった。
今から5年前、2002年の春。ボランティア情報誌「COMVO」をながめていて、発送作業のボラ募集が目にとまった。当時、私は最初の妻と離婚して、生活にぽっかり穴が空いた感じで、「何かしたいな」と思っていたのだ。それまでライターの仕事で、頸損会会員の山口誠さんや障害者施設に取材した経験があったから、障害者の問題に興味は持っていた。しかし、自分には入りこめない世界という感じがして、踏み出せずにいた。でも、その時に思った。「機関誌を発送するだけなら、自分にもできるかもしれない…」。
勇気をふるって森さんに電話をして、頸損会のメンバーと初めて会った日。自分と同世代のごく普通の男が、障害者として生きていることに新鮮な驚きを覚えた。その日、ピア大阪で封筒づめ作業を終えた「頸損だより」を運ぶ車の中で(今は郵便局に回収に来てもらっているが、当時は難波のO−CATの郵便局まで出しに行っていたのだ)、鳥屋さんに熱っぽい思いを聞かされたことが、頸損会に惹かれていくきっかけとなった。
大きな衝撃を受けたのが、その後に参加した支部総会である。数十人もの車いすユーザーが集結している光景を、私は初めて見た。しかも、みんな姿勢が不安定にぐらついていて、病院から持ち出してきたようなハイテク機器に囲まれていたりして、すごくしんどそうなのだ。しかし、それでいて、その場はやけに明るくてパワフルだった! 重度の障害を持ちながらも、自分たちの生活を幸せにしようと前向きに闘っている姿がそこにあった。充満するエネルギーに圧倒されて、「この集団を追いかけたら、すごいものが見えてくるんじゃないだろうか…」。そう感じた瞬間、頸損会にはまっていた。
それからは、正会員以上に熱心に、ほとんどすべての行事に通った。頸髄損傷という過酷な運命と向き合ってきた人たちは、みんな人柄に深い味わいがあって、そのすごみある話を聞くたびに、生きることへの新たな希望を教えられた。胸にズシンと響いてきたのは、「重い障害を負っても、けっして人生は終わらない」という堂々たるメッセージだった。ベットにしばりつけられる生活を拒み、電動車いすを駆けてまちへ繰り出していく姿はかっこよく、いっしょの空気を吸うことで私も元気づけられる気がした。
しばらくして、この場の熱気を記録にとどめておきたくなり、お願いして写真を撮らせていただくことにした。次に思ったのは、講演会やフォーラムなどで話される貴重な情報が、その日の参加者にしか知られていないのは、何とももったいないではないかということだ。私は本業がライターなので、人の話を聴いてまとめるのは得意中の得意だ。そこでまた申し出て、会の行事で行われる講演を録音し、それを文字に起こしてまとめた記事を「頸損だより」に掲載していただくようになった。発送作業で親しんできた「頸損だより」に、今度は編集する側としてかかわることができたのだ。
そのころは連日、残業続きの職場にいたので、仕事のかたわらで行う編集作業はいつも時間がなくて、綱わたりの作業になった。でも、幸福だったのは、記事をまとめる過程で、数々のすばらしいお話をもう一度じっくりと味わえたことだ。特に印象に残っているのは、全国総会兵庫大会での山田昭義さんの“頸損だからこそ、できることがある”という、世の常識をくつがえす痛快な講演(第94号、2005.6.25)と、「シーティングのすすめ」特集(第97号、2006.3.25)での赤尾さん、宮野さんの“人生の可能性をどんどん広げよう!”という力強いメッセージである。今回もこの100号記念号の編集をお手伝いさせていただき、創刊以来の「頸損だより」に目を通していて、福祉制度が整っていない時代からスクラムを組んで闘ってきた多くの人たちの熱いハートにふれることができた。
ここで私事だが、昨年4月、私は13年間勤めた印刷会社を辞めて、フリーランスライター兼ヘルパーとして独立宣言した。「障害者運動を取材して、世に伝えていきたい」なんて大見得を切っているが、正直、この先、食っていけるかどうかはわからない。こんな危険なヤマを張ったのも、自立生活運動の毒気にあてられたせいだと思う。だって、敬愛する頸損会の猛者たちとつきあう中で、たとえリスクが待ち受けていようとも、自分らしく生きていくことがすばらしいんだと、さんざん教えられたのだから…。
こうなったら、もう一蓮托生である。ライターの専門技術を生かして、頸損の人の思いや生きかた、役に立つ情報をわかりやすく伝えていくこと。それが、障害当事者ではない私なりの、ともに闘っていくための手段だと思っている。これからも頸損会、そして「頸損だより」と、とことんつきあっていきたいので、どうかよろしくお願いいたします。