頸損だより2008夏(No.106) 2008年7月26日発送

講演・パネルディスカッション録

記録まとめ A.T.(※以下本人希望によりイニシャル表記)

≪第1部≫講演「カナダの人工呼吸器使用者からのメッセージ」

【T】シンポジウムの進行をさせていただきます、大阪頸損連絡会のA.T.と申します。31歳です。6年前バイク事故で、頸髄を損傷しました。C1です。夜間のみ人工呼吸器をつけています。なにぶん肺活量が少ないので、言葉が聞き取りづらく途切れ途切れになると思いますがご容赦ください。

現在日本では、私たち頸髄損傷者も含め事故や病気のために自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器をつけて在宅で生活する重度障害者が増えています。その数は全国で1万人以上にのぼり、さらに増加傾向にあります。ですが今の日本では、法律や制度、社会サービスの方が追いつかず、介護の負担はほとんど家族にのしかかり、呼吸器をつけての生活は24時間の見守りと不定期な痰の吸引など、困難を極めるものです。また、「呼吸器をつけている人は寝たきりの重度障害者」という世間の偏見もまだまだ根強く、自立生活の実現がなかなか進みません。

本シンポジウムでは、そうした重度の障害があっても、地域で自立して当たり前に暮らせる環境を作るために、吸吸器使用者の自立生活が進むカナダから当事者を招き、また国内の三人の呼吸器ユーザーと共に今後の日本での課題と可能性を考えていきたいと思います。

シンポジストのプロフィールはお手元の資料にもありますが、今回来日して頂いたダン・ルブランさんのプロフィールについて、 宮野より簡単に紹介します。


【宮野】ダン・ルブランさんは現在30歳でカナダのブリテッシュ・コロンビア州バンクーバー在住です。3年前の27歳の時、バイク事故で頸髄を損傷されました。C2の頸髄損傷で四肢麻痺ということは人工呼吸器に頼る生活を意味します。しかし2006年、カナダで4人目の事例として横隔膜ペースメーカーの手術を受け、人工呼吸器なしに呼吸することができるようになられたそうです。今後ブリティッシュ・コロンビア大学で環境デザインの勉強を志しておられ、より住みやすい世界をつくる努力をしていきたいと考えておられるそうです。


【T】僕からみれば、ダンは事故後たった3年で、日本に来るバイタリティーのある、前向きな見習うべき男性であると思いました。横隔膜ペースメーカーはスーパーマンでお馴染みのクリストファー・リーヴさんがされていたことでも有名です。この辺りの話も含め、ダンさんにカナダでの医療や生活状況を呼吸器ユーザーの視点からお話頂きたいと思います。それではダンさんよろしくお願いします。



『横隔膜ペースメーカー』とは、横隔膜に電極を埋め込み、体外から電流を流すことで横隔膜が刺激され収縮することで吸気を行わせる装置です。簡単に言うと心臓を、ペースメーカーを使って動かすように、横隔膜を動かして呼吸させる人工呼吸の一種です。利点としては、自然呼吸に近い呼吸であることと、大型の呼吸器から開放されるということです。但し手術が必要で何より日本では保険適応になっていないため、利用者の経済的な負担がかなり大きく2003年時点で日本では20例あまりではないかとの報告を受けています。

●講演 ダン・ルブランさん

■ケガをする前は

皆さん、こんにちは。私はダン・ルブランです。ありがとうございます。それでは私の話を聞いてください。日本に来てから皆さんの歓迎にたいしてとても嬉しく思っています。なんて素敵な国なんでしょう。

少し自分がケガをする前の人生について話したいと思います。昔北カナダの方に住んでいました。オーロラはカナダ人としてとても美しいものだと考えているのですが、日本人の方がハネムーンでいらっしゃると言う事も聞きました。すみません、息が追いつくのを待っているためゆっくり喋っています。ともあれ私は、アウトドアの活動をとっても楽しんでいました。これは私が釣りをしている時の写真です。とてもリラックスしているように見えるでしょ。とても楽しんでいたのですけど、魚が釣れた事は一度もありませんでした(笑)。


これは働いていた時の写真です。私は船大工としてトレーニングを受けました。木製のボートを作るのが得意でした。毎日仕事に行くのが楽しくて仕方ありませんでした。私が作っていた時のボートはとても大きな川のボートでした。これはカナダの国立歴史公園にある物で、19世紀の始め頃に作られたボートでした。そのボートがあった頃はゴールドラッシュの時代でした。その頃はとても人がたくさん集まったんですけど、そんなにたくさんの人が金を見つける事は出来ませんでした。


■失意のなかで

エクストリームスポーツというものがあって、私はそれが大好きでした。それで砂の中でダートバイクに乗っていた時に、ケガをしました。助けがくるまで二人の人が40分ほど、息をするのを助けてくれました。そして目が覚めた時、私のベッドの周りには私の家族と、友達がみんなで詰め掛けていました。それは私にとって辛い時期でした。私の隣に座っている脊損者は、リック・ハンソンと言う方です。とても有名なカナダ人です。彼は私にとても考えさせるような言葉を言いました。彼が私にささやいた言葉は、「人生は、脊椎損傷を負った後にも続く。」ということでした。1985年にリックさんは4万キロを車イスで走破したんですね。それは35カ国に渡ったんですね。その目的というのは、皆さんの意識を高めるためと、知ってもらうためと、寄付を集めるためです。2億カナダドル以上の資金を持つ基金を運営しています。その資金は、脊椎損傷のリハビリテーションのプログラムのために使うとの事です。


これは私の退院初日の写真です。1ヶ月後です。呼吸療法士と一緒です。この日を私は絶対忘れることはないと思います。これが、私が行っていたリハビリセンターです。このリハビリセンターが目的とするのは、その方の症状にあった一番良い状態で自立できるようにということです。QOL「生活の質」を上げるために、このリハビリセンターでは、障害を持った状態から、自立への移行を手伝います。地域生活がスムーズに運べるように、支援をするのです。


■今の生活を支える制度や支援団体

これはカナダの基本的な福祉のシステムの図です。一番左上の税金がバンクーバーに下ろされます。そしてそれが健康保険省に降りてきてさらに地域の保険行政に降りてきて、セルフサービスに降りてきてそこから、左側は地域にある事業所。右側は自立生活のサポートする部分へと分けられていますが、中央の黄色い所が僕と書かれています。僕は両方と繋がっている。お金が直接下りてくるが、事業所にも回ったりして下りてくる。という形です。ですから私がリハビリセンターを退所した時には、ソーシャルワーカーがついて色々な指示をしてくれました。住む場所を見つけてくれたり、色々な人を紹介してくれました。ソーシャルワーカーが、自分が一日に何時間ケアが必要かケアプランを立てるために考えてくれました。それはいつも不十分なんですけど。

これはバンクーバーにあるサポートグループの色々な団体のロゴです。この中のたくさんの事業所が私のために支援してくれ、私の自立生活の継続を手伝ってくれています。こういう事業所というのは、政府によって補助金が支払われています。私がリハビリセンターを出て地域移行した時にとてもラッキーだった事は、良い場所を見つけたということでした。私は面接を受けなければならなかったのですが、6人の面接を受けました。「椅子に座れるか?」と聞かれたので椅子に座って冗談を言って笑わせてみました。あそこは私にとってとても正しい場所だったんだなと思います。その当時の彼女と一緒にそこに引っ越す事になりました。しばらくの間は二人が順調でした。だけど自分の介護に対していっぱい彼女にプッシャーをかけすぎて、彼女は耐え切れなくなってしまいました。ですからこれは僕の失敗でもあります、というわけで彼女は出て行ってしまいました。それが私の状況を大きく変えました。けれども彼女がいなくなった事は良い事でもありました。犬を飼っていたんですが、僕の気に触ってしょうがなかったです(笑)。ですから暮らし方をその時変えなければならなくなって、もっと自立するようになりました。そういうわけで私はシーソープログラムを使って、暮らしていくことにしました。シーソーというのは自己管理型のケアと言う意味で、それを縮めて「シーソー」と呼んでいます。利用者が政府から直接お金をもらって、自分を支援してくれるための介護をしてくれる人に、お金を直接支給します。そういうお金の管理を本人が責任を持って行います。ケアのコーディネートも含めて全部自分がします。介護をしてくれる人を募集したり、雇ったりクビにする事も。その介護者のトレーニングを行ったり、スケジュールを決めたりします。こういう暮らし方ですともっと自分の時間が取れます。なぜなら彼らに支給する額は事業所に渡る額と同じであるということです。私はほとんど24時間ケアを必要としています。だから私は完璧なルームメイトを探さなくてはいけませんでした。結局そのルームメイトは介護者の1人がやってくれる事になりました。彼女の家賃を軽減するために、少しだけお金を払う事にしています。


ここから私のバンクーバーでの生活を説明したいと思います。これが私の家です。私の家は海辺に建っているんです。ですからとってもラッキーだったと思うんです。これは私の車ですけれども、私より年をとっています。そして私の介護をしてくれる人たちが運転もしてくれます。ショッピングに出かけたり。5時間掛かるようなドライブであっても連れて行ってもらいます。でも最近ガゾリンが高いですよね。

これはバスに乗ろうとしているところです。すべてのバスが昇降台を持っています。これは私のペースメーカーを受け取るためのタグです。あれは大変なことでした。あの時私は生まれて初めて人工呼吸器をつけたまま飛行機に乗り、しかも家族全員が一緒でした。


■横隔膜ペースメーカーをつけて

クリーブランドです。2年半前、あの頃はたくさんのことがあって、圧倒されっぱなしでした。でも今回の旅行もけっこう大変です(笑)。あの頃私たちは車椅子の乗れるバンを借りることが出来ました。右側の写真ですが、ペースメーカーを入れた後にカナダの帽子をかぶってお茶目な自分を演出しているところです。

これがペースメーカーです。手術自体は1時間45分でした。それはカメラを使っての内視鏡手術だったのです。先にペースメーカーの利点をいくつかお話したいと思います。それを埋め込んだ直後に部屋にコーヒーが来て、その臭いをかぐことが出来ました。空気を肺に直接送り込まれるのではなくて、これを埋めると鼻から自分で息をすることが出来るからです。そう言うわけで嗅覚があがります。味覚も戻ってきます。他にも色々な利点があります。人工呼吸器のような大きなものが車椅子に載っかっていないので、うるさい格好になりません。あなたの介護者にとっても、介護が簡単になります。飛行機に乗るのもずいぶん楽になりました。電池が切れる心配をしなくても良いのです。ですから、これは誰にとってもいいものだと思ってお勧めしています。すごく言いたいのはもう痰(たん)の吸引をしなくてもすむことです。それから大きな機械を持って歩かなくても良いのです。


■呼気スイッチのヨットに乗って
では私の興味と趣味について話しをしたいと思います。海が大好きです。ヨットに乗って海に出るのが大好きです。リハビリテーションセンターにいたころ、レクリエーションセラピーというものがあって、ある人がそれが出来るように手伝ってくれました。あの頃私は人口呼吸器を使っていたので、こういったことが出来るようになるなんて、全く思っていませんでした。


バンクーバー市長と僕の写真です。市長というのは車椅子に乗っている方です。私が思うに彼が世界で始めての、頸損傷者であり市長である、という人です。

これはヨットクラブですね。私の家から10分歩いていったところにあります。ボートに乗ったり降りたりするのはこういった感じでとっても簡単です。僕の後ろにアルミニウムの箱があるのが分かりますか?これはエンジニアによってデザインされ作られたものですが、エンジニアというのは定年退職されたボランティアの団体の方です。彼らは時間を私たちに使ってくれますし、作るのが得意ですから何でも作ってしまいます。それは皆さんも作らないといけないものかもしれません。この箱は人口呼吸器のボックスですが、出来上がった頃には実はもう私はペースメーカーをつけていました。そうでなければ、私はカナダで人工呼吸器のボックスを使ってボートに乗る初めての人間になる予定でした。私は国中を旅しました。というのも、こういうヨットの大きなレースに出るためでした。ここに20艇のボートがあります。そして最後のレースで私は第2位になりました。私はこれを楽しんでいます。セーリングは私にとって自由の感覚を与えてくれます。


■今後にむけて

それから私は絵が上手に描けるように練習しています。でも10年くらいかかるかもしれません。それからコンピューターも使います。首が大丈夫な間はずっと頑張っています。時間をつぶすのにもってこいです。ボランティアもしています。生理医学を勉強している学生に色々と話をして、教えています。ペースメーカーの話をしたり、僕にどういったふうに咳をさせるかやり方を教えています。


私にとっての目標のひとつ、でも達成したのかもしれませんが、私のやりたいように人生をコントロールするということです。自分で自分の介護者を雇ってそのスケジュールを自分で設定して、それによってもっと自由を得られましたし、自立の感覚を味わっています。もう一つの目標は自分の痛みを軽減することです。これに対しては医療的薬を注入することによって、何とかコントロールしようとしています。それから車椅子を調節することも大事だと思います。近い将来には環境デザイナーとしてデビューをしたいと思っています。そこで働いて、地域に還元したいと思っています。このスライドにあがっているのは横隔膜ペースメーカーのコンタクトインフォメーションです。


Contact Information for DPS
MaryJo Elmo ACNP
Case Medical Center University Hospitals
11100 Euclid Avenue
Cleveland, Ohio 44106-5047
Phone: 216-844-8594
FAX: 216-844-1385
E-mail: Maryjo.elmo@uhhospitals.org

これが僕の発表の終わりです。あなたの心に届いていたら良いなと思います。僕が言いたいのは何か出来るかな、ではなくて、その方法を探すということです。やりたいことは方法を見つけてやってしまえばよいということです。ゆっくり動くということを恐れないでください。ただ立ち止まっていることを恐れてください。ポジティブに考えてください。

今日はお招きいただき、本当にありがとうございました。

≪第2部≫パネルディスカッション「呼吸器をつけて地域で生きよう」

パネリスト
●池田英樹さん(兵庫頸損連絡会員頸損C4,5 呼吸器使用)
●米田進一さん(兵庫頸損連絡会員頸損C1 呼吸器使用)
●吉田憲司さん(大阪頸損連絡会事務局員頸損C1 呼吸器使用)
●ダン・ルブランさん(カナダ・バンクーバー在住C2 横隔膜ペーサー使用)
●<司会>A.T.さん(大阪頸損連絡会事務局員頸損C1 夜間のみ呼吸器使用)


■まずはパネリストの自己紹介

【司会 T】続きまして、第2部のパネルディスカッッションに移りたいと思います。国内の人工呼吸器使用者とダン・ルブラン氏によるディスカッションを行い、当事者の生の声を通じて、これからの日本に必要な環境整備が何かを考えていきたいと思います。それでは最初に、今壇上にいる3人の日本人パネリストに年齢・受傷歴・入院を経てから現在に至るまでの経緯など簡単な自己紹介をお願いしたいと思います。


【池田】兵庫頸損連絡会、池田英樹34才です。受傷後7年になります。受傷は27歳の時です。状態は24時間人工呼吸器をつけています。自発呼吸は無しです。クロネコヤマトに通勤する途中に、自転車で車道を横断しようとしたところ横からわき見運転の車が突っ込んできて跳ね上げられました。症状は頸椎のC4,5の脱臼です。


【T】C4,5でしたら自発呼吸が出来るレベルだと思うのですが、病院に運ばれた時点で人工呼吸器をつけたのですか?


【池田】兵庫医大に運ばれてすぐは自発呼吸がありましたが、首の骨のずれを治すために牽引をしました。入院2日目に自発呼吸が停止して呼吸器をつけるようになり、1週間後に首の骨を固定する手術を受けましたがそれでも治らず、気管切開をしました。

入院後3ヵ月目に労災病院に転移してリハビリを開始しました。リハビリは主に自発呼吸の補助をするための訓練と首と手足を動かしたり、 話す訓練と食事をする訓練をしました。訓練してから1ヶ月目に誤飲もなくなり食事の許可が出ました。それから1ヵ月後に普通に喋れるようになりました。自宅に帰る練習を3回してから1年半後、自宅に帰りました。現在は 両親、兄弟の5人家族で同居をしています。


【T】池田さんは旅行が趣味で、全国各地に積極的に出かけられてるようですが、受傷後どんな所に行かれましたか?


【池田】5年前に私の田舎の熊本県と石川県の能登半島に車で行きました。初めての泊まりということでかなり不安でしたが、旅のボランティアの人と家族がうまくやってくれて楽しい旅になり自信がつきました。それで現在はどこに行くにもある程度の範囲であれば大丈夫だという事がわかり、不安が無くなりました。

それから今までに西は島根県、東は石川県と各地の名所等を中心に回り、その土地の名産品を食べたり名所を見たりしています。これは事前にインターネット等で調べてシミュレーションしてから旅するのですが、これも楽しみのひとつです。


【T】自分もそうでしたが最初は知識も情報も教えてくれる人もゼロの状態から外出するのは不安と緊張の連続でした。毎回毎回が「今回はこれが出来た。これが出来なかった、じゃあ次の外出はこれが出来るかも」みたいな感じで、手探りで少しずつでした。池田さん今後の旅行の予定はありますか?


【池田】7月に家族と1週間程度北海道に行く予定です。ボランティア、ホテル、移動手段などの手配が大変です。移動する手段として飛行機を考えていたのですが、飛行機会社に電話をすると電動車椅子で乗ってもらっては困る、出来たら客の少ない時期にしてくれ、そんな事を言われて困っていたんですが船会社に電話をしたら、何かあったら手伝ってくれると言われ、フェリーで行くことを考えています。


【T】ありがとう、僕は自宅に戻って4年になりますが、まだ外泊旅行に行くことが出来るレベルにまでいっていません。今度アドバイスをお願いします。


【米田】皆さん、こんにちは。私は兵庫頸損連会員の米田進一です。受傷後3年になります。年齢は37歳になります。受傷歴はこの中では一番短いということになります。受傷したのは交通事故です。トラックの運転手をしていたのですが、早朝に事故にあい千里救急センターに運ばれました。頸椎損傷になり24時間人口呼吸器を使っています。昼間はご覧のとおりマウスピース型の人工呼吸器で、夜は鼻マスク型呼吸器に付け替えています。自発呼吸は現在のところ、座位の角度を60度以上起こした状態で約1時間できます。現在は両親と3人で暮らしています。


【T】米田さんは昨年、初めての宿泊体験や、その後は学生ボランティアと旅行にも行かれたそうですね。どんな旅行でしたか?


【米田】昨年10月に頸損連絡会の合宿で、初めて外泊の体験をしたのですが、両親の付き添いもありながらハプニングは起こりました。私は、寝るときは口を開けて寝てしまうのでマウスピース型呼吸器でなく鼻マスクを使うのですが、その時は鼻マスクを持っていくのを忘れてしまいました。仕方がないので、夜どおし色々なことを考えて時間をつぶそうと思いましたが、さすがに時間もなかなか経たず、ずっと起きていました。

その後12月には、家族と離れての初めての旅行体験だったのですが、ヘルパーについてきてもらう旅行はできず、でもどこまで自分が出来るかが証明したくて、学生ボランティアに介助をお願いして九州大分に旅行しました。自分の思っていた以上に難しいものかと想像していたのですが、トラブルもなく皆さんの協力もあって安心した旅行が出来ました。


【T】それでは最後に吉田憲司さんです。吉田さんは現在31歳で15年前に受傷されました。この中では受傷歴が一番長い吉田さんですが、自宅に戻るまでの経緯を聞かせて下さい。


【吉田】93年の5月に高校のクラブの練習中に受傷しました。それから15年が過ぎましたが、4つの病院と13ヶ月の入院期間を経た後、在宅療養に入りました。

初めてインターネットに接続したのは95年のことでした。その頃定額サービスなんてものもなかったので電話料金を気にしながら接続した頃が懐かしくもありますが、焦りと絶望感にうちのめされそうな日々だったと記憶しています。それから長く、進展のない日々は流れ障害者として生きてきた時間も人生の半分に達しようとしています。その時々で人も制度も変わっていきましたが多くの人に助けてもらってきたし、国の制度のお世話にもなってきました。ただメシ食っていると言われるとさすがに立場ありませんからこういう寝たきりの体でこの社会で生きていくことについて何かしらの結果を出さなければならないと考えるようになってきました。最近は試験勉強に時間を取られているせいか、以前よりも日々の暮らしは充実している気がします。案外、障害者として腹が座ってきたのかもしれません。在宅に入ってから今日まで”寝たきりの自分に何ができるか”試行錯誤の毎日が続いています。


【T】14年というのはすごく長い時間だと思うのですが、制度的にも状況的にも14年でどう変わっていきましたか?


【吉田】1998年頃までは障害者に関する情報が全く入ってきませんでした。自分のような重度の寝たきり患者がどのように生活しているかとか、どのような将来像を想い描いているのか、少しでも自分と似たような境遇の人の情報が欲しかったのですがアンテナの方向が悪かったのか自分の耳には届きませんでした。その年を境に大阪頸損連絡会のイベントにちょこちょこ参加させてもらうようになって少しずつ障害者に関する情報が入ってくるようになりましたが自分が完全に納得できるものではありませんでした。本当に欲しい情報が何なのかわからないけれど何かが足りない。2003年からは支援費制度が始まり自分にとってもメリットとデメリットがありましたが将来展望の描けない自分には不安が増すばかりです。2004年頃に身の回りで幾つか改善したことがあり、そのうちの一つが両面スキャナを購入したことです。読みたい本をパソコンで読めるようになり少し状況が変わりました。これまで読んだ本の中で特に感銘を受けたのは向坊 弘道さんの「蘇る人生」と「蘇る生命」の2冊です。昭和20年代に頸損患者となり受傷してからその後活動的になっていくまでの経過と心情をつづった自叙伝です。今のような制度もない当時の過酷な環境の中、がむしゃらに生きていく様は自分の中にない生きることへの貪欲さのようなものを感じました。そしてそれこそが自分に欠けているものではないかと思うようになりました。その後も色々な本を読んでいます。社会に出て経験が積めない分を少しでも知識で補うことができたら、何か将来の展望についてヒントが得られればと考えています。


【T】吉田さんは簿記検定などの資格試験に挑戦しているようですが、そのきっかけといきさつは何ですか?


【吉田】2000年頃に知人に職業リハビリセンターを紹介してもらったのが始まりで、受傷8年が経過しているにもかかわらず今後どうすれば良いか全くわからなかった自分に職リハセンターの指導員が「とりあえず資格を取ってみたら。」と、なぜだか販売士と簿記の試験を勧めてくれた事が始まりです。

参考書を買ってはみたもののページもめくれない人間に試験なんて無理だという思いがあったのと実際に参考書を開いてみてもノートもとれない状況ではどのように勉強すればよいかわからない。これはやっぱり無理だったのだと断念しました。


【T】確かにそうですね。本が自由に読めない、字を書くことが出来ないというのは、手の動かない我々が何かをしようとしたとき最初に行き止まる壁ですね。それからどうされましたか?


【吉田】それならと指導員の方が情報処理試験の初級シスアドの試験はどうかと勧めてくれました。別室での試験で試験官が隣で代筆という形でそれなりに配慮もしてくれると言ってくれるし、自分の好きな分野でもあるのでそれなら何とかなるかもしれないと試験を受けることにしました。正直な話、周りが盛り上がって断るに断れない状況であったということもあります。でもそのおかげで一歩前に踏み出せたということはこれまでもしばしばありました。ありがたい話です。

初級シスアドについてはインターネット上で情報が豊富にあったり、パソコン上だけで学習できたこと等の幸運も重なり合格することができました。これがきっかけとなって「やってみれば何とかなるかも。」と少し前向きに考えるようになりました。その後、パソコン音声入力が使えることがわかり、パソコンで試験が受けられる簿記のほうを勉強していくことになります。簿記1級に合格したら税理士の受験資格を得られると聞いて飛びついたのですが1級のテキストを読んでみると考えが甘かったと思い知らされました(笑)。


■呼吸器の違いによって何が変わる?

【T】それでは、ディスカッションへ移りたいと思います。現在、呼吸器の使用状況ですが、マウスピース型の呼吸器は、米田さんがされている気管切開を閉じて口にパイプをくわえ送られてくる空気で呼吸するというタイプです。池田さんと吉田さんも同じようにマウスピースに移行を考えているようです。吉田さん池田さん、マウスピースに移行しようと思う理由を聞かせてください。


【池田】昨年の10月に風邪をこじらせて肺炎になって入院したんですが、その時にかなりしんどくなって介護に対して家族に迷惑をかけたので辛かったです。その時病院の先生から、マウスピースに変えたら感染症など風邪とか、かかりにくくなると聞いたのでその時にマウスピースに替えようと思いました。


【吉田】一番の動機は痰の吸引をする必要がなくなるということです。特に夜間の吸引をしなくても良くなるのが一番大きいです。昼間の見守りでも吸引のできないヘルパーさんに入ってもらうこともできますし、今日も持参している吸引機がこれ1台なくなれば外出の際の荷物もそれだけ楽になります。それから人工呼吸器は吸引機と2台合わせて1セットなのでメンテナンス等の管理も人工呼吸器1台だけなら、かなり助かります。自分の気持ちとしてはマウスピースの方がより自然な呼吸であると思うものの15年間も人工呼吸器をつけてきたものですから、果たしてうまく移行できるかどうかという不安はあります。病院からはマウスピースに移行の入院はいつしてもらっても構わないといってもらっているのですが、いまだに入院の時期のめどはたっていません。というのも入院すれば支援費制度は使えなくなってしまうのが一つ。もう一つは、入院する関西労災までは家から1時間近くかかるということです。前者の件については現在、市の担当の方と交渉中ですが後者の件についてはいま来てもらっているヘルプの方にお願いできるかどうかスケジュール調整とあわせて検討中です。


【T】では気管切開を閉じて既にマウスピースにされている米田さん、マウスピースに移行した理由と経緯をお願いします。


【米田】僕の場合は、入院当時に気管切開を閉じたのですが初めは主治医の勧めと、家族の負担を考えて、吸引というのはいつでもある事ですから、退院してから自宅生活に戻る時に24時間中、夜中に何回も家族を起こすのは辛いという思いが強かったことがあります。気管切開を閉じる前にまず練習しなければいけない事はちゃんと空気が肺に入っているかどうか、何度も練習するわけですが、やっぱりやって良かったと思います。


【T】気管切開を閉じマウスピースにしてからの、メリット・デメリットはなんですか?


【米田】メリットと言えば痰(たん)がなくなった事と、訪問入浴でもわかると思うのですがガーゼ交換を気にすることもなく首周りが洗えるという事です。その分やっぱり入院期間中でも気管切開していた時は、病気になりやすいというのもあります。閉じる事でそういう心配事がなくなったというのは大きく違うと思います。


【T】ダンさんに質問です。人工呼吸器をやめて横隔膜ペースメーカーに移行しようと思った理由を教えてください。


【ダン】自分が病院にいる時に訪ねてきてくれた男性が横隔膜ペースメーカーを使っていたんです。あの頃人口呼吸器を使っていてものすごく嫌だったので、彼に会って話しをした時に絶対、横隔膜ペースメーカーを使おうと思ったのです。彼は私に話しかける時に、普通の明瞭な声で話してくれましたし、しかも呼吸がすごく自然に見えたんです。人工呼吸器を横隔膜ペースメーカーに変えたメリットのほうが遙かにデメリットより大きかったのです。だから決断はかなり簡単でした。


【T】その人工呼吸器をやめて横隔膜ペースメーカーにした結果、メリットとデメリットはなんでしたか?


【ダン】大きなメリットは自然な呼吸です。それを使うと自分の横隔膜を使うのです。受傷後は動いていなかった横隔膜や筋肉が動くわけです。気管切開はまだ残っていますが、ほとんど使うことはありません。ただ病気になった時に気管切開を使うくらいで、その時にも深呼吸を自分で出来るため手伝ってもらえばいい咳(せき)が出るのでわりと必要ないのです。吸引に比べて咳で痰(たん)が出せるというのは遥かに楽ですし、自然な状態だと思います。そしてこのメカニズムですが1分間に12回ほどの電気的な刺激を受けてそれが横隔膜を動かすわけです。そんなに大変な事でもないのです。唯一つ自分が考えられるデメリットとしては、喋る時に呼吸を待たないといけないということくらいです。ですから例えば電話をかけて誰かと話をする時に、自分が呼吸を待っている間に、「もしもし、もしもし…」みたいな感じになる事があります。


■それぞれに困っていることは何か?

【T】なるほどありがとうございました。皆さんに質問ですが、現在、生活面で困っている事、大変な事は何ですか。


【吉田】慢性的な介護人の不足。新しい介護人が入ってきた時なかなか思うように教育が進んでいないということ、特にメインとなる痰の吸引〜排泄の処理までこなせる介護人の確保が望めない状況です。1日の4分の3を占める見守りの時間を家族が交代で埋めているのも家族にとって大きな負担です。


【池田】今困っていることは両親がかなり高齢で、毎日の介護に疲れているので、その疲れを取ろうと思って、自分がショートステイ出来る所をワムネットを使って片っ端から探したんですけれども、大体は人工呼吸器をつけているというだけで電話でも断られることが多くて吸引とか出来る人材がいないから無理だとか、ショートステイよりも病院に入院した方が良いと指摘する所も多くて困ります。あと受け入れてくれる所は自宅から遠いところが多く、相生や滋賀県の信楽など遠くて困っています。


【T】人工呼吸器をつけたレベルで受け入れてくれるショートステイ施設がないという事ですね。


【米田】やっぱり家族の負担を減らす事と、自分たちの自由に使える時間があまりないことです。ショートステイにしても、なかなか見つからないのが一番辛いですね。急遽ヘルパーさんをお願いするにしても、ヘルパー不足により実際に時間通りに介助派遣してもらえず、行政のほうも何とかして欲しいと思います。


【ダン】私の問題というのは皆さんと比べれば全く軽いものです。今のところ本当に辛いなと思うのは慢性的な痛みだけで、他の事はかなり大丈夫なんです。カナダの福祉制度ももう少し良くなるのでしょうけども、僕自身は制度も良い感じに使いこなせていると思うので結構幸せです。


【T】はい、羨ましいですね、ちょっと。これでディスカッションを終わって、質疑応答に移りたいと思います。鳥屋さんよろしくお願いします。


■会場からの質問

【鳥屋】会場の皆さんからいただいた質問表です。まずはダンさんにですが、これは医療関係者の方からです。日本の医療者は高位頸損の人工呼吸器管理に慣れていないので、自分の病院で人工呼吸器管理を実施できない所が大半です。カナダでの人工呼吸器管理の実情を教えてください。というのは横隔膜ペーサーが保険適用になるにはまだ時間がかかると思いますので、ということです。


【ダン】カナダの病院では呼吸療法士という人達がいるのですが、その人たちは医師です。その人達が一番大事な決断を下します。全ての病院は人工呼吸器を備えています。ですから日々やらなくてはならないケアというのは、呼吸療法士が手伝ってやっています。もちろん急性期病棟の看護師というのは咳のアシスタントであるとか、胸部のケアのトレーニングを受けています。それが看護師達です。答えになっているのならいいのですけど。


【鳥屋】続けてダンさんに質問ですが、ペースメーカーの交換時期と、注意しなければならないデメリット、それと呼吸器を使っている時と横隔膜ペーサーを使っている時と介助の仕方は違うのでしょうか?


【ダン】人工呼吸器の時は、別に何をするわけでもなく必要な時にスイッチを入れてもらえればそれだけです。ペースメーカーの場合は胸からワイヤーが出ているのですが、それを毎日掃除してもらわないといけません、電池を交換したりワイヤーを繋がないといけません。プログラミングのような事はエンジニアがやってくれるので、他はやらなくていいのです。ですから人工呼吸器に比べるとそんなにたくさんやる事はありません。


■今後の目標や課題

【T】最後にシンポジストの皆さんに、今後の自分の目標や課題を聞かせていただきたいと思います。


【吉田】10年後をめどに何とかして社会的、経済的に自立できるように持っていきたいと考えています。自分の介護環境も10年後となってくると両親も相当高齢となってきます。ですから、今のような介護を続けるのはおそらく無理でしょう。その時に自分を受け入れてくれるような、施設やショートステイ先があればいいのですが、なかったときのことを前提に考えると、これからそういう自分の居場所を用意しておかないといけないだろうと考えています。


【池田】世界中をあちこち旅行したいことと、今年中にマウスピースに替えたいと思っています。


【米田】自立したいのは山々なんですけど、やるべき問題は山済みです。将来的な目標というのは、障害者になったことで自分の経験したことを勉強しながらもっと周りの人のために、役立つような福祉関係の仕事をしたいと今は考えています。


【ダン】私の目標というのは割りと皆さんと一緒で、幸せを追求したいということと、将来的に自分の好きな仕事に就いて、いつか大好きな人と結婚したいと思っています。


【T】ありがとうございました。これでシンポジウムの全てのプログラムを終了したいと思います。5日ほど前ですが、この大会運営のメーリングリストに、8歳の人工呼吸器を使用する娘さんを持つお母さんからシンポジウム参加の申し込みがありました。当たり前かもしれませんが、色々な状況の色々な立場の方が、この大会にいらっしゃるのだと身が引き締まる思いがしました。本日いらっしゃった呼吸器ユーザー並びに、そのご家族の方々で、困っている事や、どうして良いか分からない問題を抱えているという方がおられましたら、この大会の役員に声をかけてください。私たちに出来る範囲でアドバイスやサポートをさせてもらいます。以上です。ありがとうございました。


【宮野】シンポジストの皆さん、司会のTさん、ありがとうございました。もう一度シンポジストの皆さんに盛大な拍手をお願いします。それでは大阪頸損連絡会事務局長の鳥屋より閉会の挨拶をさせていただきます。


【鳥屋】皆さん、本日はありがとうございました。本日のシンポジウムで呼吸器を使う我々の仲間が自ら生活の様子や、自分のおかれている状況を、シンポジウムを通して発信していく、それで皆さんに知っていただく、こういったシンポジウムをそれぞれの地域で何度も何度も繰り返していくことが、社会環境を変えていくことであり、呼吸器を使う自分たちの生活の質を高めていく、より重要なことだと思いました。また、ダンさんが呼気スイッチを使ってヨットに乗るとか、自立生活をするというような、主体的に何か行動を起こして取り組む、こういう事が重度な障害を持っていても呼吸器を使う状況にあってもとても大切であるということだと思います。生きるというだけではなく、社会参加する社会に繋がっていく、それこそが本日シンポジウムのテーマでもある高位頸損者の可能性を求めて行動していく、ということだと我々も考えて、今後も活動を続けていきたいと思います。これを終わりの挨拶に代えさせていただきます。


戻る