頸損だより2008秋(No.107) 2008年9月27日発送

特別報告 「地域で自立して暮らしたい」

記録まとめ 川畑 勲

「地方で暮らす高位頸髄損傷者の自立実現に向けた活動について」

●講演 山内 俊博さん

【赤尾】それではこれより大会2日目のプログラム、特別報告を始めます。まずは新潟県魚沼市の山内俊博さんにより、お話しいただきます。山内さんには、今回お話いただくにあたり、昨年の秋から何回かメールなどを通してお話しさせていただいています。昨年12月には僕自身が新潟に行きまして、今日会場にお越しいただいている同じく新潟県で呼吸器を使われている波田野さんと、そして今からお話ししていただきます山内さんと3人で、新潟でお会いしてきました。新潟って正直すごく大変なところがありまして、バリアフリーという点では、山内さんからも波田野さんからも偶然にも同じような質問をいただきました。例えば一つ紹介しますと、「地下鉄など利用する時に、駅のほうに事前に連絡しておかなくても良いのか」という質問でした。大阪では僕ら普段そのまま、駅へ事前に利用の連絡をすることもないですね。JRだけは、利用の2日前に連絡が必要だと言ってますが、そんなこと言っていてもほとんどの障害当事者がおそらく利用の事前連絡なんかしていないと思います。そんなところ一つ取っても、やはりかなり都市部と地方では、いろんな面で違うのではないのかなと、すごく実感しました。そんな新潟県の魚沼市からはるばる来ていただいた山内さんに、これから自立に向けた取り組みについてお話ししていただきたいと思います。


【山内】皆さん、おはようございます。ただ今ご紹介にあずかりました山内俊博と申します。新潟県の魚沼市というところから来ました。私は今年で、頸損歴12年になりますが、これまで頸損連絡会に入っていませんでしたので、こういった会に参加する機会もなかったのですが、今回はたまたま縁あって、大阪の赤尾さんとメールで知り合うことができ、大会に参加させていただけることを大変うれしく思っています。私は、いま話したとおり、12年前の平成8年1月に、交通事故で頸損になりました。レベルは、左がC−4、右がC−5、6です。平成10年10月に病院を退院することができ、それからこれまで魚沼市の自宅の方で、家族とヘルパーの介助を受けながら生活をしております。それで今は魚沼でなんとか自立をしたいと思って活動しております。まだ、たいした事をしているわけではないのですが、事故後の一事例として、お聞きいただければと思います。

■新潟県魚沼市はこういう所

魚沼市というのは、新潟県の南東の部分にあって、福島県と群馬県のちょうど県境に位置しています。平成16年11月1日に、北魚沼郡の6町村が合併して出来た市です。16年11月1日というと、あの中越地震のちょうど1週間後、すごく慌ただしい時期に合併した市です。


ご覧のとおり面積はとても広くて、大阪市と比べると約4倍の面積があるのですが、人口が大阪の60分の1程度の本当に自然だらけのそんなところです。魚沼というのは、新潟県でも有数の豪雪地帯で、冬には3メートルを超えるような雪が降るのですが、だからと言って夏が涼しいと言うわけではなくて、夏も本当に県内1位2位を争うぐらいの暑さになるところです。夏は高温、冬は寒くて雪が降るという、体温調節のできない頸損にとっては地獄のような地域です。ただ、あの魚沼産コシヒカリや日本酒なんかも、美味しいものがあるので、皆さんよかったら魚沼市にも遊びに来て下さい。

■自立したいと考えたきっかけ

私は今、魚沼で自立をしたいと思っているのですが、そもそも自立を考えるきっかけとなったのは、入院中に、たまたま人の紹介で、自立生活センターで活動されている頸損の方と出会ったことだったのです。その方と会って、そこで初めて重度障害者にとっての自立と言うのは、自分の身の回りの事を自分でやることではなく、経済的に自分で自立するということでもなく、自分の生活を自分自身で決めていく、それで自立できるんだという考え方を教えてもらいました。また実際にそういう生活をしている人がいるということや、そういう生活を目指し、社会を変えていこうと様々な活動している障害者がいるということを知ったのです。それまで私は本当に、身の回りのことができないような重度障害者は、家族のもとか、施設か、それ以外選択の余地がないというふうに考えていました。だから自分の将来に対しても、お先真っ暗という感じだったんですね。ところがその人と出会って、そういった自立という考えがあるのだということを知り、活動している障害者の存在を知ったことで、すごく希望が湧いてきたと言うか、そういったことが、私が障害を受容していくすごく大きなきっかけだったように思います。

■しかし現実との狭間で

そして私が自立を強く考えていくようになったのですが、やっぱり都市部と田舎では、理想と現実がやっぱり大きく違うわけで、例えば、魚沼市の場合で言いますと、サービス量はまず市内で身体介護の居宅サービスを行なっている事業所は、たったの2カ所だけです。私の場合は、隣の市の事業所も使っているのですが、それを合わせても3カ所だけしかありません。またサービス支給決定の最高時間数は、今魚沼市では、身体介護で月 150時間が最高です。これは私が受けている支給決定です。この中でも、二人介護があるので、実質時間的には90時間ぐらいしか受けていないということです。また、夜間のサービスなどはほとんどなく、夕方の6時以降になれば、今のところサービスを行なっている事業所はありません。また、公共交通に関しても、大阪に来て本当に驚いたのですが、あまりにも利用の違いがあって、魚沼では、車いす利用者の公共交通に関して、乗れるものが有って無いような、そんな感じです。まず鉄道は、JRの上越線と、相模線というのが走っていますが、運行本数が、そもそも非常に少なくて、JRの上越線は、それぞれ1時間に1本程度出ているのですが、相模線にいたっては1日4本というぐらいです。そんな電車ですし駅も段差だらけで、車いすで利用するには、かなり困難です。唯一魚沼市のなかの小出駅というところの1番線のみ、車いすがなんとか利用できるのですが、そこで何とか電車に乗ったとしても、次に降りられる駅は、30分以上離れた長岡というところまで行かないと降りれないですし、長岡から小出駅に帰ってくるには今度は小出の3番線に止まってしまうので、そこで降りれなくなってしまいます。そこでさらに20分行った六日橋というところに行ってそこで乗り換えてホームを変えて、降りることができるのです。ものすごく不便な鉄道になっています。さらにバスにいたっては、もっと利用環境は、不可能な状態になります。ノンステップバスも走っていませんし、それからバス停自体もそもそも田んぼの中の道みたいな中にあって、もしノンステップバスが通ったとしても、そのバス停で乗り降りしようと思ったら、田んぼの中に降りなければならなくなってしまいます。そんな状況なので、バス自体もバス停自体も整備が全く遅れているという状況です。移動はどうするかというとやっぱり車に頼らざるを得ないという状況で、福祉有料運送という送迎サービスを行なっている事業所があるので、そこを利用しているのですが、ご存知の通りガソリン代の高騰で、また4月から値上げを事業所がしたので、先月分の請求が来るのが怖いのですが、おそらく4月の送迎代のサービス料がガソリン代うんぬんだけで、2万5千円ぐらいかかっているのではないかと思います。サービス量では、公共交通に関して都市部とは全然違うんですが、それと併せて魚沼では、やっぱり特長的なこととして大雪になるということで、重度障害者が生活する上でとても大変です。5cmや10cmの雪が降っただけでも、車いす利用者にとっては、かなり移動が困難になるのは、あまり雪が降らない地域の方でもご存知だとは思うのですが、魚沼の場合、本当に豪雪になってしまうと、1日で1メートルというようなときもあります。そうなってしまうと、もう家の中から出れないという状況になってしまいます。さらに屋根の雪下ろしや家の前の雪かきをしなければ家から出られないだけではなくて、下手をすれば家がつぶれてしまう、そういう命に関わる場合もあるので雪というのは、恐ろしいものでもあります。一応今、魚沼市では、一人暮らしの障害者や高齢者に対しましては、雪下ろしや家のまわりの雪かきなどのサービスが少しあるのですが、市に聞いてみるとそのサービスは、あくまでも死なない程度に必要最低限にとどめられていて、社会参加のための、例えば今出たいから、雪かきをお願いしますといっても、ヘルパーにも仕事外で頼めないし、ただそうなると雪かきをするだけで人手がいるという状況になってしまいます。

■被災地の障害者

それから、中越地震のときもそうだったのですが、やっぱり災害が起きたときに、障害者に対する対策が、避難所もそうですし、避難誘導をどうするかという、そういった問題も全く対策がとられていなかったので、それが4年経った今でもそれほど大きく変わったところがないという問題点があります。あと、都市部と田舎で違うのかわからないのですけれども、障害者の生活というそのことについての考え方が、やっぱり施設に入っているか家族と一緒に住むというのが当たり前という、それが普通なんだという考え方が、すごく強いのではないかなと感じています。地震の時にたくさんの人が、よく家族と一緒にいてよかったね、家族と一緒だから安心だね、と言われるんですが、そういうこと言われるたびに、災害を通して、重度障害者の安心安全も家族と一緒にいるのが良いんじゃないか、施設に入るのが良いんじゃないか、と考えている人が何か増えているんじゃないかという、これは漠然とした私の感覚でしかないのですが、そんなふうに感じています。あと田舎の特性といいますか、あんまり家に他人、つまりヘルパーを入れたがらないという、そういった面もありますし、今では昔ほどではないですが、障害があることを隠したがる、そういった面も結構あってサービスが必要なのに利用したがらない家族や障害者自身も結構多くて、そういったこともあるので差別に対する改善もあまり進まない大きな理由ではないかなと感じています。ちなみに、唯一車いすが利用できる小出駅のホームなのですが、大阪の電車はスロープ板でホームから車両に上がったりするのですけれど、こっちはホームと電車の間に、段差がすごくあるので、スロープで上がるのもとても急勾配になってしまいます。


下の一つ目の写真が平成17年ごろの写真で家の周りの柵が雪の力で完全にぺっちゃんこに壊れてしまいました。これぐらい雪の力は怖いものです。さらに二つ目が今年の2月の写真なんですが、今年はそんなに大雪ではなかったのですが、それでも降った時はこんな感じになってしまうという、これらが魚沼市というところです。

■それでも魚沼で暮らしたい

今話しているその魚沼で自立ということはかなり難しいことですが、私は生まれ育った魚沼というのが好きですし、そこで何とか今後も暮らし続けていきたいというふうに考えています。それで今は制度も何もない状態でもいつかできるだろう、そして一つでも何か変わるようにという思いから、少しずつ活動を始めています。これまで自立生活セミナーや昨年は自立生活プログラム、障害者が安心して暮らせるための地域づくりについてのシンポジウムなんかを開催してきました。それから私自身もやっぱり自立していく力をつけていかなければならないかなという思いで、ピアカウンセリング講座や自立生活プログラムを受けているのですが、このようなことは新潟市でしかやっていないので、魚沼から新潟市まで百キロぐらいあるのですが、それを受けに行ってます。あとは市の方とヘルパーの介護の量を増やしてくれるように、話し合いなんかもしてきました。

これは、私の活動の一番最初に行った自立生活セミナーの時の写真なんですが、まず障害者の自立生活というのがどういうものなのか、また自立生活センターというものの役割がどういうものなのか、多くの人に知ってもらいたいと思って、それで、「自立生活センター新潟」の方に講師に来てもらって、話をしてもらったのが私の活動のスタートでした。


これは、去年の夏、魚沼で初めて行った自立生活プログラムの時の写真です。この写真はそのなかでも小出駅を利用して、電車に乗ってJRの長岡駅で、買い物や食事なんかをみんなで楽しんだ時の写真です。


このプログラムは、魚沼では初めての開催だったので、これを機会に、自立生活を目指す障害者の仲間を増やしていければなというふうに考えていたのですが、残念ながら地元からの参加者がゼロという、その辺がすごく残念でした。新潟市以外でこういったプログラムを開催するのは、新潟県ではほとんどないので、そういった意味で魚沼でできたことは少しは意味があったのかなと考えています。


これは昨年の10月に行った「障害者の復興街づくりシンポジウム」という時の写真です。大阪のNPO法人ゆめ風基金と共催で行ったシンポジウムです。まあいろいろと新潟の災害を経験してきましたが、その災害の経験を通して、障害者が安心して暮らせるような地域にしていかないのであれば、障害者を通して、復興したと言わないのだろうなというそういった思いからこうしたシンポジウムを開催してきました。この時のシンポジウムの報告書を今日は持ってきていますので、もし興味がある方が居られればお渡しできます。今こういった活動をしてきたのですが、現状としてなかなか仲間が見つからないということがあって、まだ私が個人的にいろいろやっているという感じなので、これからどうやって障害者の仲間を巻き込んでいくかというのが、大きな課題です。サービス量なんかは、絶対的に都市部とは違いますし、その辺の難しさがありますし、豪雪というさらに他の地域では無い難しい問題を抱えているのですが、それでも、障害者が動かなければ何も変わらないという思いだけは、強く持ち続けながら今後も活動していきたいと思います。ちなみに今年の夏からまた、新潟市で行われる自立生活プログラムのほうで、リーダーのサポートとして、プログラムの運営の仕方とかそういったものを学んでいきたいと思います。こうした活動を通して、今後魚沼市が、障害者が安心して暮らせる、そういう地域に一歩でも近づけていければなと思ってますし、私自身ももっと自立生活に向けて強くなっていければなと思っています。そして今日はこういった会に参加させていただきありがとうございました。ご静聴どうもありがとうございました。

【赤尾】ありがとうございました。交通アクセスの問題、雪という問題、さらにはマンパワーという問題、介助派遣事業所が少ないという問題、それに加えて地震災害の時、障害者は親と一緒に暮らさなくちゃという、そんな周りの風潮など、いろんなものと闘っていかなければ、なかなか自立生活を実現させるのは難しいかなということを感じました。そんななかでも、山内さん自身は、生まれ育った魚沼で、自立して生きていこうと、強い意志でやっておられるので、私たちにとってもすごく刺激になることだろうと思います。ありがとうございました。

「住み慣れたふるさとで自立して生きる」

●講演 相山 敏子さん

【赤尾】続きまして福島県の西白河郡在住の相山敏子さんにお話しいただきます。相山さんは5年前の大阪大会にも参加して下さいましたが、当時それこそ決死の覚悟で来られたと聞いているんですが、今回大阪まで来られるのにまたどのぐらい大変だったか。そして実際に福島県の方で、西白河郡というかなりの田舎にもかかわらず、一人暮らしをしながら孤軍奮闘されているので、またそのあたりの話も聞かせてくださることと思います。相山さん、よろしくお願いします。


【相山】福島の相山敏子と申します。頸損歴は27年になります。レベルはC−4、5です。支援費制度スタートを機に地元で自立を決意し、その体制づくりの途中、四苦八苦のあげくに生きる糧となる何かを求めて、すがるように参加させていただいた5年前の「頸損連全国総会・大阪大会」。私にとっては、頸損連との初めての出会いになります。その年の11月に家族の元から離れ、一人世帯となりました。その時が新たな人生の日の出だったのでしょうか、ふり返れば、延々と孤軍奮闘中だったように思います。

■福島県南での自立は困難

私の地元、福島県南で「重度障害者の自立」を決行したのは未だに私一人、地域で重度障害者に出会うことはありません。車椅子の人を見かけることもほとんどありません。重度障害者が意志を持ち、もの言うなどもってのほか、高飛車にはね除けられます。「障害当事者の自己選択・自己決定・自己責任」「私たち抜きに私たちのことを決めないで!」という言葉の意味を理解しては貰えません。障害者は施設か家族の庇護のもとに生きるのが当たり前、そんな意識がまだまだ根強く、障害者が主体性を持ち得ない、存在し得ない、悲しい、苦しい地域性、意識のバリアがあります。昔から、村のはずれ、山際に、大きな施設があるからなのかも知れません。地域移行でその施設を飛び出し、自立の第一歩を踏み出した頸損の方々はおりますが、この地から離れていきます。決して、この県南の地、地元で生きることは考えません。県北・県中いわき方面、「自立生活センター」のある、遠くに去って行きます。でも、どの地へでも、施設からどんどん飛び出して、自分の人生を自分らしく生きて欲しいと心から思います。その一人ひとりが、間違いなく、共に地域で生きる同志ですから。福島県には、現時点で「地域活動支援センター」はありません。6つの「自立生活センター」が、それぞれの地域で、その役割を果たしているそうです。私の住む県南にはその「自立生活センター」もありません。ただ、「プロジェクトピア白河」という「自立生活センター」が1年間だけ存在したという実績があります。この私も、名ばかりですが、少しだけかかわっていたものです。

■福祉サービスの地域格差、それでも「自分の人生を自分らしく生きたい」

どこでも同じなのでしょうが、広い福島県の中にも、様々な地域性があり、大きな地域格差があるということを、あらためて実感いたしました。県南でたった一人の "地域で自立" の障害当事者として、支援費制度から障害者自立支援法という制度変わりの激動期を迎え、コムスンがヘルパー派遣事業の撤退という話題が全国で飛び交っていた最中、私のヘルパー派遣をしてもらっている事業所も突然の障害サービス撤退、ある日から突然ヘルパー派遣がなくなるという大異変。ちょうど昨年9月のことです。行政もヘルパー派遣事業所もたった一言の断りだけでその後は完全に無視。それからは同じ村に住む家族に支えられながら、共倒れ寸前のなかをなんとか生き延びてきた、生きられる一日一日をつくってきた、同時に、必死に介助体制づくりをともがきながら、自薦登録ヘルパーを募集、少しずつ少しずつ生きる希望が見えてきた、そんな現状におります。それでもまだまだ、家族、主に老母の支えをメインに、1つの民間事業所と自薦登録ヘルパーのサポートにて、今もなお、「生きる道」を模索中です。「自分の人生を自分らしく生きたい!」その思いは5年前の自分と全く変わらぬ今の私ですが、井の中のかわずが少しだけ気づいたこと、救いばかり求めてきたわが身の弱さ、愚かさと共に、私がこの故郷で必死に生きようともがき続けてきたこれまでの道は、ここにいらっしゃる誰もが、過去にくぐり抜けてきた道、私よりもどれほど苦しい茨の道であったことか、私にはその皆さんが通ってきた道という、指針が、指標がある、道しるべがある、一人じゃない、仲間がいる、孤立奮闘ではなく、まさに孤軍奮闘である、そんな感動と感謝で胸いっぱいにして、今この場におります。

■福島でも頸損のネットワーク作りを

2ヶ月後の7月19日、ここにいらっしゃる頼もしき頸損連絡会の皆さんの力を借りて、孤軍奮闘中の私の生きる福島県南で頸損者の交流会を企画、進めております。実行委員は福島県内の数人の頸損仲間、そして協力団体。地域性にぴったりのテーマを考えました。たぶん、誰もが目を惹く、少なからず地域の意識も変わるであろうイベントになると思います。既に、協力者、賛同者、協賛も増えつつあり、ポスターだけではなく、パンフレットも作って大々的に、というところまで盛り上がっております。当初予定していた "集会" という小さなものではなく "シンポジウム" のような形で計画し、動き出しております。今回、そのご報告も兼ねて、「私の生きる今」、現状報告とさせて頂きました。福島での交流会で、初めて務める実行委員長として、そして「福島頸損友の会」の発足を目指して、明日につながる、生きたイベントにしたいと思っております。ありがとうございました。


【赤尾】相山さん、ありがとうございました。自分の生きる道は一切自分で決めるという力強い言葉がありました。僕の勝手なイメージでは5年前に相山さんとお会いした時、そしてその後も、毎日生きるのが精一杯で、かなり苦しい思いをされているのではないかと思ったのですが、今日すごく力強いお話を聞きまして、また7月に行われる福島県の頸損者の交流の場を実行委員長として企画準備中ということで、その交流会を期待しております。僕たちも行く予定なのですが、また皆さんで福島を盛り上げていければなと思っています。ありがとうございました。

それではここで、今お話しいただいたお二人に、質問がある方は居られますでしょうか。

■会場からの質問

【宮原】東京から来ました宮原といいます。本日はお二人の貴重なお話を聞かせていただいて、本当にいろいろと刺激を受けました。相山さんに質問なのですが、相山さんのほうでは1週間に、介助者というか、ホームヘルパーさんは何人ぐらいついていらっしゃるのかなと思って、それをお聞きしたいと思います。

【相山】地元では、サービス決定が1日7時間、月31日で217時間です。介助スタッフは、全員で10名、細切れで来てもらってます。まだまだ足りない状態です。サービス支給時間も増やしてもらえるよう、ちょっとずつ交渉中です。


【宮原】山内さんに質問なのですが、大きな地震に二度あわれているので、その恐ろしさをどのように体験されてるのか、もしよろしければお伺いしたいと思います。


【山内】新潟では、中越地震、その後中越沖地震というのが二度立て続けに起きたのですが、私の住んでいるのは、魚沼市、旧町村でいうと、小出町という場所があるんですが、そこは、中越地震の時は震度5強で、わりと揺れは、激しかったんですが、まだ家の棚が何か落ちてくる程度でした。怖い思いはしたのですが、すぐに家の外に避難することができ、真っ先に思ったのは、これからどこに行ったら良いんだろうというのが頭にあって、一応避難所はここというのはわかっていたんだけれど、考えればそこでは障害者は絶対に行っても無理だなと思いました。それで最初は、広場の方に避難してくれと言われたんですけれど、10月後半でかなり寒かったので、やっぱり頸損には外に居るのはかなりきつい状態で。車の中で過ごそうかと思って、車に乗ろうとしたら立て続けの余震でもう車にリフトで上がっている最中に余震がきて、ちょっと車は怖いなと思いました。それでもう、家が潰れたらしょうがないかという感じで、家の中にずっと居ました。逃げて下さいと言われても、もうどうすればいいんだと逆に聞きたいぐらいで、家の中にいるのが一番良いやという感じで、結局逃げませんでした。それで、小出というところは、ライフラインが止まったのは、1日、2日だけだったので、それほど困らなかったというのがあるんですけど、それも家族がいたからというのが結構大きくて、一人だったら、1日、2日でもライフラインが止まれば、そんなわけにはいかないというのがあるので、その辺を私自身も、被害としては少なかったんですが、今後またいつ起きるか分からないし、そういったときの対策なんかも求めていきたいな、というふうに思います。それで、中越沖地震の時は、小出の方は揺れは震度5弱で、揺れだけで本当にライフラインが止まらなかったし、そっちの方はあんまり被害がありませんでした。


【ダン・ルブラン】山内さん、相山さんのお二人が、ヘルパーさんが来ておられるというようなことをおっしゃってましたが、それ以外に、組織的な援助を受けられているのか、そうすることによって、より生活を充実する可能性が出てくると思います。自立する生活を身につけるような援助というか、ヘルパー以外の組織的な援助を受けているのかということが知りたいです。


【赤尾】ボランティアであるとか、そういう団体からの援助とか、いわゆる公的なヘルパー以外の介助者がいらっしゃるのかというご質問だと思うのですが、いかがでしょうか。


【山内】私の場合は、公的なヘルパー以外の介助者は今のところは受けていないです。個人的には先の話にありましたように、自分で介助者募集したりしているのですが人は全然集まらず、1度だけ、やってくれるという人がいたのですが、私が悪かったのか、3カ月であっと言う間にやめられてしまって、今はそんな感じで公的なヘルパーしか受けていません。


【相山】公的ヘルパーしか援助を受けていません。組織的なものはありません。同じ村に、家族がいるので、公的ヘルパー以外は主に母親が介助してくれています。


【鳥屋】質問ということではないですけれども、今回、このテーマを特別報告という形で持ってきたその私たちの思いの一つを皆さんにお聞きいただきたいと思います。昨日はシンポジウムで、ダン・ルブランさんのバンクーバーでの生活の様子を聞いていただいたと思います。そして今日は、日本の、地方と言われる田舎での暮らしぶりを二人の当事者の方から聞かせていただいたのですが、カナダと日本、あるいは日本国内でもその地域それぞれでかなり福祉環境の進んでいるところと、そうではないところがあるんじゃないかと思うのです。ダン・ルブランさんのバンクーバーの話を聞いて思ったのですけれど、今バンクーバーで呼吸器使用という重度な状態であっても自立ができる、あたりまえに普通に暮らせると言っても、やっぱり初めからそうではなくて、長い年月をかけて当事者が闘ってきて、今のカナダのバンクーバーの状況があるというのが理解できたと思います。日本でもやっぱり東京や大阪という都心部であれば、地方に比べるとかなり充実したサービスをわれわれ障害当事者は受けられていると思うのです。しかし、都心部であっても福祉サービスの状況は充分ではないでしょう。それでも、よく陥ってしまうのは、国によって決められたサービス支給量のなかで自分の生活をどう組み立てるか、というふうに考えがちで、例えばもともと少ないサービス量しかないのに、だから月に1回しか私は外出の計画を立てていません、ということになってしまうのですけれど、そうではなくて、自分が何をしていきたいか、月1回しか出れないと決めてしまうのじゃなくて、そんなものでは足りない、もっと外へ出たい、もっと出る必要がある、こういう社会参加がしたいんだ、それにはこのサービス量では、足りなすぎじゃないかというぐらい、たとえ障害があっても、自分が人生の中で何をしていきたいか、どういう生活をしたいのかということを念頭において、現状のサービスでは足りない部分はどんどんサービスの内容や量を増やしていく、われわれ自身が、生きていくためのサービスを獲得していく行動をどんどん繰り返すことによって、どの地域も充実した福祉サービスのある地域になっていくのではないかと思います。やっぱりわれわれがそれを目指していかなければいけないと思うのです。皆さんもそれぞれの地域によって、様々なサービス量の差があると思うんですけれども、決して今与えられている枠におさまってしまわないように、自分はこんな生き方がしたいのだというのを大切に、これからもそれぞれ主体的になって活動とか取り組みなどをしていただけたらいいなと思います。そういう思いでこの特別報告の企画をしました。そういうメッセージを皆さんに送りたいと思います。


【赤尾】ありがとうございました。今回、全国総会のなかで、特別報告という形で時間を取らせていただいたのですが、その企画の要点について、鳥屋さんから全て語られてしまったので、僕の方からあらためて言うことはないのですが、本来自立生活をしようと思ったら、都心部とか地方とかそんなの関係なく、ノーマライゼーションの理念から言っても、重度の障害であってもあたりまえに暮らしていく。それこそが本当にあたりまえの社会だと思うんです。皮肉なことに自立支援法によって、ますます地域格差というのが広がって、住んでる地域によって、大きな格差があるというのが、それが現実だと思います。それはやっぱりおかしいということで、またあらためて今後の自立支援法の中身もどんどん変えていかなければならない、という声をあげてく必要があると思います。障害者権利条約が成立して、それに伴って今の社会も見直して、矛盾がなくなるように声をあげていくことが重要で、全国どこに住んでいても必要なサービスが必要な分だけ受けられるようになっていければ良いと思っています。それを皆で共有する意味でも、今回は、地方で暮らす頸損者の現状についてお話いただきました。あらためて本日報告いただいた、山内さんと、相山さんに、皆さん拍手をお願いします。ありがとうございました。それではここで、全国総会の特別報告を終わらせていただきます。

福島県に「頸損友の会」発足!!

相山さんの大会特別報告中の宣言通り、相山さんら6人のメンバーで「福島頸損友の会」が6月に結成され、7月19日にそのお披露目を兼ねた福島交流会が開かれました。全国大会を思わせるような、シンポジウムあり、レセプションありのとても立派な交流イベントでした。今後の福島の活動に注目です。



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