頸損だより2010秋(No.115) 2010年9月19日発送
シリーズ
車輪の一歩
車輪の一歩をこぎだすことで何かが変わる…
受傷から現在まで
中塔 昌宏
「受傷」
今から22年前の1988年、当時19才だった僕は社会体育の専門学校に通っていまして、スキルアップの為の水泳の授業中飛び込みで頭を打ち頸髄を損傷しました。意識を失うことはなかったので、身体中に走った電流のようなものの感覚は、今でもはっきりと覚えています。救急車で近くの大学病院に搬送され、すぐに首を牽引する処置といろんな検査をし、ICUに運ばれた頃には夕方近くになっていました。首の骨を折り脊髄を損傷すると、一生車椅子の生活になることは知っていましたが、事実を告げられるのが怖くて、医者や看護婦に自分の状況を聞くことが出来ませんでした。夜になり学校から連絡を受けた両親と姉が、病院に駆けつけてくれました。家族を代表して面会に来た姉は、かなり気をつかってくれたんでしょう、髪の毛を中途半端に刈られ首を牽引され動けない僕を見ても動じず、普段通りに接してくれました。帰り際姉から「母親が泣き崩れて入ってこれない」と聞かされた時、自分の体の現状を知ることになりました。
「急性期での状況」
二日後、より詳しい検査が出来る病院へ転院。怪我をしてから二週間後に首の固定術の手術を受けました。手術は無事成功したんですが重い肺炎にかかり、気管切開をし呼吸機を着けました。一日中呼吸困難のなか体を動かすことも話すことも出来ず、日々積もるストレスや意思を伝えられないもどかしさ等から自己の人格が壊れてゆき、看護婦さん達と衝突することが多くなっていきました。
手術のあと麻酔から目覚めたのは、空調がいき届いたオペ室の中でした。長時間の手術だったのか体が冷えきっていて、大布団を被せてもらってから部屋へと移動しました。意識が朦朧としたなかたどり着いた先は、明かりが煌々と灯った大きな部屋でした。何も聞かされていなかった僕は、近づいてきた看護婦さんらしき人に事の成り行きを聞き、ここが集中治療室であること・様子見の為にしばらくここで治療するとのことを知りました。肺炎がひどくなり呼吸器をつけたあと、僅かに動く左手に鈴を着けてもらって、看護婦を呼んでいました。吸引してもらってもすぐに痰が溢れ、すでに大きくなっていた褥瘡を治すため横に向けられると、首を固定するため局所麻酔のみで着けられたハローベストが肩に食い込み…。口パクでの会話も相手にはほとんど伝わらず、わがままを言っていたこともあり相手に誤解され、手に着けられた鈴を何度も取り上げられました。もめた人達に対しては、何もしてほしくないし見るのも嫌だったので、体に痛みがあっても痰が詰まって苦しくても、鈴を鳴らさず我慢していました。見かねた主任が「今の状況が解っているの?本当に危ないのよ。痰が詰まって苦しいのなら看護婦呼びなさい」と怒られましたが、僕はその人も嫌いだったので聞き流していました。つまらぬ意地を張り続け、周りの人達を困らせていました。
肺炎の症状がピークを過ぎると急速に体力が回復していき、それと共に壊れていた人格も元に戻っていきました。リハビリが始まり一般病棟へ、ただこの頃から自分の将来への不安・家族のこと・周りの人々への気遣い・周囲の目など、精神的な負担が大きくなり、顔じゅうニキビだらけになったり胃潰瘍になったりと、体調不良にみまわれることが多くなりました。周りの人達にこれ以上心配をかけまいと、家族や友人・看護婦さん達の前では努めて平静を装っていました。誰にも相談出来ず数ある問題を自分一人で解決しようと、出来もしない事柄に挑み、もがき苦しんでいました。
「リハビリ専門病院へ」
リハビリを受けるため専門の病院に転院したのは、桜が散って間もない1990年の春先でした。そこには頸髄だけでなく胸髄や腰髄など、脊髄のあらゆる箇所を損傷された人々が入院されていて、健常者並に歩ける人から頭しか動かせない人まで、毎日リハビリに励んでいました。すぐに周りと打ち解け同じ障害を負った人々と共に、なんとかある程度自分のことは自分で出来るようにと目標を立て、日々訓練に挑みました。入院中は訓練だけでなく自らの障害のこと、退院後の日常生活及びこれからのことなど、先々の人生についての話し合いも行われました。
リハビリの効果もあり今まで出来なかったことが出来るようになったり、少ししかこげなかった車椅子も院内はもちろん・病院の敷地内にある小路まで一人で行けるようになりました。しかし周りの状況がいろいろと見えてくるようになると、自分の限界や、これから自分の望まない生活を送らなければならないことが解ってきました。萎えていく気持ちを抑え努めて平静を装い、自分の心境を悟られまいとしていました。
夕食後、よく旧館の屋上に一人で上り、景色を眺めながら煙草を吸っていました。昼間大勢でいる時は冗談など交え、努めて明るく振る舞ってはいたものの、いざ一人になると溜息が漏れ、不安や孤独を感じていました。目に映る夜景を世間と重ね合わせ、あの場所に自分は二度と戻れないと考えていました。
「恐れていた現実の日々」
一連の入院生活を経て家に帰ってきた時には22才になっていました。両親は商売をしていたので昼前から夕方までの日中は、一人ベッド上で過ごしていました。自分のことが自分で出来ないと、就職はおろか訓練校にも行けない現実がありました。迷惑をかけ続けている家族にはこれ以上望むことも出来ず、「自分が黙っていればいいんだ・施設に行かず家で面倒みてもらってるだけでも幸せじゃないか」と自分にいい聞かせていました。
人間の適応力というのは恐ろしいもので、退院前に恐れていた望まない日々にも、適応している自分がありました。これではいけない、何とかしないと思っても、いい考えも浮かばず、堂々巡りをくり返す日々。現実にさいなまれながら、お釈迦様が垂らす、蜘蛛の糸のようなものを待ち続けていました。そんなことあるわけないのに…。
「転機」
自分が入会していた大阪頸椎損傷者連絡会から電話がくるようになったのは、今から12、3年前のことでした。頸損連が行う行事があるごとに誘っていただいたのですが、介助者の問題などもあり断り続けていました。そのうち頸損連にボラ部が出き、送迎などの介助はまかなえるからと、熱心に行事への参加を勧めてもらっていました。知らない人に介助してもらう不安もありましたが、行事が家の近所で行われること・もう断りきれなくなってしまっていたこともあり参加を決意しました。その後少しずつ行事に参加するようになりました。知り合いも増え忘れかけていた外出することの楽しさ、人々と触れ合うことの大切さを思い出してきました。パソコンを使って在宅で仕事をしてみませんか?という、自分には夢のまた夢のような話もいただきました。ただ自分の希望が少しずつ叶うようになってきた頃から、僕の介護を担ってきた母親の体の調子が悪くなり、せっかく頂いた仕事の話も断らざるを得ませんでした。
「自分という存在の罪深さ」
体の調子を頻繁に崩すようになってから一年後、母親は亡くなりました。両親をはじめ、自分がお世話になった方々も相次いで亡くなり、自分という存在や生きることの意味に対して自信が持てなくなりました。絶対的なもの・不変的なものを求めて柄にもなく、思想や哲学・宗教など様々なことを考えるようになりました。けれど…そこから何かを導き出すことは出来ませんでした。
母親は最後まで僕の介護を担ってくれました。周囲に期待されつつも、自分自身に負け、勉強もスポーツも、何もかも中途半端な結果しか残せなかった自分を見捨てずに…。自分という存在のあまりの罪深さから、「いっそあの時に自分が死んでいれば」、「自分さえ生まれてこなければ」と思うようになりました。母親が亡くなった時、自分も家族も驚くほど冷静でした。生の苦しみから解放された母親を見て、少しホッとしたのかもしれません。病室から出ようと車椅子を反転させ、母親の遺体に背を向けた瞬間、何の前触れもなく大粒の涙がこぼれ落ち、その場で泣き崩れてしまいました。
「結石・褥瘡・骨折」
母親が亡くなったあと、離れて暮らしていた妹が帰ってくることになり、僕と弟との3人での生活が始まりました。週三回訪看さんに来てもらってはいたものの、朝から晩まで一人で過ごしていました。ほんの僅かな皮膚剥離から褥瘡ができたり、足をひねって骨折したり…、おまけに腎臓や尿管・膀胱に結石が頻繁にできるようになりました。掴みかけたチャンスが自分の手から離れようとしていた時、人を通して現在お世話になっている自立生活センターを紹介してもらいました。
「現在」
3年ほど前から現在お世話になっている自力生活センターと関わらせてもらうようになり、ヘルパーさんに介助してもらいながら作業所やいろんな行事・イベントに参加しています。諸事情により何度も諦めかけた、障害を負っても社会を構成する小さな歯車になる、という目標に向かっているところです。厳しい現在の社会情勢と障害を起因とした体の不調を考えると、目標を達成することは困難だと思いますが、振れるだけバットを振ってやろう・下手な鉄砲も打ちまくってやろうと思っています。またそうすることで今まで自分を支え続けてくれた人々への僅かな恩返しになると信じて。
「最後に」
最近つくづく感じるのは、周りの人達と自分との力や経験の差です。作業所や頸損連の活動に参加させてもらっていますが、いつもいっぱいいっぱいで迷惑ばかりかけてしまっています。今回の原稿も以前書かれた人達のレベルには程遠いですが、恥を忍んで綴った自分の情けない日々を読み、何らかのきっかけを掴む人が一人でもいれば嬉しく思います。