特集:2016年 頸損ピアサロン「頸損で働く人CIL(自立生活センター編)」 頸損だより2017春(No.141) 2017年3月12日発送

頸損ピアサロン
-当事者だから、伝えられることがある-

自立生活センターとは

 自立生活センターは、自立生活の理念を実現させる最も有効な手段として、サービス事業体であると同時に運動体という形態をとっています。

■経緯
 かつて障害者をたすけられるのは医者、OT、PT、カウンセラー等専門家だけだと考えられてきました。しかし1972年カリフォルニア州バークレーに障害者が運営し、障害者にサービスを提供する”自立生活センター”が設立されました。
 自立生活センターが提供するサービスを利用することにより、重度の障害があっても地域で自立して生活することが可能となりました。

■自立生活センターのシステム

  • 人材養成のお手伝い:自立生活センターで働くスタッフの養成を援助します。
  • ノウハウの提供:研修生の受け入れ、講師派遣、マニュアルの発行、研修会の開催等。

    情報交換と交流:機関紙、「情報版」の発行、委員会・交流会の開催。

注:自立生活センターが提供している個々のサービスについては、サービス別に設立された委員会を中心にノウハウの提供と情報交換が行われています。

■運動体であり事業体である歴史上初めての組織
 自立生活センターは、運営委員の過半数と事業実施責任者が障害者である、という利用者のニーズが運営の基本となるシステムを持っています。
 その理由は、能率や効率を重視するこの社会の中で、ともすれば忘れられがちなハンディをもつ人たちの権利を、組織の利益よりも優先させる方法として最も優れているからです。
 重度の障害者が暮らしやすい社会は、誰にとっても暮らしやすいわけですが、その人たちが暮らすためには良いサービスがその地域に存在している必要があります。
 しかし良いサービスは、黙っていたのではできません。その必要性のある人が行政に訴えていくこと(ニーズの顕在化)と、そのサービスを提供できる事業体をわれわれ自身の手で作り上げる方法が近道です。そしてその事業体を行政が支援することが最も効率の良い方法です。
 障害者自身がサービスの利用者から担い手に代わっていくことが、最も良い社会サービスを提供していく最良の手段であることは明らかです。
 事実、世界中で事業体としての自立生活センターがあり、運動のあるところでは、決まって最上の社会サービスが提供されています。

自立の理念

■自立(生活)ってなに?
 自分で立つこと?
 じゃなくて、自分で洋服をきたりトイレができること?
 それとも、自分で自分のご飯を食べるお金を稼ぐこと??
 誰にも頼らず、1人で生きていくこと???
 いいえ、車イスを利用して移動したって、介助者をつかって服を着替えてもいいんです。年金で生活するのも、必要なサービスを受給して地域で生活することも、ちゃんとした権利です。
 1人で生きるなんて、そもそも無理な話です。朝食べたパンの原材料の小麦は誰かがつくったものですし、電気をつかってパソコンがつかえるのは電力会社があるからです。生まれたときから、誰でも自分以外の人とかかわりながら生きています。

■私たちが考える自立(生活)とは・・・
 1人の人間として、その存在を認められることです。
 それは、ばかにされたり、いないものとして扱われるのでもなければ、守るべき者やヒーローとされることでもありません。自分の人生においてあらゆる事柄を選択し、自分の人生をじぶんなりにいきていくことです。
 自立生活とは、どんなに重度の障害があっても、その人生において自ら決定することを最大限尊重されることです。選択をするためには選択肢の良い点・悪い点を知らされ、あるていど経験も必要です。一部を選択したり全てを選択しないという選択もあります。
自立生活とは、危険を冒す権利と決定したことに責任を負える人生の主体者であることを周りの人たちが認めること。また、哀れみではなく福祉サービスの雇用者・消費者として援助を受けて生きていく権利を認めていくことです。
 基本的には、施設や親の庇護の元での生活という不自由な形ではなく、ごく当たり前のことが当たり前にでき、その人が望む場所で、望むサービスを受け、普通の人生を暮らしていくことです。
<世界初の障害者情報誌『リハビリテーションギャゼット』より>
 「自立(生活)とは、どこに住むか、いかに住むか、どうやって自分の生活をまかなうか、を選択する自由をいう。それは自分が選んだ地域で生活することであり、ルームメートを持つか一人暮らしをするか自分で決めることであり、自分の生活 
日々の暮らし、食べ物、娯楽、趣味、悪事、善行、友人等々
 すべてを自分の決断と責任でやっていくことであり、危険を冒したり、誤ちを犯す自由であり、自立した生活をすることによって、自立生活を学ぶ自由でもある。」

■自立生活運動ってなに?
 自立生活運動とは、障害当事者自身によって、障害者が地域で生活をするために必要な制度や社会の意識を新しくつくりかえることです。それは、制度的に介助を保障することだったり、道路や建物をバリアフリー化することだったり、障害者への差別や偏見をなくすことだったりします。
 また、障害者ひとりひとりが、 障害を理由に奪われていた経験を取り戻し、自分にもともとある力に気づいていく過程でもあります。
 自立生活運動は、1960年代アメリカで「障害者にもみんなと同じ権利を」と、障害者が声を上げたことからはじまりました。

※ JIL 全国自立生活センター協議会 ホームページより抜粋( http://www.j-il.jp/ )

   

●CIL豊中:徳山 辰浩さん

 1978年で今から38年前に中学3年生の時、プールの飛び込み事故により頸髄損傷(C5)になりました。事故直後そのまま救急病院に運ばれた先では対処ができないという事で、市立豊中病院で2・3日後に手術、その後1週間程で星ヶ丘厚生年金病院(星ヶ丘医療センター)に転院し、また関西労災病院に転院し約3年間入院していました。
 今では長期入院は考えられないと思いますけど、この頃は長期入院ができ、ちょっと気が遠くなりましたけど3年間リハビリしながら、今後どうしたらいいのかという感じで入院していて、母親は3年間ずっと私に付きっきりでした。その間弟と妹は親戚の家に預けられていました。
 3年が経ち退院。自宅は一軒家ですけど、坂に建っていて門から玄関に急な階段が12段位ありスロープ設置は無理で、そのころエレベーターはあまりいいものが無く設置断念で、仕方なくこの状態で家に帰りました。
 その頃の外出は2か月に1回程度、親父の友達が2人位来てくれて、抱えて階段を下りて出かけるという感じで、それが唯一のストレス発散になっていまして、そういう生活が続いました。

 CILに出会うまでの10年位は、当時流行っていたゲームをずっとしていました。そうこうしている時に1990年に豊中市障害福祉センターひまわりが開設されました。ひまわりというのは総合センターみたいな感じで、障害の人が集まって色々活動してくださいという場です。ここから出てこないかと声かけてもらいましたが、通うのが大変なことを相談したら送迎してくれるということで、家まで介護員さん2人位来てくれて、ベッドから玄関先の階段降ろしまでしてもらって、送迎付きで週1回パソコン講座に通うことになりました。それまで滅多に外出できなかったので、非常に嬉しく凄い気分転換になりました。
 ここに通っている間に、CILを立ち上げたOさんに出会いました(ご逝去されています)。その方は脳性まひでも走ることができていたらしいのですが、スポーツ事故で頸髄も損傷し脳性まひで頸髄損傷になりましたが、電動車イスに乗って自分は一人暮らしをしていること、それの為に介護者を集める事も含めてCILを作ったということを聞いて、そういうところがあることをそこではじめて知りました。その頃は親が介護できなくなったら施設に行くしかないなと漠然と思っていたのですが、そういう道があるのかということで色々考えはじめました。

 ひまわりで色々話しをしていくうちに、Oさんに誘われて一緒に色々やらないかということでCILの活動に参加するようになり、研修会などしていました。その頃は日本CIL系が次々にできていく初めの頃だったのです。そういうことで全国各地、大阪でも外国のCILの先輩方を呼んでシンポジウムなど盛んに開かれていて、活動の記事を書いたりしながらいろんな勉強もでき、知識も増えていきました。そうこうしているうちに、ある運営委員会の役員会に入ってくれないかということで、本格的に活動に加わるようになっていきました。
 色々活動している間、ほぼ母親が介護をしていました。それまでショートステイも行ったことないし、母親が風邪を引こうが体調悪くても介護してくれたので、大きな褥そうもできたことが無いので、母親には感謝しています。ただ受傷から20年超えると母親も疲れが溜まり、いろいろ衝突もおきて、そろそろ母親を解放しないと申し訳ないと考え、1999年に豊中市の市営住宅の車イス住宅、しかも単身用がこの時初めて募集があったので、駄目もとでハガキを出したところいきなり当たってしまいました。
 その時は覚悟がなかったのですが、そこでお尻に火がついて、福祉公社から1日1回、家事援中心に来てもらいました。覚悟を決めて自立支援援助センター中にILPルーム(自立生活体験室)があり、それはこれから一人暮らしする人達の練習する部屋があったので、急遽1週間泊まることにしました。介助の人も組んでもらって、人から介護うけて暮らす練習を1週間集中的にしました。そういうことをして引っ越しをした時は、福祉公社のチーフさんが非常に障害に理解のある人で、実家にいた時とは比べものにならない位のサービスがいるので一生懸命組んでくれました。
 今でこそCIL系は普通にヘルパー派遣していますけれど、その頃はまだ民間事業所が出来る時代ではなかったので、行政が認めた福祉公社や社協しか派遣できなかったのです。しかし援助センターはある程度介助派遣の実績があったので、いわゆる自薦枠で援助センターに委託していて、その枠を使って福祉公社のヘルパーさんと自前の援助センターのヘルパーさんで毎日援助を組んで一人暮らしをはじめました。最初の1週間位はいきなり親元から離れて一人なので、ちょっと不安はありましたけれど、1週間過ぎたら大体慣れてきました。母親はすごく心配していましたが、1週間位経ったらだんだん安心して、1ヶ月後にはよく一人暮らししてくれたと言ってくれたその言葉が一番嬉しかったです。

 月日が経ち、今までは措置制度で援助センターがヘルパー派遣していましたが、2003年から構造改革で支援費制度が始まり、いわゆる民間も福祉サービスしてもいいということで、この時も大分大騒ぎで各地でいろんな勉強会もおこないました。
 それまではヘルパーさんは資格が絶対必要ではなかったのですが、この支援費制度になったらヘルパーさんの資格も必須になるということ、これをやろうとしたら一応原則法人格がいるので任意団体のままでは駄目ということで、この頃にNPO法ができ一般的な民間の任意団体系も法人を取得しやすくなったのです。それも含めて法人格を取得して2002年にNPO法人CIL豊中として援助センターを再スタートしました。これがきっかけで僕が代表に就任にしました。

 実際どういう活動をしているかですが大きく分けて、ヘルパーステーション・訪問看護ステーションと豊中市障害者自立支援センター(相談支援部門)と障害児通所支援「ボーイズ&ガールズ」活動しています。障害者の通所施設は今でこそ増えています。重症児の医療的ケアがいるような子供たちが、受け入れる所がなかなかなかったので、いろいろ地域から相談があり、受け入れる児童のデイサービスを約5年前に始めました。また特徴としてはCIL系では珍しく訪問看護ステーションもしています。
 現在は利用者によって様々ですが、一人暮らしをしていて24時間365日のサポートが必要な人達などのヘルパー派遣もしています。

 僕は代表という立場なので、仕事している時間していない時間の境界は非常に曖昧です。体力的な事もあって事務所に出勤するのは基本的に週3回にしています。それ以外は家にいますが、いろんな相談ごとや書類作成していますのでいつも仕事しています。忙しいけれど仕事させてもらい、少しでも社会貢献できて充実した生活できていることに感謝しています。

 最後に困っていることは53歳になり年齢的に体力がなくなってきました。昔は風邪を引いても1日で熱が下がり大丈夫だったのが、最近熱はそんなに続かないのですが、痰が絡んで呼吸困難になりやすく、風邪を引くのが怖い状態に。痰は自分の力で出せないので困っています。
 後は仕事に関して、制度が年々複雑になっているので現在の運営で精一杯で余裕がなくなっています。今後僕が運営をできなくなった時、後を継いでくれる若い人はいるのですが、育成に関してはそれも難しいところで、時間を取って一緒にいろいろ動いたり、教えていければいいのですが、そうゆう時間も体力もなくなってきているので、これがちょっと今の悩みです。

●CIL八尾:阪本 美津雄さん

 受傷したのは1973年の3月で、22歳の春に交通事故で頸損(C6・7)になり43年が過ぎました。救急車で運ばれた病院はT日赤でした。ここで1ヶ月ほど入院した後、4月にK病院に転院して、そこで1976年9月末まで入院生活を送っていました。
 そこで知ったのが頸損は治らない怪我で一生後遺症が残る。受傷時から排尿や排便もできない、寝返りもできない、褥そうはできる感じで正直それ受け入れる事ができなくて、やる気なかった生活をしていました。
 入院した年、新たに2人の頸損の患者が入院してきました。3人はすぐにうち解け合い、人前では冷静を装っていましたが、3人だけになると全く違っていました。お互い本音で話し合い、涙を流し、嘆き合い、本気で死のうと思ったこともありました。3人の計画は、「一人で屋上まで行けるよう、お互い車いすの練習をしよう」「屋上に行けたら3人で飛び降りよう」と。そして3人が屋上に行った時、そこには高いフェンスがあり、到底登りきれない物を見て、「俺たちは死ぬことも出来ない」と、涙を流しました。今考えると笑い話のようですが当時は本気でした。
 今でも3人は連絡を取っていて、時々会える仲の良い友達です。

 入院中、主治医は慣れる為に車イスに乗りなさいと言うのですが、移乗は看護師と助手の方に頼っていました。自分はその頃から体は大きく重たいので、移乗については看護師さんが一番しんどかったと思うのです。そのしんどさを露骨に口に表されて「あーしんどいな、忙しいのに」「医者は言うだけで、私らの身になってもらわないと」「腰でも悪くしたらどうするの」と本気で言われたことがありました。それがやっぱり耳に残って、車イスに乗っても楽しくないし、リハビリにも力入る訳ないのでずっとそんな感じでいていました。また夜の体位交換の時にも「忙しい」「重たい」「しんどいと言う言葉を平気で言う方がいたので、その言葉がずっと耳に残って、退院しても皆に迷惑かかるのなら車イスに乗らない、外に出ないみたいな感じに思っていました。

 障害受容することもなく、1976年の9月に退院しました。退院後は私と両親との3人暮らしで、世話をする両親は2・3時間ごとの体位交換、洗面、食事、排尿、排便等、休む暇もない生活が続き、自分は何で俺だけが、俺が何をした、こんな生活やめたいと思っていました。本当は自分よりも両親の方が辛かったと思うけど、その頃は自分勝手な生活でした。両親以外に兄夫婦に入浴の世話だけは頼んでいました。
 ところが在宅生活から15年位経った時、母親が突然「ちょっと体調悪いから病院行ってくるわ」と言ってそのまま入院しました。癌だったので手術をしましたが、入退院の繰り返しで3年足らずで亡くなりました。母親が入院してからは父親では介護ができないってことで、身内(兄弟)の家に引っ越しました。身内の嫁さんの世話になりながら、父親は家と病院を行ったり来たりみたいな感じで、それまで摘便は母親がずっとやっていましたが、自分には姉も2人いたので、ぶっつけ本番で挑戦してくれました。身内(兄弟)の家では5年位お世話になったが不具合がおき、このままでは限界がくると家族が判断し、あっちこっちに相談に行き、1996年に一人の保健師さんが訪ねて来てくれました。

 以前でしたら保健師さんでも心を開くことは無かったと思うのですが、受傷して20年位経って少しは自分も変わっていたと思います。保健師さんの話を聞くことができました。
 保健師さんに障害を持ってから今に至るまでのことなどいっぱい聞いてくれた後、今一番困っていることから解決しましょうという事で、入浴と排便の処理から片付ける事になり、訪問看護と訪問ヘルパーの手続きを保健師さんが全部やってくれて、身内(兄弟)夫婦はちょっと楽になったと思います。
 保健師が2週間に1回訪ねてくる度に、愚痴を聞いてくれたり、世間話など色んな話するようになりました。秋になって気候もよくなった頃、外に出ようかと誘われましたが、車イス移乗は大変ですとか、車イス長年乗ってないので錆び付いて使えないとか言いながら、出たくなかったので断っていました。でもむこうは引く事もなく次回の訪問時には、車イスとガイドヘルパーとボランティアの男の人2人連れて来て、そこまでされたら自分も観念して嫌々って感じで車イスに乗って庭におりました。庭に出ると眩しく、しばらく目を開ける事できなくて慣れてくるまでかなりかかりました。それから家の近所を退院してから20年ぶりに散歩しました。
 自分が育った町だけどどことなく違う感じで、狭い道まで道路が舗装されてたり、車がやたらと大きく見え、エンジンのすごい騒音や排気ガスが嫌な臭いだと思わなかった。自分は18歳から22歳までガソリンスタンドで働き、これらの臭いや音のなかで仕事をした者としては大変な驚きでした。帰宅後もボランティアさんとガイドさんの介助でベッドに上がり、お礼を言って帰っていただきました。
 それから2週間に1回のペースで外に出るようになりました。ガイドさんと保健師さんと自分と3人で街をぶらぶらしながら色んな事も話しました。そうしているうちに暗かった心も軽くなってきて、今考えたらこれってカウンセリングみたいなことやってくれていたのだと、その当時は分からなかったけど、今思えば分かりました。

 それから外に出るようになったのですが、1997年の1月に父親が倒れ入院することになり、家族がまた忙しくなり、保健師さんと相談して、しばらくの間はリハビリ病院へ入院しました。リハビリ病院だから慣れているだろうと、そしてその病院からリハの先生が訪問に来てくれているので大丈夫と思ったのが大間違い。頸損のことなど病棟の看護師や助手は全く知らないし、自律神経過反射も分かっていないままでした。
 しばらくして4月に父親も亡くなりました。葬式のため3日間外泊し、病院に帰るとき身内(兄弟)が「家が落ち着いたら迎えに行く」と話を聞いて病院に帰った。が、1ヶ月たっても迎えは来なかった。なんかおかしいと思っていたら兄弟間でもめていまして、長男家族とは疎遠になってしまい、身内(兄弟)が1ヶ月以上たってから病院に来た時「俺たち夫婦を介護から解放してくれ、もう疲れた」「他の方法で支援する」と、いつかそんな日が来ると思っていたけど急に来てしまいました。
 相談するにはその当時は保健師さんしかいないので、保健師さんに現状を話したら施設に入るかと勧められました。自分は施設に入ったことないけど、それだけは嫌だったので、どんなに苦しい事があるか分からないけど一人暮らしをしてみることに。保健師も応援しくれて、それからリハビリ病院に入院中も大きく変わりました。それまではいつか迎えに来てくれる感じでしたが、そうではなく一人暮らしを目指しリハビリをやってきました。

 その入院中には色んな事がありました。一番苦しんだ事はカテーテルの管理がうまくいかず、血圧が上がって汗が出ても分かってくれない。血圧上がって汗が出るのなら血圧を下げる薬飲みましょうと。そういう事ではなく、今尿が詰まっているはずだから見てと言っても、医者や看護師はウロバックを見て、ちゃんと尿は溜まっている、だから流れている。そうではなく今自分はこんなに苦しいと言っても分かってもらえなくて、結局は血圧降下剤だけが出て苦しむばかり。あまりにも汗が大量に出るから看護師と助手が清拭と下着交換をしてくれ、体を動かしている時に偶然にも尿が流れたようで血圧が下がったのですが、看護師たちは気づいてくれず、ずっと悔しい思いをしていたのです
 ある時リハビリ病院の本院に新しい泌尿器科の先生が赴任したから、相談してみたらという事になり、入院中のことを色々話したら、なんとその先生は謝ってくれて、ここの病棟の看護師は頸損のことや排尿障害のことは知らないようだから、私が看護師を集めて勉強会をすると約束してくれた。
 それから入院中にもう一度血圧が上がったことがあったが、その時はすぐカテーテルを交換し、尿の流れと血圧が下がったのを確認したのち、泌尿器科の先生に報告。これまでとは違う対応を経験しました。それからは泌尿器科の先生は何かあった時は相談にまで来てくれました。

 退院する少し前に看護師が相談に来た事がありました。今17歳の青年で頸損の患者がいる。本人は夜遅くまでテレビを見て昼前まで寝ている。リハビリもあまりしないし、こっちの言うことも聞いてくれない。お母さんが付きっ切りで世話してるけど、この子を治してくれ、リハビリで治るのですか?と言われ困っている、どうしたら良いのか分からないと僕に言ってきて、どう答えようか考えて逆に看護師さんに質問しました。「看護師さん、今日仕事の帰り事故にあって頸損になり、歩くことも立つことも座ることも一人では出来ない。痛みや熱いとか冷たいも感じない。自分で排尿や排便できず、それが一生続く。そうなったらどうする?」って聞いたら、看護師は「そんなの嫌、考えらない。それやったら死んだ方がまし」と答えました。自分は看護師に「あなたが今言った死んだ方がまし、の状態にその子はいる。自分もつい最近までそういう状態で、今は一人暮らしをするという目標が出来たから、明るく振る舞っているように見えるけど不安もある。ここまで来るのに20年以上かかったのに」と言うと、看護師は「そんなに待てない。どうしよう?」と。自分は「その親子に必要なのは、話を聞いてあげる心のリハビリが必要では」と言うと、看護師は「難しいなぁ~」と言って去りました。

 そして1998年の3月20日に退院し、その日からぶっつけ本番で一人暮らしをスタート。保健師さんは事前にホームヘルプ、訪問看護、給食、ガイドヘルプ、訪問リハ等のサービスが使えるよう,市や事業所との交渉を一手に引き受けてくれたので、退院した日からサービスが使えました。一人暮らしをして3ヶ月位たった頃、ある障害をもったH氏から電話あり、地域で一人暮らしをしたいと言う夢を持った障害者が集まって勉強会のようなことをやっているが、みんな実感が湧かないので、今の生活やどんな制度を使っているのか?ヘルパーさんのことや困ったこと等を話してくれないかと言われてその会で話をしました。
 その時は6人位車イスの方がいまして、色々な事など聞いてきて、八尾市は一人暮らしの方少ないけど、大阪市内はたくさんいて障害者を支援するとこもあるよって感じで、見学に行こうということになり、その年の夏位に行った所がピア大阪でした。
 そこで頸損連絡会の事も知ったし、障害もった方がそこで働いている事や、こんな事もあるのを知り、自分や皆にとって障害者が働いている事がものすごく新鮮で、八尾でもできないかなって感じで、その後もピア大阪以外に、徳山さんがいる豊中の方にも見学させて頂きました。いくつかのセンターを回った時に、八尾でもできたらいいなって感じで、その勉強会がその時から自立生活センター準備会になり、1999年8月1日に自立生活センターやおを設立しました。

 自分は一人暮らしするまで25年もかかりましたが、今までの経験が何かの役に立つのなら自立生活センターで働いていくのもいいかなという感じで係わってきました。
 それまで全く外出する事がなかったけど、今では月に20日位出かけるのが当たり前になっています。力不足ですけど仕事している事は、励みになるし生きていく活力にもなったと思います。また個人的な事ですが、今まで自分を引っ張ってくれた方が2年前に亡くなり、相談相手がいなくなった辛い事もありました。

 働いていると理想と現実の違いは出てくるもので、思ったよりもする人の支援が少なかったり、一生懸命やってもなんか空回りしているのか?また人手不足もありましたが、その間やっている事業はそれまでの相談支援だけでなく、介護派遣もやるようになりましたし、2013年からはグループホームも始めました。できたら2つ目を作りたいと思っていますが、ニーズはあるのです。でもスタッフやヘルパーさんの人数不足もあり、また若い当事者もなかなか出てこないって感じです。それって自分達に魅力がないのかと思ったり、自分達が楽しい生活をしているところを見せてないのか、もしかしたら自分達が普段気付かないしんどい生活を見せていて、そんな姿を見せていたらこんな事をするのが嫌で、若い人が入ってこないのかと色々考えたりして、最初の頃はがむしゃらに活動していたけど、続けていく事はしんどいと最近はつくづく思います。
 でも自分は25年間の事は多分役立っていると思っています。今、まだ閉じこもっている方に対しては、閉じこもりしないで出ておいでという感じで、この仕事をずっと続けています。
   

●CILあるる:太田 康裕さん

 僕が頸髄損傷の障がいをもったのは1990年今から26年前です。中学生で13歳の時に学校のプールの飛び込みで、首の骨を折って頸髄損傷という障害をもちました。
 緊急で八尾徳洲会病院に運ばれ1年2ヶ月、その後星ヶ丘厚生年金病院(星ヶ丘医療センター)に転院し約1年2ヶ月の入院生活を送りました。

 僕が受傷した時の心境というところで、僕自身飛び込んだ時意識はあったのですが飛び込んだ際にもう首の骨を折っているので、全く体が動かない状態でした。動かない状況のまま救急車で運ばれ、その時は頸髄損傷という障がいも分からなかったし、自分に何が起きたのかも分からなかったので、また元の生活に戻れると思っていましたけど、一向に自分の体が動かない、主治医からは元の生活には戻れない、一生車イス生活していくことを言われました。そう言われた時は正直やっぱりショックでした。「自分が何をしたんや」「自分がこんな事になるなんて又「この先の車イス生活ってなんやろう
って感じで凄く自分を否定していました。今まで出来ていた事が出来なくなる、障がい受容はこの時期もてなかったです。
 そういう時期もあったけど星ヶ丘に転院することになりまして、その当時星ヶ丘は頸髄損傷の病棟がありまして、そこで全国から集まって社会復帰を目指すというような形で凄くリハビリに特化した所でした。僕もそこでリハビリをして社会復帰を目指していこうという形になりました。前の八尾徳洲会病院では頸損の方が1人しかいなくて、僕も個室にずっとこもっていたので人と触れ合うことが全くありませんでした。ただ星ヶ丘に転院したことによって、たくさんの同じ障がいを持つ仲間に出会い、そこで同じ苦しい事であったり楽しい事であったり共感する事が多々ありました。なので星ヶ丘に転院した事は僕のなかではとても大きかったです。
 あと入院している時に、ひらかたパークに皆(そこに入院している人PT、OT、看護師)で行って遊ぼうという企画がありました。僕のなかでは障がい受容も何もできてなかったのですがとりあえずいやいや参加しました。
 そこで「太田君何乗るって感じになりました。どうやって乗るのみたいな感じになったのですけど、サポート受けながらレッドファルコン(ジェットコースター)に乗り、めちゃめちゃ怖い思いをしました。何が怖いかというと頸損なので息がしにくい。例えるなら扇風機を顔面にあてられ、息がずっとできない状態が何分間も続く感じです。怖かった印象は残っていますけど、誰かのサポート受けながらジェットコースターに乗ったり、色んな事を経験させてもらったことは、僕のなかでは凄く大きかったと思います。
 星ヶ丘に入院している間にいろんな経験とか仲間と出会うことによって、障がい受容が少しずつできるようになりました。

 次にまた壁にぶつかることになります。それは何かというと退院してからの在宅生活で、病院と在宅の違いは僕の中では凄く大きかったです。病院では熱が出たり、何か分からないことが起きたら看護師とかいろんな人がサポートしてくれますけど、在宅では自分で何とかしなくてはいけない、また家族のサポート受けながら何とかしていかなくてはというような状況で精一杯でした。地域在宅に戻っても行く所がまずなかったことがあります。
 学校に1年間戻ったのですが、たまに学校に行く・たまに病院に行く・たまに友達が来て遊びに行くという感じで外に出る機会もなかったし、何処にいったらいいのか、また自分が車イス生活になって地域に出てみると、やっぱり障がい者に対する色んな偏見であったり、差別であったりと目の当たりにすることによって、自分自身を責めるようになっていきました。そういうような状況が約8年間位続きました。

 大阪頸髄損傷者連絡会(頸損連絡会)に参加したことが、僕の中ですごく大きな転機となりました。入院中に頸損連絡会は知っていました。OTの先生に同じ障害を持った人達が集まっている団体があるので行ってみないかと勧められ、1回行ってそこで東大阪市にいた頸損の方と知り合い、その先輩は僕が退院したこと聞いて、こういう行事があるから出かけてみないかと、何度か僕の家に来てくれたり電話を掛けてくれました。僕はその時期は外に出るのも嫌だったので何か理由をつけては断っていたのですが、その先輩が粘り強く僕のサポートしてくれたのが大きかったです。
 その後、頸損連絡会の企画があるから行ってみないかってことで行ったのが、電動車イス試乗会で、この時に初めて電動車イスに乗りました。これまでは手動車イスで母親に押してもらい外に出ていたのですが、母親に押してもらっている事が恥ずかしさみたいなものもあったりして、電動車イスに乗ることによって自分で運転して外出できるし、行動範囲が広がっていくことが分かりました。
 その後、いろいろ頸損連絡会のイベントに参加したりしました。この時僕はもう電動車イス乗って一人で出ていくようになりました。少しずつ頸損連絡会に出会うことによって外出機会が増えていく事になります。

 頸損連絡会に出会って外出機会が増えていった事は大きかったです。あと頸損連絡会で知り合った仲間で、今のあるるを立ち上げようという話になりました。まず自立生活センターというのはどういうものか、僕は全然知らなかったのです。ただ頸損連絡会の役員会メンバーの中には、CILで働いている方もいるような話が出てきたので、僕も役員会に参加する事によっていろいろ学ばせてもらえたと思います。
 そこで自分らも自立生活センターで自分たちの声を発信できる所を作っていこうということで今に至ります。なのでこの頸損連絡会の人達と出会わなかったら、今のあるるはないと思います。社会参加することで人との出会いは凄く大きな事だと思いました。

 自立生活センターを知って色んな事を学んでいくのですが、表面的な事しか分からなかったので、自分達でいろんな事をやりにいこうということで、自立生活センターについて、運動の歴史・運営・理念とサービスなど以前に活動していた先輩達の話を聞き学び、僕自身知ることによって、今ではバリアフリー制度もありますけど、それが当たり前にできたのではないというようなところまで僕自身知れて、先輩達の頑張ってきたところを引き継いでやっていかないと思いました。
 後は自立生活センターで研修・ネットワーク作りで、その当時から大阪でも自立生活センターがある「ぱあとなぁ」や色んな自立生活センターに行かしていただいて、色んな研修やノウハウを学ばせてもらい活動をしてきました。
 後は自分達で勉強会もやってきました。制度の事やアメリカのADLの事や生活保護など、自分が興味あるようなテーマを考えてプレゼンして、それについて皆で考えていくような取り組みをしたり、会議運営で自分達でレジメを作って議事録を作ったり、又プレゼンする能力をつけたりと、そういう会議をして色んな事を学んでいくような取り組みをしてきました。
 後は立ち上げ準備として介助者・ボランティア募集です。介助者・ボランティア集めで自立生活センターは地域で自立生活を送る事が大前提だと思うので、地域で暮らしていく為には介助者は必要ですし、又ボランティアも凄く大事なところだと思います。

 やっぱり介助者という所で、公的なサービスは確立された部分が大きいので柔軟性がなく、使いたくても使えない様な色んな課題はあると思います。そこでボランティアで確立されてない部分を活用しながら色んなサービスを取り組みに使っていく(継続性はないかと思いますが)ことは凄く大事なことだと思います。

 仲間作りとかアウトリーチ活動で、なかなか外に出たくても出られない仲間も沢山いました。そうゆう仲間に手を差し伸べてサポートする、又色んな仲間とも出会うような形で遊びを通してやっていく為に、しゃかりきサークルを作りました。15年位前にはしゃかりきサークルの運営メンバーで頸損連の新年会を担当したり、ビアガーデンに行ったり忘年会もしたり、自立生活センターに出会うことによって楽しさが増え、いろいろサークル活動してきました。
 その自立生活センターあるるを立ち上げると同時に、僕も一人暮らしをしていこうという思いもでてきました。その時に色んな介助者さんを利用していかないといけないので、それに慣れていく為に初めて知り合った人達に自分のして欲しいサポートや関係性作りをしていく為に、舞洲で初介助者と泊まり企画を考えてやりました。そういうような事を経て2001年に自立生活センターあるるを設立することができました。

 現在あるるのNPO法人の中に、自立生活センターあるると介助派遣をしているヘルパーセンターあるると日中活動の生活介護をしている作業所あるくるがあります。2012年には大阪市から委託され3障害難病も含めた相談窓口として活動している、都島区障害者相談支援センターもしています。こういうような内容で日々あるるで送っています。

 僕がなぜ自立生活をしていきたいかというところに繋がってくるのですけど、施設で生活したくない、自由のない我慢した生活ではなくて、CILの理念にある自分らしいイキイキとした生活をしていきたいというふうに思えたのと、自分が自立することによってロールモデルとなって仲間を応援していきたい、これは頸損連絡会の仲間やCILの知り合った仲間を通して障がい受容や楽しく生活していけることを知ったことが大きく、後は介助をずっと母親にしてもらっていたのですけど、母親にずっと介助してもらうことによって色んな感情が芽生えてきます。自分も自分らしい人生があるように母親も母親の人生がある訳なので、僕自身が自立生活を始めて母親が生きているうちに安心させたかったという思いもあって2002年に自立生活を始めました。

 そこで自立生活の準備で自分の介助マニュアル作ったり、調理をする経験であったり、体験宿泊をしたりというようなプログラムを進めてきました。
 自立生活センターの中でピアカウンセリングやILP(自立生活プログラム)や権利擁護や介助派遣など色んな事業内容があるのですけど、自立生活プログラムであるるがどういうことをやっているのかですが、実際に取り組みをしている一例ですが、施設生活を40年送っていた方で、その方は調理をする機会や買い物する機会や他人とコミュニケーションとる機会がないので、自立生活を目指す仲間と一緒に活動する事によって色んな共有を得て、1人じゃないという思いに繋がるように取り組みをしています。
 また自立生活体験室があるるにはあります。施設に入所していた人や家族さんと住んでいる人が、いきなり地域で自立生活が送れるかっていうと、なかなか難しい部分あると思うのです。色んな経験を奪われてきたということもあると思うので、経験を取り戻す為にワンルームマンションの一室に最低限必要な生活品を揃えて、ここで2泊3日なり1週間なり過ごして、自分のどういうところに介助が必要か、又自分のどういうところに工夫が必要かなど介助の時間の使い方とか色んな取り組みをして、ノウハウを身に付ける場になっています。体験宿泊に向けて目標設定をして取り組むというような形をあるるでは行っています。
 あと地域移行について施設から地域移行、在宅から自立生活を応援する事で自分らしい生活、人生を送る仲間を生みだすこと、誰もが排除されない社会を作り出すとことは自立生活センターでは凄く大事だと思います。
 人間は人間らしく生きる権利で生まれながら持っている権利がありますから、障がいがあることによってその権利が奪われていること沢山あると思うのです。又その権利や色んな選択も奪われることは多々あります。人生で買い物、食べ物、着る物、余暇活動、教育、結婚、どこに住むか、自分がどのように生活をしたいのかというような所は、誰もが選択できて選べる権利だと思います。ただそういった権利が家族の都合や親の都合、又危ないからしてはいけないというようなことで、奪われることは多々あると思うのです。そういうことを一緒に取り戻す作業をしていくのが自立生活センターとしては凄く大事だと思います。

 自立生活センターとは当事者主体で当事者が当事者のサポートをしていくところです。障がいでないとできない事も沢山あると思うので、僕達はやっぱりそこを大事にしながら色んな事を取り組んでいく事によって、今ある社会を変えていく事ができるのかなと思います。そういった社会を変えていく為には、地域移行にも繋がるのですけど、自立生活をする仲間を生み出す事によって、地域でも当たり前に障がい者がいると思わす事は凄く大事で、そうすることによって障がいを持った仲間も自分が持っている力を発揮できるのかなと思います。
 そういう取り組みで障がい者の視点から社会を変えていくことで、バリアフリーの運動も凄く大事で、先ほど障がい者の運動の話をしましたが、今地下鉄のエレベーターも当たり前に設置されていますがそうではなくて、先輩達が自分達も電車に乗りたい、自由に活動できるようにしたいということで、初めて喜連瓜破でエレベーターが設置できました。なので今エレベーターがある事によって、車イスの人だけじゃなくてベビーカーの人や年寄、足悪い人にも活用されているので、運動することによって障がい者だけでなく、誰もが住みやすい社会を作っていく事は自立生活センターとしても凄く大事な事だと思います。
 あるるとして大事にしていきたいと思っていることは、誰かがやってくれるという思いとは違い、やっぱり自分達の手でより良いサービスや生活しやすい環境を作っていく事が凄く大事だと思います。そうすることによって自分の人生を自分で選び、自分で決めて自分で責任をとる、自分の好きな時に好きな事ができる喜びが味わえるのかと思います。

 最後に自立生活センターの理念としては、どんな重度な障がいがあっても自分らしく自由に生きていける社会を僕達が目指していく所と思います。まだ施設や病院等における不当な処遇など人権侵害であったり、就労における差別や入店拒否など沢山課題はあると思います。そういった課題に対して僕達は、当事者の立場から声を伝えていく事は凄く大事な事と思います。そうすることによって「自分の人生の主人公は自分自身である」こと、障がいがあっても地域で自分らしい生活が送れること、仲間の為とか色んな思いはあると思いますが、やっぱり自分の為でもあると思います。そういった意味でも自分達の声を掲げてやっていく事は凄く大事な事と思います。


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