頸損だより2008冬(No.108) 2008年12月20日発送

頚損ピアサロンVol.1

−当事者だから、伝えられることがある−



9/23「頸損ピアサロン」という新たな企画を行いました。これは、「同じ体験を通じた当事者だからこそ、当事者へ伝えられることがある」ということで作られた企画です。受傷後何かに取り組んだ、あるいは今も何かに取り組んでいる頸損当事者から当事者への語りかけ、そしてお互いに聞き合おうというものです。今回の第1回目は、話し手に元関西学院大学アメリカンフットボールチームのクォーターバックで、試合中の事故で頸損となり、その後、税理士となって活躍されている会員の猿木唯資さん、そして聞き手にA.T.さん(※以下本人希望によりイニシャル表記)という形で進めていきました。この日はまず始めに、猿木さんをフィクションドラマ化した1986年のNHKドラマ「妹」、そして同じ頃のフジテレビドキュメンタリー「車椅子のクォーターバック」を少し紹介し、その後猿木さんの話を皆でうかがいました。

【録音テープ起こし:A.T./編集:鳥屋利治】

●話し 猿木(さるき) 唯(ただ)資(し)さん

皆さん、はじめまして。猿木です。頸損連絡会をずっとご無沙汰してまして、皆さんのお顔を見させていただいて初めての方もたくさん居られると思うのですが、なかには懐かしい人も来られているようです。

アメフト、試合中の事故で

鳥屋君の方から、今日は久しぶりに会の行事で話をしろということでお話をさせていただくのですが、今見ていただいたビデオで私が怪我した当時の雰囲気はほとんどわかっていただけたと思います。もう受傷して30年が過ぎました。30年前、私が星ヶ丘厚生年金病院に入院していた当時、頸損で30年以上生きている人がほとんどいなくて、高橋さんという年配の方が当時30年近く生きておられて、今はどうされているかわかりませんがあの人が頸損で最長老、一番長生きされていた。レベル的には5、6番くらい、その後が西本さんかな。当時は星ヶ丘で、頸損で5、6番レベルの人はほとんど亡くなっている、というかなかなか介助が難しくて亡くなる方が多かったです。私が怪我をしたのが昭和53年の4月です。先ほどビデオを見ていただいたとおりアメフトの試合中、大学の4年生になったばかりでした。大学の3年生までは学生アメフトの頂点を極める甲子園ボウルに出て、将来がウキウキする学生生活でした。4年生になった時は、後は1年間めいっぱいフットボール漬けの生活を送って、フットボールの実績をもって就職活動をして商社マンになるのが夢だったんですが、試合中の事故で夢が絶たれました。試合会場は今Jリーグのガンバ大阪の本拠地になっている万博の陸上競技場です。あそこで怪我をした時の様子は、何回もデレビ放送されています。両親も妹も試合観戦をしていてその目の前で事故したのですが、状況はボールを持っていて頭から地面に倒れこんだ、そのあと近畿大学の選手が後ろからタックルをしてきたんです。直接の原因は自分から倒れこんだのか、後ろからタックルをされたのか、何回ビデオを見ても直接の原因はわかりません。すぐに担架でグランドの外に運ばれて、意識はきっちりあって、首がすごく痛くヘルメットを取ってもらってショルダーを脱がしてもらって、すぐに救急車がきて近くの吹田の救急病院に運ばれました。

あくる日、当時大阪市内の福島区にあった阪大付属病院の救急病棟に運ばれ手術をしました。手術は5〜6時間掛かったと思います。私の怪我は脱臼骨折による5、6番の頸髄損傷レベル的にはC7、手首が利いていて指先はほとんど握力がない状態。当初は親指が少し動かせてタバコも楽に吸えて自動販売機に10円玉を入れることが出来たのですが、ここ最近はかなり動きが悪くなりました。阪大病院で手術を受けた時点で、家族は主治医の先生から「息子さんは一生車椅子になりますよ。」と聞かされました。完全麻痺でしたのでそれから1ヶ月間ずっと天井を見たままで体が動きませんでした。それでも僕は、一時的に体が麻痺をしているだけだろうと、しばらく経ったら徐々に回復してくるんじゃないかと、安易な気持ちでいました。親やチームメイトなど僕以外の者は手術を受けた時に「こいつはもう駄目だ」とわかっていました。私だけ1ヶ月した時点で主治医の先生から聞かされました。それも主治医の先生が親父に「お父さんのほうから説明してもらえませんか」と言ってたらしいのですが、親父は「そんなこと息子によう言いませんわ」と言ったので、ある日主治医が病室に入ってきて直接僕に「猿木くん、このケガは頸椎5、6番の脱臼骨折で、腰の骨を移植して針金で繋いで、骨は何ヶ月かしたら固定してくる。しかし中に通っている頸髄が損傷していて、これはどうしようもない。回復する余地はない」と。主治医に宣告をされて寝たきりの状態で過ごしていたのですが、自分では納得できなくて。それからリハビリが始まりました。首の牽引や足の屈曲、関節が固まらないように、そして褥瘡にならないように。

星ヶ丘でのリハビリ、再出発に向けて模索の日々

それから8月に星ヶ丘厚生年金病院に転院するのですが、当時貧血がひどくて少しベッドを起こすとすぐにめまいがしました。星ヶ丘に移ってからも起立訓練が長く続きました。それと並行してマット上で胸から上の筋肉を鍛えたり、バランスをとる訓練を半年ほどしました。もともと腕の力はありましたが最終的に10キロの鉄アレイを包帯で手に巻いて50回ほど上げれるようになりました。C7ですからバランス感覚があり、プッシュアップもできるようになり、トランスファーもそれほど苦労しなかったと思います。握力がないので装具をつけて字を書く訓練をしました。

星ヶ丘を退院したのが翌年の3月、ちょうど大学を卒業する時と同じでした。当時は6階の東病棟ですごく怖い婦長さんがいました。頸損患者もたくさん居て、大体お昼から訓練をして夕方ご飯を終えた後、みんなロビーに集まってきて時間のあるときは外に出て星ヶ丘の外周を車椅子で移動したり結構ハードな訓練をしていました。当時病院の体育館で脊損の車椅子バスケットをたまに見たりしてましたが「脊損は自分とは全然違うんだな」と、そんな気持ちでいました。やっぱり指先が不自由なので将来自分をどういうふうに導いていくか、何になろうかというか、何がしたいのか、自分にはどういう手立て、道のりがあるんかなと考えると、まあ今までずっとフットボール漬けのフットボールバカでしたから勉強してなかったし、フットボールで就職しようと思っていたので、何か資格を取ろうと思いました。資格を取るきっかけになったのは大学時代、ゼミが会計学だったので税理士という資格を思いついたんですが、当時星ヶ丘で簿記学校の先生が入院されていて僕の簿記検定のテストでもしようかなということもあって、2階の作業療法室で簿記の問題をやったり、大学を卒業するのに単位が残っていたのでその勉強をしていました。

私の場合、両親が入院中に住宅改造してくれました。2階に自室があったのですが1階の応接間を部屋にして玄関からスロープをつけて、退院と同時に家に帰ることが出来ました。当時家庭復帰できるだけでも御の字というか、ほとんどの人は家庭復帰できずに他の病院に転院していくという状況でした。病院生活も当時は5年、10年と長い人もいましたが家庭復帰すること自体相当難しい、家に帰っても介助者を確保する事が難しいということで病院を転々とする方が多かった。

私は6階東病棟の6人部屋だったのですが、私はその中で一番軽度で、他の一人はチンコントロールの電動車椅子に乗っていて、当時は家政婦さんが介助をしていて私だけが家族兄弟の付き添いで、そのおっちゃんの姿を見ていて自分はもっと動けるんじゃないかと思いました。しっかりせなあかんと思いました。

退院、そして税理士の道へ

その後退院して税理士を目指すために専門学校に行きたいなと思っていると、たまたま自宅の近くに大原簿記学校が東京から進出してきて、たまたま教室も車椅子で入れる教室だったので通うことになりました。合格するのに結局6年かかりました。

もともとこのレベルで社会復帰するというか、就職したり手に職をつけるというのも難しい、資格試験を目指したというのも、一つでも両親の手伝いというか、父親が経営している会社の手伝いを出来たらなという思いと、事務的な仕事が可能性としては一番あると思いました。当時の頸損で、車椅子で試験を受けている人がほとんどいなくて、試験会場に自分専用の机を持ち込んで試験を受けさせてもらいました。クーラーのない、暑さで倒れるような試験会場で結局6年かかって資格を取りました。その間に同じ勉強をする仲間というか先輩がいて、その人の両親の事務所に奉公に行きました。それがあって昭和60年に合格発表をもらい、ちょうどその年が先ほどのNHKドラマ「妹」の撮影の時でした。怪我をしたときにファッション雑誌JJの取材を受けて「勇者に翼ありて」という単行本を草鹿宏さんという方が書いたのですが、その本が出たことによって、そのドラマが企画されました。NHK大阪で撮影がありまして、柳葉敏郎や恋人役の二谷友里恵、彼女がちょうど郷ひろみと結婚する前で、私が試験に合格したということで自宅に花束を持ってきてくれたというエピソードもあります。柳葉敏郎とはNHK大阪放送局で頑張ってください、と挨拶をしました。

それから昭和60年に合格し、翌年税理士登録をして、元々社会復帰できるとは思っていなかったのでゼロからのスタートということで、すぐ開業しました。開業して23年になります。その翌々年に嫁さんと結婚しました。

資格を取って開業したのですがほとんど仕事がなかったので、大阪市の職業リハビリテーションセンターという所で簿記の講師をしないかという誘いがあり、当時の生徒には鳥屋君などがいて講師を1年か2年やりました。

結婚した当時は嫁さんが外資系の銀行に勤めていて、5年くらいは彼女の給料に頼って食べさせてもらっていました。保険も彼女の扶養家族、年金も彼女の社会保険に入れてもらっていたという形で、嫁さんは5年ほど働いてました。どうしても子供が欲しいということで不妊治療を始めたのは結婚して7年目くらい。当時なかなか医学が進んでいなかったのですが平成7年阪神大震災のあった年、長男が誕生しました。その長男も今は中学一年生で身長も 165cmを超えてえらい大きくなりました。

頸損連絡会や、ツインバスケ いろんな人たちとの出会い

頸損連絡会との関わりは、草創期というか、何人かの頸損がこの長居スポーツセンターに集まって連絡会を作くりました。僕が怪我をして何年かくらい経ったときだった。当時、今の日本DPIの議長である三澤さんが東京頸損連の会長でした。三澤さんと何人かが新幹線で東京から来て「大阪でも頸損連絡会を作ったらどうか」ということで作りました。

そして連絡会で何年か会計だけさせてもらっていたのですが最近はお邪魔することがなくなりました。いろんな運動がありました。

頸損連絡会と並行して長居スポーツセンターでツインバスケットを始めました。東京や名古屋など全国いろいろなところに行きました。バスケットを通じていろんな訓練もしました。車椅子ハーフマラソンにも出場しました。当時長居公園の外周を、バスケットをしていた車椅子に乗ってハーフマラソンの距離にあたる7周を走りました。21キロを3時間半ほどかかって走りました。当時は2、3年で車椅子を乗り換えていました。今はスポーツをしていません。

現在はチタン製の車椅子に乗っているのですが、そのきっかけになったのがPSA、前立腺がんの数値が上がってきて検査した結果、左右の前立腺にがん細胞が出きて治療しなくてはならない、3年前はまだ放射線治療が進んでいなくて、全摘出するかどうかと言っていたのですが、放射線治療をするということで1ヶ月半、毎日星ヶ丘に通ってそれを受けて数値が下がりました。それと並行してホルモン治療を行い、その影響で体が太ってきたため、今のチタンの車椅子に乗り換えました。それと親指の機能がだんだん低下してきたため、脊椎空洞症になってきたのと違うか、ということでMRIを撮ることになったのですが、私の場合脊椎に針金が入っているためそれを取らなければ撮影ができないということで針金をとりました。

受傷してからこれまでの、だいたいの経緯はこんなところです。あとは質問などをお聞きしながら話していければと思いますがいかがでしょうか。

−参加者との意見交換(聞き手:A.T.)−

体調管理は、どのように?

【T】

針金のことで質問ですが針金をとるために神経を傷つけて今の機能が低下する危険はありませんでしたか?

【猿木】

僕の場合はありませんでした。ですからその後、星ヶ丘に再入院することは一度もありませんでした。

【桑本】

私は体調にすごく波があるのですが猿木さんはどうですか?

【猿木】

最初の7年間ほどはすごく不安定でした。ひどく汗をかいたり、右の股関節に塊があるのでバランスが悪く腰がだるくなります。怪我した当時は痙性がひどかったです。ベッドで寝てる時、絶えず足が上がったり今でもそうですが前に尿瓶を置いているのですがそれが飛んで濡れたりしました。あと、汗を相当かきました。風邪を引かないように自分で管理しています。褥瘡はほとんどできたことがありません。それだけは特に気をつけています。お風呂には毎日入っています。それと、頸損のわりに指がきれいなと言われるのですが、入院中に親戚のオバちゃんがずっと指をさすってくれていた、たいてい指が膠着して曲がったりすることが当時もあったと思うのですが。あと排尿と排便のコントロールです。それは当時カテーテルではなくて私の場合、出が悪くて星ヶ丘に行った時に尿道を広げる手術をしました。導尿するのは日に3回です。排便のコントロールは2日に一度必ずしています。ずっと30年間変わりなくきています。

受傷後、気持ちが外へ向かったのは?

【T】

僕は退院して4年になりますが、最近少しずつ外に出れる精神状態になってきましたが、猿木さんは退院してどれくらいで気持ちが前向きになってきましたか?

【猿木】

当時は今のように交通などアクセスがよくなくて。ですが、東京頸損連絡会の三澤さんが新幹線に乗って電動車椅子で東京からやって来て、あの三澤さんが東京から電動車椅子で来たというのが私にとって刺激になりました。当時自分で車椅子をたたんで車に乗るということがなかなかできなくて、最初は車に乗ることはできたのですが車椅子が重たくてトランクに積んでもらっていました。どこかへ行ったとき、通りがかりの人に頼んでトランクから降ろしてもらっていました。アクセスが今ほど良くなかったということもありますが、フットボールの試合に皆が迎えに来てくれて車に乗せていってくれたのがきっかけになっています。あとは、ツインバスケットでここ長居に来るようになったのが一番の刺激になったと思います。

【T】

税理士を目指そうと思ったときに、先駆者がいたなら自分の将来の参考や指針になったと思いますが当時猿木さんの周りに自分と同じレベルで働いてたり、参考となる人はいましたか? 当時メールやインターネットがなかった時代ですからお互い情報を今ほど交換できなかったと思うのです。

【猿木】

本当に手探りで専門学校へ行ったという感じです。当時筋ジスの方が同じ試験会場で試験を受けている姿を見ました。あの当時は盲人の弁護士さん竹下さんという有名な方がいますが、脊損でもお医者さんになっている人とか障害あってもいろんな資格を持ってやっている人がいましたが、税理士に関しては私の知っている範囲ではいませんでした。私が受けるようになって何人か受けだして、会計士は監査法人に勤めるのは大変だぞと、弁護士になるには頭がついていかない、税理士なら試験制度が一度に取らなくて良かったというのがあって目指しました。お手本にする人はいませんでした。コンピューターもない時代でしたから、私が開業した時もゼロックスのFAXが 150万円位しました。そういう時代からですから情報としてはやっぱり対面での情報、ここの身障スポーツセンターで頸損連絡会を通して世の中の人と交わったというのが一番の私の情報源でした。怪我した当時は和歌山に頸損の知り合いの女の子がいて、その子とやり取りをしたのが精神的に癒されたことを覚えています。

これから働こうとしてる人、先ず何から始めれば?

【T】

試験勉強の途中で挫折しそうになったことはなかったですか?

【猿木】

5科目を何年かかっても取ろうと思いました。

最初は3年で通ると思っていたのですが、税法科目が苦労して6年かかりました。でも、仕事をしながら、また、大学にも行きながら等いろいろやりながらだったのでそれほど不安は感じませんでした。

【T】

今日ここに来ている人の中にもこれから自分で働きたいと考えている人がいると思うのですが、先ず何から始めていけば良いと思いますか?

【猿木】

やはり先ず、自分が得意とする分野を身につけなければいけないと思います。何もなしでは仕事にありつけません。当時、職リハセンターで簿記の勉強をしていた人もいますが、そういったところで何かの訓練を受けるとか、今は在宅でも訓練を受けられるものもありますから、自分が好きなことで腕を磨くというか技術をつけるというか、それがないとなかなか仕事をするのは難しいと思います。

受傷直後、必要な情報やサポートは?

【天雲】

作業療法士をしている天雲と申します。私はここ一年頸損の患者さんと接する機会が増えてきたのですが、事故をされた当時こんな情報が欲しいとか、こんなことをして欲しかったということがあったら教えてください。

【猿木】

訓練に関しては当時まだ訓練方法も確立されていませんでしたから、私は実質できる範囲ではしましたが細かいことを言うよりはやってしまったほうが早いと言う感じでした。車の運転や移乗の仕方は同じ頸損仲間がやっぱり一番教えてくれたり情報をくれました。装具のほうはOTの先生が工夫に工夫を重ねて少しずつ使いやすくなったという感じです。税理士の試験では字を書くのに苦労しましたが、最近ではパソコンが主流になり、その機会も減ってきたので字を書くことが段々できなくなってきているので、いかんなあと思っています。制度的なものはソーシャルワーカーにやってもらいました。

【T】

試験を受けるときに特別な道具を持ち込んだり、措置を取ってもらったことはありますか?

【猿木】

僕の場合は一番前の席で机を持ち込んで試験を受けました。試験を受ける前に担当者に許可を取りました。税理士試験を受けるということに関しては、僕の場合それくらいでした。

アメフトの名選手、頸損という現実、猿木さんを突き動かした原動力は?

【赤尾】

猿木さんは受傷前アメフトの名選手として栄光の道を歩まれていましたが、そういうものがない私より、障害を負った後の落差は大変なものだったと思うのですが、受傷後猿木さんを突き動かした原動力は何でしたか? また、受傷前の自分が受傷後の自分に及ぼした影響はなんでしたか?

【猿木】

昔の思い出は、僕にとって本当にありがたい経験でしたので、捨て去るということはなくて、その後もずっと学生時代の仲間と遊ぶことが多いですし、自分が一番楽しみにしているのはフットボールの試合ですし、なくてはならない存在です。怪我をしてすぐ何年かコーチをしていた時代もあって、グラウンドへ行って後輩の姿を見て勇気づけられることもあり、きっても切れないものです。やっぱり車椅子の上にも7年、動けたときの自分と動けなくなってからの自分にいらだちや焦りもありました。受傷後8年で試験に通ったときがヤッター!というか、バンザイ!という思いでした。それ以外で学生時代フットボールをしていた時は感動のドラマというかかっこ良かったなあと思うのですが、頸損になってヤッターと思ったのは試験に通ったときでした。みんなこれは仕方のないことですが、怪我をした後、石の上にも3年、車椅子の上にも7年、夢の中で車椅子で木登りをしている夢を見たら、それはもう大分、車椅子使用者になった自分に慣れた証拠だと言われましたが、自分はまだその夢を見たことがないですし、いろいろな葛藤はたくさんありました。過去の自分の栄光に今はすがっているというか、甘えているという感じでしょうか。(笑)

【米田】

僕は、人工呼吸器を使用しています。今、ひとり立ちを目指して頑張っていますがなかなか前に進まないことだらけです。猿木さんの時代は今よりもっと大変だったと思いますが、自分をより多くの人に知ってもらいたいという気持ちはありましたか?

【猿木】

自分を知ってもらいたいという気持ちはありませんでしたが、逆に当時マスコミに取りあげられたり、いろいろなところから取材のオファーがありましたが嫌々ながらに受けていました。私がいろいろなところに出て行くことによって脊損という言葉が世間に認知されれば良いと思っていました。自分が一番勇気づけられたというか、シッカリせないかんと思ったことは東京の三澤さんや、姫路の田村さんがチンコントロールの電動車椅子に乗って頸損連絡会に来ているのを見て、スゴイ、自分は何をしているんだという気持ちになったのが正直な話です。最近では人工呼吸器を付けられて、外に出る人が大分増えましたが、自分よりも重度のハンディを持った方が長居に来ている、その姿が私にとって一番励みになりました。

当事者同士が向き合う、その大切さ

【肥塚】

理学療法士をしている肥塚です。我々のような専門職の悪いところや改善点があればお聞かせください。

【猿木】

私から言えることはもうありませんが、脊損専門の病院やそのような体制が整っている病院があればと思います。

【T】

事故した直後の頸損になった若者に対して、病室訪問をした際どのように声をかけてあげれば良いでしょうか。

【猿木】

やはり、同じ立場の人間とコミュニケーションを取ることが一番癒されると思います。今、携帯やパソコンが普及していますがやっぱり人の優しさや温もりというか、対面して話をしたり、外に遊びに行くことから始めれば良いと思います。私も当時頸損連絡会の人に連れ出されて電車に乗ったり、外に出たのが一番楽しかったというか気が晴れました。今入院期間が短くなってすぐに退院してその後のコミュニケーションを取れる相手がいないケースが増えているのが懸念されます。

何か一つ、やりたいことを見つけるのは大切なこと

【一般参加者から】

奥さんとの出会いはどのようなものでしたか?

【猿木】

妻は私より6つ年下ですが、私のフットボールの現役時代のファンで、妻は当時高校生で私の母校関学を受験したのですが、たまたまか意識してか私の卒業式の日に私のところに来て、それまで何度か手紙はくれていたのですが、その日手紙をくれてうちの親父が名刺を渡しました。それがきっかけで話をするようになりました。その後家に遊びに来てくれたりするようになりました。それから10年ほど経って結婚しました。当時は病院の看護婦さんと付き合う方が多かったようですが、なかなか所帯を持つという方はいませんでした。

私も怪我をした当時は到底社会復帰など望めないと思っていましたが、自分の目指したものが税理士ということで、税理士になったからには仕事もせないかんということで、自分のやりたいことを突き詰めるというか、いろいろな工夫をしていろいろなところに行って人に話を聞くというふうにしていたと思います。大切なことは何かやりたいことを一つ見つけるということです。それは仕事でなくても良いですし、趣味でも良いですし、それを極めるというのが大事なことだと思います。

【鳥屋】

猿木さんは20数年健常者の中で税理士として働いてこられたわけですが、障害者を受け止める社会の環境はどのように変わってきましたか? 日々の暮らしのなかで大変な事があれば教えてください。

【猿木】

交通アクセスが良くなったというのは感じます。国際障害者年以降、いろいろな政策が整ってきたというのは感じます。やっぱり当事者が政策のなかに関わって変えてきたというのが一番大きいと思います。仕事上は、私はしがない一税理士をやっておりますが、それが出来るのはやっぱり人とのつながりがあるからだと思っています。それと変わってきたのは社会みんなの意識的なこともそうです。当時私は梅田から徒歩10分の距離に住んでいましたが、外に出ても自分のように車椅子の人はほとんど見ませんでした。国際障害者年以降、車椅子の人もちらほら外で見かけるようになりました。

【鳥屋】

猿木さん、本日はどうもありがとうございました。


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