頸損だより2006冬(No.100) 2007年1月27日発送

◎「頸損だより」100号記念対談◎

頸損連の今後にかける夢


「生き方のさまざまな選択肢を見出せる活動を!」
宮野秀樹さん(兵庫頸損連絡会事務局長)

「障害もプラスの力に変えられる頸損連でありたい」
赤尾広明さん(大阪頸損連絡会会長)

これまでのページで、頸損連絡会と「頸損だより」の約25年間にわたる歩みをみてきた。「頸損友の会」結成の頃とは大きく時代状況が変わった今、頸損連に求められる役割は何だろうか? これからどんな活動を展開していくべきか? 現在、大阪と兵庫で活動の中核をバリバリ担っている二人に、思いのたけを語ってもらった。

インタビュアー:鳥屋利治(大阪頸損連絡会事務局長)


頸損連との出会い
―まず、二人の頸損連との出会いについて聞かせてください。

【宮野】

頸損連に初めて顔を出したのは「支部総会」でした(笑)。受傷後1年くらい経ってかな?大阪頸損連会員の田村辰男さんから「同じ障害の人たちがたくさんいるからいろんな話が聞けるよ」と誘われていったのが支部総会で、約13年ほどまえの話だったでしょうか。

それ以降もなぜか支部総会にだけ顔を出していたので、鳥屋さんから「楽しい行事には顔を出さず、総会だけ来る変わった男」とよく言われましたね(笑)。他の行事に参加しなかったのは、たぶん電動車いすで“移動”するのを敬遠していたのかな。兵庫のド田舎から遠方へ出向くのは疲れるし、面倒くさいというのが一番の理由だったと思います。それでも支部総会にだけ顔を出していたのは、生活に関する情報がほしかったのと、孤立した環境で生活していたので“つながり”がほしかったからではないでしょうか。

でも、電動車いすが自分の体に合うものになって、NPO法人で活動するようになったころから“障害者”である自分に向き合い始めたんだと思います。「障害のせいにして何もしないでいるのは不幸だ」と。やろうとしてないだけで、出来ないことは何もないんですよね。そんなことに気付いてもどかしい思いをしていたら、昨年、全国総会・兵庫大会があったんですね。

実行委員として大会に関わり、「頸損だからできること」を考える機会に触れ、自分がやれることは「自分が他の頸損者から受け継いだものを、自分なりにどう活かしてきたか」を伝えていくことなんだと考えました。気が付いたら兵庫頸損連絡会の事務局長になっていましたよ(笑)。実際、本腰を入れて活動しだしたのは約1年前くらいからじゃないかな。それにしては随分と態度がデカイという声が聞こえてきそうですが(笑)。


【赤尾】

僕が初めて参加したのは、確か受傷してから6年後の1992年の秋に行われた「街に出よう」だったと思います。当時の僕はまだ100%の障害受容ができてなかったんですが、ラーメンにしてもお菓子にしてもビデオなどのAV機器にしても新商品が出るとすぐに手を出したくなるほど新しいモノ好きの性格なので、その時の「街に出よう」のコースが当時オープンしたばかりの神戸ハーバーランドだったことから、何も考えずにすぐに飛びつきました(笑)。そして、実はその「街に出よう」でちょっとした衝撃を受けたことがその後の障害受容のキッカケにも繋がったんですよ。

人目を気にしていた僕はまだ人前で電動車椅子を使用することに抵抗があったので、その日は自走式車椅子で参加したんだけど、他の参加者はみんな電動車椅子で、しかも、僕と違ってまわりの目を気にする様子はまったくなく、自分の力でスイスイと移動してたんですね。今でこそ僕も当たり前のように電動車椅子を使用していますが、当時の僕には彼らの姿が衝撃的で、同じ障害を持つ多くの仲間と病院以外の場で出会えたことが電動車椅子をためらっていた僕には大きかったし、ある意味、自分がこれから“障害者”として生きる原点にもなりました。

それから「街に出よう」と「忘年会(現在は新年会)」には参加するようになりましたが、それでもペース的には年に1回か多くても2回くらいの参加だったと思います。当時毎年のように開催されていた運動会はC4レベルの僕には参加できる種目が少なそうで、あまり楽しめそうになかったし、電動車椅子試乗会も顎で操作するような車椅子は展示されてないだろうと勝手に決め込んでいたので、積極的に参加したいと思えるような行事がなかったんです。とにかく「日々の生活を楽しみたい」という思いが強く、障害を受容した後の僕が夢中になっていたのは映画館で映画を見ることで、「外出する=映画館に行く」だったんですね。

でも、そんな僕も30歳になった1999年あたりから自分の意識の中で少しずつ“何か”が変化していきました。それが何かは未だに自分でもよく分からないんですが、頸損連の活動に本腰を入れるようになったのは2003年に会長に就任してからでしょうか。


印象的だった出来事
―これまでの活動の中で、どんな出来事が印象に残っていますか。

【赤尾】

最も印象深いのはやっぱり初めて参加した92年の「街に出よう」になりますが、その他というと97年の「街に出よう」かな。この時も新しいモノ好きの僕は当時オープンしたばかりの大阪ドームのコースに参加したんですが、宮野さんと初めて出会ったのはこの日だったと思います。

同じレベルの頸損者に行事を通して出会うことはなかったから、僕なんかよりもはるかにアクティブに、さまざまな活動をされていた宮野さんとの出会いも僕にとって衝撃的かつ刺激的でした。また、この日はJOY−VANというジョイスティックで操作できる車に乗ったことで、近い将来、重度の頸損者でも車を運転できる日が来るという期待が持てたのも良かったかな。

僕が役員になってから初めて担当した「恋愛について本気で考えてみよう」もいろんな意味で思い出深い行事です。僕自身、“コイバナ”をするのが好きで、鳥屋さんに「何かやってみたい企画はある?」と聞かれたときに真っ先に挙げたのが恋愛フォーラムでした。「障害は恋愛のハンデになるか?」とか「恋愛するうえで自分の“障害”は意識するか?」「障害は個性か?」といったテーマでディスカッションしましたが、みなさん恋愛に前向きなので、なんだかとても勇気づけられ、背中を押された気分になった僕はその勢いで当時好きだった人に思い切って告白しました。結果はあっさりと玉砕(失笑)。

でも、以前の僕ならネガティブに考えて失恋を障害のせいにしていたかもしれないけど、このときは障害に関係なく、ただただ自分の魅力が足りなかっただけだと素直に思えたのは恋愛フォーラムでみんなの恋愛に対する前向きな気持ちに触れていたおかげかな。障害があると物理的なハンデにはなるかもしれないけど、その他は関係ないですね。


【宮野】

印象に残っているのは赤尾さんと同じく97年の「街に出よう」かな。実は初めて参加した頸損連の行事です。長崎でのリハ工学カンファレンスに参加したときにJOY−VANを見て、それが大阪に来るとあって思い切って参加したんですね。

当時はまだ家族に移動をお願いしていたので長居のスポーツセンターまで行って、そこから大阪ドームまで車で移動するつもりでいたんです。ところが集合したメンバーの誰もが電車で移動するとのこと。驚きましたよ! いや、というよりも恥ずかしかった…のほうが正解かな。オレだけ車での移動はカッコ悪いという思いから、親父に「オレもみんなと一緒に地下鉄で移動する!」と言ってしまったんです。その時の親父の顔、面白かったですよ。「大丈夫か…?」と言ったきり黙ってしまいました。親離れの瞬間です(笑)。

結局、親父には大阪ドームまで車で移動してもらい、僕は地下鉄で移動したんですね。ドキドキというよりも照れくさいというかなんというか、電車に乗ることに慣れていなかったので口の中がヘンな味がしていました(笑)。そうそうこの時は鳥屋さんもいましたよね。しかもまだ毛が生えていた頃の鳥屋さんが(笑)。懐かしいなぁ。

大阪ドームで昼食をとって、JOY−VANが待っている自動車教習所へ。そこで赤尾さんと歴史的な出会いをしたんですよね(笑)。赤尾さんには失礼ですが、実はこのとき最も興味を引いたのは赤尾さんの乗っている電動車いすだったんですよ。見た瞬間に「外車だ!」と。「何キロ出るんですか?」と尋ねたら「時速8キロです」との答え。当時からスピードに飢えていた僕は「次にオレが乗る電動車いすはコレや!」と心に固く誓った瞬間でもありました(笑)。その後も赤尾さんの後ろからジロジロと視線を送っていたことは気づかれなかったようですね。とにかくこの時の「街に出よう」はあまりにも収穫が多くて、帰ってからも興奮しすぎて熱を出したのでよく憶えてます。

もうひとつ印象深いというよりも、僕の頸損連活動での関わりを語る上で欠かせないのが「全国総会・兵庫大会」ですね。それまで、受傷後2年半くらいで参加した東京大会、ウォルトさんの話を聞きにいった京都大会と参加したことはあれども主催者側に回るとは夢にも思ってなかった。

正直、三戸呂さんから実行委員会へのお誘いがあったときは「忙しいから」と断ろうと思ってました。実は、実行委員として活動しだしてからもイマイチ乗り気ではありませんでしたからね。誰かがやってくれるだろうと。しかも、シンポジウムのパネラーとして断りもなしに名前が挙がっていたものですから「このオッサン何すんねん!」と三戸呂さんには思い切り不信感を抱きました(笑)。若かったです。三戸呂さんの大きな愛を感じることができていなかったんですね(笑)。

でも考えたんです。今、自分がなぜこの場所にいるのか、なぜこの場に出てこられたのか、なぜ呼んでもらえたのか、なぜ大役を任されたのかと。やりもしない内から無理だと決めつけるのはよくない、やろうとしてないだけで、出来ないことは何もないんだと思ったら後はドップリでしたね(笑)。インフルエンザにかかっても韓国まで行ってましたもん(笑)。

実際、真摯に取り組みだしてからドバッと前が開けましたからね。たくさんの人に出会い、たくさんの話が聞けて急速に自分自身が成長していくのがわかりました。みんなでひとつの目的に向かって作り上げていくことは、楽しいというよりもむしろ快感ですよね。結果、兵庫大会の成功を評価してもらったときには胸が熱くなりました。

また、“頸損のオレにできること”が「自分が他の頸損者から受け継いだものを、自分なりにどう活かしてきたか」を伝えていくことなんだと強く心に誓った転機でもあったと思います。今から考えるとあのとき逆ギレしてたら、今、三戸呂さんと焼酎を飲む機会なんてなかったかもしれないと思うと本当に怖いですよ(笑)。ホント、兵庫大会は僕の中で重要で意味深い出来事のひとつでしたね。


頸損連活動の必要性
―二人は、頸損連活動がなぜ必要だと考えていますか?

【宮野】

自分が頸損になったときのことを思い出すんですね。突然、一生首から下が動かないと宣告されたときのことを。パニックというよりあまりに“リアルではない状況”に理解に苦しみました。今まで元気だったんですから、体が動かないなんてことを理解しろというほうが難しいですよね。家族も「大変だ!」と不安を募らせるよりも、「どうすればいいの?」と戸惑うことのほうが大きかったです。ところが、同じ障害の田村さんに出会った途端、全てが動き出したんですね。「まだ大丈夫(生きていける)」と。

その田村さんから頸損連を紹介してもらって顔を出してみると大勢の同じ障害を持つ人たちがいるんですよね。「こういう風にすれば(生活していけば)イイんだ」とたくさんのことを教えてくれるワケです。行事に行くたびに“頸損の知識”が増えていくし、わからないことがあれば田村さんに、という感じですよね。とにかく、電動車いすに工夫を施しているのを見てマネしてみたり、低血糖症状に悩んでいるとその対処法を教えてもらったりと、“頸損”としての生活の幅は確実に広がっていきましたね。 ある時は「宮野さん、面白いな。今度、泊まり込んで飲み明かそうや!」と誘ってくる怪しげな男がいたんですね。鳥屋さんですけど(笑)。当時出来て間もない「舞洲障害者スポーツセンター」に泊まり込んで酒を飲んだんですが、たぶんこれが初めての外泊だったんじゃないかな。親父とお袋が一緒に泊まったからそうだと思います。でも、これを機に一泊旅行や遠方への外出が増えだしたんですよね。

「見て、聞いて、体験する」。頸損連で学んだことです。難しく考えるよりも見て知り、聞いて理解し、体験して学ぶことが一番早い。同じ状態の頸損はいないかもしれないけど、同じような悩みを抱えた頸損や同じような経験をした頸損、同じような状況を克服してきた頸損は必ずいるんですよね。そういう人たちと出会える場が頸損連活動の場なのかな。ただ単に“伝える”ということしかしてないはずなのに、“受け取る”ものはメチャクチャ大きいんですよね。僕がこの身で感じたことです。

しかしながら、この僕も今でこそこんな風に語っているけど、ずっと頸損連活動をしてきたワケじゃないんです。会活動に顔を出してある程度の知識と経験が得られて生活が落ち着きだしたときに、今度は“自分のやりたいこと”のほうに目を向けだしたんですね。頸損連も田村さんも特に必要ではなくなった期間があったんです。

何をしてたかというと、FMラジオのDJやインディーズムービーの制作、パソコンを一日中操作してホームページの作成と“面白そうなこと”にのみ時間を費やしてきた期間がありました。充実していましたよ。ホント楽しかった。障害者であることを忘れそうになるくらい…。そうです。忘れようとしてたんですね。自分と向き合おうとしなかった、避けてたんでしょうね。でも否が応でも向き合うことになったのが「お袋が体を壊したとき」だったんですね。情けない…。

“障害者”である自分に向き合い始めたとき、やはり頼れるのは田村さんであり、頸損連でしたね。自分と同じ状況を克服した仲間がいました。「自分一人ではない」って孤独から解放されたのかな。最近では“ありのまま”の自分を受け入れるようになりましたもん。充電期間中のことも“自分の経験”として伝えられるようになりましたしね。これが頸損連活動が必要だと考える一番の要因かな。

僕と同じような状況に陥る頸損はいると思うんです。そんなときその経験も「次へのプラスにつながること」なんだと伝えてあげられる仲間が頸損連にはたくさんいますからね。「一緒に活動しよう」というより「まずは出会ってみろよ」という感じかな。“出会いの場”として頸損連活動は必要なんでしょうね。


【赤尾】

僕もまず第一に挙げたいのは「出会い」でしょうか。最近、急性期の頸損者の入院日数がどんどん短くなっていますが、その日数削減によって何が生じているかといえば障害を受容するのに必要な時間が削られてしまうから、“障害者”として生きていかなくてはならない今後の人生を考える余裕もないままに、半ば強制的に社会に放り出されてしまうことです。僕たちの時代の星ヶ丘病院は1年以上入院するのが当たり前だったから、その間に同じ障害を持つ多くの仲間と出会って、同じ時間を過ごすことによって「自分は一人じゃない」ということを実感することができたし、その後に大小さまざまなキッカケがあって障害受容ができました。当時の仲間は今でも心の支えですが、今思うと仲間と過ごしたその時間こそが結果的に僕自身のエンパワメントに繋がっていたと思います。

ところが、現在はさっきも言ったように入院日数が長くても半年というところまで制限されているから、必然的に同じ障害を持つ仲間との出会いも少なくなってしまって、頸損になったばかりで自分の将来を含めて何もかもが不安に感じている時期に、いろいろな生活の工夫なり知恵、体験談とか経験談なりを聴く機会が減っているのが現状です。だからこそ、頸損連が星ヶ丘フォーラムなどで行っているような活動がとても大切かつ重要だと思っています。

また、同じ障害を持つ仲間との出会いだけでなく、頸損連の行事には学生とか主婦などのボランティアも大勢参加しているから、その人たちとの出会いも僕にとっては大きいです。たとえば、2002年に鶴見緑地公園で行われたバーベキューで知り合ったボランティアの方たちとはその後に大阪ドームに阪神の試合を観戦に行ったりするなど、頸損連以外の場でも交流が続いたので、本来なら出会えなかったかもしれない人たちと行事を通して出会うことが出来ました。 人との出会いがもたらしてくれる効果というのはすごく大きなモノだと僕自身は考えていて、それによって自分の価値観が変わったり、前向きな気持ちにさせてくれたりすることがありますが、頸損連の活動はそういった「人と人との出会いの場」「人と人とが繋がる場」としての役割は大きいと思います。

第二に「情報共有の場」として必要だと考えています。同じ障害を持つ仲間と出会うことでさまざまな情報を直接手に入れることができますが、その情報をもっと多くの人に広げていくためには毎月行なわれている行事だけではなく、機関紙とか事務局通信、ホームページなどを利用してどんどん情報提供、情報発信していかなくてはならないと思います。

たとえば、「障害者自立支援法が施行されることで実際に僕たちの生活がどのように変わるのか?」について、まだまだ知らないことも多々あるかと思います。あるいは、「○○駅にエレベーターが設置された」とか「△△は助成金で購入できる」「□□には障害者割引がある」といったような各種の情報は知っていて損はないけど、ITを駆使できるような人はともかく、そうでない人は有益な情報を手に入れられる手段が限られているから、頸損連で収集した情報は、情報格差が生じないように多くの人に発信していく活動が求められると思います。 具体的には宮野さんが挙げられているようなこともそうですが、とにかく「頸髄損傷という障害があっても工夫すれば生きていけるんだ!」という自信に繋がるように頸損連の活動が必要だと感じています。


これからやりたいこと
―最後に、今後、頸損連の活動でどんなことをやっていきたいですか。

【赤尾】

少し大げさに聞こえるかもしれませんが、頸損連が存在していたからこそ今の僕があると言っても過言ではないように思います。頸損連との出会いを通して確実に成長することができたし、障害の受容にも繋がりました。

宮野さんのモットーでもある「不自由な体で楽しく生きる」という考え方に触れたことも大きくて、僕が頸損連で活動するエネルギーの源は「楽しく生きたい」という想いが強いです。だからこそ、「障害を負ったからといって人生が終わったわけではなく、新たな人生の始まりである」ということを一人でも多くの方に伝えるために頸損連の活動を続けていきたい。たとえば、美味しいご飯を食べたら自然と元気が出るように、頸損連に参加したらどんなに落ち込んでいても気持ちのスイッチが切り替えられるような…そんな身近な存在でありたいし、そのために「どれだけ楽しい活動が出来るか」をつねに心がけています。

ただ、残念ながら日常生活を楽しんでばかりはいられないのが最近の障害者福祉施策です。ヘルパーなどの福祉サービスを利用すれば原則1割の負担をしなければいけない障害者自立支援法のせいで僕たちの生活は脅かされていますが、この悪法を抜本的に見直してもらうためには厚生労働省とか大阪府に訴えていかなければならないので、大阪頸損連としては大阪府下の14団体で構成される「障害者自立支援法を考える大阪のつどい」に参加して、御堂筋をデモ行進するとか大阪府議会議員に要望書を提出するとかシンポジウムを開催するといったアピール活動を続けてますし、日常生活に直結する制度だけに学習会を実施することが今後も求められると思います。もちろん、制度のことだけではなく排尿とか排便、褥瘡といった頸損特有の「体に関する悩み」を解決する勉強会も必要ですし、レクリエーションの機会も大事にしていきたい。

うまくバランスを取りながら年間の行事を考えているつもりですが、僕個人として頸損連で今後やっていきたいことは、かつての僕自身がそうであったように、同じ障害を持つ多くの仲間との出会いを通して「頸髄損傷という障害があっても楽しく生きられるから、とにかく前に一歩踏み出してみよう!」というメッセージを頸損連から受け取ってもらいたい。面白い映画を見たら未見の方にオススメしたくなるように、僕自身がシーティングを取り入れることで長年苦しまされてきた褥瘡の不安から解放されて車椅子生活が快適になったことを事例として伝えていくことで、同様の悩みを持つ人たちにも快適な車椅子生活を送ってもらいたい。障害があっても楽しく生きている僕たちの姿を見てもらうためにドキュメンタリービデオを製作して、そのビデオを見た人に「これなら自分もやっていける!」と自信を持ってもらえるようにすることが今の僕の夢というか目標かな。

ツライこともあるけど楽しいこともあるのが人生。障害もプラスの力に変えられるような頸損連でありたいと思ってます。


【宮野】

とにかく“勢い”だけで取り組んでいるのが現在の状況です(笑)。現会員への密なセルフヘルプ、会員を増やすこと、機関誌の発行、ボランティア募集、確実な行事・イベントの開催と、やらなければならないことが山ほどありますが、今できることとして「気持ちが萎えてしまわないように」「兵庫頸損連の周知徹底」を自分に言い聞かせて、次々に行事活動をおこなっているという感じでしょうか。

僕の頸損連活動は、大阪での活動も含めて早い時期からそれなりにおこなってきました。でも、兵庫頸損連絡会が発足した4年前、そして僕が本格的に会活動に専念しだした1年前というのは、措置制度から支援費制度へ、支援費制度から障害者自立支援法へと、まさに激動の転換期でもあり、急激に障害者を取り巻く環境が“負”の方向へ流れ出した時期でしたね。今もまだその“うねり”の中にありますが、生きること(生活すること)に気力を奪われ、障害を持つ体で健康を維持し、個々の仕事や活動をおこなう傍らで頸損連活動に取り組むということに、たぶん誰もが少なからず“苦痛”を感じているんじゃないかな。ともすれば“気持ちが萎えてしまう”ことに。

「仕事があるから仕方ない」「オレがやらなくても誰かがやってくれる」。僕はこの状態によく陥りそうになるんですよ。そんな時思うのは「しんどいと思ってやることほどつまらんものはない。やらされるのは面白くない。楽しんでやれなければやってる意味がない」なんてね。でも、絶対必要なことですよね。誰もがこう思えると頸損連活動はもっと充実してくるんじゃないかな。

ただ、最近の頸損事情は昔と比べて様変わりしてきていますよね。頸髄を損傷したとしても、昨今の医療技術の進歩から圧倒的に生存率は高くなっています。交通事故での頸損がかなりの割合で増えてきているのではないでしょうか。しかし、確実に“頸損者”は年々増えているのにもかかわらず、頸損者の生活環境や精神的ケアというものは、ある程度の進歩はあれども素晴らしく良くなったとは言えないような気がしてるんですよね。相変わらず家族介護や施設での生活が主流で、病院もどちらかと言えば閉鎖的な感は否めません。

僕が頸損になった頃は本当に何もなかったんです。赤尾さんも触れられていますが、どうやって生活すればいいか、どうやって出かければいいか、頸損って一体どんな障害なのか、これらを知る術は同じ頸損者や頸損連という場所に求めるしかなかったんです。出会うことで実感するしかなかったんです。でも、最近では社会環境もよくなって、知識や情報はインターネットやメディアで得ることができるようになっているので、セルフヘルプを受けなくとも生活ができるようになっていますし、「自分の興味のあることだけ」を求めることができる時代になってきています。頸損の症例も増えているので、病院でも専門的な知識のみで対処できるようになってきているんですよね。

だけど“伝えられる”ことが入っていない生活は、簡単な壁にブチ当たっただけで崩れる、モロいもんだと思っています。「共通の体験」をした人たちに出会うことで得られるものは、ネットやメディアで得られるものよりもはるかに大きいものであるはずです。この考えを今一度具現化していく、それをこれからの頸損連でやっていきたいんですよね。

僕が頸損連活動で顔を合わせる会員さんは、なぜかみんないつも笑顔なんですよ。「しんどい」って言いながらもみんな笑ってるんです。様々な困難を乗り越え、そしてまだ乗り越えようとしている人たちの笑顔はたくましくてステキです。これをたくさんの頸損者に知ってもらいたい、見てもらいたい、感じてもらいたい。その中から「あんな生き方がある」「こんなことができる」という『選択肢』を見出すことができる頸損連活動を実現していきたいですね。

そしてその先には…つい最近バンクーバーに行った際に体感してきたんですが、「目的を持って人生を楽しむ」ことが当たり前になるようにしていきたい。楽しむことをあきらめないで、楽しむことからはじめる。これを言葉だけで終わらせるのではなく、頸損連活動のベースとして様々な行事に活かされるよう「頸損魂・バンクーバー化計画」を秘かに始めようと思っています(笑)。一緒に楽しみましょう!



☆インタビューを終えて…☆
活動について、障害について、思う。

今や頸損連を代表するような二人が頸損で完全四肢麻痺。これぞ頸損連!といった感じですね。ただ重い障害に呑まれ受け身で流されているのでなく、首から上だけで車椅子やいろんな機器をコントロールし、動かない自分の身体やさらに自分自身の生活、人生をもコントロールしています。障害からの「自立」ってことでしょうか。

“頸損連活動”って何だろう? と私自身振り返ったとき、活動はみんなのことをやっていながら結局は「経験」や「人とのつながり」という自分が成長するためのものになっている。活動を通して多くの人と出会い一緒になって考え行動し、失敗をも含めた「経験」そのものの多さも人生を豊かなものにしてくれるとこれまでの実体験から感じてます。過去から今まで、活動を中心的にやってきた人のなかで「活動なんてやらなければよかった」なんて言う人には出会ったことがありません。皆一様に活動を通してたくましく人間味豊かになった人ばかりのように思えます。

「障害って何か?」を考えたとき、身体的損傷をきっかけにその不自由さやそれが原因による困難な生活に押しつぶされ、社会の中での経験や体験を奪われ、自分の存在価値や役割を見失い、先のことに夢と希望が持てないことじゃないかと思います。障害者運動や何らかの活動に取り組み向きあえば必ず、自分のことだけに捕らわれてしまうことなく他者や外に目が向くようになります。障害があっても主体的に何かに取り組みたい何かに協力したいと行動を起こせばやがて自分自身の存在価値も見いだせて、どんな人間どんな状態であっても社会の一役割を担ってるんだ、と確信が持てるようになる。そう信じてます。

そういう目的意識を持って動きだしたとき、障害のあること、身体の動かないことなんてちっちゃなことだ、と思える気がしてます。活動に動いた分だけ、取り組んだ分だけ何らかの成果を手にすることができ、味わえる何かがある。それをやるかやらないかは自分の気持ち次第といったところでしょう。

赤尾、宮野の今、活動を支える両氏に少し過去を振り返ってもらい、熱っぽく未来を語ってもらいました。いろんな経験や機微を感じてきた二人を中心に、「頸損連に出会えてよかった」「活動に取り組んでみて自分自身の何かが変わった」と実感できる人がこれから先も出てくること、そしてその活動への取り組みがずっと受け継がれていくことを信じています。(鳥屋利治)


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