講演録

「介助者の入った生活」を語り合う勉強会

(2002年11月16日 大阪市長居障害者スポーツセンター)


〈第1部 パネリストによる発表〉

I Aさん

(1)プロフィール

私は1952年に奈良市で生まれ、今年で49歳になります。地元の工業高校を卒業し、(株)神戸製鋼所(茨木工場)に入社。1975年4月、オートバイの事故で首を骨折して全身麻痺になりました。受傷名は「第5/6頸椎脱臼骨折による頸髄損傷」で、行岡病院(大阪市)に3年間入院し、自宅に戻ってからは両親の介護で生活するようになりました。

それでずっと生活していたわけですが、だんだん自分でも何かしたいなと思って、1996年1月から、地元の奈良市の障害者問題研究会に参加しました。そのうちに、その年の4月に父親が病気をして入院したことで将来が不安になり、自立を決意しました。施設に入ることも考えましたが、市内に僕が入れるような施設はなかったので、思いきって自立を決意したわけです。実家を出て市内のアパートに転居し、最初は一人で生活できませんから、両親もいっしょに出てという格好で。そして3カ月してから、現在住んでいる市営住宅にたまたま引っ越しすることができました。障害者用の住宅で、間取りは2LDK、当然バリアフリーになってまして、玄関から全然段差がない部屋です。

1998年6月、地域生活支援センター「創ゆう」ができ、副代表として活動しました。その時、今から4年前の1998年9月に全身性障害者介護人派遣事業が奈良市でも始まりました。それから「創ゆう」の中でもいろいろと問題があって、退会。今年の6月から「サポート24」に参加し、来年からの支援費制度に伴っていろんな問題が出てくるということで、また新しい活動をやらしていただこうと思っています。


(2)介助者を使うために利用している制度

今、奈良市の方では、ホームヘルパー、全身性障害者介護人派遣事業、24時間巡回サービスを利用しています。それから訪問看護と訪問入浴と、市が独自にやっている送迎入浴を利用しています。

ホームヘルパーは今のところ週12時間で、だいたい1日に2時間ぐらい、月曜から土曜までです。全身性は奈良市では月130時間で、大阪に比べたら20数時間は少ないですね。僕の場合、全身性のほとんどは夜の介護に使っています。それが夕方から明くる日の朝までとなると、もう14時間ぐらいになってしまって、10日ほどしか使えないことになるので、介護人さんとの話し合いで、寝てる時間もあることですし、時間は6時間にしてくださいとお願いしています。それでも1週間まるまるは使えないので、火曜と木曜の夜中、午前1時と午前5時の2回、巡回サービスに入ってもらっています。夕方6時から9時までは全身性を利用して、後は巡回で来てもらうという形です。

ガイドヘルパーは奈良市の場合、ホームヘルパーの中に含まれてまして、その時間外にしか動けません。その辺が使いにくいところがあって、市との話し合いも進めていますが、なかなかですね。全身性ももっと時間がほしいわけですけれども、上積みしてもらうのはなかなか難しくなっています。24時間巡回サービスは、さっき言った夜中の分と、それから日中は午後2時と4時に来てもらっています。午前中はヘルパーさんが2時間ぐらい来てくれますので、そういった形で利用しています。

送迎入浴というのは、週に1回、市の福祉センターまで職員が送り迎えしてくれるもので、市が言うには、あくまで家族のお手伝いという趣旨だということで、介助者をこっちで見つけなければいけない問題があります。


(3)介助者の入った生活をするようになったきっかけ

先ほども話しましたが、父親が病気で入院したことがあって、それで母親は看病に行って、そうしたら私の介護は誰がしてくれるのかということになったんです。あちこち手を尽くしてボランティアさんを探したりして、いろいろと実際に動くきっかけになりました。そういうことがあったのでその後、思いきって自立することにしました。自立を始めて、介護人さんやホームヘルパーさんは来てくれるようになりましたが、それでも時間が十分足りないことと、まだ全身性の制度も始まっていなかったことがあって、最初はまだまだ両親の介護に負うことが多かったです。それがいちばん負担になりましたね。


(4)介助者の入った生活の良い点

だから、両親の介護の負担がなくなったことがいちばん大きかったです。自分自身が自立するという意味でも、やっぱり親というのはいずれは先にいくものですから、それまでに自分はどういうふうにして生きていくすべを見つけられるかが大事でした。父親が病気をしたのは、そういう気持ちにさせてくれたという意味で、きっかけになったと思います。


(5)介助者の入った生活の不便な点

結局、他人が家に入って来るわけで、自分の生活すべてをのぞかれているような部分があったりして、やっぱり「嫌やな」と思う部分もあります。でも、ある程度どこかで割りきらないと、当然自分一人では生きていかれへん部分があるわけですから。時間がたつにつれ、そういう気持ちもちょっとは薄れてきたような気もします。

全身性の場合は有料の介護人さんですが、その他にボランティアさんも利用しています。やっぱりボランティアさんはある意味、責任があってないようなところがあって、ちょっとどうかな、という部分もあります。いついつ来てくださいと言っておいても、全然連絡もなしにすっぽかされたりすることが時々あって。それはちょっときついな、と。ひょっとしたら、若い人にそういうことがたまにあったりするかなと思います。結局、有料で全部介護人さんをまかなえられたらいいんですが、なかなか今の経済状況ではそれも難しくて、やっぱり全身性の方でもっとたくさん時間がほしいというのが切実な願いです。


(6)今後の展望、希望、目標

奈良市では、自立して生活している人は、僕が知っているかぎり、まだそんなにたくさんいません。全身性を利用している人でも20人に満たないと聞いていますので、まだまだ全身性の制度を知らないということもあるでしょう。市の方も公には広報していません。言うてきたら教えたるわ、みたいな態度です。やっぱり役所というのは申請主義ですから、こっちからどんどん言っていかなければ、なかなか来てくれない部分もあります。

今住んでいる住宅には、障害者向けの部屋が、僕を含めて6世帯あります。他にも子どもさんからお年寄りまで、いろんな障害者の方がいてはるんですけど、顔を見たらあいさつする程度で、なかなかコミュニケーションがとれていません。その点、せっかく住宅があるんですから、もうちょっと地域の中で、ここで生活してるんやということをもっと大きな声を上げていかなあかんと思います。

それから、バスなど交通の便も不便なところが多いんですね。大阪では市バスでノンステップバスがけっこう走ってますけど、奈良はまだまだ最近始まったばかりです。いちばん数が多いのは市内循環という路線で、観光客がよく利用するところでは走ってるんですが、ちょっと路線が外れると不便なんです。僕が住んでいるところはその循環からは外れてまして、そうした地域にもノンステップバスを走らせていく運動を進めてるんですけれども、奈良の場合は民間の奈良交通がやってまして、市営ではないので、積極的にそういうものを導入するのはなかなか難しい面があります。

僕は自立生活を始めて7年目になるんですが、最初は、家族以外の人と付き合うことにかなりプレッシャーがかかりました。ヘルパーさんにしても、なかなか気が合わない人がいたりして、すぐに「帰ってくれ」となったこともあります。結局、社協から来るヘルパーさんというのは、向こうからあてがわれるわけで、こっちが選ぶことはできません。それに自分がどう折り合いをつけていくかがいちばん難しいと思います。やっぱり人間ですから、中には気に入らん人もいるわけですが、今では、だいたい半年から8カ月ぐらいでヘルパーさんも交替しますから、よっぽど気に入らん人だけは社協に言って帰ってくれと言って、後はどうせ8カ月、10カ月したら替わるんやからと、辛抱ではないんですけれども、折り合いをつけることにしています。


II Bさん

(1)プロフィール

僕は頸損になって13年になります。中学校の時にプールで飛び込みをして、頸損になりました。それから入院生活が2年半ぐらいあって、退院後は在宅生活がずっと続いていました。その時にお母さんが介助をしていて、これじゃあしんどいなということで、ホームヘルパーを週2回使うようになったのが、ヘルパーさんを使うようになったきっかけです。それ以外はホームヘルパーは使ってなかったんですが、なぜかというと、当時住んでいた東大阪市では週2回ぐらいが限度で、けっこうしんどい面がありました。

今は城東区の関目で一人暮らしをしています。一人暮らしをするきっかけになったのは、在宅でこのまま親がずっと介助をしているというのはどうだろうかと思ったのと、あと、やっぱり親といっしょに住んでいると、遊びに行く時などもどうしても親を気にしなければならなかったりして、自分でもしんどい部分があったからです。それで今年(2002年)6月、一人暮らしをし始めました。

一人暮らしをするまでに、いろんな不安なことがあり、親もやはりすごく不安に思っていました。そこで親に対しては、介助者がこういう時間にちゃんと入りますよということを説明しつつ、不安を取り除いてきました。僕自身が不安に感じたのはトイレのことなど、摘便も今までは親がずっとしてたんで、他の人にしてもらうのはすごい抵抗があったんです。それでどうしようかなと思って、実際に先輩方で独り暮らしをしている人の家に行って話を聴いたりして、「あ、自分が考えすぎてたんかなぁ」と、ずいぶん楽になったんです。それまで一人暮らしをするにあたってイメージをつかめなかったんですが、先輩方の話を聴くことによってイメージがつかめるようになりました。


―(会場から)先輩はどない言うてた?


はい。「いや全然、気にしたことないなぁ」みたいな感じで。それで「あ、そんなもんなんや」と思いました。


(2)介助者を使うために利用している制度について

今、大阪市で住んでるんですけど、ホームヘルパーと全身性障害者介護人派遣制度を使っています。ホームヘルパーは朝の時間帯と、夕方6時以降から3時間、利用しています。全身性の方は153時間使ってるんですけど、この時間帯ずつだったら全然時間数が足りなくて、自己負担を使ったり、どうしようかなと考えている現状です。ホームヘルパーと全身性に関しては、今、僕は都島区の自立生活センター「あるる」で働いてまして、そこから派遣をしてもらって、トイレのことなども全部、摘便や導尿もしてもらっています。


(3)介助者の入った生活の良い点

自分の好きなようにできる、自分の生活を作れるというのがすごく大きいです。たとえば、今までは夜遅くまで遊んだりしたら親に悪いなぁというのがありましたが、今ではそんなことがなくて、友達を家に呼んだりして、楽しくやってるかなぁという感じです。


(4)介助者の入った生活の不便な点

先ほどAさんも言われてましたように、介助者さんが自分の生活の中に入ってしまうというのが、自分ではなかなか慣れていないところがあります。だから僕の場合は、11時以降は介助者は入っていないんです。朝の8時から夜の11時まで入ってもらって、ずっと介助者がついていると僕自身しんどい部分があるので、11時以降は自分の時間にしたいということで入れていません。

最初、介助者さんが家に入ってくるようになって思ったのが、介助者さんに何かしてもらわなあかんみたいなのがあって、仕事を何か言っていかなあかんのかなぁ、ずっと座ってもらっていると悪いのかなぁ、と。でも今思うと、それは考えすぎていたと思います。今は徐々にですけど、介助者がいっしょにいることに慣れてきたというのがあります。やっぱ慣れなのかなぁと感じました。


(6)今後の展望、希望、目標

一人暮らしをするにあたって、今の制度のままじゃ、絶対に自分は生きていけないなぁ、しんどいなぁとすごく感じました。だから、もっともっと制度が良くなって、しんどい思いせんと生きていける、そうした生活になればと思います。


―(司会)介助の人が入りはじめた時、してもらうことを言っていかなあかんと思っていたけど、今はそれがなくなったということだけど、それは用事がないときは普通に介助の人と過ごせるようになったということ?


そうですね。コミュニケーションがとれるようになってきました。


/―(司会)たとえば本を読んでいる時など、介助に来てもらっている人に何もしてもらうことがない時、今は具体的にどういうふうにしてる?


今は、ただ「座っといて」と。こっちが何か指示を出さないかんということを思わないようにしました。


III Cさん

(1)現在までの経緯

私が怪我をしたのは、今から22年前の昭和55年10月。就職試験をひかえた高校3年の体育の授業中です。跳び箱の6段を跳んだ瞬間、跳び箱についた左手首をぐねり、勢いのついた身体がそのまま前に飛んでまっさかさまに落ちたのです。落ちる瞬間に頭をかばって引っ込めて着地してしまったために、首の骨を脱臼骨折してしまいました。一瞬にして首から下が宙に浮いたような感覚になりました。その後、「救急車を呼ぶ」という先生に、恥ずかしいからやめてほしいと頼みこんで、3〜4人の男の先生がそーっと抱えて扉のような板の上に乗せて、とりあえず保健室に、そして隣接する学校の校医をしていた先生の病院に運ばれました。

運ばれてすぐにレントゲン撮影。体を動かしてはいけないので、と着ていた服は全部はさみで切られました。首にカラーが巻かれ、その時の先生の反応に「大変なことになったんや」と、一瞬ゾクッとしました。その後からは意識があったりなかったり、虚ろな記憶しかありません。私の体はどんどん熱が上がり、だるくてしんどくて、起こしてほしいと一晩中うなされていたようです。そして次の日、校医の先生の友人が勤めるという大阪回生病院に移りました。そして首を牽引、頭の上半分の髪の毛をそられて、耳の上あたりにネジを入れられ、輪っかのようなものをつけ、その先に重りをつけられました。何キロの重りだったかは忘れましたが、つけられた時に首がググッという音とともに伸びたような感じがしました。それからは毎日続く40度近い熱と、思うように動かせない、また何も感じなくなった体に対するはがゆさと情けなさと恥ずかしさとの闘いで、毎日泣いていました。

2カ月後、牽引がとれ、頭と仙骨部とかかとに褥瘡ができ、仙骨部を手術。半年後、電動車いすで病院の中を動けるようになりました。当時の主治医は自宅で療養をと言いましたが、父が、リハビリを受けられるようにと星ケ丘厚生年金病院を探してくれました。私の状態を聞いた整形外科部長は、来てもらっても何もすることはないよと冷たい対応だったそうですが、父が必死でかけあってくれたそうです。そして57年3月、転院しました。転院した時に自力でできることと言えば、装具をつけての歯磨きと食事、そして電動車いすの操作だけでした。でも電動は入院したその日に、家に持って帰るように言われました。

星ケ丘に入院して、リハビリの厳しさよりも脊損病棟の厳しさにびっくりしました。厳しいというかこわいというか、部屋にはカーテンもなく、しかも私のように自力で何もできない頸損は、失禁や失便の時に手がかかるので、リハビリ以外の時は下半身は何もつけてはいけないと、ふとんの下はおむつとバスタオルだけ。恥ずかしくて下着をつけていた私は、入院した明くる日に、婦長さんが飛んできて怒られました。とんでもないところに来たと思いました。常識では考えられない扱いで、看病疲れで母の病気が悪化していたために付き添いがつけられなかった私は、手がかかるというだけでずいぶん怒られました。侮辱的なことを言われたり、人間として生きてはいけない、やってはいけないことがまかり通っている。それが20年前の障害者に対する実情だと思います。とにかく1日でも早く退院したい、その思いがリハビリへの意欲をかきたてました。

服の着替え、トランスファーなどその他、1年半ほどかかって何とかんとかできるようになって58年の7月、退院し、在宅生活に入りました。退院後も、自宅に戻れた喜びに浸っている間なく、さまざまな事がありました。母の病気の悪化、細かいことは省きますが、相変わらずの経済苦、生活の苦しさを私が怪我をしたからだと父親に責めたてられる日々。姉妹3人での家で、文化住宅での寝たきりの生活。私の世話と仕事の両立に、姉妹の体力に限界が来ての施設入所の申し込みなど、重度障害者が在宅で生活していく厳しさを嫌というほど痛感しました。この時代に在宅支援の社会的資源が今ほどにあれば、どんなにか姉妹に苦労をかけずに、また私も肩身のせまい思いをせずにすんだだろうかと思います。厳しい状況もその時々で守られることもあり、住宅も、期待せずに申し込んだ車いす住宅に当選し、昭和61年12月には現在の守口市に引っ越しをしてきました。

そして平成2年に、本格的な自立に向けての2回目のリハビリ入院。目標を4つほど掲げ、それぞれ工夫を重ねて何とかできるようになりましたが、無理がたたって座骨部に褥瘡ができて手術。4カ月ほど動けなくなって目標を断念。退院後のショックは大変なものでしたが、同じ障害を持つ友人の励ましやアドバイスを受けながら、姉妹の負担を少しでも軽減できるようにと、自分でできることを増やしていきました。それでも排便・入浴は姉妹の手をわずらわせていました。

平成5年4月、姉が結婚したことで、私の世話は妹1人の負担となってしまいました。妹はパートで働きながら週2回、私の排便の日は3時頃に帰宅。そして排便、入浴、その他一切家事をしてくれていました。訪問看護を受けられたらとどれほど思ったことでしょうか。

平成6年、友人の紹介で授産施設から仕事をもらうようになりました。パソコンを貸し出してもらっての入力の仕事です。友人や施設の人の車で、週に何回か通うようにもなり、移動手段の確保を真剣に考えるようになりました。車の免許を取得したい。でも経済的な問題、乗り移りの問題、教習所に通う問題など、私1人では解決できない問題ばかりでした。時間の関係上、細かいことは省きますが、妹の協力や脊損仲間の力添えにより、すべての問題をクリアして、平成7年5月に長年の夢であった運転免許を取得できました。移動手段の確保ができたことで、授産施設の主任に、経済的な安定のためにも職業訓練校に通うことを勧められ、平成8年4月から1年間、週3日、朝5時に起きて準備をして通いしました。

この年の1月、おたがいのことを考えて妹が独立し、私も一人暮らしになり、いよいよ本格的な自立をすることになりました。この前年に守口広報で見つけた訪問看護ステーションから週2回入ってもらうことになっていたので、あわせてヘルパーさんにも入ってもらえるように役所に連絡をとり、利用できるようになりました。平成9年11月に、現在の会社に在宅社員として就職。そして現在の生活が確立されました。


(2)現在の生活

平日は基本的に朝10時から夜7時まで仕事をしています。訪問看護の時は、会社に電話を入れて仕事を中断します。月・木の午後、2時にヘルパーさん(これは守口市の派遣のヘルパーさんです)に入ってもらって、お風呂をわかし、洗濯物の取り入れや掃除をしてもらいます。2時半に看護婦さんが来て、排便の処理に取りかかり、この間にヘルパーさんは掃除、洗濯、お茶をわかしたり、食器を洗ったりしてくれます。3時過ぎぐらいから入浴。体を洗うのは看護婦さんですが、シャワーいすへの移動や入浴リフトへの移動など、ヘルパーさんにも協力してもらっています。入浴後、看護婦さんが膀胱洗浄している間、ヘルパーさんは洗濯など家事の続きをしてくれます。看護婦さんの仕事は4時過ぎぐらいに終わり、入浴の日は私がそのままベッドにいるので、ヘルパーさんは車いすをベッドのそばに置いたり、弁当を受け取ったり、枕元に必要なものをそろえたりしてくれて、すべての仕事を終えるのがだいたい5時過ぎぐらいになります。そして火曜日の朝9時頃にも入ってもらい、ゴミ出し、朝食の準備や、時には買い物や美容院、通院などの外出にも付き添ってもらっています。

私のところに入ってもらっているヘルパーさんは、ホームと介護を両方兼ねて入ってくれています。3年前に褥瘡の手術をしてから、再発防止のためにも毎日、保護剤の交換と傷跡に軟膏を塗っています。仕事の時間はできるだけ避けたいので、それは夜ベッドに上がる9時頃、日曜日・水曜日は兄嫁が、火曜日は姉が、それ以外は妹が来てしてもらっています。兄嫁と姉は自薦ヘルパーとして登録していますが、私の利用料の自己負担額が多いということで、妹は登録していません。介助の手を家族だけではなく、公的資源を利用していきたいというのは、星ケ丘を退院後、在宅生活に入ってからずっとの願いでした。私の場合、母の病気のことがあり、介助はすべて姉と妹に頼るしかありませんでした。そう、「頼る」ということばがぴったりくるような状態です。そこには私自身の主体性はほとんどなく、面倒をみてもらっているという精神的負担と、面倒をみなあかんという姉妹の身体的・精神的負担ばかりが目立っていたからです。

平成8年から公的資源を利用しはじめ、さまざまに変化をして6年たった今、ようやくある程度の形ができあがってきたのではないかと思ってます。確かに他人が入ることでプライバシーがなくなったなあと感じることはありますし、介助者が複数になれば、同じことを依頼しても個性や考え方で微妙にちがって困惑する時もありますが、またそれが新たな発見になり、生活にプラスになることもあります。6年前、私がヘルパー派遣と訪問看護の2つのサービスを利用することになった時に最初に思ったのは、ヘルパーさんと看護婦さん、そして私自身、この3人のうち誰一人としていやな思いをすることなく、3時間の貴重な訪問時間を過ごしていきたいということでした。そして、その気持ちは今も変わらず、また身内の19時間の時でも同じで、できるかぎりその気持ちを持ち続けられるように心がけています。


(3)今後の展望

一人で住んで仕事をして、経済的なやりくりや介助者の段取りなど、その他、生活全般をすべて自分でしていかなければいけないというのは、時には非常にストレスも感じますが、今がいちばん気楽で有意義な生活ができているように思います。ただ収入があるということで、自己負担が多いことがしんどいですが、それも現段階の情報では、来年から始まる支援費制度では軽減されるようです。その支援費制度は利用者の生活がどこまで満たされるのかは不安な部分も多いのですが、ともあれ私自身がもっと自分の生活に責任を持っていくことが大切だし、また当事者間の意見交換なども活発にしていくことが大事ではないかと思っています。それは、同じ立場の人の話ほど役に立つことはないと思うからです。今、そういう気持ちでおります。


IV Dさん

(1)プロフィール

一人暮らしを始めたのは、母親が亡くなったことがひとつのきっかけになっています。その時、篠山町(現・篠山市)で社会福祉協議会に就職してまして、母親の介護でずっとそちらにいたんですけど、母親が亡くなったために仕事に行けないという話が社協の役員の方にあったようで、「だったら、もう来んでいいよ」みたいな言い方をされました。そこでヘルパーさんたちが、同じ社協に勤めている関係で「私たちが行ってあげるから、仕事続けてよ」というところまで話をしていた時、役場の方から、そういう生活に関わったことがないので、施設の方に入ってくれへんかという話を持って来られたんです。

でも以前、在宅にするか療護施設に入るかという時に、いちおう療護施設に入ったわけですが、結局そこを出てきた関係で、もう療護施設には入らない方がいいと自分自身思っていました。また母が亡くなった後、父親がおったんですが、親父との仲が非常に悪くなって、これはだめだなというところまで来ていたので、社協の方は「もう、それじゃあ辞めます」ということで、退職しました。

それから神戸市西区の兵庫県立総合リハビリテーションセンターに8カ月のリハビリ入院をして、その後、自立生活訓練センターに入所して6年おりました。それで今年(2002年)、明石市の大久保に家を買い、5月1日から練習もなしにぶっつけ本番で一人暮らしに入りました。明石市の職員には、自立生活訓練センターで練習をしながら徐々に慣れていったらどないやと言われたんですが、そんな余裕ないし、施設というところは一度措置をしてしまうと、施設を出るまでその市の福祉事務所が面倒みなければいけないという規定があって、途中で住所が変わったら書類の関係が難しいと言われたので、措置入所が切れる4月30日付で退所し、5月1日から明石市でお世話になることにしました。

5月1日からさっそく、巡回型のヘルパーさんと、学生ボランティア、社会人のボランティア、これは全身性障害者介護人派遣事業でまかなうように連絡を取り合いながらやりました。学生さんの中にまとめ役、コーディネーターをしてくれる子が、たまたま友達でおりまして、その子に頼んで福祉大学の学生さんに入ってもらうようにしました。それと、社会人で病院勤務をされている方が知り合いにおりまして、病院でヘルパーさんや看護婦さんに声をかけていただいて、その人たちに全身性の中で就寝準備と食事作りなどに来てもらうという格好で、今まで来ています。


(2)現在の生活

どういった時間帯で1日を過ごしているのか、7月分の派遣事業の時間割をもとにお話しします。朝7時半から8時まで、巡回型のヘルパーさんに30分間入ってもらっています。その後、学生さんが7時半から8時半まで入ってもらって、朝食を準備して片づけて帰ります。朝ですから、わりと近くの子が入ってくれています。18時から19時に、社会人の方が仕事帰りに入ってもらって、夕食を作って片づけて帰ります。その後、20時から21時に就寝の介助で社会人の方が入ります。 

というようなスケジュールを毎月、踏むわけです。これを組む時、だいたい社会人の方は20日締めで、20日以降の予定は来月回しになるのでわからないということがあるんですが、学生さんの場合は入れるところから、たとえば授業が休みとか事前にわかるらしいので、そういったところから入ってもらうようにしています。これでずっと1カ月過ぎて、また1カ月を組んでいくわけですが、お昼など、8月に夏休みに入って学生さんがいなくなる時があります。その時は巡回型のヘルパーさんで「ちょっとぐらいだったら簡単なもの作りますよ」と言ってくれる人が増えてきて、今のところ、たいがいの人に作ってもらえます。でも、「いや、今日は学生さんが来ますから」と断わる時の方が多いですね。


(3)介助者の入った生活の良い点

良い点としては、いろんな人と知り合えるというのがあるんですけれども、B君が言った、最初は何か言わないかんのやろ、何か仕事を与えないかんのやろ、というのは僕にもありました。じっと座ってもらってるんですけども、何話してええんかなぁとか、いろんなこと聞いてええんかなぁ、とかいろいろ頭にあったんです。まあ、もう何でも聞こうと思って、学生さんやったら「彼女おる?」とか「彼おる?」とか聞いて、「いない」って言うかと思ったら、最近の子ははっきり「います」って言いますね。「どんな子?」とか聞くと、恥ずかしそうにぼそぼそと話したりするんですが、このあいだ、「USJに行ったんでお土産を持ってきました」とか、「どこぞこに旅行に行ったんでお土産を持ってきました」とか、持ってきてくれることがあったので、そういった話も聞いてもいいんかな、と今は思ったりしています。

社会人の人だったら、時間があまったりすると、まあ早く帰ってもらってもいいんですけど、たとえば2時間の予定で1時間半で終わったら、30分は余分に時間はつけてあげるんです。そして「すんません、これどうもたくさん作っていただいて」とか言って、今日はもう要りませんからサービスしときます、みたいな感じで話したりとか。

それから規則正しい生活というのがすばらしい。僕の場合は、8時から9時の間に必ず就寝というふうに取ってます。本当は全身性の場合は、朝の7時から夜の10時までということになるんですが、10時過ぎるとちょっと困るので、9時には仕事を納めて玄関を出てもらうことにしていますから、夜の9時から朝の7時半までは僕はベッドの上におります。で、携帯電話と電話の子機と、お茶と、カテーテルと尿器を横のワゴン車の上に置いておいて、夜、おしっこしたいなと思ったらおしっこして。カテーテル1本では足らんので、3本置いてやってます。お茶は、飲んだらまたおしっこいきたくなるので、のどをうるおす程度で、400CCのコップに7分目ぐらい入れておきます。規則正しい生活で、睡眠はばっちり取ってるので、体の調子はいいです。

不便な点といえば、時間に拘束されることです。これは裏返せば、規則正しい生活をするからなのですが、ベッドに上がるのと、ベッドから下りる時間が決まってますから、その時間には必ず帰らないかん、ということがあります。


(4)介助者を使うために利用している制度

全身性障害者介護人派遣事業が、明石市は月120時間で、1時間1470円の単価です。巡回型のヘルパーさんが、1日に朝7時半から8時まで30分。それから訪問入浴で自宅の風呂に入るわけですが、月・水・金の週3日、3時半から5時まで。ガイドヘルパーのヘルパーさんは、通院とか公共施設に行くのにしか使えないというのがあって、西宮市のように普段の日に使えるかといったら、使えないところがあるみたいなんで、今のところ通院だけにしか使ってません。今使っている制度はこれだけです。


(5)介助者の入った生活の不便な点

不便な点というのは、時間が拘束されることと、やっぱり人間関係がありますね。人間関係をどういうふうに持っていくかは非常に難しいんですけど、考え過ぎても直るものでもないし、うまくいくものでもないので、なりゆきに任せなしゃあないかな、というのがあります。つい最近、社会人の方でずっとコーディネートをしてもらっていた方が「事情があって止める。これからはあなたがやってください」と言われてしまって、2〜3日間はブルーになったんですが、まあ、ちゃんとやらないかんことなので、次々連絡を取り合いながら今やっています。どうなるかなと心配な面があるんですが、何とかみんな協力してできるよ、って言ってくれてるので、ちょっとは楽になったな、と思っています。


(6)今後の展望、希望、目標

来年度からの支援費の制度がどのようになるか、明石市でもいろいろ悩んでいるようで、全身性の制度がなくなるような格好になってしまうんですね。今の状態で僕が使っていくと、とてもやないけど、もうお金が持たない。「じゃあ、どうするんですか。僕、今の状態で生活できますか」と言ったら、役所の担当の方は「ちょっと無理です」と。だから、これからどんどん変わっていくようなことを言うんです。障害者団体が厚生労働省との交渉とか、今どんどんやられてますよね。そんなところから、今決まっている部分がちょっとずつでも変わっていくんちゃうか、と役所の人間も期待してるわけなんです。それでできなかったら、市でできるような形になるまで、独自の現行制度を残しながら、今後、移行期間みたいなのを置いてやろうかなという話はしてました。

そのままの状態で進められるのがいちばんいいんですけれども、事業者の方に聞いても、ホームヘルプステーションのヘルパーさんに聞いても、事業者との話し合いがまだできていない状態で「どうするんでしょうねえ」みたいなことを言ってました。まだまだ役所の方でもわからないことばっかりみたいですね。で、できなければやっぱり、自分たちでまかなえるような事業者になっていきたいと思うんですけれども、それを調べだしたら膨大な資料になって、しんどなってきたなあというのが、今頭にあります。

最後になりますが、僕自身はやっぱり、皆さんが家族に支えられて生活できるのがいちばん幸せやと思います。本当は家族の方にケアしてもらい、家族の方といっしょに同じ屋根の下で住めれば言うことないんですけど、家族の負担をどこかで軽減さすには、今の制度の状態では難しいんですよね。家族がおる人は、多くの制度から離れた形になってしまい、それで家族以外の人にやってもらうと、制度に乗っかる、ということがあって、その乗っかることになるにはどうしたらいいかというと、家族から離れて一人で住まなしゃあない、というのがあります。来年の支援費になる時に、いちばんいい転換になるんちゃうかなと考えておられる方がいらしたら、その辺を考えられたらいいと思います。

自薦登録となると、介護者をだいぶ探していかないといけませんが、僕がラッキーやったのは、学生さんと社会人の方をまとめてくれる人がたまたま身近におって、知り合ったことからうまくいきました。あれを一人でやろうと思ったら、本当に大変やろうと思いますね。40人ぐらい入ってもらってるんですけれども、その連絡網は、きちんと学生さんは学生さん、社会人は社会人の人がやってくれているので、だいぶ楽です。その辺が自分でできなければ、自立支援センター「あるる」のようなところに頼んでできればいいんですけど、それも難しかったら、今の時点では一人暮らしは難しいかなと思ったりもします。来年からはわかりません。来年からは、それがしたいと言えば、そうならざるを得ないような形に役所の方もなってきますので、それがワンチャンスやと思います。



〈第2部 みんなでトーク&ディスカッション〉


(質問)Aさんにうかがいます。最初に勤められていた会社に、事故後、再就職は考えられなかったのでしょうか。


【A】会社の方は、事故してから半年ぐらいは保険とかいろいろ使えたんですけれども、それでもういちおう復帰は無理やということで、退職扱いということになったんです。それから、こっちも積極的に再就職という運動はしなかったもので。もう20何年前の話やから、障害持ってて再就職さしてくれというのはちょっと無理やったんちゃうかなあと思いますね。僕自身も今みたいには動けなかったんですよね。ほとんどベッドに寝たきりの状態やったから、会社もこれはもうたぶん無理やというふうに判断しはったんやと思います。


(質問)同じく仕事に関して、Cさんに。仕事されてまして、利用料が高いということが出ましたよね。それでも仕事をしておられるメリットというのは?


【C】これ以上、利用料が増えるとなると、かなりきついかなというところはあります。でも、仕事してまる5年になるんですけど、それまでは障害基礎年金と特別障害者手当しか収入としてはなかったんです。私らみたいな頸損は特に物ひとつ、たとえば歯ブラシ1個でも、この歯ブラシは使えるけれどもここの歯ブラシは自分では使えないとか、フォークでもこれは使えるけど、これは使えないとかがあって、商品をどれでも選べるという状態じゃないんですね。そうなると、やっぱり費用がすごくかかることもあって、普通の生活するのが全然という状態だったんです。食べるのもずいぶん事欠くぐらいの生活してましたんで、それから思うと、確実に毎月、少なくとも確実にお給料が入ってくることのメリットはすごく大きいです。

仕事して2〜3年たった頃、褥瘡の手術をするために入院して、その頃、利用料の自己負担が発生することがわかりました。前年度の所得があったからということで。「何のために働いてんのやろ。生活を豊かにしたいと思って一生懸命働いてるのに、生きるために必要な訪問看護とかヘルパーさんの費用がかかるというのは、すごい矛盾してるなあ」と、かなり落ち込んだこともあって、言いに行ったりもしました。でも現状ではどうしようもないので、今は確定申告の時に、ヘルパーさんの利用料や訪問看護の利用料、在宅支援センターから取る配食サービスのお弁当代などは医療費控除として認められるので、税務署に持って行って極力、所得税を減らすようにしています。そうしたら多少でも負担が軽くなるんやけど、でもその枠が大きいので、あんまり変わらないんですけど。

何よりも私の場合は、通勤がなくて在宅で仕事をさしてもらえるということが、本当に良かったなと思います。それで続けることができる。その辺は会社に感謝しています。一人でやっていて、会社や支社の状況がよくわからないということもありますけど、それでも気楽に仕事をさしてもらえるのが、私にとってはいいなあという感じです。


【司会】今の仕事と自己負担の件、僕からも話さしてもらっていいですか。僕は怪我してから13年2カ月ほど仕事してまして、今年(2002年)の1月にリストラになりました。大学の4年で怪我して無年金なので、特別障害者手当のみで後は何もなしなので、退院して大学復学して考えたのが、とりあえず就職することです。仕事を見つけなかったら、収入が何もないから生活ができない。ということで、仕事を何とか始めたんです。僕の場合も介助の方に入ってもらってるんですけど、仕事している当時で1時間単位850円の自己負担を取られていました。月給等々と自己負担を相殺すると、手元にほとんど残りません。仕事をして稼いだ給料は、自己負担として市役所にバックしている。確かに非常に矛盾はあるなあと思ってたんです。

生活保護を受けている方の話を聞くと、もろもろ全部込みで僕よりも1カ月10万円くらい収入が多い。生活保護を受けている人の方が楽な生活をしている、何で仕事してる方が生活苦しいねんと、確かに思ってたことはあります。でも、やっぱり仕事があるというのは非常にありがたいことやと思うんです。生活に張りもあるし、自分が必要とされている実感もあるし、だから、経済的に苦しい面もあるかもしれないけど、やっぱり仕事ができるのであれば、僕はやっぱりした方がいいと思うんです。確かに体力的にしんどくなってきたらもうダメだとかいうのはあると思いますけれども、それまでは続けられるものならば、続けたいんじゃないかなと思います。これは僕の意見ですけど。


(質問)今日は、星ケ丘病院に入院中の方も来てもらっていますので、派遣するために利用している制度について。Dさんだと全身性障害者介護人派遣制度、巡回型ヘルパーと入浴ヘルパー、ガイドヘルパー派遣事業とありますが、それぞれがどういった制度なのか、簡単な説明をお願いします。


【D】巡回型ヘルパーというのは、だいたい朝、僕の場合は7時半から8時までの30分間、来てもらっています。そのヘルパーさんは8時に帰るわけですけど、巡回やから次のところに行って、またそういう仕事をしてはると思います。

それと滞在型というのがあって、だいたい2時間が1単位で、食事作りから洗濯とか掃除、だいたい家事全般をやってもらえるんです。そのヘルパーさんを頼むには、役所の障害担当に連絡をとって、その時に自分の収入がある場合は、所得証明などによって自己負担が決まってきます。所得があれば、先ほど司会の方やCさんが言われたように、自己負担が何百円単位で出てきます。

訪問入浴は、僕の場合は月・水・金の3日間、3時半から5時までという形で2人来られます。お風呂に入れてもらって、帰られます。それも役所の障害担当の方が決めます。同じく所得証明などもその時に要ります。

全身性障害者介護人派遣事業は、やっているところとやっていないところがあるので、市町村の障害を担当している担当者に聞かないとわかりませんが、いちおう時間が決まっています。明石市で120時間、大阪市は153時間とだいぶ差があるんですけど。明石市の場合は1時間1470円という単価で、来てもらった方の時間のマネージメントは自分がせないかんわけです。たとえば今月(11月)だったら、11月1日、朝から誰が入り何をした、2日、誰が入り何をしたとずーっと全部合わしていって、個人でつけている個人の時間表といっしょに役所の方に送ります。役所がそれを調べて登録している全身性の登録者に「あなたは今月、何時間入りましたので、いくらです」という金額を書いて送ります。送ってもらったボランティアの方が「間違いありません」と役所に送り返す。送り返した分について、登録してある口座にお金が振り込まれます。

ガイドヘルパーは、外出の時に付いてきてもらう方なんですが、それも登録します。ガイドヘルパーはガイドヘルパーでまた研修があるんですけど、今はみなしとしてヘルパー1級ぐらいを持っておればいいにしよう、という形でやってもらっています。通院した時に朝の10時から夜6時まで、いわゆる玄関を出て玄関に帰ってくる時間に何時間かかったか。それを同じく1時間1470円に換算して、1割の源泉徴収された金額がそのガイドヘルパーさんに振り込まれます。明石市の場合は役所に行く、通院する、学校に行くなどの公な用途にしか使えなくて、たとえば、こういった会合に来るから使いますと言っても、なかなか許可されないみたいです。天井がなくて、毎週通院すれば、毎週通院したということで出したら、たぶん支払われると思います。


【司会】Dさんのガイドヘルパーの利用についての説明の中で、西宮市は違うという話がありました。僕は西宮なんですけど、西宮市の場合は、メシ食うから、食堂に行くから、という用途でも使えます。自治体によって非常に大きな差があるので、皆さん、各市町村で調べていただいたらいいと思います。


(質問)全身性介護で来てもらうヘルパーさんと、それ以外で来てもらう方とでは、できる作業の内容は同じなんでしょうか。


【D】僕が入ってもらっている巡回型と訪問入浴は、いわゆる身体に関係がある、身体介護です。あとの全身性で入ってもらっている分は、いわゆる家事介護、あまり体に触れないやつです。僕の場合、就寝の介護があって、その時、ベッドに上げて清拭とかやるので身体介護になるんですけど、そのあたり何が違うかというと、単価が違うんですね。身体介護で入ると、ただの家事、いわゆる身体以外の分とでは3倍ぐらい単価が違って、支援費の場合は4070円かな。それで、ただの介助だったら1500何ぼですかね。そういう差があります。


(質問)B君がヘルパーに導尿や摘便をしてもらっているという話でしたが、基本的に法的には認められてないじゃないですか。これは誰にでもしてもらえるというわけではないですよね。その辺はどのようにしているのですか。


【B】実際のホームヘルパーとなると、医療行為や導尿はだめなんですけど、僕の場合、自立生活センター「あるる」から派遣しているんですが、介助に入る前に僕の状態を話して、介助者の中にはトイレには抵抗があるという人もいますし、おたがいにOKだったら介助に入るという形をとっています。やっぱり摘便などは頸損にとっては必要になるので、僕の介助は6〜7人ぐらいで回してるんですけど、すべての人に摘便を覚えてもらうことにしています。初めて介助に入る人はやり方などわからないと思うので、最初に「あるる」のコーディネーターが実際に指導してから、独り立ちしてもらうという形です。


(質問)特に、摘便や導尿をしてもらうヘルパーの確保に困っているとか、他の介助に比べてその辺が困るということはないですか。


【B】今のところはないですけど、やっぱり男性の介助者が非常に少ないという問題がありますね。今は僕の場合は学生さんが多いんですけど、卒業してしまうと、どうなるんやろうとか、朝の時間帯に入るとなってくると厳しいですね。そういった点では、「COMVO」とか情報誌に載せて、介助者募集はしてます。


(質問)介助のスケジュールを組んでいる中で、どうしても空白な時間が出てきてしまった場合や、急に入り要になった場合はどういうふうにされてるんでしょうか。それと、B君は先ほど、11時以降、朝の8時までは誰も介助に入らない時間と言ってたんですけど、その間の時間はどういうふうに過ごしてるんでしょうか。


【D】朝にベッドから車いすに下りるのと、夜に車いすからベッドに上がる、その時間帯だけ介助があれば、あとの中間の時間は、無理すれば何とか自分1人で過ごすことは可能です。たまたま朝、学生さんが来れないとか、途中で調子が悪くなって来れなくなったとかいう時は、巡回型で来てもらっているヘルパーさんにお願いしたり、そういう食事関係は、冷蔵庫に顔を突っ込んでそこら辺のものを引きずり出しておなかいっぱいにするぐらいことはできると思います。

あとは失便とか失禁ですが、今まではヘルパーさんがいてはる時にたまたまうまく失便したりとか、お風呂に入っている時にお風呂場でうまく出たとかで(笑)、車いす上で出たというのがないんです。ただまだ6カ月しか過ぎていないので、これから先はやっぱりあるでしょうね。それに対してどう対処するかは、自分で考えておかないかんと思います。いっぺん巡回型のヘルパーさんに言うたら、「もしそうなったら連絡してください。少し待ってもらわないかんもしれないけど、行きますから」と言ってもらえたんで、ああ、これは良かったな、言うべきかなと思って。だから、その時考えたのは、何でも一回、聞いた方がええなと。

ただ困ったのが、朝、カテーテルが入らなくて、巡回型のヘルパーさんに「すいません、ちょっとカテーテル入らへんのんで、ちょっと押してもらえますか」と言うたら、「できません。医療行為ですから」「そない言わんと、ちょっとだけ」「できません」「できんかったら、いつまでもできませんよ」と言ったら、本部の方に電話しだして、「いや、それはできません。本部の方も言うてます」。そんなん聞いたら、言うのわかってるやないか!「やってください、絶対言わないから」という話から腹立ってきて…。そのヘルパーさん、それ以来、来ませんわ(笑)。

だから、何か事があった時に困るというのはあります。一人暮らししとったら、何かありますわ。いちばん困ったのが、ベッド上げて、導尿終わって、さあ下りようかなと思ったら、ベッドのコントローラがどっかいってもうて。下に落ちとったんやけど、線もつかまれへんし、そのまま朝の5時頃から巡回型のヘルパーさんが来るまで、起きたままでおりました。もう1回、逆もあって、寝ている時にコントローラがどっかいってもうて、おしっこしとうてもベッド起こされんかったらできんもんやから、そのままずっと待ってました。それはつらかったですね。もう死ぬんちゃうかと、それは大げさやけど、かなりしんどかったです。


【C】私の場合、介助者の人がいてると落ち着かないという部分もあって、極力1人でいたいなと思っています。基本的に月・木の午後に、まあ木曜日はしっかり排便をするので、朝、訪問看護のステーションから看護婦さんが来て、昼から市派遣のヘルパーさんと看護婦さんとで排便の処理と入浴、いろんな洗濯とかしてもらう。それを月・木でしてもらって、晩は毎日、別居してる兄嫁や姉や妹に来てもらいます。守口市は全身性の制度がないので、兄嫁と姉は自薦ヘルパーとして登録してやってもらっています。

空白の時間ですが、私がいちばん恐いのは、この6年間の間で車いすから転げ落ちることが何回かあったんですね。久しぶりに今年もこけた時は、友達が遊びに来てて12時ぐらいまで飲んでて、友達が帰った後に、友達が洗面所のスリッパを、いつもは絶対そこに置かないという場所に脱ぎ捨てて帰ってしまったんです。「ああ、後でちゃんとよけとかなあかんな、棒でも持ってきて」と思ってたのを、うっかり自分も酔ってるから、ふわーっと入ったら、前のコマが引っ繰り返って、そのままゴトーンと落ちてしまったんです。で、ずいぶん前から何回か、痙性がきつかったりとかしてこけたこともあったので、玄関のカギは自動にして、台所の辺りと、ベッドからも自動で開けれるようにナースコールみたいなのを何カ所かつけたりして、後は床の隅っこに1カ所、電話の子機を置いています。また緊急通報装置というのをつけて、消防署と連携がとれているので、電話をかけたら「Cさんですね」と対応してもらえる状態になっています。とりあえず、電話のあるところまでは必死で匍匐前進していかないかんのですけど、ずいぶんうまくなりましたよ(笑)。

私の場合はこけるのがいちばん恐いので、その時にどうするかということを重点に環境を整えるようにしました。失便などは昔はよくありましたけど、ここ3〜4年はほとんどなくなり、その時間内で終わるので、今のところ何とかいけてますね。


【B】空白の時間はないです。つねに誰かがいる状態です。僕の場合はトイレとかいろんな面があるんで、もし介助者が見つからない場合は、お母さんに甘えて来てもらったりもしています。


(質問)夜の時間は?


【B】夜の時間は、11時以降は介助者はつけてないんですけど、僕の場合、彼女といる時間がありまして(笑)。今ちょっと考えているのは、やっぱり一人でいる状態を経験していきたいというのがありまして、その準備に取りかかっているところです。福祉電話を借りたり、緊急通報装置というのがありまして、ボタンを押すことによって近くの人を呼んだりできます。カギの問題もあったので、今、自分で寝たままセンサーで開け閉めできるのをつけています。今後、そういった面を考えていって、一人で経験をしていこうかなと思っています。


【A】いわゆる危機管理というやつですかね。僕の場合は全身性を主に夜使ってるもんで、毎月20日ぐらいの時点で、次の月のコーディネートをするわけなんです。いついつ何時から来てくださいと、だいたい夕方6時から明くる日の8時ぐらいまでお願いするんですけど、たまに前日になってから「ちょっと明日、行かれへん…」と言われて、えらいこっちゃということで、人を探さんならんことがあります。知り合いに電話をかけまくって何とかお願いして、それでもダメな時は、まだ母親が健在で、姉もいますので、苦しい時の神頼みみたいな感じで「何とかして」と。そういうのでしのいでますけど、やっぱり全身性にしてもボランティアさんにしても、人を確保し続けていくというのはかなりしんどい作業なんですよ。学生さんは卒業したら来れなくなったという人もいるし、社会人の方でも、普段普通に生活してたら病気もあるやろうし、葬祭事とかもあるから、やはり人数をある程度、確保するというのが厳しいですね。

あとドアのカギのことを言ってはりましたけど、これは僕は最近、ちょうど「頸損だより」に載っていたテクノロックに頼んでドアやってもらったばかりなんですよ。何カ所かベッドサイドにもつけて、車いす乗ってる時にも使えるようにしたりして。インターホンを延長して、あっちこっち持っていけるようにとか、そんな工夫をしたりしています。


(質問)今後、一人暮らしをしてみたいと思う方に、自分が経験してみて、こうしたらより生活がベターな方向にいけるというアドバイスを。


【D】こういう生活をしだしてからいちばん感じるのは、自分は何を目的に一人暮らしを始めたのかという動機が大切だと思うんです。それはなぜかというと、たとえば人が集まらないとか、そういうトラブルがあった時にすごくしんどくなるんですよ。で、自分が何も持ってなかったら「ああ、もう止めとこうかな」という気持ちの方が強くなってしまう。だから環境も大事ですけど、自分に対する、ええかっこで言えば心構えみたいなものがあった方がいいと思います。今、僕もちょっとその辺が薄れてきてるんです。で、もう一度がんばらないかんなと思ってるんですけど、疲れるんですね。いろんなマネージメントしたり、人を集めたりすることに対して。で、ついつい楽な方に流れていくんです。「これではいかん、これではいかん」と思っている毎日なんですけど。

その次は住宅ですね。僕の場合はたまたま自分の家なので良かったんですけど、民間住宅にしろ公営住宅にしろ、改造をきちっとできることが大事だと思います。部屋の中はもちろんのこと、玄関から外に出て行ける、また外に出て行ったら、たとえばお店が近くにあるとか、そういうことも大事やし、そういった環境整備をきちっとしてはじめて一人暮らしができるような気がします。はっきり言って、辺鄙なところでは一人暮らしはしにくいという気もしますね。


【C】今、Dさんのお話をうかがいながら考えていたのは、私はそんなに強い意志でやれてるわけでもないんです。でも、やりたいという自分の気持ちが大事かなあというのはありますよね。実際、Dさんがおっしゃったように、本当にストレスがたまりにたまって頭がいっぱいという時が多いんですけど、でも、そうやってたくさんの介助の人と関わる中で、いろんな人と話もしながら、特に同じ立場でやってる人の話というのが実体験やし、自分と環境も似てたりするので、いちばんためになるし、私もずっとそうやって支えてもらってきました。だから人とのつながりを閉ざさないというのと、やっぱり、変に無理をしないということが気持ち的にいちばんいいかなと思います。甘えられるところは甘えてもいいと思うし、絶対自分はこれだけがんばらなあかん!というところがあるとすごくしんどい。自分自身がいちばんしんどいと思います。


【B】僕は最初の準備段階のところですごく気を遣いました。在宅生活の時にはお母さんに任せっきりのところがあって、一人暮らしを始めるにあたって、今までお母さんがしていたことも自分でしていかなあかんということで、そういうのを書き出していったんです。何に介助が必要かを書き出してみると、こんなところにこんなのもあったんや、というところが出てきて、それはすごく大事かなと思います。一人暮らしを実際にしている先輩の家にも行って、話を聞いたりとか。あと、ピア大阪に自立体験室というのがあって、それを体験して必要性とか、こんなところが不便やな、介助者が要るなあ、というのはよくわかったので、そういった体験をするのが大事やなと思いました。


【A】僕がこれからのこととして考えているのは、地域の中で、こういう障害者がここに住んでいるということを、もっともっとたくさんの人に知ってもらわなあかんと思うんです。というのは、先ほどの危機管理ということにもつながると思うからで、何かあった時にすぐ来てくれる人が近所にいてもらえるというのは、ある意味で心強いと思うんですよ。最近、思ってたのは、たとえば電気製品なんか、普通はジョーシンなど量販店で買いますよね。でも地元の近所の電器屋さんというのは、けっこう今はいいサービスをしてくれるんです。たとえば電球1個でも、持って来てと言うたら来てくれる。そういうつながりを作っといたら、何かの時にひょっとしたら助けてくれるかもわからん。地域とのコミュニケーションは、これからどんどん作っていかなあかんなと思ってます。


(質問)この時期、けっこう寒暖の変化が激しいですが、寝ている時に、ふとんをめくりたい、かけてほしい、もう1枚かけてほしいという場合、どういうふうに対処されていますか。


【D】僕の場合はエアコン操作だけです。ふとんは1枚しか着てないんですけど、あまりたくさん着てると、導尿とかする時にふとんをどけるだけで、またコントローラがどっかいっちゃうみたいな感じになってしまうので、エアコンのリモコンを枕元というか、頭のところに付けといて、暖房を入れて、暑くなったら切ってますね。タイマーをかけたりして。実家で暮らしている時は電気毛布だけをかけたりしてましたけど、それだと喉がからからになったりするので。今は夜9時以降は誰もいませんので、寒くなっても気合でがまんする(笑)。エアコンだけで生命をつないでますね。


【C】私も冬は毛布1枚で、その日の最低気温を聞きながら、中に1枚バスタオルをかけるとか、それをひざ掛けに変えるとか。私の場合は腕が多少なりとも動くので、前だけちょっと暑かったらめくったりはできるんですけど、もう寒くてしかたない時は、Dさんといっしょでエアコンを入れたり、暖房を入れてて少し暑くなりすぎたら、頭の上に置いてあるクリップ式の扇風機を、延長のスイッチでつけてかき回したりとか、エアコンをドライにするとか。その辺で調整するしかないです。


【B】僕は、もうエアコンですかね。今のところは毛布をかけすぎて暑くなったりとかはないんですけど、エアコンで調整していますね。


【A】僕の場合は、夜は介護人の人がいてくれはるんで、「ちょっとすんません、起きてちょうだい」とふとんをかけてもらったり。体位交換をしてもらってるので、その時にふとんも直してもらったりします。あとは火曜と木曜は巡回型のヘルパーさんが入ってるので、その時に。暖房の方は今のところ、電気掛け毛布を使ってまして、それでやってます。


(質問)僕は一人暮らしをしてもう10年になりますが、皆さんのお話にあったように、何度もこのまま死ぬかなと思うこともありました。この先、危機管理をもう少し整えていきたいとは思うんですけど、自分としてはたとえ、そのようなしんどい思いとか、危険な思いをしても、一人暮らしを止める気はないんです。で、皆さんに一言。今までいろいろしんどいことがあったと思うんですけど、一人暮らしを続けたいですか、止めたいですか。


【D】続けますよ。続けたいですね。


【C】そうですね。寝る時に体をあっためてくれる人が出てこない限りは(笑)、続けていきたいと思っております。


【B】僕も一人暮らしを始めてそんなにたってないんですけど、でも続けていきたいですね。一人暮らしをして良かったと思ってます。


【A】僕の場合は、今年7年目に入るんですけけど、自立生活はやっぱり続けます。というのは、確かにしんどい部分はあります。でも、それ以上にいろんな人との関わりの中で楽しいこともおもしろいことも、そらハプニングもいろいろあるけども、それ以上にいろんな人とのつきあいがあるというのがやっぱり楽しいです。


(質問)ヘルパーを利用している不便な点ということで、Cさんのレジュメで「同じことを頼んでも、同じようにはしてもらえないこと。介助者の性格や考え方でずいぶん違いが出る」というのは、具体的にどんなことがあったんでしょうか。あと、司会の方が前に言っていた話で、ヘルパーさんが入れ代わり立ち代わり入ってくるので、その都度、同じことをまた全部説明し直さないといけないことがけっこう大変やと聞いたんですが、そういった点も含めて。それと、ヘルパーさんは男性・女性、年齢も含めてかなりいろんな人が来ると思うんですけど、たとえば男女間の精神的違いというか、もしそういうことがあれば、教えてください。


【D】今、ヘルパーさんとして派遣されている方は女性ばっかりです。全身性で来てもらっている方は女性も男性もいますけど。僕自身は、あんまり男女にはこだわってません。異性介助か同性介助か、と言われてますけど、それは全然こだわりなしです。年齢はいちばん若いという人で30何ぼと言ってたから、かなり年配の方もおられるみたいです、市から派遣されている人は。


【C】性格によってやることが違うというのは、ウチは身内の女兄弟と、市から入っているヘルパーさんとですけど、たとえば洗濯ひとつでも、身内は私と年齢がそんなに変わらないので黒いものは黒いもの、おしゃれ着はおしゃれ着と分けてやってくださるんですが、6年ぐらいずーっと来ていただいているヘルパーさんは、最初のうちはうまくやってくれてはっても、そのうちだんだん合理的になって、何か今回、黒い衣類に白いのがいっぱいついてたなと思ったら、網に放り込んでいっしょに洗ったよとか、そんなんがあったり。洗濯物のたたみ方にしても、人によって、こうたたんだ方が入りやすいんちゃうんとか、取りやすいんちゃうんとか感じることがあって、「ああ」と思いながら、でもそれが逆にプラスになったりもするんですけどね。いいことはそれを取り入れて他の人にもこうやってね、というふうにしていますが、本当、人それぞれやなあというのを感じます。

私の場合、外出する時のガイドの部分なら男性の方でも全然気にしませんし、何かいい出会いがあればそればそれでいいんですが、やはり家の中は、家事とか、身体的なことがどうしても多いので、その辺はやっぱり女性の方の方が…。


【B】人間関係も苦労しますけど、最初の頃はころころ立ち代わり入ってくると、その都度指示を出さなあかんというのがしんどいところがありました。僕は自分の介護マニュアル、何が必要かというのを作って、それを介助者に渡して来てもらうようにしています。


【A】僕の場合は、ヘルパーさんは社協から来てもらってるんですけど、女性です。介護人に関しては、別に男性・女性というのはこだわってません。ヘルパーさんの場合は、朝来て夜帰るまでの仕事の流れをマニュアル化して渡してあるんです。引き継ぎの時も「来はる時にはこれを先読んどいて」という格好でやってまして。全身性の方は特にそういうのはないんですけど。ヘルパーさんに関しては、社協にコーディネートする人がいるので、なるべく以前に来ていた人に来てもらってください、とお願いしています。だから、自立し始めた6年前に来てはった方がまた最近、「久しぶりやねえ」と来てくれたり。そうなったら、こっちのもんです。


(質問)ヘルパーさんの中でも人付き合いが好きな人と、そうでない人といると思うんですけど、来てもらった時に、会話せなあかんとか、そういう人間関係の面で気疲れするということはあるんでしょうか。


【D】ありますねえ。それ非常に大きいですね、やっぱり。朝、来られた時に、ヘルパーさんの方が気を遣って合わせてくれる場合もあるんやけど、全くしゃべらない時もあります。「帰ります」「ありがとうございました」ぐらいしか言わん人もあるし、ずーっとしゃべってる人もあるし。僕自身からは、ヘルパーさんに関してあんまり問題は感じていません。僕から探るとかはないですね。ただ学生ボランティアにも入ってもらってるから、そういう面では気を遣いますよね。向こうも気を遣ってるんやないかと思いますけど。慣れるまではちょっと大変でした。


【C】気を遣うのは当然ですよね。おたがいやと思うんです。でも基本的にせっかく来て仕事をしてくれはるんやから、自分も気持ちよく介助されたいというのがあります。私の場合はそれぞれ短時間なので、おたがい気持ちよく過ごせるように極力努力するというのが、利用する側の務めでもあるかなと考えて、うーん、がんばってます。


【B】僕もやっぱり、そこはいちばん疲れるというか、考えるところなんですけど。でももう先は考えやんとこ、と思っています。もし一人になりたい時があったら、「出とって」と言っていこうと。おたがい何かを思ったら言うようにしてるし、あんまり考えないようにしています。


【A】人間関係というのはいちばん難しい部分であるんでしょうけど、まあ、誰だってその日、気分がいい時もあるし、悪い時もあるし、それはその時の状況で、流れていったらいいのんと違いますか。あんまりいろいろ考えない方がいいと思います。


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