頸損だより2008春(No.105) 2008年3月22日発送

シリーズ

車輪の一歩

車輪の一歩をこぎだすことで何かが変わる…

島本 義信


はじめまして、今回「車輪の一歩」というテーマで体験談を書かせていただきます、島本義信です。体験談と言いましても、あまり楽しくない内容ですし、最近はただただ体調を崩さないようにをもっとうに日々過ごしているだけなのですが・・・。暇つぶしにお読みください。


私は7年前にミニバイクで停車中の路線バスに追突して頸髄損傷になりました。事故現場近くの救急救命センターに搬送され、人工呼吸器を付けられICUに・・・、1週間後、呼吸器が外れて6人部屋に入りました。私以外の方は同じように救急で入院され、初めのうちはつらく苦しそうですが、1週間、2週間と日が経つうちに、どんどん回復され退院していき、同室の方が次々と入れ替わっていくのを、ハローベストで頭を固定され、天井しか見ること出来ない私は、周りの人の和やかな話し声でその人の退院を知り、「俺は一生このままか、自分の事を何も出来ない私は、嫁さんに死ぬまで介護してもらわなあかんのか。」と言う思いに苦しんでいました。首から下は動かず、食事もトイレも一人ではできない、ただの肉の固まりや、生きてる意味は無い、こんな事やったら死んだ方がましや、と思いました。が、自殺することも自分ではできません。そんな悶々とした日が1ヶ月ほど過ぎたある日の夜中、消灯時間も過ぎ完全に眠り込んでいたところに、廊下にある電話のコーナーから、聞こえる話し声で目が覚めました、「もしもし・・・あぁ、わしやけどなぁ、今○○が死んだんや、急やねんけどなぁ・・・」と聞こえてきました。ここまで運ばれて来て、亡くなる人もいてはるんやと思い、自分は首から上の機能は残っていて命も助かったんやから、「生きていこうか」と少し思い始めました。


そんなある日、「頸髄損傷者のリハビリを専門で行っている病院があるので、その病院へ転院しますか」と言う話があり、嫁さんが見学に行ってくれました、「沢山の人が、大きな体育館でリハビリをして、終わったら皆、車椅子で廊下を走ってはったよ」と聞き自分もそこでリハビリをすれば、何か可能性が見つかるかもしれないと思い転院することにしました。2ヶ月ほどベッドの空き待ちをしている間に、手首・肘・肩がリハビリで少しだけ動かせるようになりました。この、救急救命センターでは、4ヶ月間入院していました。

「向うの病院はここみたいに優しくないらしいで、きびしくてもがんばるんやよ」という看護婦さんの声に送られて、救急車で転院さきの病院へ向かいました、ストレッチャーに横たわっての移動ですが久しぶりに見る外の景色、ほとんど空しか見えないのですが雲の形がどんどん変わるのを、見つめながら「あぁ、生きてるんやなぁ」と思いました。


病院に到着後すぐに脊損病棟の部屋へ、ベッドで待機していると、担当になる看護婦さんから、「どこまで腕動くの」と聞かれ右手を口の辺りまで上ると、「食事は今日からおにぎりにするから、自分で食べてね。おかずは食べさせてあげるから」と言われました。「そらまぁ、病人とちゃうし、自分の為やから何でもするけど、昨日まで食べさせてもらっていたのが、今日から自分でさっそく食べるんか」と思いました。そして、リハの先生を紹介され、OTの先生は私のフォークを持って行き夕食前に、食事用の装具にフォークをセットしたものを持って来て、「これで食事出来るから」と渡されました。その日から、リハビリと言う名目で、食事は全て自分で食べるようになりました。

周りの患者さんからは、「なにも出来ない事にしとかんと、何でもさせられるで」と言われそんなもんなんかと思いました。しかし、首から上しか動かせずにいた状態から、指は動きませんが、腕を動かして好きな物を好きな順に、自分で食べる事が出来る幸せを感じました。そして少しずつ自分の健康管理、体調、メンタルケア等を、医師や看護婦さんに任せるのではなく、自分自身で考え決断を下し、何が出来、何が出来ないのかを考えること、家に帰る為に必要なものを見つけようと少し前向きな生活が始まりました。


ただそんな順調な日が続くわけもなく、事故当初から感じている両腕の痺れるような痛みと、起立性低血圧にくわえ、転院した頃から出始めた痙性が酷くなり食事以外の日常生活は全て奥さんの介助が必要になるよ。と言われるようになりました。その頃、ちょうど転院して3ヶ月になろうとしていました、色々な決まりで入院期間は3ヶ月です、それを超える場合は医師の特別な許可がいります。入院中に知り合った方は、入院期間が過ぎ次々と転院していく中で、病院からは妻が幼い息子、この頃三男が1歳半だったので、その子と私の世話を同時にするのは無理だと言う理由で、息子が学校へ行くまでの5年間、リハ施設や病院へ転院を繰り返すという計画を薦めて来ました。退院か転院かを決める会議の少し前に、リハの先生から同じ頸損でも1人で在宅生活をされている方を、紹介して頂き夫婦で話をさせて貰いました。その方は、決して奥さんや家族が私の介護をする事のないように、訪問看護や訪問介護・ホームヘルパーの制度等を利用するように、自分もそうして1人で生活しているから絶対大丈夫ですよ、と教えて下さいました。そして、出来るなら退院を伸ばしてもらい、住宅改造、ベッドやお風呂用のリフト等、在宅の為の準備をするようにとアドバイスして貰いました。暗闇にひと筋の光を見つけた思いで、その話を、リハの先生に聞いて貰い、在宅の為の準備と身体機能の回復が見込めると言う理由で、あと3ヶ月退院を伸ばしてもらいました。


それから、夫婦二人三脚の訓練が始まりました。

たとえ、訪問看護や訪問介護の方が、来てくださる事になっていても、万が一の時は嫁さんに頼らなければいけない為、膀胱洗浄の練習から、摘便、入浴介助、車いすとベッドの乗り降り、自動車への乗り降り等の訓練に付き合ってもらいました。嫁さんにとっては、家で子供達の面倒を見て、病院で私の訓練に付き合い、在宅の為の準備に役所廻りをし、心も体もくたくた、だっただろうと思います。私は、家に帰った時の為に、疲れたり、しんどくなった時の対処の方法を考えながら午前のリハから、午後のリハそして皆がベッドに上がる時間まで1時間でも長く車椅子に乗車するよう心がけました。お風呂も血圧が低いのでずっとストレッチャーで入っていましたが、自宅ではストレッチャーで入れるような広いお風呂は作れないので、シャワーチェアーに変える練習を始めました。

そして11ヶ月の入院生活を終えて退院、今は沢山の訪看さん、ヘルパーさんに支えていただき、家族と共に過ごさせていただいています。


退院後の外出は月に1度の泌尿器の受診ぐらいでしたが、電動車いすを手に入れてからは入院中に知り合った方の家へおしかけて行ったり、映画やホームセンターなどへと、恐る恐るですがひとりでぶらっと出かけるようにこころがけました。出かけてみるとひとりではできないことも沢山ありますが、近くにいる人に声をかけるとみなさん快く助けてくれます。

先日スーパーで棚の上の商品を取れずにいたところ、後ろでアベックの話し声が・・・、とっさに身体を後ろにそらせながら声をかけると前にまわってきてくれたのが、鼻と唇のピアスを鎖でつないだ金髪の子と、異常に目の周りだけ白いよく焼けた彼女でした。事情を話すとぐるっと一緒にまわってくれレジまで付き合ってくれました。お礼を言うと、「当然ス、から・・・」とひとことを残して、店の中に消えていきました。外出すると気持ちのいいことやそうでないことにも出会うことができ、人とのつながりも大きく広がりました。

そんな中、今年から知人を通して大阪頸損連に参加させていただくことになりました。まだまだ暑さ寒さ、雨などの天候に行動が左右されますが、頸損連の方々と共にひとりでは味わえない新しい一歩が踏み出せるような予感がしています。どこかでお会いした時は、よろしくお願いいたします。



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