2018年 全国頸髄損傷者連絡会 大阪大会 1.シンポジウム 講演・パネルディスカッション 「頸髄損傷者の人生を回復してきた道のり」≪第1部≫ 重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ 頸損だより2018秋冬合併号(No.147・148)
頸損だより2018秋冬合併号(No.147・148)
2018年 全国頸髄損傷者連絡会 大阪大会
頸髄損傷者の人生を回復してきた道のり
~重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ~
1.シンポジウム 講演・パネルディスカッション
「頸髄損傷者の人生を回復してきた道のり」
≪第1部≫ 重度の障害があっても自分の人生をリカバリーできる社会へ
PDF 2018年 大阪大会 シンポジウム(第一部講演)
【司会 赤尾】第一部の方早速始めたいと思います。司会進行は私の方がさせて頂きますが、なにぶん不慣れな点があります事を先にお詫びしておきます。よろしくお願いします。柏岡さんの方から自己紹介をお願いします。
【柏岡】柏岡翔太といいます。28歳で出身が大阪の大東市という所でずっと暮らしてまして、そうですね最近ではちょっと珍しいんですけど、兄弟が5人いまして妹4人と僕が一番上で、多分想像できると思うんですけど結構妹が強くて、女性は強いなっていう環境で育ってきました。
怪我する前にやってたスポーツは水泳、空手、剣道と、ラグビーをやってました。
受傷レベルはC2で、昼間はマウスピースを口にくわえて呼吸をして、夜は鼻マスクをつけるという感じで、この2つを使って生活をしています。
【司会】では続きまして鳥屋さんの方から自己紹介をお願いします。
【鳥屋】大阪頸損連絡会の事務局員をしています鳥屋利治といいます。僕自身、頸損連絡会とは1989年に頸損者のツインバスケットボール、いわゆる四肢麻痺者の車椅子バスケットボールの流れから関わりださせてもらいました。もう気づけば頸損連絡会との関わり、活動に30年ほど取り組んできたんですけど、今は私が大阪市の都島区で「自立生活センター・あるる」で、どんなに障害が重くても地域で自立生活していこう、ということを掲げて活動、運動をしていますけども、その「あるる」で法人代表をしています。そして、ちょうど「あるる」の活動しだしてから頸損連の関わりが非常に薄くなって、頸損連の兵庫のMさんからは自立生活センターに魂を売った男(笑)とか、あまりいろいろしなくなったな、とか言われますが決してそんなことはありません…(笑)。柏岡君との出会いは2010年頃からなのでもう気づけば8年位という感じですね。今日は、そうした関わりの中から少しお話するようにと言われてますので、ここに出させて頂いてます。
【司会】ありがとうございます。ある映画の冒頭に人生を大きく変える瞬間、ある日ふいに訪れるというプロローグがあるんですけど今日まさにこういう頸損の方の多くはまさにその人生突然障害を負って頸髄損傷になられた方がほとんどやと思うんですが、まず頸髄損傷って障害を負った時にどんな心境なのか多くの方がそんなに変わりないと思うのですが、そのあたりの事から柏岡君に受傷した当時の事を振り返ってどんな心境だったかちょっとお話しお願いします。
【柏岡】まず僕が受傷したのは高校2年生の時なんですけど、1年生の時にラグビー部に入部しまして、1年が経った時に練習中にタックルの入り方が悪かったのか首の骨を折るという大怪我をしまして、そこで呼吸が出来なくなって意識を失いました。
その時にOBの方が練習見ていてその方が人工呼吸をおこなってくれて、なんとか命は救われてそのまま病院へ救急で行って、僕は意識無かったんで全然覚えてないんですけど、気づいたら僕の周りに管が多くてなにがどうなっているのかよく分からない状況で、その時先生から首の骨が折れたとしか聞かされてなかったんで、くっついたら治るんだろうと軽く思ってました。
それで1週間位が経って絶対おかしいなと思い主治医の先生に俺は治るのかと聞くと、もう一生歩くこと食べる事はできないって言われて、そん時は気持ちもいっきにおちて絶望感しかなかったです。もう毎日泣いてました。
【司会】毎日泣いて、もう涙がでない位の絶望感はどれ位の期間続いたんですか。
【柏岡】3年位は続いた。
【司会】そういう状態から今こうして皆さんの前で元気にお話もできてる訳だけど、そういう状況から何か変わるきっかけってあったんかな。
【柏岡】そうですね、母がネットやいろいろ調べたりして動いてくれて、あと高校の先生が知り合いの人とかにあたって情報集めてくれたっていうのがあったんですけど、1番のきっかけっていうのは高校の担任の先生の一言、「又勉強してみないか」というのが大きかったのと、後は高校の同級生の卒業は結構大きな出来事でした。
【司会】僕も同じように高校時代に頸髄損傷なって、同じように絶望的な気分の中から泣いて泣いて日々を過ごしてたんだけど、当時の僕はその状況の中で高校に復学するっていう選択肢はほぼ無かったんだけど、その復学する原動力になったというのはこの先生と同級生なのかな。
【柏岡】同級生の卒業というのが僕の中では高校復学するきっかけにはなりましたね。
又勉強そこでしてみないかっていう感じで勉強する気になって、同級生の卒業も近く、皆前に進んでるのに自分は立ち止まったまんまやなとそういう気持ちになって、高校復学しようと思いました。
【司会】じゃあその先生の言葉とか同級生の卒業が凄く大きかった。
【柏岡】はい。
【司会】復学してその後はどのような気持ちで過ごしてた。
【柏岡】その当時は高校卒業したいという新しい目標ができて、3年間引きこもってたんですけど、生きるきっかけになったのは高校卒業する目標ができてからで、そっからはもう毎日が自分では一生懸命やる事だけでついていく感じでしたね。
【司会】卒業するっていう目標の為にがむしゃらに頑張ってきた結果、卒業にたどり着いた。
【柏岡】はい。
【司会】高校卒業した後、自分はどうしようかなと思う事とかあったんですか。
【柏岡】この状況この状態で、多分働くって難しいと思うんですけど、自分は働きたいっていうのがまずあって、その為にはどう行動していったらいいのかっていうのが難しいですね。
【司会】その経過で大学に進学する訳だけど、進学するっていう気持ちになるにあたって何か決め手になった事とか。
【柏岡】その引きこもっていた期間に近所の方からパソコン使えるなら行政書士になんのはどうかと言われました。
高校3年生になる前の春休みに、これからどうするって感じで先生に聞かれてパッとそれは思い浮かんで、いろいろ調べると法律系の資格を知って、法律系の大学に行きたいって目標が又できて、その近所の方の一言でまた新たな目標を持つ事ができてっていうのが大きなきっかけです。
【司会】今柏岡君が普通に言いましたけど、なんか言葉の力って凄いと思いません。近所のおばさんが何気なく言った一言「パソコン使えるようになったら行政書士になれんのちゃう」それが柏岡君の大きな新たな目標となり、そして法科大学を目指して大学に進学するっていう道もできた。たった一言、多分日常のたわいない会話の中の一言なんじゃないかなと思うんだけど、それが1人の頸髄損傷の心を動かして、それが今につながってる訳だから言葉の力って凄くリカバリーとしても大きな力を持ってるなと思うんですが、それがあって大学進学を目指してで無事大学合格して、今度は大学生活が始まります。
ちょっと話は前後するんですが、高校生の時に修学旅行の関係でどうやっていくかって話していく中で、その柏岡君のサポートに向けた会議がスタートしたっていうふうに聞いたんですが、そのあたりから鳥屋さんが関わってくるんですよね。鳥屋さんそのあたりのいきさつってどんなふうに記憶してますか。
【鳥屋】今回、シンポジウムがあるということで、当時の事をいろいろ思い出してました。
柏岡君が大阪市の都島区にある都島工業高校に復学を2年生からされることになり、ちょうど学校としても重度といわれる生徒の復学に向けて取り組んでいくにあたり、どういうふうな支援が必要なのか、とかいうことが都島工業高校の先生から、まず比較的近くにある特別支援学校の方に相談されて、そうすると特別支援学校の先生が同じ都島区に「自立生活センター・あるる」っていう所がありますよ、っていうことで、都島工業高校の先生に紹介された。それで、都島工業高校の先生が私達の「あるる」に連絡くれたのが最初でそれが2010年位でした。
そういうところで柏岡君に出会うことになりまして、「あるる」にも来てもらったりとかしながら今後どうしていきますか、というような話しをしながら定期的に会う様になりました。当時柏岡君は20歳ぐらいで、今もこんなぶっきらぼうみたいな感じなんですけど、もっとぶっきらぼうでした(笑)。いろんな事に誘い出したりとか、いろいろしてました。頸損連絡会いうのあるよと誘うんだけど全く来ませんでした(笑)。愛想ないなと思いながら、まあ20歳位ってこんなもんかと思いながらですね、高校生で怪我をして、今までの身体と全く違う自分の体と向き合って、180度違うこれからの人生送っていくその若い彼に、僕らに何が出来るんだろうかっていうふうに考えて、どんな事が出来るか分からないけれども今の事や彼が将来の目標に向かって出来るような事を、一緒に考えて一緒に少しでも歩んでいけたらなぁみたいな事を思って関わり続けました。
最初じゃあ支援会議をしましょうということで、当時都島工業高校の先生とそれから特別支援学校の先生とそれから柏岡君とお母さんと一緒になって会議をしたのが始まりでした。
【司会】柏岡君、今の鳥屋さんの思いとか聞いてどうですか。
【柏岡】全くその通りです。頸損連のイベントはその当時全然行かなかったです。この会議ってのがその当時「何をすんねんやろう」とその程度でしか思ってたのですが、今考えたら凄い事やなと思いますね。この会議が無かったら、ここまで来れてなかったなと思う位大事な会議ですね。
【司会】なかなかないですよね。僕も知らなかったんだけれど、「あるる」が柏岡君を支援してるっていうのはどういうつながりやったんかなって、その当初から思ってたんやけど都島工業高校からのつながりでそういう縁があったんやね。頸損連の事務所が「あるる」にある関係で結構何年か経ってからかな、頸損連のメンバーとして柏岡君がやってきたりしたのは。
【柏岡】そうですね
【鳥屋】何年も経ってから、ようやく頸損連に顔を出したという感じでした。
【司会】大学進学することになって、大学行ったら障害者ゆえの問題かも知れないが、通学とか大学内での介助っていう部分では、親の付き添い求められたりするんですよね。学校内でのサポートは出来ても身体的なサポートは出来ないとか、通学はもちろん支援出来ないとかいうような壁がぶち当たるんですが、その為にヘルパーとか同行出来る様にとか、そういう事を行政と交渉していったりしなきゃいけないんだけど、そのあたり柏岡君の場合はどんな感じで進めていったか。
【柏岡】そうですね。最初は母親から市役所とかに行って、通学とか学内での介助とかはお願いしてたんですけど、そういう会議で僕本人が行った方がもっと動いてくれるんじゃないかと言う事で、大学生になってから僕も市役所に行って、ヘルパーさんお願いしてっていう事をしました。でも高校復学する前からなんで、結構な年数をかけてずっと訴え続けてました。
【司会】ヘルパーの同行が最初に認められたのは1回生の後期からでしたっけ。
【柏岡】そうですね。大学1回生の後期です。
【司会】割合的には。
【柏岡】週2回です。
【司会】で2回生になって。
【柏岡】週3回になって。
【司会】3回生で。
【柏岡】一応週4回認めてもらえるようになって、親無しで大学行くってのが高校の時からの目標にちょっとありまして、それがやっと達成されたというか叶った時が大学の3回生でした。
【司会】柏岡君の話を聞いてて凄いなと思うのは、夢とか目標を掲げてそれぞれ達成してるんですよね。最初に言いましたが高校復学すると決めたら3年間で卒業できた、目標達成できたで大学行ったら、今度は親無しで通学から大学通う事が出来る様にするって言って、3回生の時それを達成できた。目標1つ1つクリアしていってるからこそ、また前向きにどんどん進んでいけるのかなと思うんですが、鳥屋さんはそのあたり、どう関わったとこあるんですか。
【鳥屋】そうですね関わりの中で先ほども言ったみたいに、一番最初は柏岡君本人とそれからお母さん、都島工業の先生、特別支援学校の先生で、そこにあともう一人大東市の職員さんがおられて、その人も一緒に関わる中で大学の入試に向けてどうテストを受けるのかとか、実際にどこの大学行こかって、柏岡君と私も一緒にいくつかの大学を実際に見学に行ったりしました。そして定期的に柏岡君支援会議を開くようになって。いわゆる重度障害を背負うことになった彼を、何とかこう応援しようと支援者が増えていったのが凄く印象的です。
その後、大東市の障害者支援センターの方であるとか大東市の保健所の職員さんが関わっていたこともあり、大東市の障害福祉課の支給決定担当の方なんかも会議に顔出してくれるようになって、その辺は凄く彼にとっての大きな味方になり、チーム柏岡みたいな感じで、彼が皆を巻き込んでいくというか、引き付ける力と雰囲気、魅力があったんだろうなと思います。そうした中で今彼が言ったように大学へ通うのにヘルパー利用できない状況の中、大東市で初めて、柏岡君に対して通学とそれから学内の介助のサポートを重度訪問介護で対応してくれるようになりました。
重度訪問介護での就学日数を1年また1年と増やしていき、最初は週1日、2日だけに限られてましたけど、それをなんとか3日に増やして下さいよっていう感じで、大東市の障害福祉の方も会議に参加されていたのでそういった話が直接しやすい、そんな環境の中で会議を継続させてきました。そうしながら柏岡君自身が今度は自分が主催って感じで、自分が司会しながら皆さんの意見を聞きながら皆さんのアドバイスもらいながらの会議を定期的に繰り返していくっていうことをやっていきました。
高校卒業、そして大学に入った時、今度は大学の職員が支援会議に参加するようになって、ライフステージが変わるごとに支援者が変わっていく、増えていくそんな感じで続けてきました。
【司会】まさに柏岡君が引き寄せる力があるから周りがどんどん支援する方、応援する方が増えていくんじゃないかなと思うんですが、そうやって学校での支援が受けれられるようになり、そしてもともと高校の時に近所のおばちゃんが言ったという行政書士を目指してみたらという所が、もう一回こうでてきて国家試験に向けての挑戦が始まるというのかな。
【柏岡】今、勉強してます。
【司会】3回生の時に最初、宅建(宅地建物取引士)の試験を受けたんですね。
【柏岡】宅建が先です。
【司会】3回生の時に宅建を受けて、こんときは残念ながら落ちて、4回生で行政書士の試験でしたっけ。
【柏岡】はい、受けて落ちました。
【司会】こん時も落ちたって簡単に言うんですけど、宅建も行政書士もなかなか厳しいと言うかね合格率低いですよね。宅建で15%位ですかね合格率、行政書士で10%位かな。
【柏岡】そうですね。
【司会】わりと頸損の方でも何人かいて、今日ここでいらっしゃる方でも持ってる方いらっしゃいますけど、社会保険労務士なんかは7%位で頸損なって何か将来仕事しようと思った時、国家資格取るって大きな選択肢の1つになってくるし、実際国家資格を取って仕事されてる頸損の方も沢山いらっしゃると思うんですが、そういう国家資格挑戦を目指して大学を卒業して社会人になって最初一年目の時に宅建は合格ですよね。
【柏岡】そう、宅建は取りました。
【司会】現在、柏岡さんは行政書士の事務所で働きながら行政書士の国家試験の取得を目指して日々勉強されてるんですか、この行政書士の事務所で働くきっかけみたいなものはどんな感じだったんですか。
【柏岡】行政書士の先生がその会議をおこなってる時に来てくれて、それが今利用してるヘルパー事業所の代表されてる方で、そこで僕が法学部で行政書士を目指してるっていうのを聞いて、その当時は気にかけてた位やったと思うんですけど、大学卒業して宅建を取ってからいろいろ動いていって、又その合格した年に行政書士事務所で働いてみないかと声かけて頂いてで働くっていう事になりました。
【司会】行政書士の資格目指して2年目を迎えた時に、くも膜下出血で入院するっていう思わぬアクシデントというか、その時どうでしたか。
【柏岡】そうですねいやびっくりしました。最初は尿のカテーテルが折れてて、尿が溜まって自律神経過反射が起こるんですけど、それが強すぎて血圧がめちゃくちゃ上がって脳で出血したのが去年4月にあって、それが起こってから最近何か月か位までマイナスな事ばかり考えていて、でも一応去年は知り合いの方に試験受けようって誘ってもらって一応受けたんですけど、落ちましたね。
【司会】まともに勉強できる状況ではなかったんですね。で今年4度目の挑戦に向けて日々頑張ってる所です。
高校大学そして社会人、当時いろんな方との出会いもありその中でいくつかのリカバリーポイントあったと思うんですよね。高校の担任の先生の言葉であったり、同級生の卒業であったり、近所のおばちゃんの言葉であったり、あるいは鳥屋さんを始めとする周りの人たちのサポートであったり、今は行政書士事務所で働いてる縁であったり。
どうですか柏岡君自身が振り返ってみて、もしそういうのが無かったとしたら今の自分て何をしてるやろ、どうしてるやろと思いますか。
【柏岡】どうしてるんですかね。まぁあんまり考えたくは無いんですけど、まだまだ引きこもっていたのかなと思いますね。
【司会】多分もともと前向きな思いがあったと思うんですけど、その中で背中を押してくれ、あるいは前から引っ張ってくれるようなサポートの力があっていろんな方向に運んで行ったのかなと思うんですが、鳥屋さんその辺りどう感じてますか。
【鳥屋】そうですね、柏岡君と関わり1年1年、年数を増すごとに柏岡君がどう生きていきたいのか、僕らは当事者として、障害があって何かをあきらめるっていうのじゃ無くて、障害があっても自分らしく生きられるようにあってほしいなって思っていて、僕達世代もやっぱり先輩障害者からいろいろその姿を見て学んでくる中で感じていて、やっぱり今彼の日々の生活、活動にあるように、ある意味障害を武器にするっていうのですかね、障害をマイナスに捉えるんでなくて、プラスに捉えて生きていって、人生を歩んでいって欲しいというふうに思っていました。関わりの年数が長くなってくる中で、一歩ずつ、そんな柏岡君になってきてるのかなぁと思ってたりもします。
支援会議なんかも今でも年2回する訳なんですけど、柏岡君がなんか皆さんに集まってもらうの悪いし、もうやめた方が良いんですかねって言うから、そうじゃなくて柏岡君がいついつまでに自立生活を確立する、そこまで皆に何とか集まって欲しい、と言って巻き込んでいくのが大事やでと話しするんですけど、そういういろいろ暑苦しく僕が柏岡君の顔見るたび語るんですけど、そうすると僕の奥さんからは「なんか昔よくいた親戚のおっちゃんみたいやな(笑)」、そんなふうに言われるんですけども、そんな関わりをこう続けていく中で柏岡君に期待するところが年々大きくなってきます。
【司会】ちょうど第一部の時間も残り少なくなってきたんで、最後に今度は鳥屋さんの方から今日柏岡君支援してきたって立場で登壇して頂いたんですが、その立場で皆さんに何かメッセージみたいなものあればお願いします。
【鳥屋】今日は頸損連全国大会のテーマにもあるように頸髄損傷者の人生回復してきた道のりってあるんですけど、頸損連の活動でセルフヘルプって、とってもこう大事に掲げてやってきてますけども、そこはね当事者だからこそできる事、当事者が当事者に向けて一番同じ立場で今までの体験も踏まえて寄り添える。
あと逆に言うとなかなか障害持ってる人一人では社会に訴えかけるのが難しかったり、一人でこの状況打開する、打破するのって難しかったりするんですけど、そこで同じ状況にある仲間をサポートする。
頸損連絡会で四肢麻痺の皆さんがいるんですけど、呼吸器を使う状態の人がやっぱり一番その中でも重度っていう訳で、柏岡君なんか夜間は呼吸器使うそういう感じですけど、例えば呼吸器使う人の課題は呼吸器使う人でやればいいんだってそんな事ではなくて、やっぱり呼吸器使う課題を抱えてる仲間と一緒に前に進んでいくのは周りの皆であって、頸損連で集まる当事者の皆さん、協力者の皆さんはやっぱり今一番状況的に大変というかしんどいというか、その人と一緒に歩いていく、その人の事を支えていこうやって頸損連の活動の根底にあると思うので、そういったことで皆さんの周りにも同じようなケースっていっぱいあると思うんです。私がここで話すようなことは何もそんな珍しい事ではなくて、皆さんそれぞれ取組されていると思うので、そういった活動をどんどん展開していって欲しいというふうに思います。
【司会】はいありがとうございます。では最後に柏岡君の方から自分の経験とかも含めて何かメッセージがあればお願いします。
【柏岡】そうですね僕は人に恵まれてるなって今思っていまして、担任の先生から勉強してみないかとそういう一言を頂いて目標が出来て、そういう流れで今ここまでやってきて、今は隠れ負けず嫌いみたいな感じがあって、なんかここまでやってこれてるのかなと思います。体は動かせないですけど、どこまで自分が出来るのかっていうのは自分自身でも興味のある事ですし、負けずにやっていきたいなと思ってます。
【司会】ありがとうございました。せっかくの縁でもありますので、これから柏岡君をもっと皆で応援していけたら良いなと思っておりますので、よろしくお願いします。