頸損だより2008春(No.105) 2008年3月22日発送

ポイントA

大会2日目 特別報告の紹介

「地域で自立して暮らしたい」

〜新潟県魚沼市を訪ねて〜

大阪頸髄損傷者連絡会 赤尾広明

昨年の12月7日から9日まで、2泊3日でスキーシーズン開幕直前の新潟に行ってきました…といっても、プライベートの観光旅行ではなく、5月の全国大会でお招きしたい魅力的な頸損者が新潟にいましたので、ぜひ直接お会いして話がしてみたいと思ったから、行きは東京経由で片道5時間30分かけて、帰りは日本海を眺めながら7時間30分かけてまでコシヒカリで有名な魚沼市に足を運びました。体温調節ができない頸損にとって雪国はかなりキツイだろうと防寒対策を念入りに、普段は使わない使い捨てカイロまで持参して万全の準備だったはず…が、最初に新幹線の越後湯沢駅に降り立った瞬間、僕の体は一瞬でフリーズしました。いきなり冷たい風が吹き付けて耳が切れたかと思うくらいの痛みが顔面を突き抜けたもん(笑)。さすがは新潟!僕の想像以上に寒かった…というか、僕の想像が甘かった。それでもこの日は好天で気温も例年に比べるとマシだったそうなので、ある意味ラッキーだったかもしれません。目の前には思わず飛び込みたくなるほど真っ白で、誰も未だ踏んでないようなキレイな雪景色が一面に広がっていました。

上越線の六日町駅で迎えに来てくださった山内俊博さん(C5レベル)と合流し、その後、人工呼吸器使用の波田野勤さん(C4レベル)が入所されている施設で、3人でお話することになりました。約5時間にわたって受傷から現在に至るまでの経緯とか障害受容について、地域での生活はどのようなものか?都心部との違いはどこにあるか?自立生活の実現に向けた取り組み、2度にわたる中越地震のときはどのように過ごされたか?今後に向けた意気込みなど、あっという間に時間が過ぎて、まだまだお話がしたいくらいでしたが、今回はその一部をインタビュー形式にして抜粋しました。

受傷から現在まで

─それではまず最初に頸損になってから現在までの自己紹介をお願いします。

山内:

私は平成8年の1月28日に交通事故で第5頸椎を損傷、左はC4、右はC5という診断です。

富山との県境近くで事故に遭ったので、新潟県の糸魚川病院という病院にすぐに運ばれて、そこで3ヵ月。その時は気管切開して人工呼吸器をつけていた時期もあったんだけど、それも3ヵ月で、その後、新潟市民病院に転院しました。そこでの入院は2年ほど続いたんだけど、その時にたまたま知り合った人の知り合いが自立生活センター新潟のTさん(新潟市内在住)という方だったので、同じ頸損でもあるし、いろいろとお話を聞きたいということで会わせてもらったりして、そこでCILの活動とか知りました。そのとき私は新潟大学を休学中だったんで、なんとか卒業までいきたいということで、市民病院から大学まで通うのに、最初はタクシーを使ってたんだけど、かなり高かったので、CIL新潟の送迎サービスを利用して、そういうカタチでいろいろとCIL新潟と関わらせてもらっていて、それで平成10年の10月に退院して、家に戻ってきてからもCIL新潟との繋がりは今でも保ちつつ、またいろいろと協力してもらいながら魚沼でも活動してるという感じです。来年の1月で受傷してから12年目になります。

波田野:

1993年(平成5年)、36歳の時に横浜で高いところから落ちてC4完全損傷しました。その後、首都圏の病院を2年くらい転々とし、1995年に新潟県に戻ってきたのですが、私の生まれたところは福島県境に近いところで、そこでは不便だということで、新潟市に父母に出てきてもらって、父母の介護によって在宅生活しました。しかし、1年くらいして父の方が脳いっ血で倒れたことで在宅を断念し、それから社会的入院ということで、新潟市民病院に1年くらい入院した後、ここの施設(南魚沼市身体障害者療養施設)が1997年に開所すると同時に入って、ここに来てからすでに11年目になります。呼吸器関係としては受傷した93年1月から11月まで呼吸器をつけていました。11月にリハビリでなんとか呼吸器を一度離脱することができたのですが、施設に移ってきてその翌年の98年に呼吸障害を起こしたことで、また気管切開部を再拡大して呼吸器をつけなければならなくなりました。どうしてまた呼吸器が必要になったかというと、施設に来て精神的にいろんなことが重なって、半年くらいで倒れてしまったんですね。それによっていろんな精神科の薬を使うことになったんですが、その中に呼吸で使う筋肉(呼吸筋)の弛緩作用の強い薬があって、それによって頸損で弱い呼吸がさらに弱くなって、それで呼吸器が必要になった…そういう説明をその当時の先生に聞いたことがあります。直接的に精神科の薬が原因と断定まではできないという先生の説明でしたが…。今、呼吸器は1日平均20時間くらい使っています。基本的には呼吸器をつけないと眠れないから使わざるをえないってことと、ベッドをギャッジアップすると呼吸が苦しくて、パソコンを使うときはギャッジアップするので、そのために呼吸器を使います。外出の時とかは10時間くらいは呼吸器を使わないで過ごすこともあります。何度か「呼吸器から離脱したい」と主治医に相談したのですが、主治医の結論は「離脱はできない」とのことで、この地域では呼吸器離脱について今のところ進展がないという状況です。だから、東京とか大阪の先生に受診して、本当にダメなのかどうか聞いてみたいくらいの気持ちなんです。今でも離脱に向けて希望は捨てていません。吸引については受傷当時からずっと必要で、気管切開の穴は開きっぱなしです。

障害受容について

─頸損になって障害を受け入れるキッカケはなんでしたか?

山内:

私の場合、新潟市民病院にいたときに波田野さんと一緒だった時期は結構床ずれがひどかったので、ほとんどベッドから離れられない状態でした。同じ頸損の方の状況を見たり、お話したりするということはほとんどない状態だったから、やっぱり「自分はこの先ずーっとこんな体で生きていけるのか?」という心配だけがすごく強くて、「まー、これじゃ無理だろう」「せめて右手だけでも、もうちょっと動かせなきゃ」って感じで意地になってリハビリしてたような気がします。

そのときにたまたま、先ほども話した同じ頸損でTさんという方がいると知ったんですね。その人が自立生活センターでいろいろ障害者運動をやってるっていうお話を聞いて、直接会って話をしてみたときになんか初めて考えがパーッと変わったっていうか、そんな一瞬でもないけど、でも、本当に「退院したくない」っていう思いだったのが、その人と会って、もう次の月くらいには退院準備のために「家に帰りたい」って自分から言うようになったんで、それがやっぱり一番大きなキッカケだったかなと思いますし、その後もいろんな障害者の方と会って話をするのが一番精神的には…。ま、ピアカンじゃないけど、結局そういうことなんだろうなって思ってます。

大学も最初は辞めようかと思ってたんだけど、最初はまわりの方が一生懸命になってくれていて、大学の先生とOTの先生なんかも連絡取ってくれて、OT室でもパソコンを使えるようにして、なんとか勉強できる環境を作ってくれたりしてたんですね。それで、私もまわりが動いてくれるから「じゃあ、やるか」って感じになったんですけど、結局、家に帰るのを前向きに考えられるようになってからぐらいからは本当に「卒業するか」って。あと卒論だけってのもあったし、大学の教授も「あと卒論だけだからゼミには来なくてもとりあえずちゃんと勉強して卒論書けば卒業はさせる」っていう話だったんで、それならがんばろうっていう気になってきましたね。だから、やっぱり同じ障害者と会うってのがいちばん気持ち的に変わったかな。入院中にはもう復学しました。96年の1月に怪我して96年97年と丸々休学、98年から復学して99年の3月に卒業したんです。Tさんと会ったのが97年の暮れくらいだったと思うんだけど、そのあたりから「よし、じゃあ大学も頑張るか」って感じ。なんか家に帰るのにまず目標がないとなって。ちょうど一番手っ取り早い目標が大学卒業だったんで、それをまず考えようかっていう感じになりました。

もしTさんとの出会いがなかったら、自分はどうなってただろうって思います。そのまま気持ちが落ち着かないまま退院してたら、こっちに帰って来たらなおさらそういう障害者と会う機会が少なかったんで、その後どうなったかなっていう思いはあります。Tさんと頻繁に会うようになったのは入院中からですが、最初はなんか会いたい気持ちもあるけど、「あなたはこの先こうなるんだよ」っていうのが分かるようで怖くて、でも、会ってみて全然考えが変わりましたね。なんかその、まったく未来がもう真っ暗っていうか、何もないんだろうなっていうような思いだったのが、Tさんがダスキンの研修でアメリカに行ったりとか、結構いろいろ動いている人だったので、「あー、そういうこともできるんだ」って思えるようになりました。Tさんと出会ったのが頸損になって1年か1年半近く経ったくらいでした。それまでその人のことはちょこっと話を聞いたりはしてたけど、直接会って話をしたりしたのは1年半か2年まではいかないくらいでした。私自身がそういう経験をしてきたので、今度は私自身も話があればいつでも頸損の方に会いに行きますよっていう感じなんですけど、私が退院してからは1回かな…その市民病院でOTの先生が私が退院して2年くらいしてからだと思うんだけど、「また頸損の人が来たんだけど、今度病院に来たとき顔を出して」っていう話があって、それで顔を出してちょっと話をしてみたりしたんだけど、私がその人にとってどのような影響を与えたかは分かんないです。

─波田野さんは障害を受け入れるキッカケとかはありました?

波田野:

これだというキッカケは思いつかないですし、あるいはまだ受け入れができていないのかもしれないです。なんていうか、絶望もあったろうけど、絶望したって何もならないじゃないですか。それで終われば終わりでいいんだけど、終わることもできないわけで…。小さなキッカケはたくさんあって、車椅子が電動になったとか、パソコンを使えるようになって情報をたくさん得られるようになったりとか、たとえば、以前は気管にカフ付きのカニューレをしていたんですが、それだと初めての人とはほとんどコミュニケーションが難しかったのですが、今はカフなしのカニューレで人と喋れるようになったとか。ひとつひとつが進歩で、そういう進歩が重なってきて、次には1泊2日ができるようになったとか、今年はまた2泊3日をやったりとか、そうやって一歩一歩やって来たのが現在かなという気がします。

今はどんな生活?

─今の生活状況とか聞かせてもらって良いですか?

山内:

今は新潟県の魚沼市というところで両親と妹と私の4人で暮らしてます。ホームヘルパーを身体介護で150時間、ただし、これは清拭とか入浴介助は二人介助なので、実質はその半分くらいです。サービス内容としては朝の清拭、週2回の入浴、夜は毎日就寝介助が8時から9時までの1時間、車椅子からベッドへの移乗をお願いしてます。その他、移動支援として月に24時間で、外出する時はその時間内で利用してます。移動はやっぱり全然時間が足りないですね。昨年の夏に自立生活プログラムとかシンポジウムとかやってたら足りなくなって、なんとかやりくりしながらやってましたが、増やしてもらうことはかなり厳しかったです。さすがに24時間では少ないですね。基準としては月3回6時間外出しても18時間、あと、ちょこちょこ出たらそんなもんでしょうという感じで決められました。明確な基準はないと思います。県内では分からないけど、魚沼では私が最も支給決定時間数が多いようです。話を聞いてみると「両親にやってもらえば良い」という感じで、身体ではあんまり障害者がヘルパーを使うことはないようです。もちろん、いるとは思いますが…。知的とか精神のほうが利用者が多いような気がします。自分のまわりの事は全部出来ちゃう脊損の人とかを除けば、自立生活してる人はあんまり聞いたことはないですね。

─波田野さんは施設ですけど、今の生活はどんな感じですか?

波田野:

入浴は週に2回で、食事の時間も決まっていて、それから、お酒は週1回決められた時に決められた場所で飲むだけです。外泊は年に1回、施設が企画する旅行があって、2、3人の障害者とその家族が職員の付き添いで行きますが、私は2003年に1回行ったきりであとは参加していません。日帰り外出としては施設の企画で少人数で行くバスツアーが年に1回あります。あとは“希望外出”といって、1回2時間内でどこかに行きたいっていう希望を出しておいて、それが順番で回って来るのですが、月に1回くらいしか順番が回ってこなくて、しかも、2時間だけだから近場にしか行けません。希望外出であればお酒も食事も自由ですが、なにせ頻度が少ないです。

私自身が個人の企画で動く話になると、吸引が必要なので吸引は限られた人にしか頼めないので、個人的に外出するのはせいぜい月に1回。その月1回の外出は希望外出では時間が短くて行けないところに買い物とか飲食に行ったりしています。個人企画の外泊については、ここ2,3年は年に1回です。

外出の足の問題とかいろいろな面で外出するにはハードルがだんだん高くなっていますが、それに加えて吸引のできる付き添いを確保することがとても難しくなっています。吸引に関していろいろな通知が出ましたが、私に関しては逆効果に働いているかもしれません。つまり、吸引について明確に白か黒かで線引きされてしまうと今まで曖昧だから行ってくれていた人が行けなくなったりとか。吸引の同意書というのを外出の度に自主的に私が渡しているのですが、それでも付き添いが確保できない。社協に頼んだこともあったのですが即に断られました。個人のツテでお願いするにしても、施設で長く暮らしていると人との付き合いもだんだん疎遠になってしまうので、付き添いを確保するのがますます難しくなってきました。本来、施設でカバーしてもらいたいのですが、希望外出の長時間化とかを要望してもなかなか実現に至りません。たとえば、山内くんが企画した自立生活プログラムには全10回のうち3回ぐらいは行きたくて一生懸命付き添いを探したけど見つからなくて、結局1回しか行けませんでした。外出外泊がもうちょっとなんとかならないか…といったところです。

中越地震について

─新潟といえばはここ数年で2度、中越地震がありましたが、どういう状況でしたか?

山内:

私は平成16年の中越地震の時は家にいてテレビを見てたんですが、私の住んでいたところは震度5強の揺れでした。すごい揺れのおさまった後にすぐに停電になって、家族がいたのでとりあえず家の前に出ようと逃げてる最中からまた余震が2度も3度もきた状態でした。10月でしたから夕方はかなり寒くなってきてたんで、体温調節がうまくいかないからだんだん冷え込んでくるとかなりきつくなってくると思い、うちのリフト付きの車で休んでいようと思ってリフトで車に乗り込もうとしたら、その途中にまた余震がきて…。車に乗るのもすごく怖くなったので、家の中から毛布とか持ってきて自分の体の上にかけながら、地震が発生したのは18時ちょっと前だったのですが、21時くらいまでは家の外でじっとしてました。近所の人はすぐ近くに広場があるので、「そこに逃げるように」っていう指示だったんですが、私は「そこに行ってもどうにもならないだろう」「それだったら家にいよう」って感じで動かず、21時過ぎた頃になると結構寒かったから、それでもう「家が潰れたらおしまい」という覚悟でそれからは家の中にいました。その後も消防団が「避難してください」とまわってくるけど、「どこに避難しろ」って感じなんで、そのまま家の中で一晩過ごしました。たまたま翌日の昼には電気が戻って、ライフラインがわりと早めに復旧したので、ずっと水が止まって…とかじゃなかったのは助かりました。暖房はいつも使ってるのは灯油のストーブだったんですが、あれはさすがにおっかないので家の中では暖房はやめて、余震がかなりヒドイときはなんとか毛布とかで過ごしました。それでも外にいるよりは暖かいって感じでした。当日、家がもしダメで、ずっと外にいなければならなかったとしたら、体温調節ができない私にはツラかったでしょうね。避難所に行けたとしても大変だったと思います。ずっと車椅子の上でしたが、それこそ0時近くなって、もう大丈夫だろうと思ってベッドに戻りました。ベッドも電気系統が全然動かなかったけど、これが田舎のすごいところで、お隣に発電機を持ってる人がいたので貸してもらって、それでベッドとか使えるようにして、そのまま寝ました(笑)。家の被害としてはお皿とかが何枚か割れたりとか棚に積んである物がバサバサと落ちたくらいでなんとか済みました。

地震の後、「私のような者はどうすれば良いのですか?」って聞いてみたのですが、そしたら避難所が1ヶ所あるとのことでした。ただ、そこも施設はバリアフリーでトイレも車椅子で入れるけど、結局広いところで雑魚寝って感じは変わらないので、これでは行っても無理かなと思いました。もし最悪の場合の緊急避難先としては県内の施設で受け入れ人数に余裕があればそこに自分で連絡を取って行ってくれと言われました。「自分で…」って言われてもって感じ。電話は回線は繋がってましたが、かけてもほとんど繋がらない状態でした。ただ、インターネットはできたので、それで私は情報を取れたから、まだ良かったかな。

余震がやっとおさまって、とりあえず10月に地震が起きてから1ヵ月くらいは結構怖い状態でした。その後、12月の頭に今回の地震で障害者はどうだったのかを考える「震災を考える会」でもやろうかという話になりまして、20人くらいのこぢんまりとした会ですが、地元で12月に開きました。その会では今日ガイドヘルパーで来てもらっている事業所が魚沼地区の障害者支援の拠点だったので、そこのセンター長とか県の職員に来てもらっていろいろ話をしました。知的障害の親御さんは避難所でも騒がしくするから気になったとか、私と同じ身体障害者でも逃げる場所がないので家にずっといたとか、視覚障害の人は情報がなくてずっと家にいたりとか、それぞれがどんな問題があったかとかを話して、県の職員からは災害時に向けてどういう取り組みをしてるのかという話もありました。そのあたりから生活が普通に戻って来た感じかな。2回目の震災では揺れは震度5弱だったんですけど、物が落ちたりすることはなくて、電気も止まらなかったし、柏崎の一帯がかなり被害が大きかったようですけど、こちらでは揺れだけでした。正直、シンポジウムを企画したとき、「やっぱり起きるんだな」というのを改めて思ったくらいで、「前に起きればあと50年くらいは起きないだろう」とか、そんな感じだったので、2回目は真剣に考えるようになったキッカケの地震ではありましたが、とくに生活で困ったとかはなかったです。ベッド上で清拭してるときだったのですが、ベッド上なのでそれほど怖くもなかったです。車椅子のとき(1回目)は落ちるかと思ったくらいなので、車椅子のときの方が怖かったです。もし排便中だったらどうするのだろうとか思いましたね。なるようにしかならないのだろうけど…。避難所で排便じゃないけど、まわりに壁を作って排尿されてる方がいたという話は聞きました。障害者にとっては個室が使えるようにできないかと行政に提案とかしてるんですが、あまり反応がないです。

今回すごく感じたのは、とりあえずは自分がどう動いたら良いのかがまったく分からなかったので、その心構えというか、どこに行けば良いのかだけでも事前にハッキリさせておいた方が良いということ。とりあえず行くだけ行って、その後は別の場所に避難しても良いんだけど、それすらも情報がないから、どこに行って、誰に何を聴けば良いのか分からないし、最初の一歩くらいは…。たとえば、誰が避難の手伝いにくるのかとか、そのくらいは決めておいたほうが良いのかなと思います。魚沼市にはようやく「どこに誰がいるか?」みたいな地区ごとの名簿ができたようです。

─波田野さんのところはどんな感じでした?

波田野:

私は中越地震の前に2度大きな地震を経験してるもんだから、今回の地震はさほど大きかったとは思わないんですよ。昭和39年の新潟地震、それが小学校2年生の時で、その後、20歳くらいの時に宮城沖地震を経験しました。だから、今回の地震があった時も「あー、結構大きいな」くらいの余裕があったんです。ここは施設だから地盤が固いところに建ってるし、平屋だし、揺れも小さかったです。震度6弱と発表されてますが、自分自身の感覚ではせいぜい震度4くらいの感じかな。

1回目の地震では停電くらいで何も起きませんでした。ただ、停電になると呼吸器が使えなくなるので、その時は「今日1日寝なきゃ済むのかな」「今日は寝れなくても仕方がない」と思いました。でも、実際に眠れなかったかというとそうではなくて、20時くらいには近所の発電機が届いて、22時くらいからは呼吸器に使わせてもらえたので寝ることができました。停電が直ったのが翌朝の4時30分くらい。施設では泊まりは職員が2名だけなんですが、こういう緊急時はどんどん出勤してくるので、在宅の人ほど不安は感じなかったです。2回目の中越沖地震はベッド上でパソコンをしていて、「あー、揺れてるな」って感じで終わりまして、停電とかもなかったです。

さっき山内くんが「避難先として施設を使いなさい」と言われたと話してましたが、ここの施設もその緊急避難施設の対象で、でも、実際に利用した人はほとんどいなかったです。ちょっと聞いた話では、この施設をショートステイなどで一度も使ったことがない人は施設側もおっかながるし、本人もおっかながります。施設としてはその人がどういう障害でどういうケアが必要かを知らないし、利用者にとっても全然利用したことがない施設に「さあ行きなさい」と言われても怖いので、その結果、施設入所を断った例が1例あったそうです。だから、こと災害に関しては在宅の人も一度くらいは平常時に施設を利用しておいて、災害時に入りやすいようにしておくのが安全安心にとってプラスかなと思いました。

─山内さんは今の話をどう思われますか?

山内:

確かにそういう面もありますが、そのためにショートステイを利用するとなると、それはちょっと違うような気もします。全然知らない人に介助してもらうのは難しいと思うけど、災害となればそうも言ってられなくて…。それこそ自立生活プログラムをやっていて思うのですが、どういう風に指示を出すか。うまく指示を出すのは難しいけど、それはそれで乗り切るしかないかなと。日頃からいろんな人と関わりをもつことが大事かなと思ってます。

田舎は封建的!?

─山内さんは以前、「障害者は親と暮らすのが安心ですね」みたいな風潮がまわりにあるとおっしゃってましたが、率直に言って今の地域で自立は可能だと思われますか?また、そういう風潮に対して言いたいことはありますか?

山内:

私が個人的に感じる点としては「親と一緒でいいね」みたいな感じで言われることが多くて、とくに年配の方が言いますが、そんなことを普通に「30歳過ぎたオッサンに言うか」って思うんですね。それが地震の後さらに強くなったんじゃないかという思いがあります。私自身も実際に自分が障害を持つまでは障害者は親と一緒とか施設にいるのが普通だと思っていて、ヘルパーを使って一人で暮らすなんてことはまず頭になかったというか、そんな生活があることを知らなかったです。東京ではそうやって自立生活してるんだとか、新潟でもそういうの目指してるんだということが分かってから考えが変わってきたというのがあるので、そういうことをみんなが知らないで、「障害者は親と一緒があたりまえ」と考えてるんだと思うんですね。それが田舎になると「田舎じゃ無理だよ」というのがさらに強くなるので、そこがまた問題なんですけどね。自立というキーワードとしては僕の中では「いつか親元から出たい」という思いは以前から漠然とありました。退院してから「あー、オレはこの先ずっとこうなのかなぁ」と思っていたら、なんか「一人暮らしをしてみたいなぁ」って思えてきて、そういう気持ちは以前からあるにはあったんですけど、でも、その頃は自立するなら新潟市に行こうかな…とか、いろいろ思ったんですね。魚沼で自立して暮らしたいと思ったのは4年前くらいですかね。大学生の時はアパートで一人暮らしをしていて、わりと子供の頃から家に寄り付かないというか出たがっていたほうなので、当時も盆と正月くらいしか家に帰らず、ずっと学生アパートにいたって感じでしばらく魚沼から離れていたから、その時は魚沼のことを「地元」ともなんとも思わなかったんだけど、実家に帰ってきてまたここで人の繋がりができてきたら、ここでまたこの繋がりを切って別のところで自立するよりは、ここで暮らしたいなぁって思えてきて…。それで生まれ育ったこの地域で自立したいと考えるようになりました。

─波田野さんはどうですか?

波田野:

この地域での自立について答える前に、今の山内くんのお話しに関連して一言。私の場合は父親が脳いっ血で倒れちゃったんですよね。それは私が40歳ちょっと前でした。親の介助の手がなくなったことで行くところがなくなっちゃって、それで、社会的入院ってことで病院に1年間いたんですが、そういう状況になると、今なら「自立ですか?」「施設ですか?」になるんですよね、きっと。さっき山内くんが話した「障害者のことを一般の人は分からない」っていうイメージと、「山内くん自身が(障害を負う前は)そういう状況が考えつかなかった」というのとは同じイメージのように聞こえたんです。だから、ちょっと残酷な質問かもしれないけど、山内くんにはもし親が倒れたらどうするって聞いてみたくなりました。

山内:

どうするかな…。うーん、勢いで出るか…。昼間は(時間数がなくて介助が)スカスカでも夜だけ…。私が今、(時間数を)フルに使っているわけではないので、多少はまだ増やせるような気もしますが、結局自分で有償介助者を見つけない限りは難しいかな。まだ頭の中だけみたいな感じなので、自分で介助者を集めろと言われてもどうすれば良いのか…。

波田野:

私自身が以前そうであったように、自立はそれこそ制度がそれを推奨しているからと言う建前論だけでやろうとしてもこの地域では難しいと思います。この地域の現状は、支援費制度が始まろうとする段階で聞いてみたら、介助が月平均5時間/人しか実績がありませんでした。また、たとえば、時間数がもしたくさんになったとしても、それを受けられる事業所がないし、自立できるかどうかは結局足りない部分を「どうやって自分で人を集めるか?」によるんだと思うんです。その点でも人口の少ない地方は不利ということになります。この地域で自立が進んでいないということについては、そういう選択肢もあるということを障害者自身まだ知らないということもあるかもしれません。

─そういう意味で、仮定の話であっても日頃から自分自身を窮地に追い込んでおくというのは自立生活の実現に向けたひとつの課題かなと思うんです。そういう状況を想定して、今のうちにやることをやっておくのがベスト。実際に親が倒れてしまったら、自立か?施設か?という「究極の二択」になってしまう。それは都会も地方も違いはないと思うんですよ。ただ、地方の方がヘルパーをより見つけにくい環境にあるかなとは思うけど…。だから、親が元気なうちに自立を想定したケアプランを考えて行政と交渉しておいたほうが、不測の事態に勢いだけで自立するというのは生活が不安定でリスクが大きいんじゃないかな。

山内:

私もそう思うんです。今ならまだ、もし何かあったときに逃げ場があると思うんです。いざとなったらもう出るしか道はない。

─波田野さんの場合は父親が倒れるという不測の事態によって否応なく選択を迫られ、施設に入所されたわけですよね?

波田野:

昔は社会的入院があって、その次に施設入所しかなかったから、二択ではなく一択でした。さらに施設の選択についても私の場合、施設を選ぶこともできません。吸引してくれる施設が県内ではここしかないので、ここに入所するしか選択肢がなかった。自立支援法ができてもその点は変わらず、今も選択の余地すらない一択です。もし父親が元気であればその中で自立の道を探せたかもしれません。今は呼吸器も足かせになっていますが、その中でも自立の道を探りたい。じゃあ、「そのためにはどうすればいいか?」を考えています。

─自立ってみんなどういうタイミングでしてるんでしょうね。たとえば、親が倒れたとか年齢的に介護が難しくなったことで施設か自立かを選択する必要に迫られて自立をする人もいれば、「自分のやりたいことがしたい」っていう明確な目的を持って自立をする人もいる。これ以上、ここ(自宅とか施設とか)には住みたくないっていうのもあるかな。理由とかキッカケはいろいろあると思うんだけど、「自立したい」って思ったときの周囲の目とか環境が、都心と地方では違うのかなって、お二人の話を聞いていて思いました。自立するためには「住むための家探し」「時間数獲得のための行政交渉」「介助者の確保」という、この3点はクリアしなくちゃいけないけど、それぞれの点において魚沼では介助の時間数が足りないとか事業所の数が少ないとか、そういった面で大きな違いがあるのかなと思います。

だからこそ、そういう自立が困難な環境下で自立した人がいたら、都心にいる僕たちは言い訳ができなくなるんですよね。

波田野:

環境でいうと施設の方が親元より気を遣わなくて良いんですよね。施設の職員は頼めばやってくれるけど、親はその日その時の気分に左右されるから気を遣います。だから、施設にいるとだんだん在宅よりも気が楽になっちゃう人もいて、「自立」ってことでいうと地域移行といっても施設から自立する気が生じなくなってしまうんですよ。私自身も以前は親に気を遣っていたこともあったので、施設は楽です。だから困っちゃうんです。逆に、なんで施設を出るかというと外出ができないとかお酒が限られてるとか、それぐらいしか理由がないんです。あとは職業が持てないとか家庭が持てないとか、それくらいしか施設から出る理由がなくなっちゃう。施設に長くいるとだんだん「自立したい」というパワーがそがれちゃうんですね。今の話は私自身の話も含まれてるけど、施設ではそういう人が多いように見えるんですよ。確かに現実的に楽は楽なんだけど、それはただ「息をする」というだけのことであって、「生きる」という意味でどうかといえば私は大いに疑問に感じます。本来あるべき姿ではないと思うので、また私自身は施設の生活は人間らしくなくて不自然だと決めつけてかかってる部分があるので、私自身はそういう不自然な生活に疑問を感じます。ただ、ここの施設で自立を口にするのは私くらいなんですよね。

都心? or 地方?

─都市部ではなくて地方での障害者の暮らしについて今どう感じていて、どう考えるかを聞かせてもらえますか?

山内:

とにかく私はここ魚沼で暮らしたいというのが一番の思いです。建物とかのハード面でもかなり違いますし、公共交通なんてものは障害者にとってあってないようなもんで、この辺だとほとんど車しか移動手段がないという感じですから、そのあたりも都会とは違うところなんですよね。バスでスっと行けるとか電車で1駅とかという感覚では全然ないので、そこが大変なところ。あと、こっちでいえば雪ですかね。雪が降ったら家に閉じ込められるような環境なので、雪下ろしとか雪かきはヘルパーは(制度上)できないから、そこだけまた人材を確保しなければいけない。そういう難しさもあるけど、今は思いだけで…。

波田野:

今日お話していて分かったことは、私は生まれ故郷を一度出て、その後、大学も違うところに行って、仕事も別な場所で働いていたから浮き草になっちゃったんだよね、きっと。今いる施設のあるところも同じ新潟県といっても生まれ故郷から遠いし、「地元」という意識はあんまりないようです。そういうこともあって、自立についてのインフラに地域格差があるのだから、自立したい人は、自立しやすいところに行った方がいいのではないかという考えになってきています。

今後について

─今後について何か考えてることがありました教えてください。

山内:

私としてはまだ親が元気があることを願いつつ、今の状況でさらにヘルパーを入れた生活を増やしていきたいと思ってます。どの時間帯に入れるかを考えて、それを役所に持っていって、だんだん増やしていって、それこそ、今のうちから時間数を増やせるようにしていくのと、昨年もそうだけど、自立生活プログラムじゃなくても自立を意識する障害者の仲間を増やしたいっていう思いもあります。今回、全部で10回の自立生活プログラムをやったんだけど、結局参加者が一人しかいなくて、しかも、魚沼と違って長岡からの参加だったんですね。こっちの参加者がいなかったのはすごく残念。ただ、今回は10回というのが長かったかもしれないので、そんなに大げさなものではなくてもセミナーのようなカタチでも良いから少しずつでも仲間を増やしていければ嬉しいかな。結局、自分ひとりでやってもうまくいかないかなっていうのもあるし、せめてもう一人でもいれば…っていう思いもあるんで、そうやって今後も諦めずにやっていきたいです。

波田野:

自立したいって気持ちは一貫して変わらないんですよ。そこは「年をとったら諦めるのですか?」っていうことになっても変わらないと思います。65歳くらいになったら分からないけど、それまでは諦められない性格なんです、きっと。だから、今はちょっと休憩しているようなところがあるけど、そのうちまた自立への思いが頭をもたげてきて、自立生活に向けた何らかの行動を起こすだろうと思っています。これまでも、次の課題はこれだ、次の課題はこれだ、そうやって一歩一歩きたっていう感じなので、具体的に次の一歩をどうするか?今はその課題を探してるところ。どうやったら自立できるのか?国のシステムの様子見をしてるところもあって、なんというか今は逡巡しているところかもしれません。

─今日は長い時間ありがとうございました。

(2007年12月8日)

<プロフィール>

波田野勤さん

51歳。C4レベル。頸損歴16年目。

施設11年目。夜間と作業時人工呼吸器使用。電動車椅子使用。


山内俊博さん

1975年、新潟県魚沼市(旧北魚沼郡小出町)生まれ。1996年、新潟大学在学中に交通事故で首から下の機能をほとんど失う(頸髄損傷)。現在は自立生活センター新潟の協力を受け、魚沼で自立生活プログラムを行うなど、魚沼市に自立生活センターを立ち上げるための活動に取り組みながら、生まれ育った魚沼での自立生活の実現を目指している。2004年に中越地震、2007年に中越沖地震と、2度にわたって震災を経験。2007年10月にNPO法人ゆめ風基金との共催で行ったシンポジウム「障がい者の復興」では実行委員長を務めた。

インタビューを終えて…

新潟でも新潟市内ではなく魚沼ともなればやはり大阪と比べると制度面での格差が大きく、それに加えて田舎特有の封建的な傾向が今でもまだ根強く残っているので、都心部よりも自立するのはかなり困難な状況にあるということが分かりましたし、そんな状況下でも自立生活の実現に向けた取り組みをされている山内さん、施設で暮らしていても自立は諦めていない波田野さんのお話を聞いて、僕自身とても勇気づけられました。

「地域で自立して暮らしたい」といっても、その地域地域で利用できるサービス内容とかマンパワーに大きな格差があるのが現実。しかし、住み慣れた地域で暮らしたいと思うのは誰しも当たり前のこと。お二人の話を聞いて改めて自分の自立に対する意識がまだまだ甘かったと痛感すると同時に、言い訳をしている自分に気付かされましたので、個人的にも有意義な新潟訪問になりました。

山内さんには全国大会2日目の特別報告でお話していただく予定なので、再会できるのが楽しみです。

(聞き手:赤尾広明)



全国大会の案内

日時:5月10日(土)〜5月11日(日)
会場:大阪国際交流センター/ホテルアウィーナ大阪
大会テーマ:重度障害者の自立と支援について〜君たちがいて僕がいる〜
スケジュール:
5月10日
 13時〜受付開始
 14時〜シンポジウム開始
 16時30分 シンポジウム終了
 17時30分〜レセプション受付開始
 18時〜レセプション開始
 21時 レセプション終了
5月11日
 9時30分〜総会受付開始
 10時〜特別報告開始
 11時〜全国総会開始
 12時30分 全日程終了


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