2018年 全国頸髄損傷者連絡会 大阪大会  1.シンポジウム 講演・パネルディスカッション 「頸髄損傷者の人生を回復してきた道のり」≪第2部≫ さまざまな頸髄損傷者からの発信 頸損だより2018秋冬合併号(No.147・148)

2020/07/15
 
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頸損だより2018秋冬合併号(No.147・148)

2018年 全国頸髄損傷者連絡会 大阪大会 ~重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ~

1.シンポジウム 講演・パネルディスカッション 「頸髄損傷者の人生を回復してきた道のり」

≪第2部≫ さまざまな頸髄損傷者からの発信

PDF 2018年 大阪大会 シンポジウム(第二部パネルディスカッション)

【司会 杉本】それでは、第一部に続きまして、重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ、第二部:「さまざまな頸髄損傷者からの発信」というテーマのもとシンポジウムを進めさせて頂きます。
今回、第二部の司会を務めさせて頂きます大阪頸髄損傷者連絡会の杉本真一と申します。どうぞよろしくお願いします。
さて、第二部ではパネルディスカッション形式をとらせて頂きます。年齢や性別などさまざまな頸損者から人生の半ばにおいて事故で重度の障害を負いながらも、その後、自由に活動し、積極的に社会参加につながったポイントを聞き探っていきたいと考えています。そして、よりよい人生のリカバリー実現に向けてどのような道筋があるのかを考えていきたいと思っています。
では、早速ですが今回のスピーカーをご紹介します。

まず、米田進一さんです。年齢は47歳で受傷歴は約13年、受傷レベルはC1です。受傷原因は2005年5月に交通事故により頸損となり、11月に関西労災病院に転院、その3日後ハローベストを翌年2月に気管切開を離脱され、4月に退院されました。その約2年後に兵庫頸損連絡会に入会され、人工呼吸器使用者勉強会を発足させる等、主に高位頸損者のセルプヘルプ活動に積極的に取り組まれてきました。
本日はどうぞよろしくお願い致します。

続きまして、松本広樹さんです。年齢は49歳で受傷歴は約12年、受傷レベルはC6です。受傷原因は2006年12月に交通事故により頸損となり、泉佐野の救命救急センターで応急手術後、大阪労災病院に転院、ST、PT、OTのリハビリを受け1年3ヶ月後に退院。その後、色々な社会的資源を活用し、大阪頸損連の活動に積極的に関わっておられます。
本日はどうぞよろしくお願い致します。

続きまして、太田康裕さんです。年齢は41歳で受傷歴は約28年、受傷レベルC5です。中学2年生の時にプール飛び込みで頸髄を損傷。八尾徳洲会病院で1年2ヶ月、星ヶ丘医療センターに1年2ヶ月入院された後、中学に復学、卒業されました。その後、大阪頸髄損傷者連絡会の先輩の声掛けで、イベント・役員会などに参加されるようになり、そこで同じ志をもった仲間と出会い、2001年7月、大阪市都島区にて自立生活センター・あるるを設立されます。その後、城東区で自立生活も始められ、2017年10月に結婚され、奥さんと暮らしています。本日はどうぞよろしくお願い致します。

最後、大向優貴さんです。今回このパネルディスカッションにご登壇頂く予定でしたが、2020年東京パラリンピックの水泳強化指定選手に選考され、本日は合同合宿があるということで残念ながら後ほどのビデオ参加という形になりました。どうぞ、ご了承頂きたいと思います。

【司会】さて、米田さんは10年前に開催された大阪大会でもスピーカーを務められましたが、今の心境はいかがでしょうか。

【米田】前回大阪大会に参加したときから10年が経ち、そこから頸損連絡会の活動をやっていくにつれ、私自身も右左分からない状況から、皆様の支えがあったことによっていろんな経験を積んできました。学ぶことが多くありすぎて、そこからいろんな方々と出会う事ができて、自分でやるべき事を徐々にですけどいろいろと実現できたと思っています。そこから自分としては10年前よりは飛躍できていると思います。今回も大阪大会に参加する事ができて、とても嬉しく思います。皆様、よろしくお願い致します。

【司会】一方、松本さんはこうした場で自身の経験を話すということは初めてということで、緊張されていると思うのですが、今の心境はいかがでしょうか。

【松本】全国総会大阪大会の場という事で、僕みたいな者が出ていいのかという思いとちゃんと話せるかという思いですごく緊張しています。どうぞよろしくお願いします。

【司会】続いて太田さんは、先日ストーマ増設の手術を無事に終わられました。退院後に腎盂腎炎になられたということでしたが、体調は大丈夫でしょうか。

【太田】皆さんこんにちは、太田康裕と申します。3月9日ストーマの手術は無事終ったんですけど、その後、腎盂腎炎になり高熱が出ましたが、今日は体調バッチリで来ましたので、皆さんと楽しい時間を過ごせたら良いと思います。よろしくお願いします。

【司会】それでは、早速ですが本題に移りたいと思います。ズバリお伺いします。米田さんにとってのリカバリーポイントはいつだったでしょうか。

【米田】私のリカバリーポイントは、関西労災病院で入院している時に気管切開から離脱できたことが一番のリカバリーポイントやと思います。この時は本当に自分としても一歩乗り越えられた瞬間でもあり、そこから自分の生活に於いて、気持ち的にすごく楽になったことは言うまでもありません。

【司会】ただ、気管切開を離脱するには相当な覚悟がいると思いますが、その決断に影響を与えられた方はいらっしゃるんでしょうか。

【米田】当時、気管切開を離脱する提案を促したのが、主治医である土岐先生で、本当に自分が気管切開から離脱できるのか本当に半信半疑でした。当時入院患者の中で気管切開離脱をされた方がいなかった為に、本心では乗り気ではなかったという事があったんですけど、でも自分が離脱することでこれから良い事例になるのであれば、土岐先生を信じてみるのも有りだと思ったので離脱の決意をしました。そのお陰で今の自分があると思います。
そして入院中に土岐先生の紹介で、(故)池田英樹さんと出会いまして、彼は同じ人工呼吸器を使用した当時の唯一の理解者であり、私の不安であったり、これから生活するにあたり、いろんなアドバイスをしてくれた事によって本当に大切な友人でした。彼の姿を私は目標としていましたので、本当に出会えて良かったと思います。

【司会】はい、有難うございます。実は、先ほどお話がありました土岐先生が偶然にも私の主治医でした。私が知りうる限り土岐先生ほど頸髄損傷について精通されている少ない方だと思われます。土岐先生はその後、大阪急性期・総合医療センターに移られ、そこで大阪頸損連のピア・サポート開催にご尽力頂く等、今でも大変お世話になっています。
では、引き続いて松本さんにもズバリお伺いします。松本さんにとってのリカバリーポイントはいつだったでしょうか。

【松本】大阪労災病院入院中に同じ病室の方から僕でも出来るスポーツ、ツインバスケットがあると言う情報を聞いておりました。退院してから訪問リハビリの先生から車イスバスケットボール漫画「リアル」単行本を頂いて、益々したいという思いが募りました。
そこで大阪頸髄損傷者連絡会を通じて鳥屋さんにチーム見学を紹介してもらったのがきっかけです。そこでは皆さん活気があふれた練習風景を見て運動能力の凄さを見て自分もやりたいと思いました。実際に練習に参加しましたら全然ついていけませんでしたが、練習中は無の境地といいましょうか熱中して声を出してストレスを発散しました。途中、褥瘡になり長期で練習を休むようになりそれからは行かなくなりました。でも大阪頸髄損傷連絡会のイベント事やヘルパーさんに付き添ってもらっての外出は断然増えました。まさにツインバスケット練習参加きっかけがリカバリーポイントでした。

【司会】やはり、鳥屋さんとの出会いは大きかったんでしょうか。

【松本】はい。まず事故後、入院中にケースワーカーさんから頸損だよりを頂きました。入院中は気にもしませんでした。
退院後、自由な時間が増え何をしたらいいのか分からない時に頸損だよりを読んで見て何か楽しそうだなぁと思い、電話連絡したらその何日後かに事務局長をされていた鳥屋さんが自宅まで単独で来て頂きました。いろいろ話ししてる内に同い年という事が分かり親近感がわきました。話しの中でツインバスケットの話をしたらチームを紹介していただきました。あと特には当時は褥瘡もあり車イスに3時間位しか座ってられない事を話したらもっと長時間座れるようになると言われ励みになりました。それが2008年秋ぐらいの鳥屋さんとの出会いです。

【司会】はい、有難うございます。実は私のリカバリーポイントもツインバスケットボールの練習に参加したことでした。ツインバスケットボールを簡単に説明しますと、ツインという名の通り高いゴールと低いゴールがコート上にあり、高いゴールにシュートが届かない選手は低いゴールにシュートとカウントするという重度の障害があっても楽しめるスポーツですが、たまたま入院して病院に出入りしている車椅子業者さんにお誘い頂きまして、退院後に練習に参加するようになりました。
そこで同じ障害を持ちながらも生き生きと生活されているチームメイトと出会いまして、私もこれから大丈夫ではないかと自信を持った記憶が蘇ってきました。
続きまして、太田さんにとってのリカバリーポイントはいつだったでしょうか。

【太田】沢山ありますが、一番大きかったのは星ヶ丘医療センターに転院した時です。僕が転院した時は14歳で、当時星ヶ丘医療センターには新1病棟(脊損病棟)があり、全国から頸髄損傷の仲間が社会復帰をする為にリハビリを目指して集まってたんですけど、まずその病院に移った事が僕にとっては大きかったです。
そこで同じ障害を持った仲間に出会えたことで共感しあえることであったり、一人ではないんだという思いが大きかったです。当時入院している皆とOT・PT・看護師と一緒にひらかたパーク(遊園地)に行こうという企画がありました。当時障害受容ができていなかった僕は遊園地に行っても何もできないと思っていましたが、いろんな方のサポートを受ける事によって遊園地でも遊べるんだと実感しました。結局僕はジェットコースターに乗り、そこは階段があったんですが、僕を担いでくれ、僕の席の横にOTの先生が座り乗る事ができました。誰かにサポートをしてもらうことで自己実現できるんだということが僕にとっては大きかったなぁというのがあります。
もう一つ大きかったのは入院している時にOTの先生が大阪頸損連絡会の事を教えてくれました。僕は当時東大阪市に住んでいたんですけど、東大阪市に大阪頸損連絡会に入会している先輩がいてたので、一緒に行かないかと入院してる時に先生が言ってくれました。退院して地域で生活していくという事は、僕にとっては未知の世界でしたし、どうやって生活をしていけばいいのか分からない状況だったので、そうやって地域で実際に生活している先輩の家に行って話しを聞いていろんなことを教えてもらう状況を作ってもらえたというのがすごく大きかったなぁというふうに思っています。
その後、その先輩に大阪頸損連絡会に参加せえへんかと声かけをしてもらって、実際に参加して同じ志しを思った仲間と出会い、現在あるるを立ち上げた事に繋がっていますので、そうやってひとつひとつの情報をもらえたことは僕の中では大きかったです。

【司会】米田さんと松本さん太田さんのお話しをお伺いすると、リカバリーポイントにおいて今後の人生を左右する人物との出会いがいかに大切なのかが浮き彫りになってきました。
また、リカバリーポイントにおいて、心理的にクローズしている状態であれば、引っ掛かりがなく頭の上をリカバリーポイントがスルスルとすり抜けてしまうという危険があるということも理解されました。
ただ、そのリカバリーポイントを掴まずにスルーしてしまうとういう可能性もあったかと思うのですが、そのポイントまでには心理的に前向きな状態にはなっていたんでしょうか。

【米田】受傷して間が無い頃は現実を受け入れられない事が多くて、常に気持ち的には病んでいました。入院から数ヶ月後に自分の思い通りに動かない体を見ている事で、何となくこのままの状態が一生続くと思っていたり、心のどこかではいつかは元の体に戻るのではないかと信じていました。
そこから約半年が経ち、転院することになりまして、そこから出会ったのが土岐先生であったんで、その辺りから気管切開離脱も無事に終りましたし、池田さんにも出会いました。
在宅に戻ってから1年半以上過ぎた辺りから、この体でも何か出来ることは有るのではないかと思っていたところ、土岐先生の紹介で頸損連絡会の存在を知り、紹介から頸損の先輩方の生き生きとした社会参加している姿に影響されまして、自分も一緒に活動したいと思った事から、前向きな気持ちが芽生え入会に至りました。

【司会】では、松本さんよろしくお願いします。

【松本】僕の場合、障害受容はリカバリーポイントを過ぎてからです。退院後、計5回転倒して一番最近では2018年1月に僕の不注意で、後ろから転倒してその時は頭を打ったのでそっちのほうが心配だったのですが、後から考えると転倒してしまったら何もできない、客観的にこの体で生きていかねばとその時障害受容したと思います。
なおかつ、自分自身が危険に対してもっと慎重にならねばと思いました。

【司会】今回のシンポジウムを企画するにあたり、米田さんと松本さんに事前資料を提出頂くんですが、すごく気になっていた点があります。
それは受傷原因です。先ほど、交通事故とお伝えしましたが、松本さんの場合、相手側が「信号無視」、「無灯火」、「盗難車」、「薬物中毒者」だったということで、私だったら自暴自棄となり、なかなか気持ちの整理が難しいかとと思うんですがいかがでしょうか。

【松本】僕は相手側の事を知ったのは記憶があいまいなんですが、大阪労災病院に整形外科病棟からリハビリ科病棟に移った事故後3ヶ月経った位でしょうか、母親から聞かされました。
その時は相手の事を恨む気持ちもありましたが、あの時間に通らなければよかったのにと思う気持ちのほうが強くてなんてタイミングが悪いんだと思いました。

【司会】つらい体験をお話頂きありがとうございます。
米田さんも交通事故の相手側が駐停車禁止地帯から出てきたトラックであったとお伺いしているのですが。

【米田】私は当時トラックドライバーをしていたんですけど、交通事故の原因は高速道路のETCを通過した右側約20メートル先の駐停車禁止地帯から無灯火のトラックが急に出て来まして、急ブレーキとハンドルを切ったのですが間に合わず、相手側の左後方部分に接触した事で運転席に挟まれ、身動きが取れない状態になり、大声で周りに助けを求めていたんですが、当時早朝で料金所は無人であり、最悪な事に非常カメラはトラックの後方で目撃者もいなかったんですが、接触した相手もその現場からおらず約一時間過ぎた頃、ようやく後続車と思うんですけど、異変に気付いた人が通報してくれ、レスキューと救急隊に救助されて病院に搬送されました。
私も松本さんと同じく、相手が悪かったのか?運が悪かったのか?と思っていますが、本音はその時に接触した相手が助けてくれなかった事が非常に残念でなりません。

【司会】米田さん、有難うございます。
何をもって障害を受容したかは難しいテーマであり、この言葉自体に違和感を感じられる方もいらっしゃると思います。今回のパネルディスカッションのテーマは「リカバリーポイント」ですが、それを向かえるにあたって非常に関係性が深い「障害受容」についてお話し頂きました。
では続きまして、私達の仲間が「リカバリーポイント」を向かえるにあたっての支援者が果たすべき役割についてお伺いしたいと思います。太田さんは日常のお仕事の中で、直接多くの障害を持っている方と関わっていますが、いかがでしょうか。

【太田】僕は自立生活センターというところで当事者として活動しています。僕自身同じ障害を持つ仲間をサポートさせてもらう事で、大事にしていることは、やっぱり寄り添って一緒に歩んでいく事がすごく大事なことやなと思います。僕自身もなかなか自分の思っている気持ちを出せなかったので、同じような方っていうのはたくさんいてると思うんです。そういった方々の声を傾聴して、一緒に歩んでいく事はすごく大事なことではないかなというふうに思います。寄り添うことの中で、楽しさであったりとか、もちろん地域で生活していく中でのしんどさを伝える役割として、僕自身がいてるのかなというふうに思っています。またその仲間に障害があっても、あなたしかできない事がたくさんあるんだよという事を伝えていきたいです。

【司会】有難うございます。米田さん、お願いします。

【米田】私の場合、家族、友人、知人、医療従事者、介護従事者、頸損連絡会の先輩方や頸損の皆さんに、やるべき事を助言していただいたり、私が人工呼吸器使用者である立場を理解していただいて、周りがサポートをしてくれる事が支援者の役割になっているのではないかと思います。

【司会】有難うございます。松本さん、お願いします。

【松本】当事者の家族、親類、友人、知人、医療従事者、介護従事者等が出来るだけその人の気持ち、考えを尊重して何をしたいのか、どうなりたいのかという事をくみ取って、またそれを導き出す為の助言をする事が、支援者が果たす役割だと僕個人が思う考えです。

【司会】有難うございます。
では、ここで先程お話させて頂きました大向さんのビデオメッセージを放映したいと思います。

《《ビデオメッセージ》》司会:赤尾
〈紹介〉大向優貴さんです。年齢は25歳で受傷歴は約6年、受傷レベルC6です。大学2回生の2012年8月出身高校のプールに飛び込み、頭部を底にぶつけ、頸髄損傷となる。1カ月急性期に入院後、回復期病棟のある病院に5カ月入院する。その後自立生活訓練センターに約1年半入所し、大学へ復学する。復学と同時に1人暮らしを始める(正確には半年ほどは大学の元同級生とルームシェアしていた)。もともと目指していた作業療法士の資格を卒業時に取得し、現在は週2回出勤しながら水泳でパラリンピックを目指している。

【赤尾】自分の中で体が動かない状態になって、どんな気分でしたか。

【大向】着替えもできないし普通に動く事もできないし座る事もしんどいし全部手伝ってもらわないとできないという状況が、なんか自分で何もできないということが不安で、これからどうなるのか考えると怖かったです。
で1ヶ月急性期の病院に入って、そこから転院して回復期病棟に5ヶ月入院して、でもまだその時はぜんぜん自分でできる事はなかったんで、もうちょっとリハビリとかしなあかんなぁということで、兵庫にある自立生活訓練センターに1年半位入所して、いろいろできるようになって、もともと施設のプログラムの中でプールがあって気にはなってたんですけど、できないだろうと思っていたし聞く気にもならなかったんですけど、そこのセラピストの人が頸損でも入ってた人がいるよと教えてくれて、友達も一緒に入ってくれると言ってくれたので入ることに。
始めは支えてもらったんですけど、始めから体は浮いていました。ですから入る前が一番怖かったです。
受傷してから2年後の2回生の後期から復学をしました。作業療法の資格を得て2017年3月に卒業しました。でも水泳もしたかったので東京パラリンピックを目指したくて、作業療法は置いといて今はアスリートとして支援してくれる企業に就職して、週2回出勤してあとは練習して過ごしています。

【赤尾】本格的にパラリンピックを目指そうと思ったのはいつですか。

【大向】それは就活の時ですね。作業療法士になれるのかどうか実習をクリアしたところではあったし、自分自身この体でどういうことができるのか分かってないし、私を受け入れてくれる情報もなかったので、それなら好きな事をしようかなと思いました。その時にちゃんと競泳でがんばろうと決めました。

【赤尾】その当時、いろんな不安な事があった中で、関わりとかこんな事があったから解消できた事は。

【大向】自立生活訓練センターに入って、同室やった女子二人も復学を控えてて、私は作業療法学科に戻るかすごく迷っていて、作業療法学科は実技や実習が多いのであえてそこに戻らなくても、大学での勉強だけで済むところにいった方が良いのではと私も思ったし、周りからもそういう道もあると言われてたので迷ってたんですけど、復学する二人も元の学科の体育学校の先生を専攻と保育士になる為の専門学校に戻ると言ってたので、それなら私も元の学科に戻れるかなと思い、その二人の影響がすごく私の中では一番大きいですね。
またその二人は私より2つ年上で受傷も2年程早かったので、先を歩いてくれているので私はすごくそれが安心して歩いていけるというか力になりました。両親の支えもすごく大きかったですね。現実的にこれから私がどうゆうふうに進んでいったらいいのかというところは、一緒に考えてくれる母でした。

【赤尾】今パラリンピックを目指している大向さんが、多くの人に伝えたいことや投げかけるメッセージなどは。

【大向】怖くて一歩踏み出せないけどついつい考えてしまうことがあったら、それはやった方がいいんじゃないかなと私は思ってて、そういったことのちょっと背中を押せる存在になったり、ハードルをちょっと下げれるようなことをできたらなぁと私は思います。

【司会】大向さんと初めてお会いしたのは府立大のOTの学生さんで健常者でした。そして、大阪頸損連の新年会開催の準備に非常に熱心に関わってくれていたんですが、頸髄を損傷し車椅子使用者になったと聞いた時ショックでした。そしてもし今度お会いした時にどのように接したらよいのか不安でした。
そんな時に駅のホームで偶然お会いしたんですが、大向さんの方から「杉本さん、お久しぶりです。お元気でしたか。」と満面の笑顔で声を掛けてくれました。
すごく安心したのと同時に大切なことを大向さんから教わりました。まさしく今回のシンポジュウムのテーマである「重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ」をまさしく実践されている方だと思います。
今後の大向さんの更なる活躍が楽しみです。

【司会】それでは最後に米田さんと松本さんと太田に今後の目標をお伺いしたいと思います。

【松本】去年の11月に福祉住環境コーディネーター2級試験を受けて、何とか合格しました。今年は1級に挑戦するつもりですが、記述試験もあり厳しいと思いますが、精一杯頑張るつもりであります。それと僕なりに障害者、高齢者の事を考えられるような住環境に限らず、社会参加出来ればしたいなと思っております。

【司会】松本さんは何か最近、趣味にはまられるとお伺いしたんですが。

【松本】カラオケです。そもそもなぜカラオケかと言いますと、僕のネット調べですが、女性からみて男性の好感度を持たれる趣味の第3位に入ってたのです。ちなみに第2位は旅行、第1位は料理でガクーンでした。
最近はカラオケに行けておりませんが、歌が上手くなりたい、また声が小さく発声を高める為に、某ミュージックスクールでボイストレーニングに月3回通っております。自分に投資ですが今では生活リズムのひとつで楽しみでもあります。

【司会】はい、有難うございます。米田さんお願いします。

【米田】人工呼吸器使用者の第一人者として、未だかつて社会参加を諦めている呼吸器使用者のためにサポートしていく活動をこれからも続けたいことと、1人でも多くの頸損当事者が、当たり前に何不自由なく生活が送れる世の中にしていく為、共に活動していけたらと思っております。

【司会】最近、海外旅行に行かれたとお伺いしましたが、大変ではなかったでしょうか。

【米田】頸損連絡会に入会し10年の節目を迎えたことで、10年前から目標にしていた海外旅行にチャレンジしました。人工呼吸器使用者の私が、チャレンジすることで、同じ人工呼吸器使用者が気軽に海外旅行に行けるきっかけ作りになればいいと思いから実行に至りました。課題は多く大変なこともあったんですけど、一つ目標を達成できたことはとても良かったと思っています。
今年は家族をハワイに連れて行くという目標があるんですけど、それをクリアしたら、次は呼吸器ユーザーが普通に暮らす街と聞いてます、先進国であるカナダ・バンクーバーにチャレンジする事を目標にしています。

【司会】はい、有難うございます。太田さんお願いします。

【太田】今回リカバリーというテーマなんですけども、リカバリーの過程の中でやっぱり自分で選択していくという事はすごく大切な事かなとゆうふうに思っています。僕自身もいろんな人と出会い、その中でいろんな事を選択して、自分自身で決めてきました。
僕は、いろんな経験を通して自分で選択してこれましたが、その選択すらできず、自分の事を決められない多くの仲間がたくさんいてると思うんです。自己選択ができない環境や社会は僕は間違っていると思っています。やっぱり自分の事は自分で決める。それは障害の有無関係なく、そういう社会を目指していく事というのは、すごく大事な事だなぁと思っています。障害がることで、我慢したり、あきらめて生活をするのではなく、障害があっても自分がしたい事、僕がジェットコースターに乗ったように自己実現できる社会を今後も作っていきたいというふうに思っています。
その為には僕自身がロードモデルとなって、長く地域で生活していく事が僕自身の役割で目標だと思っています。
あと僕が地域生活できているのは、先輩方がずっと闘ってくれたからこそ、今があると僕は思っています。先輩方が活動してきた歴史を知る事で、今の僕たちが何をしないといけないのかを知る事ができると思うんです。なのでそういう歴史を僕たちはちゃんと伝えていかないといけないと思います。
これからも頑張って皆さんで、誰もが住みやすい地域社会を作っていきましょう。

【司会】それでは、質疑応答の時間に移りたいと思います。
一つ質問をいただきましたので、皆さんにお答えいただきたいなと思います。
四肢麻痺者の自立のありようについて、どのようなかたちが望ましいか。

【米田】自立といっても何が自立っていうのが皆さんそれぞれ違うと思うんですけど、私が13年受傷してなるんですが、13年経ってもまだ一人暮らしという事は目標に掲げてはいるんですけど、実現にはまだ至っておりません。でも自分で物事を考えて実行して、それが実現できてそこから始めて自立というのか分かんないですけど、何もやらない事よりかは一つでも多くの事をやり遂げていって目標を達成していくのが自立なのかなと。

【松本】やはり自分で決めて、それを人の手を借りても実行していく。
私も今母親と二人暮らしですが、一人暮らしをなかなかできていません。
今言ったように自分自身が決めて、それを人の手を借りても実行する事、それが自立につながるのではないかと思います。

【太田】僕は自立生活を24歳の時から約16年間送ってきました。昔の自立の考え方は、「自分のことは自分でする。(ADL自立)『仕事に就いて自分の生活費は自分で稼ぐ(職業自立)』というような考えで、この事ができなければ、『自立した存在。一人前の人間。』ではないと言われていた。そのような考えの中では、重度の障害者で、いくら頑張ってもそのことができない人たちは、自立できない存在になってしまいます。
そうではなく、どんなに重度であっても自立できる存在であるし、一人の人間として誇りをもって生きる事ができる存在なんだという考えで、どんなに障害が重くても必要な配慮や援助があれば自立できる存在であるという考えです。自分がどう生きたいか、自分の生活をどう組み立てるかを自分が主体となって。自己選択・自己決定・自己責任することが自立であり、その事を達成するために介助のサポートを受ける事は権利としてあるというのが、自立という考えであると思う。障害があっても自分の事を周りが決めたりとか、自分を放ったらかしにされたりとかいう状況があると思うので、そういうのではなくて自分が主人公となって歩んでいく事がすごく大切な事ではないかなと思います。

【司会】もう一つ質問させて下さい。
受傷した当時の自分に今の自分なら、どんな言葉をかけたいですか。

【太田】当時は僕自身もできた事がいきなりできなくなってしまったという辛さがあったので、よく頑張ったねという事とその時の自分があったからこそ今の自分があるとゆうふうに思っていますので、今は障害がある自分が大好きですし、大好きにしてくれたその当時の自分にありがとうと言いたいです。

【松本】事故当時は働いていましたので、明日から収入はどうなるのか不安な気持ちでいっぱいでしたが、現在は今が良ければいいんじゃないかとそういう気持ちでおります。過去の自分に対しては、もっと病院の先生の言う事を聞いておけば良かったんじゃないかとそういう思いです。

【米田】過去の自分に、受傷した頃はほんとに精神的に参り、希望という思いはなかったですが、10年もここまでやってこられたという事と、呼吸器を付けているので外出に対しての制限であったり、機械(呼吸器)の制約であったり、そういったところで少しずつですけれど、乗り越えられたという自分に対しては頑張った事を褒めてやりたいという思いがあります。
今からの自分に対してもさらに一歩乗り越えていく事に期待も自分の事に繋がるんですが、ゆくゆくは自分のさらなる目標に対してのハードルを越えていきたいなと思います。

【司会】それでは残念ながら時間となりましたので、「さまざまな頸髄損傷者からの発信」のパネルディスカッションを終わらせて頂きたいと思います。
有難うございますした。


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