頸損だより2007春(No.101) 2007年3月24日発送

シリーズ・自立生活あれこれ

“自立生活前後のころ”

吉田みち


17,8才の頃から「自立生活」をする為に現実に何をどうしたらいいかと考えるようになりました。私は両親からの了解がそう簡単にはでないということをよく分かっていましたから、まず、第一歩として行き先を訓練センターのようなところと考えました。そこで、北海道から九州までのリハビリを兼ねた病院宛に手紙を出すことを思いつき、受け入れて欲しいことなどを書き、あちらこちらに送りました。どのくらいの数の手紙を出したかは今でははっきりと覚えていませんが、返事が思ったよりも多く返ってきた記憶があります。もっと近いところで、という意見ばかりで、実際には望むようなところはありませんでした。

そうした中で、当時入っていた障害者グループの会の集まりが大阪であり、その時の会長さんに相談にのってもらいました。それをきっかけにして、今はなくなってしまった大阪府立身体障害者機能訓練センターの所長さんに会うことができました。その所長さんは、若年性リュウマチで、ほとんど関節が固まってしまっていた私を見て、「まず、もっと歩けるように手術をしなさい」と手術をすすめられて、関西労災病院を紹介されました。「回復した後は必ず受け入れる」と約束もしてもらいました。術後回復に3年余りかかりましたが、心配して愚痴っぽくなる親の思に耐えながら、私は自立への一歩を具体的に計画化していきました。その後なんとか大阪府立身体障害者機能訓練センターに入る事ができました。そして一年半を過ごすことになりました。しかしそこでも、「重度」ということで、望んでいた一人の生活は現実的にかなり難しく、就職などは程遠いものがありました。私は施設での生活を目標としていた訳ではなかったので、なんとかしたいと思う日々が続きました。家を離れる時に、「決してここには死んでも戻ってこない」と強く決心していたのですから。

そんな私の思いを変えることはもうできないと思ってか、両親が知り合いに話していたようで、母の幼馴染の人の紹介から尼崎でクリーニングの取扱店を始めることになりました。当時はバリアフリーと言う言葉もまだまだありません。借りた店舗付きの部屋も大工さんによって付けられた細い板スロープで部屋へ上がり、押入れのふすまも取り払って上をベッド代わりにして寝ていました。お風呂もトイレもなかったので、アパートの持ち主と交渉し、共同トイレの一つを自己負担で洋式トイレに改造して付けさせてもらいました。幸い台所が広く、一番小さなユニットバスを入れることができました。またこれに入るのにも、足継ぎが必要で、3段ほどの小さな階段を大工の棟梁自ら作ってくれました。

こうして始まった生活、タイル張りの流しに新しいまな板を下げた時、とても嬉しくその輝きに感動したのを今でもよく覚えています。それまで市場など行ったことがなかった私は、松葉杖をつき、片手に買い物籠を下げて安いものを求めながら嬉しく楽しく買い物にでかけていきました。ある時、お味噌汁に「ふ」を入れたいと思いつき、買いに行ったのですがどこに売っているのか分からず、うろうろ歩き回ったのを覚えています。今から思えば、何にも知らなかったな、と思う事ばかりです。それでもコロッケを作ったり肉まんを作ったり、魚も3枚におろしたり、節約をしながら結構、まじめに過ごしていました。ただ肝心のクリーニング店のほうはなかなかで、とても生活費にはなりませんでした。近所で顔見知りになった人や、工場の作業着を持ってきてくれるお兄さん、「子供の服の修理をやって」といって持ってくるおばさんもいました。それでも季節の変わり目の日曜日には大量に汚れ物がかごからあふれました。このクリーニング店は大手の会社の取次店で、監視役のおじさんがよくやってきました。そのうちにそのおじさんの憩いの場となったらしく、しょっちゅう入りびたりとなっていきました。愛知県から今でいう単身赴任の人でした。いつも嬉しそうに私のいれたお茶を飲んでいたおじさんの顔が、たまに慌てて外へ飛び出して、気難しげな表情で表に立つ時がありました。会社から集配の人が来た時でした。面倒見のいいおじさんは、もと紳士服を作っていたということで、修理を頼まれた子供服を代わりに直してくれました。また、私が買い物に行くというと、機嫌よく店番をしてくれていました。何かの折に、自作の歌詞など書いて読んで聞かせられました。

そんなある日の夕方、会社の現場で働いているという若い男の人を連れてきました。どうやら、紹介をするつもりだったらしく、しかし当時の私には付き合っていた人がいました。彼が来ると、とたんにこのおじさんは機嫌が悪くなり、二人で出かけるのにお留守番を頼むと嫌な顔をしていました。

でも、楽しいことばかりではなく、常に母の愚痴を再三聞かされ続けました。私自身は淋しさや不安をいっぱい抱えながらも、その思いを話すことはありませんでした。後に夫となる彼が突然訪ねて来てくれた時、激しく泣いた記憶があります。ある時、センター時代の友達が遊びに来る事になりました。その時、母が飛んできて「遊んでいる」といって非難をしました。でも私はそれを拒否して友達を呼びました。センターの先生が遊びに来てくれるとなると、母は喜ぶのです。世間知らずの私ではあったけれど、このような考え方を受け入れることは出来ませんでした。当時から私はかなり頑固者だったのです。

一人暮らしをはじめて、約半年余りしたときに結婚することになりました。近くに公園があり桜がきれいで、よく二人で出かけて行きました。また会社から帰ってくる彼を、一筋先のタバコ屋までよく迎えに行きました。そのうち、彼が車を買って通うようになると、部屋の外の車の止まる音で帰ってきたことにすぐ気づくようになりました。私たちの生活は貧しく、ある日かぼちゃだけしかなくて、揚げたかぼちゃに、また違う小さなかぼちゃのあんかけをかけた料理を作りました。結構おいしかった〜 その頃から私は「何々もどき」を作るのが得意になりました。

結婚してまもなく、雪の中で赤ちゃんが生まれるという夢をみました。その夢がその通り、翌年1月20日女の子が生まれました。誰もが、結婚した彼さえもが、諦めていたらしい子どもですが、私自身は全くといっていいほど「できない」なんて考えてはいませんでした。最初妊娠したことがはっきりしなくて体調が悪く、近くの病院に行っていました。そこの内科のドクターは、私の障害について心配していることを話すと、「大丈夫だ」と励ましてくれました。しかし同じ病院の産婦人科のドクターは、まるで好奇心の塊のような顔をして、今でいうセクハラの言葉で聞いてきました。私は二度とそこへは行きませんでした。そこで、手術をしてくれた関西労災病院の産婦人科に行く事にしました。そこでは、先ほどのドクターのような人はいませんでしたが、手術をした当時副院長の許可をもらって欲しいと言われました。副院長の先生は、大変喜んで「大丈夫だから」と言ってくださいました。こうして無事に元気な赤ちゃんを産むことが出来ましたが、障害をもっているということで、それが特別なことのように驚いたり大げさに騒いだりする周りに対して、私は小さな怒りを持っています。今でもこうした、ある意味、好意的にしろ障害を持っているということに対して特別に意識されることが多い現実を生き辛いと感じないではおれません。当たり前に受け入れられない社会が、続いていることに憤りと悲しみを強く感じています。

当時から比べて、どれだけ社会や生活は暮らしやすく変わったのだろうか。むしろ人との関係が薄れ、本当の優しさが薄れているような気がしてなりません。自立支援法という名の下に、再び、障害を持って生きることの厳しさを突きつけられているような気がする今日このごろ過ぎた日を思い返しました。


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