忘れられない日 2004.2.23
午前8時45分。
「只今人身事故が発生しました・・・」
私は、朝の通勤ラッシュでごった返した地下鉄ホーム下の空間にうずくまり、そのアナウンスを聞いていました。目の前には電車の大きな車輪。意識が100%正常な私は、「人身事故・・?これって私の事やなぁ」「あの仕事どうしょう・・」「地下鉄にいくら損害賠償せなあかんのやろ・・」「自己破産やなぁ・・」「新聞載るなぁ・・名前も出るんかなぁ・・」「私のせいで会社に遅れる人おるなぁ・・」「車輪こんな近くで見ることないやろなぁ・・」「ホームに引き上げられる時 恥ずかしいなぁ。」・・・・これが半生最大のピンチの幕開けに、本当に心の中で思ったことです。人ってピンチの時、こんな事を考えるものなのでしょうか・・・? でも、すぐに襲いだした激痛にそんな事も思わなくなりました。
早く助けて!・・・。
この痛さ尋常じゃない・・・。
今思えば、背筋に冷たいものが走ります。あと数十秒、落ちるタイミングが違っていたら、私は轢かれていました。あの時、誰かが「ホームの下に潜れ!」と叫んでくれなかったら、私は轢かれていました。
たとえ、障害が残ったとしても、命が助かったのです。
・・・もうひとつの誕生日2・23。
骨盤の複雑骨折をしていた私は、独立行政法人大阪医療センターの救命救急センターに運ばれ、行き着いた場所は集中治療室(ICU)でした。
・・・なぜ、こんな所にいるんだろう。 そんなにひどいの?・・・
気の遠くなる激痛にさらされること数時間、身体のあちこちに機器や管を取り付けられ、まるで、操り人形。1mm足りとも、体を動かすことが出来ない。人が話す波動でも痛い。たった数時間前、お仕事モードの洋服を着て、ハイヒールの靴を履いて駅まで駆け足していた自分が、もう遠い昔のよう・・・。
突然の事故ってこんなものです。誰も予測出来ない。突然の悲劇。・・・涙が出ました。痛いし、情けないし、心配だし、泣けて来る理由は沢山あるのだけれど、知らず知らずのうちに、頬に涙がつたいました。こんなに辛いなら、一層のこと、意識不明だったら良かったのに・・・っと、ホント罰当たりな思いが常に頭を過ぎりました。一日24時間、痛み止めも効かず激痛にさらされる状態は、冷静さを失い、気が狂う(表現が悪くて申し訳ありません)、ギリギリの状態に追い込まれます。本当に生き地獄でした。
そんな、ICUで、運命的な出会いをしました。とてもキュートな女の子、頸損会会員の松岡葉子さん(葉ちゃん)。彼女は、私より3日前にICUに運ばれ、耐え難い苦痛と闘っていたのです。お互いこの時は、生きる事に精一杯で、すぐ近くに寝ていたお互いに気付く訳も無く、ただただ痛みと共存するしかありませんでした。葉ちゃんとの出会いが、この頸損会と引き合わせてくれたのです。
事故当日、主治医に「ホンマに電車に当ってないか?こんな折れ方はおかしい。」「今夜が一つの峠。」と言われました。・・・峠!?意識鮮明で、会話もできるのになぜ?・・・
骨盤骨折による、大量出血が予測されていたそうです。無事に峠は過ぎ去り、7時間に及ぶ骨盤整復の手術を受け、一般病棟に移り、長いリハビリ生活に突入しました。
そこからは、比較的順調に心も体も安定していました。変な話しですが、私の医学知識の無さが、心と体の回復を早めたように感じるのです。リハもやった分だけ、成果が出ました。当たり前に出来ていた事が出来なくなっていた私が、「再び出来る」ということが、本当に嬉しくて、すぐに母親に「出来たよ!」と、コッソリ隠し持っていた携帯で連絡するほどでした。人生2度目の歩く練習。1度目は、赤ちゃんの本能で出来た事が、2度目は、PT先生に手取足取り教えられても、出来ない時は出来ない。人の本能ってスゴイなぁ・・・。
そして、リハの成果も自分の中で「ある法則」を見つけました。心が穏やかだったり、笑える日は、成果は抜群!に出ました。反対に、思い詰める出来事があったり、心や体の痛い日は、何度やっても、出来ない。やる気ゼロ。体は心に素直に反応しました。順調な私にも、度々スランプに落ちる事がありました。ある日、後遺症について軽い気持ちで整形外科の主治医に尋ねてみると「足を引きずるようになるかなぁ・・・でも、歩けなくなるかもしれなかったんやで!」と。救命救急の主治医にも同じ事を尋ねました。同じ事を言われる・・・。このまま、日にち薬で、元に戻っていくと疑わなかった私は、初めて殻に閉じこもってしまいました。初めて「障害者」の文字が頭に過ぎったのです。大変なことになった。ただの骨折じゃなかったんだ。今頃気づく私。社会復帰、未来予想図が描けない。・・・改めて、ホームから転落した自分に悔しくて、夜になれば涙が出ました。大きな術跡を見るたび、事故の事を思い出し、涙が出ました。
しかし、ちょっと負けず嫌いな面もある!?私は、リハの目標設定を更に高く上げました。何がなんでも元に戻そう。最高目標「ピンヒール10cmを履いて、ミナミを歩くこと!」・・・PT先生は、もちろん苦笑でした(笑)。リハも、強い回復への思いを達成させる為に、ここからが本当の闘いとなりました。可能性があるリハメニューは、何でもやろう。毎日毎日、病棟や一般の人が通うジムで、リハに取り組みました。自分の体の事もネットや本で調べ上げて、PT先生にもかなり質問や疑問を投げかけました。PT先生も私の疑問に回答出来なければ、次に会うまでに必ず何らかの方法を考えてきて下さいました。偉そうな言い方ですが、患者が一生懸命になればなるほど、PT先生にもその思いが伝わり、本当に熱心に指導して頂きました。PT先生がいなければ、今の私の姿は無かったと心から思います。
入院と車椅子生活半年、杖生活1年半、合計2年間リハ生活をしてきた結果、障害もバレない程度に回復し、健常者と同じ立場での社会復帰することが出来ました。そして、自分の「なってしまった運命」を乗り越え、再び社会復帰するまでの心の体の訓練は、「頸損会との出会い」と現在の職業でもある「アロマとの出会い」です。葉ちゃんに初めて頸損会の新年会に誘って頂き、今年は早くも3回目の出席をさせて頂きました。頸損会では、事務局長の鳥屋さんをはじめ、大きな困難を乗り越えて来られた方々と出会って、ボーリング大会や会報誌の発送などでボランティアという形でお世話になっています。私にとってのボランティアは「してあげる」ではなく「させて頂く」もの。障害者初心者マークの私にとって、皆さんの明るいキャラや時に缶ビールをストローで飲む力強い行動(笑、車椅子でも出来るボーリング、そして、人の気持ちを正面から受け止めてくれる大きな心、・・・
「な〜んだ、体が不自由でも何だってできるやんっ!」、障害に対する特別な気持ちがふっと緩み、やりたいことをやって行こう!っと私の心に明るいものを感じるようになりました。やる気があれば何でも出来る。障害は決して不幸な事ではなく、ただ不便なだけ。
体が邪魔するなら、やりやすい様に工夫すればいい。それでもだめだったら、別の道を見つければいい。・・・少し心に必要なだけの逃げ道を作っておくことが、私のモットーとなりました。
私を助けて下さった全ての人に感謝し、心や体が疲れてしまった人の為に何かお手伝いをしてみたいと思い、医療現場で活動できるアロマセラピストを目指すべく、リハをしながら、学校に通い始めました。杖をついて、重い教材を持ち、久しぶりに地下鉄に乗り、繁華街を歩いて学校へ通う。普通の人なら何て無いことでも、学校に着くまでに、グッタリと疲れてしまい、講義に全く集中出来ない日もありました。アロマセラピストは体力勝負の面があるため、実技講義では健常者との違いをヒシヒシと感じるようになり、悔しくて落ち込む日もありました。でも、ここまでやり遂げ、アロマセラピストとして働けるようになったのは、やはり私に係わって下さった皆さんのお陰です。人は知らず知らずのうちに誰かに助けられ、支えられて生きているという事を大ケガをしてちゃんと感じられるようになりました。なので!?、私が人として成長するためには、事故も必要だったんですね(笑・・・・言い過ぎでしょうか?
新年会では、過去2年、アロマコーナーを設けて頂き、色々な方とお話をしながらハンドマッサージをさせて頂きました。1度きりでも人と人の出会いは貴重です。「Power of touch」不思議なもので、タッチの力は初対面でも、心をほぐしてくれるのです。これからも、感謝の心を忘れずアロマを通じて、クライアントに寄り添って行きたいと思います。
現在、神戸の三ノ宮で、心療内科や不妊症専門クリニック併設の「Natural Flora」にて、アロマセラピストとして勤務しております。一般の方もご利用になれますよ〜。
・・・これって宣伝!?・・・ではありませんが(^^;)
今回、こういう形で執筆依頼を頂きました鳥屋さん ありがとうございました。